論考

Thesis

生活を支え、家族を育み、内需を支える住宅

住まい。それは人の生活を支える基本的なもの。家族を育む器。そして経済的には内需の要でもあり、まちの重要な構成要素である。一方、雇用情勢の悪化や高齢社会の進展によって新たな住宅問題も生じている。普段空気のように当たり前の存在として接している住宅。戦後の住宅政策の変遷に着目しつつ新しい住宅観を訴えたい。

はじめに~住まいとは何か~

 住まいという言葉から連想されるイメージ。それは温もりや柔らかさや優しさそのようなものではないだろうか。住まいとは住むことであり、住宅があることが大前提であるが、私は住まいとは家族や隣人とのつながり、家族を育み暮らす場というハード、ソフトの両面があると感じる。また衣食住というように人間の生活を支える基本的なものでもある。しかし反面で衣食住の最後に置かれているように、「住」に関する一般的な関心は極めて低いもののように思われる。そして塾主松下幸之助も住宅に関して触れている言葉は「住まいは人間形成の道場」などわずかである。このレポートではさまざまな人々が住宅問題に少しでも関心を持ってもらうことを願い、住まいにまつわる私の想いを住宅問題の歴史を紐解きながらつづっていきたい。

私の経験

 約20年間の公務員住宅の団地住まい、5F建て3Fの一角、3LDK。そこが私の実家であった。九州の産炭地と日本海の離島から東京に出てきて結婚したのが私の父母であり、不動産にこだわりが無かったためであろう。団地の同級生が次々と新しい戸建住宅に転居していく中で私たち家族は団地の一角で明るく暮らし、私は大学進学を機にこの実家を離れた。成人式や年末年始など行事があれば地元の友人と集まるために舞い戻る地が船橋であった。ふるさとを離れて暮らした私にとっては、JR総武線で江戸川を渡り、東京から千葉に入る時にふるさとに帰ってきたというえも言われぬ感激を覚えたものだった。

 私が25歳になろうとしていたある年に父が末期ガンになっていたことを知る。私は三兄弟の真ん中。兄は地元でも指折りの進学校に進み、今では某省に勤める自慢の息子といったところだろう。弟は私と11歳離れている。年を取ってからの子というのは可愛いのだろうか、私が小さい頃には連れて行ってもらえなかったような後楽園球場や北海道の山登りなどに一緒に行っていた。対する私は高校時代にはラグビーにかまけて成績もふるわず、辛うじて大学に入り、大学生になってからは実家に帰っては、地元の悪友たちと飲み明かして朝帰りを繰り返していた。そんな私に時々父の雷が落ちたものである。50代での末期がんの進行は早い。あっという間に父はやせ細っていった。元々持病を持っていた父は大の病院嫌いであった。末期がんになってからも我が家にいることを選択し、家族もそれを受け容れた。足腰が弱っていく中での手すりの無い階段からの通院、狭く段差のある浴室や廊下。介助する母の大変さがひしひしと伝わってきた。そして父が他界した時に社宅である団地を1年以内に出ていくこととの通知が来た。私たちの家族は船橋を後にした。この頃のことは正直あまり思い出したくない。家族も混乱し私自身も仕事と家族のケアに追われて自らを顧みる余裕はなかった。そして私が20年間過ごした「実家」は想い出となった。

 この事を顧みるきっかけとなったのが入塾1年目に取り組んだ共同研究であった。「いのちの大国日本~絆でつなぐ在宅医療~」をテーマとした。いのちをもっと大切にしたい、一人一人が幸せに生き切って欲しいという思いの下に高齢者医療の需給ギャップの問題を追う中で、長寿社会における医療や介護といったソフトサービスの重要性とともに、住宅内の安全や居住し続ける安心感というものに注目するようになった。そして、茅ヶ崎市内での訪問看護の同行で、一戸建てや公団団地など数十件の自宅訪問を通じて、住宅と人の幸せとまちの賑わいの関係に関心が高まっていった。

国の住宅政策の歴史

 ここで、日本が戦後対応してきた住宅問題とその政策を見ていきたい。住宅は個人の資産であるが、政策によって左右されてきた面が極めて強いからである。戦前の日本では大都市の8割が借家であり、都市部で住宅を所有する者は少数派であった。個人が家を所有するというのは戦後に形づくられてきた日本人の住宅観である。当時の都心に住む多くの知識人も借家住まいであり、夏目漱石の代表作である「吾輩は猫である」も文京区の借家住まいの生活の中で書かれたものであるという。大戦後には戦災による焼失による住宅の減少と戦場からの復員や大陸などからの日本国内への帰国などにより、日本は深刻な住宅不足を迎える。都市の住民はバラック住まいや間借りなどを余議なくされたという。このような状況の中で1948年に旧建設省がつくられ、厚生労働部局から住宅政策を引き継ぎ、同省によって進められることとなる。

