論考

Thesis

精神大国・日本を目指して

塾主が概要だけを示した精神大国。松下政経塾生として塾主の志を引き継ぎ、時代に合った精神大国の詳細について考えたレポートである。

1.はじめに

 私が松下政経塾を志すに至ったそもそもの問題意識の原点は、昨今の日本社会の金銭至上主義に嫌気が差したことである。今から3年ほど前のこと、私が生まれ育った関西地方で鉄道の脱線事故が起こった。あの辺りの鉄道事情はそれなりに知っており、「企業が利益を追求し過ぎたために起こった事故ではないか」と推察した。というのも、私は当時、食品会社に勤めており、新入社員教育で、乳業会社の消費期限切れ原料再使用問題について度々学んでいたからであろう。企業の不祥事についてはかなり敏感になっていた。その後、建築士の耐震偽装設計やIT企業の粉飾決算など、企業の不祥事が立て続けに起こった。その度に、私は「企業は利益のために存在しているわけではないが、何のために存在しているのだろうか」と悶々と考える日々が続いた。

 その時、偶然にも塾主・松下幸之助の著書『ものの見方・考え方』を手にした。その書の中で、「会社は社会の公器である。ただ利益だけのために、事業を経営していくというのでは、意義がないと思う。会社の社会に対する貢献が大きければ大きいほど、その報酬も利益として、還ってくる。」という言葉に出会った。私が日々抱いていた疑問に対する解答に遭遇した気がした。「松下幸之助氏の思想を深く学べば、金銭至上主義が蔓延する世の中を切り拓く道が見つかるのではないだろうか」そんな思いで、松下政経塾の門を叩いた。

2.歴史観から考える我が国の問題

 私の問題意識の原点である、我が国に金銭至上主義が横行している根本的な原因について、歴史的観点から考えてみたいと思う。

 1868年、近代日本の幕開けである明治時代が始まった。明治政府は日本を近代化することに躍起になり、「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに掲げ、どんどんと躍進していった。維新から37年後の1905年には、東洋の島国に過ぎなかった我が国が西洋の大国であるロシアと戦争をして、激戦の末に勝利を収める。しかしながら「富国強兵」という国の方向は、日露戦争をピークに下り坂に転ずる。日露戦争で賠償金を得られなかった日本は財政的に疲弊し、その煽りを受けて精神的な荒廃に至った。政治家の汚職や軍部の暴走によって、どんどんあらぬ方向へ進み、奇しくも日露戦争勝利のちょうど40年後、大東亜戦争敗北という結果になってしまった。

 しかしながら、我が国はそのようなどん底から脅威の復興を遂げる。戦後、「欧米に追いつけ追い越せ」「所得倍増」をスローガンに掲げ、高度経済成長期を経て、1970年代には経済大国としての地位を確立していった。1980年代に入り、1985年のプラザ合意が為されてからは日本の経済が伸び悩んでいるにもかかわらず、地価や株価だけが上昇して、1991年にバブル崩壊という顛末を迎えてしまう。私は、大東亜戦争敗北からちょうど40年後に当たるプラザ合意が、日本の経済の転換期であったと考えている。

 つまり私が言いたいのは、「ひょっとすると我が国の近現代史はほぼ40年周期で興隆を繰り返しているのではないか」ということだ。明治維新から約40年で日露戦争勝利、それからちょうど40年後に大東亜戦争敗北、さらにその40年後にプラザ合意と、日本の国是に見合った国力は約40年周期で上昇下降を繰り返している。バブルが弾けた後、失われた十余年を経て、数値上は景気が回復傾向にあると言われている。しかし、景気回復が実感できないのは、今もなお経済的な国力低下が続いているからだと思う。

3.データから考える我が国の問題

 ではデータに基づいて、経済的な国力について論じる。2002年に始まった景気拡大が、戦後最長のいざなぎ景気よりも長期間続いたということで、景気回復という声が聴かれるが、現在の我が国は本当に景気は回復しているのか。マスコミの報道によれば、有名大企業は軒並み、増収増益、過去最高益を更新したなどと伝えられている。確かに、企業努力によって増収増益となっている大企業もいくつかはあるだろう。

