論考

Thesis

武士道から学ぶ「一瞬を生きる」ということ

「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」――「死」を覚悟することで「生」が浮かび上がり、今この瞬間に生命がほとばしる。「死」が日常にあった武士たち。その生き様は潔く、美しかった。現代を生きる私には「死」は必ずしも身近ではない。今、いかに生きるか。

1.はじめに

 私は本稿を通じて、日本人がかつて持っていて、しかし今や失ってしまったと思われる「精神」を取り戻したい。かつて福沢諭吉は『文明論之概略』で、文明とは狭義で言えば衣食住の虚飾を多くする事であり、広義に従えば「智を研き徳を修めて人間高尚の地位に昇る事」だと評し、「精神発達の議論なり」と述べている。

 しかし現実社会を見ると、この「精神発達」の部分が、近年の日本では蔑ろにされている様に感じられてならない。経済至上、効率至上主義の弊害と言えよう。衣食足りて礼節を忘れた、と言っても過言ではない。

 岡倉天心は「日本人はくり返し寄せてくる外来思潮に洗われながら、つねに自己に忠実でありえた。われわれは自己の本性を見失わずにすんだのである。」と言った。かつて、立ち居振る舞いなど日常生活そのものに美を現した日本人。そして「SAMURAI」として、その強さと潔さ、責任感において外国人から畏敬の念と、決して少なくないファンを得ていた日本人。私達は「自己の本性」を見失ってしまったのだろうか。

2.なぜ武士道を論ずるか

かつての日本人がもっていた本性
 かつて、日本人が共有した本性。例えばルース・ベネフィクトは、菊を愛でて刀を魂とする日本人の道徳心を「恥の文化」と評した。それはきっと厳しくも美しいものだったはずである。私はこの「あったはず」の精神、日本人の本性を「侍」「武士道」に求めたい。

日本人の規範は「武士道」から
 武士は、士農工商の支配階級に属し、直接的な生産には従事しなかった。その使命は社会の平安と秩序を守り、「民の模範」となるよう、それを実践して生きる事だった。人口構成としては日本人のわずか6~7%を占めるに過ぎなかったと言われている。しかし武士道の貴さは、武士階級のみならず一般の民にもその生き様が伝播していった事である。つまり日常生活における日本人の「規範」として浸透しているのである。このことは新渡戸稲造の『武士道』にも明らかである。

命掛けの職業
 では武士が他の農工商と明らかに違う点は何か?それは命を掛けた職業である事だ。命を掛けているからこそ、そこに深い哲学も生まれ、また他への説得力も強い力をもつ。

武士道に着目
 このように、武士が四民の支配階級であった事と、そして武士の規範が日本人全体に浸透したであろう事から、多種ある職業、多種ある考えの中でも特に、武士道に着目するのである。

 企業倫理を問われる事件や、人として親としてあるまじき事件が多発する中、現代日本において、「修身」といった“己を磨く”為の教育が、社会からも家庭からも学校からも消えてしまっている。この「規律」「規範」を我々は急ぎ取り戻すべきである。

 その為にも、日本人の血に流れる精神の源流とも言うべき「武士道」について探ってみたい。
 考察にあたり、一人一人の武士の生き様を多く探る事が、最もその本旨を得ようかとは思うが、今回は「武士道」について述べた各著作に当たる事で、考察を深めたい。それらの描く像の中から、その根本的な原理を抽出する事を試みたい。数ある著作の中でも特に古典と呼ぶにふさわしいものを中心にしつつ、現代において書かれたものも数点当たった。

 そのなかでまず『武士道』と『葉隠』について、それぞれが述べている武士道像について簡単に整理する。

3.古典にみる「武士道」像の考察

『武士道』
「義」=人としての正しい道
 『武士道』において新渡戸稲造は、武士道の最も重要な精神的な原理として「義」を挙げている。「義」とは辞書に従えば「人としての正しい道」である。言わば「モラル」である。この、正しい道としての「義」は武士のみでなく士農工商すべての人々の基本的支柱をなしていた。何故なら、もしこの義=正義が守られなければ、真実が全うされず、不正がはびこり、秩序ある社会など築く事ができないからだ。この点岬竜一郎氏が解説書で指摘している通りである。この様な視点に立てば、この「義」こそ人間が社会生活を営む上で最も重要である事が分かる。

