Thesis
塾主は共同生活において「力の秩序」と「精神的秩序」が大切だと述べた。この「秩序を守る精神的なもの」について、「スポーツマンシップ」というものが有効ではないか、という独自の視点から論証を試みた。
<共同生活は人間の本性>
近年、「絆」の崩壊が危惧されている。例えば認知心理学者の富田隆氏は、社会問題や教育問題の背景に、絆の疎遠化を指摘する。「コミュニティの再生」は、昭和44年に国民生活審議会にて公式に取りあげられて以来、現在まで続く課題である。
このコミュニティや絆という人間の共同生活について、塾主は「相集まって共同生活を営むということは、これは人間の本性」であると述べている。人間は社会的動物であると言われるが、塾主の指摘通り、古代の地球上の世界各所に発生して以来、小集落の生活を始め、徐々に集団同士が集まり大きな共同生活に広がり、現在の社会形成に至った。
<共同生活には「力の秩序」と「精神的秩序」>
大きな共同生活に向かう歴史上の過程では、個々の集団は、平和な姿で合体することもあり、或いは戦争によって一方が他方を力で征服した場合もあろう。この様に発展してきた人間の共同生活において、生成発展を続ける為には、秩序を保つ事が重要であり、その秩序には、力によるもの=政治と、精神的なもの=宗教がある、これらが二つの柱となって、共同生活が逐次維持発展されてきた、と塾主は述べている。
<本稿の主旨>
人間の本性である共同生活。その発展上で重要だと塾主が述べるこの「秩序」について。力の秩序=政治面については、他の塾生や多くの先輩方からすぐれた見識が述べられ、実際の政治の場でも日々実践されている。本稿では、もう一方の「秩序を守る精神的なもの」について、スポーツマンシップというものが有効ではないか、という独自の視点から仮説をたて、論証を試みたい。
まず最初に塾主の唱えた「新しい人間観」「真の人間道」「共同生活」について、簡単に確認をして、今回「秩序」に着目する背景を確認する。
<新しい人間観>
塾主は、「新しい人間観」として「人間はこの生成発展する宇宙において、万物それぞれの特質を明らかにしながらそれらを活かし、物心一如の調和ある繁栄による平和と幸福を手に入れるべく、みずからの王者としての天命を自覚し、素直な心で衆知を集める」べきだと説いている。
<新しい人間観に基づく真の人間道>
続いて、上記に基づく「真の人間道」とは「礼の精神に根ざし衆知を生かしつつ、いっさいを容認し適切な処遇を行っていく」事であると述べる。つまり「万物を容認する」「適切に処遇する」「礼の精神」「衆知」が大事だと述べている。
<共同生活>
このような「新しい人間観に基づく真の人間道」を、「共同生活の各面において実際にあらわしていかなければならない」と述べている。つまり、実際の共同生活において人間道を実践する事こそが、人間にとって、万物にとって重要だと述べている。
この共同生活においては、「自由」、「秩序」、「生成発展」の三本柱を挙げ、「各人の自由を真の自由たらしめるために、社会秩序が必要」としている。
共同生活の生成発展の為に人間道があり、そしてそれを支えるのが、「自由」と、その自由を保障する「秩序」であると述べている。
<秩序>
様々な要件が挙げられたが、中でも「秩序」について塾主は重要視しているように思われる。バランスが大事だと述べつつも、「秩序」については別立てで付章を設けている事でもその事が窺える。
以上の様に塾主の人間観、人間道、共同生活に関する確認を通じて、共同生活には力の秩序と精神的秩序が重要である、という塾主の主張を確認し、本稿では既述の通り「精神的秩序」について考察する事とした。
<徳川時代の秩序は「宗教」と「科学」のバランス>
「秩序」について、塾主と非常に似た視点からの指摘を行っている人がいる。スポーツ社会学者にして、早大ラグビー部及び日本代表監督を務めた故大西鐵之祐氏だ。彼は、徳川時代への評価として265年間大きな戦争がなく、平和=秩序が保たれた背景として、「宗教と、そして技術とか科学とかいうものが、ある一つのバランス」をとっていた事と評している。秩序を保つものとして「情緒的なもの」と「知性的なもの」が大切だとも換言している。塾主の「精神的秩序・力の秩序」ととても近い指摘である。塾主は「力・政治」としているが、そこには知性、論理があってこそ成り立つものであり、表現は違えども、「知性」と「力」は共通の意味合いをもつ要素と言えよう。そしてそれとともに「精神的・情緒的」なものが大事だという視点で、両者とも論を同じくしている。