 実際のデータを見て、我が国全体の国内総生産で検証してみた。内閣府の名目GDPのデータによれば、日本の2000年における名目GDPの実額は円ベースで、502兆9899億円となっている。その後、一旦低下はするものの、2006年には507兆5457億円と、約1%程度とは言え経済成長をしているかのように見える。しかしながら、これをドルベースで見ればどうなるであろうか。財団法人国際貿易投資研究所による世界の名目GDPのデータ(ドル建て)によれば、日本の2000年における名目GDPの実学はドルベースで4兆6674億ドルであるのに対して、2006年度には4兆3664億ドルと、2000年に比べて約6.5%も低下しているのである。前述の増収増益をしている大企業は、大半が円安による海外販売の好調が原因なのであろう。ドルベースで経済成長がこれだけ低下しているのであれば、ドルに対して優勢になったユーロ・カナダドル・オーストラリアドルなどの通貨に対しては、より顕著な経済の減衰が確認されるものと考えられる。いずれにしても我が国の生産力が国際社会の中で弱まってきていることは認めざるを得ない。

 私は結局のところ、問題の本質は国の目指す方向性が間違っているのではないかと思う。我が国が経済大国を極限まで目指した結果、モラルやマナーなどの荒廃が進み、金銭至上主義が蔓延する世の中になってしまったのではないかと考えている。つまり日本には色々な問題が指摘されているが、軍事大国でもない経済大国でもない新しい国の方向性、ビジョンを掲げて、それに向かって進まない限りはどの問題も根本的に解決しないだろう。今我が国に必要なのは新たな方向性である。

4.精神大国への道

 ではどんな方向を目指せばいいのだろうか。私は塾主が提唱した精神大国にヒントがあると思う。塾主は精神大国の概要しか述べていないが、塾主の考えていた精神大国について少し紹介する。塾主は著書『政治を見直そう』や『PHP』の中で精神大国について次のように語っている。

「お互い日本人が今掲げなければいけない目標は、国民お互いが心豊かな姿を現わして、明るくいきいきと日々の仕事に励みつつ、物心ともに豊かな生活をつくりあげ、併せて、海外の人々、ひいては人類の相互の幸せのために、力強く奉仕、貢献ができるような、そういう国家国民全体の姿を築きあげてゆくことだと思うのである。」『PHP』より

 さらには、後段で付け加えて「ここでいう精神大国とは、心の面が豊かであると同時に物資もまた豊富にある姿をいうのである。」と述べている。つまり塾主は精神大国と言いつつも、国民が精神的な豊かさだけでなく、経済的な豊かさも享受している国をイメージしていたようである。さらに塾主は精神大国について次のようにも語っている。

「日本がなすべきとりわけ大事なことは、これまで述べてきた精神大国への道を他国に先がけて切りひらき、世界の国々にその範を示していくことではないか。」『PHP』より

 塾主が考えていたのはここまでである。具体的な精神大国の詳細は掲げていない。しかお塾主がこれを考えていたのは、昭和40年代で今から30年以上も前である。実際に精神大国という方向性を目指すのならば、今の時代、これからの時代に合うような理念を掲げ、それに合わせた具体的なビジョンが必要である。

5.私が考える精神大国の理念

 塾主の経営哲学において、経営にとって一番大事なことは理念を確立することである。塾主の掲げた精神大国の理念を参考にしつつ、私なりの精神大国の理念を考えてみたい。私の考える精神大国の理念は次の通りである。

アジアの極東に位置する一国家として、国の特性を最大限に活かして国民生活の経済的な向上と精神的な発展を図り、人類の繁栄・幸福と世界の平和に貢献する

 塾主は経営理念を確立する上で、社会を正しい方向に導くものでなければならないと考えていたようである。つまり、精神大国の理念も世界を正しい方向に導くものでなければならない。人類が繁栄して幸福で、世界が平和であることが正しい姿であることは異論がないであろう。世界がその正しい姿に近づくことに貢献するのが、我が国の使命である。

 さらには地政学で考えると、日本はアジアの極東に位置する。いわばアジアに属していながら、欧米との間に存在しており、これは動かしようのない現実である。これを活かさない手はない。また歴史的に考えても、産業革命から始まった西欧中心の世界が20世紀に入ってアメリカ中心の世界に変わり、今また世界の中心の転換が起ころうとしている。これまで中心だった欧米からアジアに世界の中心が移る場合には、途中に位置している我が国の使命は大きいであろう。アジアの極東に位置する一国家として、大いに力を発揮するべきである。