「勇」=義を実践する勇気
 そしてもう一つ、新渡戸の『武士道』から重要な精神を引き出すとすれば、それは「勇」である。「『義』は『勇』と並ぶ武士道の双生児である」という新渡戸自身の表現に、その要である事は容易に確認できる。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉があるように、この「勇」がなければ、例え正しい「義」を頭で理解をしていても実践に踏み切れず、価値はないのである。しかし「勇」をもって「義」を実践する事はなかなか容易ではない。路上でのタバコのポイ捨てや、図書館内で臆面もなく電話を使う人などに対して、残念ながら見て見ぬ振りをしてしまっているのが現実だ。強い「勇」を持ちたいものである。

根本精神
 その他にも「仁・礼・誠・名誉・忠義」など、重要な精神を説いているが、それらはこの「義・勇」を補完するものであると捉える。新渡戸の『武士道』における根本精神は「義」と「勇」である。

『葉隠』
「死」について
 『葉隠』からは二句を引用したい。

――「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり。(中略) 毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生越度無家職を仕果すべきなり。」(聞書第一より)
――「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして苦を見て暮らすは愚なることなり」(聞書第二より)
 『葉隠』というと、特に冒頭の一文のみが有名で、武士道とは死に向かうものであり、あたかも死を積極的に求めているかの様に受け取られがちである。しかしその本当に意味するところは、常に「死」を覚悟していれば、逆に限られた「生」を大事にすることに通じるのだという事。今日が最後と思って生きる中で、「好いた事」をすべきだ、という事を言っているのである。換言すれば、「人生最後(かも知れない)の今日、何をおいてもやるべき事は何か」を、徹底して追及すべきだと言っているのだ。そういう厳しい自己意識に基づいた一日を重ねていくうちには、何ものかが蓄積されて、職分を全うできる時が来るのである。
 これが『葉隠』の説いている根本精神であり、それは「生の哲学」と言えよう。

現代に生きる「生の哲学」
 これは現代人に突きつけられた大きな命題でもある。現代人にとって「死」は必ずしも身近ではない。とは言え、バブル経済も企業の終身雇用制度も崩壊し、土地神話も消えた今、明日の職と食を保障してくれるものは何もない。言わば社会的な死は突然やってくるのである。我々が往々にして堅持しようとしているもの――安定的な身分や組織――は、実は我々の将来の幸福を約束してくれるものではない。頼れる物は我が身我が情熱のみである。今この瞬間にすべきこと、つまり自身の使命というものを探求して実践して行きたい。この事が『葉隠』から学べる哲学である。

4.現代における「武士道」の生き様

生死を超えた覚悟
 『葉隠』は生の哲学であると述べた。再度「常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得」と言う点に注目したい。死身になることで「自由」を手にする、と言う。生も死も超越した自由の境地に到達すると言う事だ。

 現代で考えるとどういう事か。松下幸之助塾主は、経営にあたり「金を借りる時は、卑屈になるな」という事を信条の一つとしていたと聞く。言い換えれば、卑屈になるような金の借り方、返し方をするな、という事であろう。つまり適正な利潤をつけてきちんとお返しできるほどに、しっかりと事業経営に精進しなさい、という意味であろう。

 これら両者を併せ考えれば、生死を賭けるほどの覚悟で経営に当たるのでなければならない。その覚悟があれば、その資金調達の際にも、後ろめたさや卑屈な態度から解き放たれ、胸を張って活用する事ができるのである。「家職を仕果すべきなり」と『葉隠』は言う。覚悟が、自分の仕事を全うさせるのである。その自由の境地に至ったとき、我々は何物をも恐れる事なく、自分の信念に基づいて正しい道を実践する事ができる。上司の意向に媚びへつらうことなく、世間の評判におもねる事もなく、自身の使命を発見し、実践する事ができるのである。

自己規律
 前段の「義」が、重要且つ根本精神であるというには、2つの根拠がある。一つは前述の通りの「正義」である。そしてもう一つの根拠が「自律心」である。モラルはルールではない。守るべき規律が明文化されていないから、その規律を自分が作らなければならない。タバコのポイ捨て行為に典型的な例を見ることができよう。ルールが無いから捨てる。シンガポールの様に罰金を取られれば捨てない。東京千代田区でも04年度より路上での喫煙に罰則を課している。つまりマナーからルールに変えた。そこまでされないと正しい道が守れないところまで、現代日本人の「義」は落ちている。人が見ていなければよい。そこには羞恥心もなければ、自律心も既に存在しないのである。この「自分を律する心」こそが、「義」を生み、そして社会の規律をもつくる。そこに深い内省と哲学が生まれるのである。