<スポーツによって、科学・非科学を体得する>
塾主はその「秩序」を「真の人間道」の実践に求めたが、大西氏はそれをスポーツに求めた。彼は「科学的な行動のコントロール」を、スポーツを通じ「創造的なものを知性的に創っていく体験」をもって学ぶ、とし、「非科学的な情緒的なコントロール」もまた、スポーツをやっていく事によって体得していく、と続けている。ここで大西氏は「スポーツマンシップ」というものが、科学も非科学も含めた共通の精神として重要だと提唱している。
前者の「科学的な行動のコントロール」については、情報を多くもち、それを理論づけ、さらに「行動として実践に移った」時に、「スポーツは知性的な行動を体得させる」、と説明している。論理的な戦略に実践を伴わせる事が、スポーツのひとつの特質と言える。
では後者の「非科学的な情緒的なコントロール」をもたらす「スポーツマンシップ」とは、どの様な精神、姿勢だろうか。次節ではスポーツマンシップの要素を提示する。
<「スポーツマンシップ」3つの要素>
私は幼い頃よりスポーツをやってきた。剣道、サッカー、ソフトボール、スイミング、そしてラグビーと、人生の大半をスポーツと共に過ごしてきた。プレーをしている瞬間瞬間は、ただただ純粋にそれが楽しくて没頭しているのみで、何かを学ぼう、人生の糧にしようなどとは毛頭考えていない。とは言え、人生30年を越え、スポーツ生活も25年ともなると、振り返ってみるとそれなりのものを学ばせてもらったと感じている。そんな経験からスポーツマンシップというものの要素を提示したい。
私が思うに、スポーツマンシップとは、「フェア」「真剣」「認める」という3つの要素に代表されるのではないか、と考えている。それらについて言及する。
<フェア>
スポーツは闘争である。この闘争をコントロールする為にスポーツにはルールがある。
「フェア」とは、一般的にはこれら「ルール」を守る事とされている。遵法精神であり、複数の人間が一緒になにかをする時には必須条件だ。スポーツでも一般社会でも「ルール」を守ることは至極当然、最低限の約束事である。
では「ルール」さえ守ればいいのか、そして審判に見つからなければ見過ごされるのか、というと、それだけではない。そこに「フェア」の意義がある。
ラグビーのゲームで、例えば地面にあるボールの付近で横たわっている相手プレーヤーが、「転退の義務」を果たさずに留まっている場合、石ころ同然と見なされ、プレーの流れの中で踏み潰されてもルール上文句は言えない。目の前にそういう状況が発生した時に、わざと「スパイクしていっちょう痛めつけてやれば、次のプレーで有利だぞ」と考えるのか、「いやいやそれは汚い事だ。純粋にラグビーという競技力で勝ってこそ価値があるのだ」とするのか。勝利の為に汚い事をするか、踏みとどまるか、その判断が「フェア」である。
フットボールの歴史上、19世紀に現在のスタイルのサッカーあるいはラグビーという競技が確立した当初、レフェリーは存在しなかった。問題が生じた場合には、両者のキャプテン同士が話し合って判断すればよい、という事と、そもそもジェントルマンあるいはスポーツマンは反則を犯さない、という紳士協定があった。
現代のサッカーで非常に残念な行為がある。「シミュレーション」と呼ばれる反則だ。ドリブルをしていたプレーヤーが、ディフェンダーに足を掛けられた素振りをして、ペナルティーキックを不当に得ようという、許し難い行為である。この様なプレーヤーは「フェア」でない。
大西氏は、「フェア」について、「『ジャスト』が基準に照らして判断を決める行為」であるのに比して、「自分がこれからやる行動がフェアであるかフェアでないかという、自分の人間性によってそれを判断して行う行動」であると述べている。