 また塾主は経営を成功させるための秘訣として、すべてを活かすということを挙げている。考えてみれば、我が国には他の国にはないたくさんの特性がある。歴史や風土、文化、言語、国民の道徳性など挙げていけばキリがないが、それらの特性を最大限に活用して、経済的な向上と精神的な発展を促し、精神大国の特徴である精神的にも経済的にも豊かな国家国民の姿を実現していくことを目指す。

6.人類の繁栄・幸福と世界の平和の具体的な形

 さて精神大国は、世界を正しい姿に近づける国であるが、誰もが願ってもやまない人類の繁栄・幸福と世界の平和について具体的に話しておく。世界がどういう形であれば、人類が繁栄して幸福で、世界が平和だと言えるのか。それらを以下で提示する。

(1)人口は常に増加し、生活水準が向上し続ける

 「人類が繁栄する」というのは、人口が常に増加し、生活水準が向上することであると考える。人口が常に増加すれば、食糧が不足するということが懸念されているが、これまでも人類は人口が増加しながらも、新たな農地を開拓したり、農業技術を開発したりすることで、食糧を確保してきた。人口が増加したとしても、同様にして乗り切ることが可能であろう。現在、世界に飢餓で苦しんでいる人が8億人もいると言われているが、先進国の食料廃棄物の量(日本ではコンビニエンスストアだけで約2000万トン)を考えれば、地球トータルの食料が不足しているわけではない。分配の仕方が悪いのだ。先進国は自国の国力を無駄に使うことなく、余力として貧困国に分け与えるようにすれば、解決できるはずである。

 生活水準においても同様のことが言えよう。現在は一定の資源を先進国間で争奪しているが、資源もそれぞれの国に応じて開発すればよいのである。また現在の科学技術では非常にエネルギー効率が低いが、技術開発によってもっと高めることは可能であろう。さらにはエネルギーのリサイクル技術も同時に開発することによって、すべてのエネルギーを無駄にすることなく使えば、人口増加に伴った生活水準の向上というのは不可能ではない。

 国に応じて経済的な格差が出てくることは不可避であろう。しかし先進国が思いやりを持って、貧困国を救済する。これは単なる資金援助だけではなく、技術援助や人的支援も含めてである。どの国も自国の国益だけでなく、世界全体のことを考慮に入れて、貢献することで本当の繁栄が得られるのではないだろうか。

(2)それぞれの国・人々が独自の宗教を持ち、お互いに容認する

 幸福は誰もが願うが、その尺度というのは人によって違う。それは違ってもいいのではないだろうか。大事なことは、お互いの幸福観を容認し合うということであろう。幸福を築く土台となるのは、やはり精神的な拠り所である宗教となる。日本人は無宗教であるというが、実際には神道や仏教、儒教の考え方が根付いている。日本以外にも世界中に様々な宗教があるが、それぞれの宗教がお互いに容認することが肝要である。世界中のそれぞれの国・人々が独自の宗教を持ち、世界的な精神の豊かさを実現すれば、先述の経済の進歩と併せて、人類全体の幸福が得られるだろう。

(3)戦争が起こる気配すらない世界へ

 戦争をしていないからと言って、核を持ってお互い睨み合いをしている姿は世界が平和とは言えないだろう。真の世界の平和とは、まったく戦争が起こる気配すらない世界である。それが可能かどうか。願わなければ何事も実現はしない。我が国にも戦国時代があり、国内が動乱に満ちた世界であった。しかしながら、江戸時代に入り、260年もの安定した国を築き上げたことを考えれば、世界でも真の平和を達成することは決して不可能ではないはずである。戦争をするだけの余力があるのならば、貧困国を救済し、自国の経済の進歩と精神の発展に力を注ぐことをお奨めする。我が国は世界に先駆けて、その先進事例を示すべきではなかろうか。

6.精神大国にするための具体的ビジョン

 理念に基づいて各分野における具体的なビジョンを掲げてみる。

(1)世界の架け橋となる外交を

 ヨーロッパにEUがあるように、これからの時代はそれぞれの地域で共同体が作られる世界になっていくと考えられる。ヨーロッパやアメリカ、アジア、中東、アフリカのそれぞれの共同体の中で、日本はどの共同体にも属さず、それらの共同体の架け橋となる外交を展開していくのがよいであろう。そのためには当然のことながら、自国がきちんとした形で独立している必要がある。