文武両道
 新渡戸は、武士道の本性を簡潔に「騎士道の規律」すなわち「武人階級の高い身分に伴う義務」と定義づけている。ではそれはどこから生じるのか。新渡戸は武士の徳の源泉として「勇猛なフェア・プレイの精神」というもの挙げている。「自己規律」を養い「正義」を実践し通すには、「勇気」が必要である。まずは先人の人生や教えから「義」を学ぶ。そして「勇」を養う。これが武道であった。武道によって勇気と胆力を鍛え上げる。剣道などはまさに斬り合いであり、殺し合いである。擬似的とは言えども、命を張る瞬間である。柔道や合気道も同じであろう。いわゆる武道は、殺人術ではないが、命を護る術であり、同時に求道の精神である。
 逆に、勇気のみがあっても義が根本になければ社会を乱す。『論語』でも「勇ありて義なきは乱を為す」と言っている。つまり両者のバランスが重要である。

 「勇」を養うには、武道と、そしてスポーツが有効であるが、日本におけるスポーツは、西洋において余暇の遊戯とみなされるものとは区別されるべきである。日本人独特の、この求道という精神があれば「勇」を養うに十分に有効な道である。現代日本において文武両道が重視される由来は、武士道から学んだと言える。

5.「武士道」は現代に生きる

 本稿の目的は「武士道」を通じて日本的な精神を取り戻し、そして現代に生きる為の根本的な理念を導き出す事である。

 私はそれを「一瞬に生きる」と結論づけたい。今この一瞬を真剣に、そして最高に生きる。明日は無いかもしれない。明日と言う日は存在するかもしれないが、少なくとも今この一瞬の同じ状況は二度とやってこない。一期一会である。

 そしてその為に大切なのが「準備」である。その一瞬を最高のものにする為に、全て先行して準備をしておく。準備段階における一瞬の積み重ねが、新しい一瞬を生み出す。いざと言う本番時のみ真剣になってみても、力は蓄えられていない。徹底した準備こそが、強い力と自信を生じさせ、最高の成果を発揮させるのである。

 一瞬の為に、大切な事は準備ともう一つ、「死に物狂い」である。万全な準備を重ねつつも、いざ本番では、理屈や理論ではない、いかにそれを完遂させるかという意思である。何が何でも達成するという覚悟である。武士道は、儒学ないし朱子学から多くの影響を受けている事は事実であるが、やはりそれに解消されることのない、戦闘者の道として命がほとばしる独自の激しい性格を持っていたのである。現代に住む我々にとっては、死は必ずしも身近ではない。しかし死を賭してまでも完遂するほどの覚悟があると無いとでは全然違う。現代の現実的に解釈すれば、責任を取る覚悟と言えよう。これに失敗したら後はない。そしてそれを成し遂げるのは自分をおいて他にはいない、という覚悟である。

 繰り返す。武士道を学ぶ事で我々が取り戻すべき、人としての根本原理は「一瞬に生きる」事である。そしてその為に「準備」と「死に物狂い」が重要である。

 私はあるスポーツをやっている。先日は日本選手権にも出場した。一年間、ないしは創部以来五年間、この日本選手権の一試合の為に日々の練習を積み重ねてきた。私たちにとって、このわずか80分の為に365日52万5,600分の時間が存在した。一日の練習、一つの練習メニュー、さらに言えば一発のタックルにこそ、選手権での勝敗が掛かっている。そしてグランドを離れている時でも、戦術を考えコンディションを整え、イメージトレーニングで相手を倒す。そんな全ての一瞬が重要なのである。そして試合当日。理屈ではない。狂う。これのみである。積み上げてきたものを狂ったように発揮する。

 残念ながらそこでの一勝は果たす事ができなかったものの、「一瞬」「準備」「狂う」――これらをこの一年間で修得できた様に思う。あとは、日常の社会生活において、この3つをいかに実践するか、である。これを突き詰める事によって、自身に流れる日本人というものを取り戻し、そして体現して行きたい。

以上


参考文献

「葉隠」 奈良本辰也訳編 三笠書房
「葉隠入門」 三島由紀夫 新潮文庫
「五輪書」 宮本武蔵 岩波文庫
「武士道」 新渡戸稲造 奈良本辰也訳 三笠書房
「山岡鉄舟」 小島英熙 日本経済新聞社
「よみがえる武士道」 菅野覚明 PHP研究所
「いま、なぜ『武士道』か」 岬龍一郎 致知出版社
「新・武士道」 岬龍一郎 講談社
「幕末武士道、若きサムライ達」 山川健一 ダイヤモンド社
「日本の目覚め」 岡倉天心 入交雅道解説 PHP研究所
「武士道その名誉の掟」 笠谷和比古 教育出版

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高橋清貴の論考

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Kiyotaka Takahashi

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第24期

高橋 清貴

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