 現在は国土交通省内の住宅局として位置づけられており、総務課、住宅政策課、住宅総合整備課、住宅生産課、建築指導課、市街地建築課と1局6課体制であり、住宅の供給・建設・改良・管理、住宅の居住環境の整備、住宅資金の融資及び住宅融資保険、被災地の土地・建物の権利の保全、建築物に関する基準、建築士、建築物の質の向上その他建築の発達・改善、市街地再開発事業、建築物の敷地の整備と住宅にまつわる広範は業務を担当している。国土交通省内の国土計画、土地・水資源、都市・地域整備、河川、道路、鉄道、自動車交通、海事、港湾、航空などの13の局の1つであることを鑑みれば、社会資本整備における住宅の重要性がうかがえる。現在、公共事業=悪というイメージが強いようだが、費用対効果が悪いものを新たに作ることは否定されてしかるべきであるが、国民生活、経済活動に支障が出ないように社会インフラは適切に管理、更新しなければならないのは自明のことであろう。

 1950年代には住宅関連の三法、住宅金融公庫法(1950年)、公営住宅法(1951年)、日本住宅公団法(1955年)が整備された。住宅金融公庫法は安定的な住宅ローンを供給することで持家取得を促し、公営住宅法によって地方自治体は低所得者向けの公営住宅を建設する役割を負った。そして住宅公団(現在の独立行政法人都市再生機構)は都市近郊に中間所得層向けの団地を造成することとなり、1956年には分譲住宅として千葉に稲毛団地、賃貸住宅として大阪に金岡団地を造成した。しかし、当時、都市部では地方から人口が流入し世帯、家族を形成するスピードに住宅整備が追いつかず、劣悪な住環境の木賃住宅で都市住民は我慢しなければならず、住宅整備は喫緊の課題であった。1966年には住宅建設計画法が制定され、1世帯1住宅を目標として第一期住宅建設五ヵ年計画が始まった。また、公団による大規模団地の造成も行われ、多摩地区初の大規模開発であるひばりが丘団地には、現在の天皇陛下ご夫妻(当時の皇太子ご夫妻)が訪れるなど、世間の注目を集めた。この頃になると、戦後の持家推進政策が進められる中「住宅双六」と言われたように、終身雇用制を前提とした右肩上がりの所得カーブに応じて、木賃アパートや社宅→公団団地(賃貸や分譲)→庭付き一戸建て(アガリ)と住み換えていくというのが当時の理想の住環境イメージであった。戸建住宅の所有はいわゆるマイホームという国民の夢を体現するものであり、土地神話が存在した地価が上昇する時代には極めて手堅い資産運用でもあった。一方で住宅は内需の要であり、工務店から住宅メーカー、ディベロッパーまで幅広い雇用を支えてきた一大産業でもある。住宅のこういった特性に政治・行政は着目し、金融・税制・産業振興などの多様な側面から住宅建設を推進していった。

 1985年にはプラザ合意による低金利政策によって不動産などへの投機が加速し、土地バブルへとつながり、一般的なサラリーマン層の住宅取得は夢のまた夢ともいわれるようになる。その後、バブル崩壊がおき、長期的な景気低迷の中で住宅取得を促す景気対策がなされていく。2000年代に入ると小泉構造改革の中で公庫の住宅金融支援機構への改編、公団の独立行政法人化が進められ、住宅の大量供給を支えた住宅建設計画法に代わり、2006年には住生活基本法が制定され、住宅政策は歴史的転換点を迎えた。これに伴い、ストック重視の政策に転換し長期優良住宅の制度などが創設された。今後は地方自治体でも住宅計画の見直しが図られ、ストック重視の住宅政策がより力強く推進されることが予測される。

