Thesis
「煙草を吸う夢」をきっかけに、人間はなぜ「葛藤」するのか、そして「葛藤」にどう向き合えばよいのかを、「新しい人間観」と「武士道」を通して考察してみた。
私が煙草をやめてからもう10年ほどたつのだが、いまだに煙草を吸う夢をみることがある。その夢の中身は、必ずといって良いほどいつもパターンが決まっていて、情景の差こそあれ、大体が以下のようになっている。
「(スパスパ・・)・・ふう。・・あ! ああ!! 吸っちゃった。せっかく禁煙続いてたのに・・。ん、でも待てよ。誰も見てないからいいかっ!」
私は、この夢を見るといつも、美味しい煙草が吸えた満足感を少しだけ感じつつ、そんなものでは覆い尽くせないくらいの自己嫌悪に陥る。
それは夢の中とはいえ、自己の意思の弱さを象徴するものであると感じることが一つ。でもそれ以上に、誰も見ていていないから吸っちゃえ、ってのが我ながら情けなくて仕方がないのである。そもそも誰かが見てるかどうかは、禁煙には全く関わりのない問題なのである。誰かが見てなくても吸わないのが禁煙、仮に吸っているところを誰かに見つかったところで煮て焼いて食われるわけではない。
「でも、待てよ。」と、ここまで考えて思うのである。そんな出来ても誰からもほめられず、出来なくても誰にもとがめられないことを、なぜこうも人間は自らに課し、このように迷い、苦しみ、そのことで情けない思いまでしなきゃいけないのか?煙草についてだけいえば、それは健康のためということになるが、それだけじゃないぞ。知らないうちに自らはめた足かせに迷うことがしょっちゅうだ。いやいや、もっといえば、当然の義務を怠ったり、罪とわかっていながら犯してしまうってことが人間にはたくさんある。レポートの期日だというのについついベッドにもぐっちゃったりするし、最近問題の飲酒運転なんてのは、その典型だと思うのである。
それが自分で決めたことでも、社会のルールでも、やっちゃいけないことはやらないのが一番だし、やるべきことは何が何でもやり通したい。でも、できない。
こうあるべきだ、こうありたいという理想の姿と、でも実行するのは大変だという怠慢や、絶えず起こってくる生理的欲求その他の欲求に負けてしまう。もっとデジタルに、やるならやる、やらないものはやらない、とスイッチ一つで切り替えられれば楽なのに、と思うが、そうはいかない。人間はどうも元来、板ばさみに苦しむ生き物。「葛藤」に悩む宿命らしい。他の動物がなにやら葛藤を起こしている素振りを見せているのを私は見たことがない。自らの心の中で天使と悪魔が戦っていて苦悶の表情を浮かべているペットなどにあまり出迎えられたくない。悩みもなにもない天真爛漫さがあるからこそペットには癒しの効果があると思うのである。
では、人間はなぜ「葛藤」を起こすのか?
「葛藤」と広辞苑で引いてみると、次のように書かれている。
「(カズラや藤がもつれからむことから)(1)もつれ、いざこざ、もんちゃく、争論。(2)〔心〕精神内部で、それぞれ違った方向の力と力とが衝突している状態。精神分析における根本概念の一。」
ここでは、(2)が適用されるのであろうが、なんだかよくわからない。が、とにかく複雑なことが心の中で起こってそうな感じはする。
じゃあ脳科学的にはどうなっているのだろう、と調べてみると、なにやら「前頭前野と大脳辺縁系のせめぎ合い」ということらしい。ここまで来ると、もう何がなんだかさっぱりだ。でもこうもたくさんの人間がいろんな場面で葛藤を起こし続けているのだから、きっと誰にもわかるような意味があるはずだ。と私は考えたのである。
そこで、塾主・松下幸之助の「新しい人間観」にヒントを求めて、もう一度(といっても、二度目だが)その著「人間を考える」をひもといてみた。すると広辞苑や脳科学では見えなかったものが見えてきたのだ。
塾主・松下幸之助の「新しい人間観」をダイジェストで述べると、
「宇宙に存在する全てのものは常に『生成発展』するのが『自然の理法』であり、人間はその宇宙の動きに従って万物を支配する力を本来持っている。つまり万物それぞれの備えている本質を見出しながらそれを活かして物心一如の繁栄を築くことが人間に与えられた天命である。しかしながら、人間はなかなかその天命に気づかず個々の利害得失、智恵才覚にとらわれるため、貧困や、争い、不幸を招く。よって、まず天命を自覚し、個々ではなく衆知を集めて天命を活かしていくことが肝要なのである。」
ということになろうか。
これを何度も反芻するうち、私は、我々がもがき苦しむ「葛藤」もまた『生成発展』のための重要な一要素、大事なプロセスなのではないかと思うようになった。『宇宙の万物』は、ただそこにあるわけではない。全てのものは時間と共に動き、働き、変化する。ただやみくもに変化するのではない。それぞれが繁栄をめざし、絶え間のない『生成』と『発展』を続けるのだ。しかしながら、それぞれが勝手に生成発展していくのと、それぞれの良さを活かして調和しながら生成発展していくのでは、生成発展度合いが違うのである。だがしかし、それぞれは恐らく自分のことで精一杯で、調和なんてことを考えたこともないから、なかなかそううまくいかない。そこで万物の王者・人間の登場なのである。