 自国の安全保障を整備しておかなければならない。以前の国家観レポートでも述べたが、『平成18年度版防衛白書』を参考に2004年度の国防費をドルベースで比較すると、米国455,908百万ドル、英国50,120百万ドル、ドイツ37,790百万ドル、フランス52.704百万ドル、ロシア61,500百万ドル、中国84,303百万ドル、日本45,152百万ドルとなっている。その後も中国の国防費は毎年10%以上の伸びを見せているので、現在では100,000百万ドル以上の国防費を捻出している。防衛という観点で考えれば、単純に国防費で他国の軍事力を比較することはできないかもしれないが、防衛する戦力と攻撃する戦力は比例するであろう。我が国も2004年度の2倍程度である90,000百万ドルの国防費を捻出してもよいのではないだろうか。少なくとも現在日本に駐留している米軍と同じくらいの戦力を自前で持つくらいのことはできなければならないであろう。また非核国の代表として、全世界を非核化できるような外交を展開するべきである。非暴力で国際活動を行ったマハトマ・ガンジーの生き方から外交の理念を学ぶべきであろう。

 食糧に関して言えば、農林水産省の食料自給率データによれば、我が国の平成18年度食料自給率は供給熱量ベースで39%である。自立するためには食料自給率を100%に近づけなければならないのであるが、問題はどう近づけるかである。戦後から高度経済成長期、バブル崩壊を経て、我が国の食生活は大きく変化してしまった。穀物中心の食生活から、魚類をたんぱく源とする食生活を経て、現在では肉類をたんぱく源とする食生活に変化してしまった。人間の体は、炭水化物・たんぱく質・脂肪を三大栄養素として成り立っている。いくら主食用の米の生産量を上げて食料自給率を上げても、それでは自立したとはいえないのである。我が国の気候や土地柄を考えると、肉類の食料自給率を高めるのはなかなか難しい。たんぱく源の確保としては、土地柄にあった大豆類の生産向上や、海に囲まれた地の利を活かして漁獲量向上を目指すのがよいであろう。とくに漁業においては200海里の領海という制限があるので、養殖業にも力を入れるのがよいと思う。

 中国の古典『礼記』に「三年の貯蓄なければ国にあらず」という言葉がある。輸入が途絶えたとしても少なくとも三年間、国民がしっかりと生活できるための食糧を貯えておくのが国家の最低条件であろう。その蓄えが出来た上で、飢餓に苦しむ貧困国に援助できるような作物を作ることを考えるべきであろう。

(2)貧困国を救済できる国力を蓄えよう

 幕末の志士である吉田松陰は松下村塾聯の中で「一己の労を軽んずるにあらざるよりは寧んぞ兆民の安きを致すを得ん」という言葉を残している。「多くの民に安らぎを与えようと思うならば、自分の労役を何とも思わないようでなければいけない」という意味である。要するに、我が国が精神大国としての道を切り拓くならば、国力を養い、貧困国の救済をできるくらいにまで高める必要があろう。我が国が国力を高めて、貧困国を救済できる可能性が高いのはエネルギーと水であると思う。

 よく日本は「資源のない国」だと言われる。果たして本当にそうなのか。石油だって使われなければただの油である。人智を使ってエネルギー源として使えるようになったから、資源なのである。資源エネルギー庁のデータによると、2004年度の原子力を除いた我が国のエネルギー自給率はわずか4%であり、原子力によるエネルギーを加えても、せいぜい18%にしかならず、使用エネルギーの大部分を輸入に頼っている。しかし、もっと国を活かしてエネルギー自給率を高めることができるのではないだろうか。

 日本でのエネルギーの使い方は大きく2つに大別される。車や飛行機などに使われる、いわゆる燃料系のエネルギーと、家庭や工場、電車などに使われる電力系のエネルギーである。燃料系のエネルギーは現在、ほとんどが石油で占められているが、世界的にはバイオエタノールの開発が盛んになっている。しかしながら、私はこのバイオエタノールの開発には疑問を感じる。本来、人間が食料とするものを機械のエネルギーにするというのは本末転倒ではないだろうか。そんな余力があるのならば、飢餓に苦しむ貧困国に援助する方がよいだろう。日本でも「米をもっと生産してバイオエタノールにすればよい」という意見があったが、私はこれに反対である。「食べ物を粗末にすると罰が当たる」という日本文化を尊重すべきであろう。その代わりに、日本はバイオマスの開発を行うのがよいであろう。日本の面積の4分の3が森林であることを考えると、間伐材を使ってのバイオマスは非常に有効であろう。また同時に、電気自動車の開発を進めるのがよいであろう。燃料エネルギーを電気として供給するようにして、電気エネルギーの生産技術を開発するのがよい。