現代における住宅問題~高齢者における住宅問題~

 平成の元号となる頃には、人口や世帯数の増加が頭打ちになり、空き家率の高まりととともに、住宅政策の転換が模索された。そのような中で、官から民へという小泉構造改革の影響をもろに受けたのが公団住宅であった。昭和30、40年代に建てられた公団住宅はこの頃、建物の老朽化と住民の高齢化が大きな課題となっていた。公団住宅における孤独死などが紙面に取り上げられるようになってくる。日本の住宅政策は戦後、建設行政部局によって担われてきた。しかし、そもそもは厚生系の部局にあったものであり、公団住宅における高齢化にまつわる問題が増えていくことによって、住宅政策と福祉政策が一体となって対応しなければならないことが明らかになっていく。公団住宅で建て替え反対の運動が起きる背景には、もちろん住環境の変化を嫌う意思もあるが、建て替えられた新しい住宅は家賃が上がるため、フロー所得の無い高齢者は住むことが困難という事実がある。また多くの公営住宅(独立行政法人都市再生機構の住宅は公団住宅、地方自治体の住宅は公営住宅、双方をまとめて公的住宅と表記する。)の抽選は数10倍の倍率である。先日ある市役所で公営住宅募集のインターン実習を行った。私の予想に反して、思ったよりも生活に余裕がありそうな応募者が半分以上はいるように見受けられた。私がそんな感想を職員にもらすと、「退職後の年金暮らしに備えているのです。持家がある人は良いのでしょうが、金銭面や生活面で不安を抱える高齢者に家を貸し続ける民間の大家さんが少ないということなのでしょう。」と漏らした。先日、こんな記事があった。

『独立行政法人の住宅金融支援機構がマンションなどのオーナーに建設資金を貸し付ける際、実際は高齢者を対象に募集する意思がないのに、低利のバリアフリー賃貸住宅貸し付けを利用し、その後、ほとんど高齢者を住まわせていないケースが多いことが16日、会計検査院の調べで分かった。検査院は同日、住宅金融支援機構に対し、審査を徹底するよう改善を求めた。
 会計検査院によると、バリアフリー賃貸住宅貸し付けの対象となる住宅は、高齢者の入居機会を確保するため、高齢者円滑入居賃貸住宅に登録し、都道府県や財団法人高齢者住宅財団のホームページに掲載されることになっている。
 ところが機構が貸し付けた物件468件を検査院が調べたところ、450件が入居者募集までの間に登録がされていなかった。しかもホームページには募集開始時までに259件が「空き室なし」となっており、ホームページの存在が無意味になっていた。
 また450件のうち103件で、検査院がオーナーから聴取したところ、48件が「登録前に空き室がなくなったので、登録の必要がないと思った」と答えた。
 機構はこうした登録状況にもかかわらず、事態を確認せずに資金を交付していた。
 さきの103件のうち、オーナーが想定する入居者はサラリーマンなど76件、新婚者22件、学生22件となっていて、高齢者を想定していたものはたった3件だった。検査院によると、「学生専用」の看板がかけられたマンションもあったという。
 また103件のうち、高齢者が入居していたのは5件、1179戸中15戸しか高齢者が住んでいなかった。これは通常の民間マンションよりはるかに低い数値だった。
 検査院は機構に高齢者向け優先期間を設けるなど、国の法律の趣旨に沿った貸し付けをするよう改善を求めた。(2009年10月16日 産経新聞)』

 政府がいくら高齢者向け賃貸住宅の整備の旗振りをしても、多くの大家さんが高齢者入居を望んでいないという事実がある。その背景は何か。ひとつは家賃の滞納に関するおそれがある、また大家さんとしては賃貸住宅の回転率は高いものであって欲しいことから学生や若いサラリーマンなど、次の人生のステージに移動することによっていつかは賃貸住宅を離れる者を借り手として望む。そして高齢者が賃貸住宅で何かあっては困るということだ。今後若年者が減り空き家が多くなる中で、貸し手は借り手を選べなくなる。したがって高齢者は有力な賃貸先でありニーズも高まることは間違いないのだが、その事に多くの人は気付いていないのだろうか。

現代における住宅問題2 ~住宅の需給ギャップ~

 住宅問題とは何か。本質的な課題は何か。住宅は余っているのに住宅に困っている人たちがいるというミスマッチに象徴されているのではないか。つまり、安心して住み続けられる住宅が無いという人間の基本的な生活欲求が満たされないこと、もうひとつはまちの資産である住宅が有効活用されていないということである。前者については超高齢社会を支える社会保障として、医療、介護、年金は語られるものの、住宅についてほとんど関心が払われないことである。「住宅?それは個人で用意するものでしょ」という、まさに車などの耐久消費財と同じ扱いに思えてならない。考えてみれば医療保険や年金も民間のものがある。医療や介護サービスの供給主体も官民両者である。住宅の構図もまったく同じものである。住宅は内需の要であると同時に、住宅ローンの支払いは家計の大きな負担となっており、ここが無くなれば消費にまわるパイが増えると考えられないだろうか。そして忘れてはならないのが非正規雇用の増加である。非正規雇用者が果たして住宅ローンを借り、借りたとしても安定的に支払うことができるのだろうか。住宅産業界ではセカンドハウスの促進などを謳っているが私のような就職氷河期世代にとっては夢のような話を語っているようにしか思えない。高齢者向け住宅を中心として、住宅には市場の失敗が存在するということを多くの人に気付いて欲しい。