「ルール」を超えて、また「審判」を超えて、「その行為は人間としてきれいか汚いか」という判断基準を、スポーツマンシップは持っている。このような判断をできる人間性を磨く事も、スポーツのひとつの特質である。
<真剣>
「真剣」とは言うまでもなく、木刀や竹刀ではなく本物の剣である。「真剣勝負」とは、「真剣」を用いて闘う、命を張った闘争である。
山本常朝の『葉隠』に、「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一節がある。「死」を覚悟してこそ「生」を大事にして、一瞬を大切にし、それこそ真剣に生きる、と言う事だ。スポーツの真剣勝負には同様の危険性がある。だからこそ、全ての瞬間にベストを尽くす。常に緊張していなければならない。
大西氏もその点について、スポーツには「緊張の極度」があるから、「危険性とか恐怖というものをどう突破していくかという心構えも出来上がっていく」と述べ、社会生活においても何かにぶつかった時に「死を賭してでも突破していく何かを体得するのだ」、と述べている。
また大西氏は、真剣勝負にある「緊急事態」という事についても言及している。ピンチにせよチャンスにせよ、スポーツにはここぞという「緊急事態」があり、その時にキャプテンが具体的な指示を出して、全員が集中してその通り実行できるチームが勝つ、と述べている。そして、「緊急事態というものは、我々の行動のなかでいかに合理的に、いかに科学的に考えても、解決できない要素を非常に多く持っている。それを身につけるには、直接にそれに関与し、そのなかでいろんな訓練をして自分を鍛え上げていくより、他に方法はない」と主張し、スポーツを通じて、自らの体験をもって訓練される事が、人生においていかに重要かという事を述べている。
ひとつの勝負に対して、あるいは対戦相手に対して、さらには自分自身に対して、誓った目標に向けた、全力の闘い「真剣勝負」がスポーツにはある。怠る事なく、奢る事なく全てを出し切る。それが勝利への条件であり、真剣勝負を誓い合った相手への礼である。この礼を全うできた者が、スポーツマンシップという誇りある伝統精神を手にする事ができる。
<認める・尊敬する>
「認める」、言い換えれば「尊敬する」と言う事もできる。
スポーツのゲームにおいて、「フェアプレー」を通じて「真剣勝負」を闘いあった対戦相手だからこそ、そのプレーを純粋に認め、尊敬の念さえ抱く事ができる。
この場合の「尊敬」の特徴は「『お互いが』、フェアであり真剣である」事が重要だ、という条件を添えておきたい。つまり自分自身がまず「フェア」と「真剣」を実践し、その重さを感じているからこそ、それを同様に積んで来た相手に対して尊敬を抱き、認める事ができる。自分自身が「フェア」でなく、ずる賢く破った相手であれば、恐らく「敗者」として見下すであろう。自身が「真剣勝負」に挑んだ事がなければ、その緊張感とそれを破る困難を知らない。そうであればそれを乗り越えてきた相手の苦労も分からないのである。逆に、お互いに「フェア」と「真剣勝負」を背負っている何かを感じる事ができれば、仮に直接の対戦をした相手ではなくても、認め、尊敬する事ができるものなのだ。
<ラグビーの「ノーサイド」こそスポーツマンシップの真髄>
前節でスポーツマンシップの代表的な要素として、「フェア」「真剣」「認める」を提示した。これらの要素から考える、私なりのスポーツマンシップとは、一言でいうならば「ノーサイドの精神」と言う事ができる。ラグビーにおける試合終了を示す言葉だ。「サイドがない」という言葉の通り、敵も味方もない、さらには、勝者も敗者もなくなる瞬間である。お互いに相手の「フェアプレー」と「真剣勝負」を「認め」合う。「ノーサイドの精神」こそがラグビーの醍醐味であり、スポーツマンシップの真髄だと考える。
<アフター・マッチ・ファンクション>
そして「ノーサイド」に続く、アフター・マッチ・ファンクションが存在する。試合終了後、球場に隣接のパブでビールを酌み交わす。エールを交換し互いのプレーを讃える。両チームキャプテンより、相手チームのマン・オブ・ザ・マッチ(MVP)に記念品を贈る。場合によってチーム同士のペナント交換も行う。酒の場であるが敬意を示す意味で必ず正装で臨む。ネクタイにブレザー着用である。ちなみにラグビージャージに襟があるのは、昔、試合後ジャージ姿にネクタイをしてファンクションを行った名残だという説もある。