人間は、少なくとも我々の知る限り、他のどのようなものにも持ち得ないような、とてつもない英知を備えている。ただ備えているのみならず、そのとてつもない英知を使って、とてつもない文明社会を築き上げてきた。
考えてみたら、不思議でならない。あらゆる生物の中でなぜ人間だけが、このような力を持ちえたのか。やはり何らかの使命を帯びているとしか思えない。そして、その使命が万物のより理想的な生成発展、つまり、万物それぞれの本質をみきわめ、その本質を活かして、万物の調和のとれた生成発展、より大きな生成発展、人間だけでなく万物全体のための生成発展をつかさどることだとしたら、とても納得がいかないだろうか? そのような役割、いわば「スーパー生成発展ジェネレーター」とでもいうような役割を担えるのは、人間をおいて他に考えられないのであるから。
ところが、今現在に至る人間の歴史をふりかえってみると、なかなか「スーパー生成発展ジェネレーター」になりきれていない人間がそこにいるのである。一見華やかな高度文明社会の繁栄を謳歌しつつも、その影では、塾主も指摘するとおり、争いや貧困や不幸が絶えない。いまだに理想的な万物の生成発展を実現できずにいる。人間に備わっているとてつもない英知は、万物の生成発展のために活かすことも出来るけれども、使い方を間違えれば、万物の調和を乱すことも、世界を破滅に向かわせることも出来る両刃の剣である。今その剣が理想的な形で使われているかというと、残念ながらそうはいえないように思える。
では、「スーパー生成発展ジェネレーター」という使命はやはり思い過ごしだったのか? 否。そうではない。と私は思うのである。これも一つの「葛藤」なのではないだろうか? より大きな『生成発展』をつかさどる使命を帯びつつ、人間が現実にはその姿と対極をなすような問題を産み出してしまうことも、人間社会、あるいは万物の存在する宇宙の『葛藤』のように見えてならない。
塾主・松下幸之助が、繰り返し何度も「万物の王者としての天命の自覚が何よりもまず必要」と述べているように、王者として万物の本質を見出し、活かし、調和させ生成発展させる使命を人間自身が自覚をしないならば、両刃の剣である英知を使うことは危険である。だから、人間自身がそのことを自覚するために、まずは両刃の剣を自由に使ってみる。自由に使ってみて、危険な目にあいながらも、次第に「ああなるほど、この剣はこう使うべきであったか。」と天命を自覚するにいたる。
つまり天命の自覚にいたるための成長過程というものが必要であり、それが今の状況なのではないかと思うのである。
同様に、個々の人間においても、個々の人間における使命なり、役割なりを自覚するために、様々な場面で、大小様々な「葛藤」に思い悩むのである。「禁煙」とて天命を知る、あるいは生成発展するための必要な成長過程といっても過言ではないのである。
しからば、今は過渡期で、この成長過程を過ぎれば人間は真の万物の王者としての風格が生まれ、すべてのものが活かされ、調和し、ともにのびやかに生成発展して、共存共栄の世界が確立して、また人間も「葛藤」に思い悩むことなどなくなるのか、というと、そうでもないような気がするのである。
「たえず生成発展」という限りにおいては、やはり一つの高みに達しても、なおさらに高いところを目指していくことが必要で、一つところに沈滞してはそれは、そもそも生成発展とは呼べないし、おそらく万物は一つところにとどまる性質を持ち合わせない。またパターン化された生成発展の連続ということも、生成発展ではないはずだ。
ということは、ある局面において、両刃の剣の使い方を自得したとしても、また新たな局面において、怪我をしながら試行錯誤をくりかえす。つまり、永遠に「葛藤」しつづけるのが、また「永遠なる生成発展」を司る者の宿命なのではないかと思うのである。
「葛藤」しなければ、大きな生成発展を生み出すことなどできないのだ。「葛藤せよ、人間! 大いなる生成発展をめざして! 葛藤せよ、俺! 使命を全うするために。」
しかし、である。とすれば、人間の迷い、苦しみは、永遠に尽きないことになる。なにやら崇高な、誇らしい思いを持つ一方で、やっぱり気が重くなるようでもある。「葛藤」から逃れられなくとも、どのようにすれえば、この「葛藤」と対峙し、乗り越え、生成発展の一助を担うまでにいたることが出来るのか?
それがわからなければ、私はこの先ずっと、煙草を吸う夢に自己嫌悪を覚え続けなければならないではないか。
私は、昔の人の生き方にそのヒントが隠れているのではないかと思い、ある書を手に取った。かつての日本人の誇り高き生き方をわかりやすくかつ的確に描写したとされる新渡戸稲造の「武士道」である。
紙面の都合により、その考察については、次回に譲りたい。
Thesis
Kazushi Kaneto
第26期
かねとう・かずし
株式会社空と海 代表取締役/海賊の学校 キャプテン