 では電気エネルギーをどうやって確保するのか。まず日の本の国として、太陽エネルギーの利用を促進するのがよい。日本の家庭の屋根すべてに太陽電池を装着すれば、日本国内の電力のほとんどが賄えるという計算結果も算出されている。また塾主は「台風産業株式会社を作ってエネルギーを産出したらどうだ」と発言しているが、台風や地震といった災害をエネルギー確保に転換できないだろうか。地震に関していえば、世界の火山の10%が日本に集中している。地下奥深くのマグマの熱エネルギーを使って発電する技術があれば、日本は資源大国になるだろう。さらには、その上で日本近海の海底に沈んでいるというメタンハイドレート(以下、MH)を活用するのがよいであろう。経済産業省発表のデータによれば、和歌山県の東南部にある東部南海トラフ海域にあるMHの埋蔵量を算定したところ、約1.1兆立方メートルであり、これは我が国の2005年度天然ガス消費量の約13年分にあたる。さらには、我が国の領海すべてに存在するMHの埋蔵量は、2005年度天然ガス消費量の約90年分にも及ぶという計算結果もあり、メタンハイドレートの採掘技術の開発が期待される。こういうあらゆる角度で考えれば、日本にもエネルギー大国への道があるように思う。

 水に関していえば、国土交通省のデータによれば、我が国の年間の降水量は約6,500億立方メートル(1971年から2000年までの30年間の平均値)だが、その内約2,300億立方メートルは蒸発散してしまう。 残りの約4,200億立方メートル は理論上人間が最大限利用可能な量であり、実際に使用している水量は、2004年の取水量ベースで年間約835億立方メートルである。我が国は水資源に恵まれた国なのである。この恩恵を活かさないわけにはいかないであろう。第3回世界水フォーラムでの国土交通省の発表によれば、全世界で安全な飲料水を確保できない人の数は12億人にものぼると言う。我が国のアドバンテージを利用して、世界の水不足地域を救済するのがよいのではないだろうか。

(3)技術大国としての貢献を

 日本は戦後の急速な経済発展に伴って、公害や環境破壊など様々な問題に直面してきた。しかし日本はその度に新しい技術を開発して、それを乗り越えてきた。世界中の国々で経済的な進歩が起これば、かならず問題になってくるのが公害や環境破壊である。日本は既存の技術を利用して、途上国のサポートするのがよいであろう。

(4)風土・歴史・文化を活かした観光立国

 以前の国家観レポートでも述べたが、世界観光機関の報告によれば、2005年度における日本から海外への旅行者数は約2161万人であるのに対し、海外から日本への旅行者数はわずか1/3あまりの約670万人となっている。つまり我が国は、自国が持っている観光資源を活かしきれていないのではないだろうか。我が国には、他国にはない伝統文化や気候風土がある。それらを活かした観光立国を目指すのがよいのではないだろうか。

 元東京ディズニーリゾートのプロデューサーであった堀貞一郎氏の言葉を借りれば「観光とは、五感を揺さぶり、知性と感性を満足させる異質環境に入ること」である。我が国には歴史的に誇ることが出来る寺社仏閣がたくさんある。奈良・京都だけでなく、全国各地に時代別の歴史建造物がある。それぞれの土地で工夫をして、自らの地域の観光資源を活かすことが大事なのではないだろうか。そして最も重要なことは、観光資源が存在するだけでは五感を揺さぶるような感動は与えられない。その地を訪れた旅人を歓迎する雰囲気作りや、道案内のために気軽に声をかけてくれる地元の人のやさしさなどの地域住人のおもてなしの心が最も大切なのである。

(5)すべての国民を活かす社会福祉

 これからの日本の将来を考える上で、すべての国民を活かす社会福祉が必要となってくる。定年が60歳から65歳に引き上げられたが、定年制度を完全に撤廃してもよいのではないだろうか。勤労というのは日本人の特性の一つである。働ける人は生涯現役でずっと働く。当然のことながら肉体的には衰えていくので、それに応じた業務を担当するのがよいであろう。そちらのほうが、生きがいを持って生活することにつながり、幸福観が増すであろう。