現早大ラグビー部監督の清宮氏も「試合後のこうした交流こそ一番大事。相手に尊敬の念と感謝を伝えて、さらに深く交流する事がラグビーの伝統でありマナーである」と述べている。
伝統の定期戦となれば、年に一回は対戦する。とともに、こうして酒を酌み交わす。そこにはゲーム中の闘争心も荒々しいプレーもない。勝者は敗者の果敢な精神を讃え、敗者は勝者の実力を認める。そして一年後の再戦に向け、お互い鍛錬に励む事を誓い合う。
<「ノーサイド」はスポーツ共有の文化>
以上はあくまでもラグビーにおける伝統文化であるが、他のスポーツにおいても、その考え方や姿勢は同じではないかと思う。「勝者も敗者も、敵も味方も無くなる瞬間」。これは「フェア」「真剣」「認める」があるからこそである。いい加減に、遊戯や余暇の延長としてのスポーツであれば、この様にはならない。「勝負」にこだわってこその「ノーサイド」である。
「ノーサイド」という言葉や、「アフター・マッチ・ファンクション」という習慣自体は、他の競技にはない。しかしその精神は、どの種目でも同じく、「スポーツマンシップ」として共有する事ができるであろうと考える。
本稿の主旨は、冒頭で述べた通り、「秩序を守る精神的なもの」として、スポーツマンシップが有効である、という仮説の論証である。
前半で塾主の唱えた「新しい人間観」「新しい人間観に基づく真の人間道」「共同生活」を確認し、「共同生活」には、「力の秩序」と「精神的秩序」がある事を確認した。
そして塾主同様に、秩序を保つものとして「情緒的なもの」と「知性的なもの」が大切である、と述べた大西鐵之祐氏の主張を踏まえ、これらを体得する為に「スポーツマンシップ」が大事であるという主張を確認した。
後半では、「スポーツマンシップ」についての私の考えを、大西氏ほかの言葉を裏づけとして用いながら、「フェア」「真剣」「認める」という3要素を提示し、「ノーサイドの精神」こそが「スポーツマンシップ」の真髄である、という論を展開した。
「ノーサイド」とは、お互い闘争心をむき出しにして闘った相手であっても、勝ち負けの隔てなく、遺恨も怨みも残さない、お互いに心から打ち解ける瞬間なのである。
問題意識の発端である「秩序」とは、「その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり」という事である。この、「集団の順序やきまり」には、塾主は「政治によるもの」と「宗教によるもの」があると述べた。そして大西氏は、「スポーツは『第三の宗教』でもある」と述べた。「第三」に対する「第一」と「第二」について、大西氏自身は言及していないが、神道・仏教に次ぐ第三という意味であろうか。
龍谷大学の鍋島助教授によれば、「第一」の宗教は「祈祷やまじない」、「第二」が「神の定めなどの教会原則」、そして「第三」は「普遍的な真理を学び、心の成熟をめざす宗教」であると言う。
大西氏の真意は確認する事ができなかったが、いずれにせよ、それほど強く信じられるまでの文化を、人の心に与えてくれるものである。この「スポーツ」あるいは「スポーツマンシップ」という文化を、多くの人間が共有する事ができれば、お互い心から打ち解ける事ができ、世の秩序を保つ事ができる。
塾主の述べた「政治」と「宗教」。現在「政治」は混乱を含みつつも徐々に進んでいるのであろうか。政経塾出身の同志・先輩が尽力している。
私は宗教家ではないが、「第三の宗教」と大西氏が言う「スポーツマンシップ」を広める事で、秩序を保ち、共同生活を営むこの社会に貢献したい。
【参考文献】
「人間を考える」 松下幸之助 PHP文庫
「荒ぶる魂」 大西鐵之祐 講談社
「闘争の倫理」 大西鐵之祐 二玄社
「血と熱」 藤島大 文春文庫
「オフサイドはなぜ反則か」 中村敏雄 平凡社
「スポーツマンシップを考える」 広瀬一郎 小学館
Thesis
Kiyotaka Takahashi
第24期
たかはし・きよたか
Mission
スポーツを通じたコミュニティの形成と地域連携