 そのためには、勤労者が光を浴びる社会制度の整備が必要である。残念ながら、現在の我が国の風潮はもはや「正直者は馬鹿を見る」と言わんばかりになっている。つまり、汗をかいて働いている現場の労働者が軽視されている状況なのである。それに加えてパソコンなどの通信機器が発達したため、ホワイトカラーの労働者がどんどん増えている。したがって、実際に生産をする現場からどんどん人が減って、生産力が低下するという現実を引き起こしていると考える。具体的な対策としては、現場で働いている人間にインセンティブを与えるべきであると思う。これは製造業の工場作業者のみならず、農業・漁業・林業などの第一次産業従事者もあてはまる。またある種の規制をかけることによって、決められた条件の下で生産性を上げる工夫ができるようにすべきだ。たとえば、社員100人に対して経常利益1億円以下であると、人頭課税されるなどの規制をかける。市場は倫理観のない状態で市場原理に任せると、大量の資本を持っている企業が一人勝ちしてしまう状況があるので、生産性の高い企業が有利になるような規制ということである。

 日本は少子化によって生産年齢人口が低下すると懸念されているが、高齢者を上手く活用することで、労働人口の極端な減少を防ぐことができる。もちろん病気などで働けない人を保障する福祉制度は必要になってくる。しかしながら「揺り籠から墓場まで」といわれるほどに行き渡った社会福祉で衰退したイギリスを見習い、社会保障は適度なものに留めるべきである。

(6)道徳性のある国民を育む教育

 精神大国の最も根幹となるのが、この道徳性のある国民を育む教育ということである。一口に教育と言っても、学校教育、家庭教育、社会教育、地域教育など様々な教育がある。しかしながら、すべての教育において人間教育という側面を持たせることによって、国民の道徳性を涵養する。

 まず大事なのは胎教である。朱子が編纂したといわれる『小学』や近江聖人と呼ばれた中江藤樹の『翁問答』にも、胎教の重要性は説かれている。妊娠した女性に母子手帳を配付するとき、母親学級を実施して、食生活や子どもを産むための準備だけでなく、妊婦としての心構えや子育てに関する考えなどの講習を受けてもらうようにする。中国の古典『中庸』の冒頭に「天の命ずるを是れ性と謂う。」とあるが、まさに子どもを産むことは女性だけに与えられた偉大な力である。母親学級の中ではそれを自覚してもらうことを目指す。

 続いて大事なのは、幼児期の教育である。子どもが3歳になるまで、母子はなるべく長時間離れないようにするのが望ましい。しかしながら、これからの日本経済のことを同時に考えると女性が社会進出することも大いに必要となるであろう。私は各企業単位で保育所・託児所を設置するのが良いと思う。その保育所・託児所の中でしっかりとした幼児教育を行うのがよいと思う。幼児は3歳までに脳の60%、6歳までに80%が出来上がってしまうために、そこで生活習慣や基本的な価値観を身に付ける必要がある。腰骨を立てたり素読をしたりすることで、子どもが人間として成長するための基盤を作るべきである。

 次に義務教育であるが、人間教育と同時に、日本人としての素養を身に付ける教育を行う。具体的には幼児教育と同様に、腰骨を立てたり素読をしたりといった基本的な教育に加えて、素読の中にも解釈を加えたり、書道を行ったり、算盤を使っての算術教育も取り入れることで基礎学力を養う。さらに体育の中ではしっかりと教練を行うとともに、剣道や柔道、相撲などの日本の伝統的なスポーツにも触れる機会を作り、徳知体バランスのとれた教育を心がける。その他、俳句、短歌などを朗誦したり、茶道・華道を体験する時間も作ると良いであろう。日本の伝統文化には道徳性を涵養する知恵がたくさん込められており、茶道などを通しておもてなしの心を学ぶことは、道徳性を高めるには大変有用である。

 高等教育においても、しっかりと道徳(修身)の時間は確保したい。道徳の中では、哲学や宗教を学び、人間としてどう生きるべきかを考えると共に、偉人伝を読んで先人の生き方に学ぶ時間を作るとよい。大学教育においては、四書五経や『武士道』などを教科書として、社会を引っ張る立場の人間としてどう生きるべきかを徹底的に学ぶ。当然のことながら高等教育や大学教育では専門性を高める教育も受けるが、人間教育との割合は半々くらいがよいであろう。

 社会教育でも道徳性を高めるための教育を徹底的に行う。社会人として、社会に対してどう生きていくべきなのか、応対や礼節などの教育を行う。さらに社会教育の中で、家庭教育の担い手としての教育も同時に行う。家庭を持つときに親として子どもをどう教育するのか、それを通して自分自身の人生についても考える。

 地域教育では日本の伝統である祭事をしっかりと伝承していく。集団墓参りや盆踊りなど、各地域によって形は異なるが、行事の本来の意味を考え、時代に合ったやり方で行っていく。

(7)道州制と小さな政府で生産性の高い政治を

 日本史を大きな流れで眺めてみた場合、794年桓武天皇の平安京遷都から始まって、1192年源頼朝の鎌倉開幕、1603年徳川家康の江戸開幕と、約400年ごとの流れがあると見ることができる。一般的な日本史では、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代、明治・大正・昭和・平成などと区分けされているのに、どうしてこの3つで区切るのかといえば、我が国の政治、社会秩序の大きな変遷になっているからである。まず平安京に都が移り、我が国の中央集権体制が確固たるものになる。ここから日本の政治・社会をリードするのは公家である。それから次第に公家に替わって、武士が力をつけ始め、ついには1192年の鎌倉幕府の成立を迎える。そして鎌倉幕府が始まってからは、我が国の中央集権体制が崩れる。天皇は京都にいるものの、各地に将軍や大名などが現れ、政治・社会の中心が定まらなかった。やがて徳川家康が天下を統一して、江戸に幕府を開いた。ここからまた江戸(東京)中心の中央集権体制に戻り、現在もなおそれが続いている。400年周期で考えると、そろそろ地方分権してもよいのではないだろうか。

 また、国家の赤字財政についても考え物である。昨年、夕張市が財政破綻したことは周知のことであると思うが、夕張市は当時、人口13000人、市の負債は約353億円であった。我が国の人口は約1億3000万人弱である。つまり、夕張市の人口を一万倍すれば、国全体の人口とほぼ等しくなる。破綻当時の夕張市の負債を一万倍すれば、353兆円である。現在の国家の借金が、その353兆円をはるかに超えていることを国民は認識しているのであろうか。はっきり言って、国家も財政破綻寸前なのである。

 過去の我が国の歴史を振り返れば、政治や社会の体制が崩壊する際には、必ず財政的な問題があり、それが庶民の生活や経済の混乱を招くということが起こっていた。たとえば、鎌倉幕府が元寇で見事な働きを見せた武士たちの貧窮を救う目的で永仁の徳政令を行ったことは、鎌倉幕府が滅びる起因になった。江戸時代末期にも、棄捐令を出し、旗本・御家人の救済を狙ったが、札差などに大きな損害を与え、民衆の幕府への不信感を募らせた。今こそ政治体制を大きく転換させる時期なのではないだろうか。

 私は廃県置州して、国を地域ごとに分割するのがよいと思う。国が全体で担う役割は、外交・国防・警察だけであり、その他は州や基礎自治体が行えばよい。また基本的に行政が担うのは、最低限のサービスにする。民間ができることは民間で行うことを原則とする。そうすることで行政の効率化が図られ、税金も無駄に徴収されなくてもよくなる。現在の日本の行政の問題は大企業病にあると思う。行政が大きくなりすぎて、生産性の高い行政ではなくなっている。いっそのこと小さな政府にし、公務員の数を最小限度に留めれば、もっと税金が削減できるのではないだろうか。これが極限まで進めば、塾主の提唱した無税国家の実現も夢ではないだろう。

8.おわりに

 道元禅師と弟子が行った問答の中に、志のある者とない者の違いに関する問答がある。

弟子「志のある人とない人ではどう違うのですか」
道元「それは死を意識するかしないかの差だ」

 人は必ず死を迎える。私にもいずれは死がやってくる。人間は常に死に向かいながら生きている。では何のために生きるのか。それは世界を正しい姿に近づけるための役割を果たすためだと考えている。私は自分の人生を、この精神大国の実現に捧げようと思う。私が生涯それを貫くことができれば、たとえ私が死を迎えても、その志を引き継いでくれるものが必ず現れてくれるであろう。長い道のりではあるが、一歩一歩踏みしめて歩んでいきたい。

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杉本哲也の論考

Thesis

Tetsuya Sugimoto

杉本哲也

第27期

杉本 哲也

すぎもと・てつや

自民党 高槻市・島本町 府政対策委員

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