 神戸大学名誉教授の早川和男先生は数十年前から「福祉は住宅から」という理念のもとに住宅政策の大切さを訴えてきた。現在、もやいの活動をはじめ、人間の基本的生活を支える住宅というものがかつてなく注目されてきている。かつては終身雇用のレールに乗れば社宅という形でひとまず住宅には事欠かなかった。しかし正規雇用が減少し、民間企業が福利厚生をスリム化する中で、社宅供給は減少しこれまで民間企業が担ってきた「住宅供給」は減少していった。今、超高齢社会の中で施設を希望する人は多い。それはもちろん医療介護といったソフトサービスに対する不安の解消を欲しているためであるが、同時にそもそも衰えつつある身体に適した住宅設計をなされていないためである。全国的に見ればバリアフリーがなされていない住宅は75.5%。手すりの設置、段差解消、一定の廊下幅という高度バリアフリーがなされた住宅は5.5%に過ぎない。それに対して高齢者の住宅内事故死者数4,298人と高齢者の交通事故死者数3,046人を上回る(平成15年)。一説には重軽傷者はその10倍とも言われている。住宅がいかに「元気な人」のみを前提に作られているかということを象徴していないだろうか。そういった意味では現在の住宅双六の最後には持ち家→施設などという流れが加わっているのかもしれない。しかし果たしてそれが人にとっての幸せなのか、住み慣れたところで生き抜きたいというのが人の根本的な願いであるならば、それに合わせて各人がしっかりと備えをし、また社会もハードやソフトを整えていくべきではないだろうか。

 次に空き家の問題である。当然であるが、空き家が増えればまちの人気が減り雰囲気も暗くなる。私が訪れたUR高根台でも立ち退きの経緯の中で空き家が増えていた。近隣の学校の先生によれば、暗い道が増え治安に不安を覚える、またある商店主によれば住民が減り商店の売り上げが下がった結果、閉店せざるを得ない商店も増えているとのことであった。既に人口減少局面を迎えている地方では、空き家対策の取り組みが行われている。その中にはIターンやUターン先として活用するというものもあるが、長崎のように敷地の寄付を前提として私有の空き家を公共が除却するという事業など空き家そのものを取り壊す事業が始まっている。またコンパクトシティを目指して富山市や宇都宮市では中心部への住み替え事業が展開されている。まちの資産である住宅をまちの負債としてはいけない。夕張では炭鉱で働く人たちの住まいであった炭住が閉山後に鉱山採掘会社から市へ譲渡された。現在、有り余る市営住宅の維持に夕張市は悩んでおり、廃棄しようにもその資金も無いのが現状だ。人口減少に対して抜本的な選択を取らない限り将来的に日本はあり余る住宅とまちの老朽化いう新たな課題を背負うことになる。

船橋にとっての住宅

 船橋市市外在住の年配の男性に聞けば船橋のイメージといえば、船橋ヘルスセンター(温泉や遊園地を備えた総合娯楽施設、現在のららぽーとの地にあった)、公営ギャンブル、歓楽街といったところであり、住むところに適した、ふさわしいというイメージはあまりないようだ。しかしそれは船橋の一面であり、人口60万人を抱える千葉県第二の都市である船橋の戦後の歴史は住宅建設、宅地開発の歴史であったといって良い。

 船橋は成田街道に面し、成田と江戸の中間地点として古くから宿場町として栄えてきたまちである。また御採浦(おさいのうら)と呼ばれ将軍家に献上される東京湾の海産物を取る浜、塩田地帯としても賑わってきた。戦後の高度成長期の中で都心部に地方からの人口が急激に流入した事に対応するために、市内を北西から南東につなぐ新京成線を中心に多くの公団団地が形成された。その後背地も宅地が進んでいく。終電が早かったのでJR線からは乗り合いタクシーというものが団地に向って走っており、盛況であったという。急激な人口増加に社会的なインフラである学校、保育所、公園、上下水道などの整備が追いつかず、住民たち自らがまちづくりを行っていくという住民活動が盛んになっていった。ベッドタウン、ニュータウン市民はコミュニティ意識が希薄というがこれは捉われたものの見方ではないか。公団の住民たちのヒアリングを通して私が感じたのは、まちは自らが創ってきたという強い自負心であり、団地内での空き店舗などを利用したカフェを作ったものも子育て時代に作られた子供を通じた強いコミュニティである。公団住宅の建設を機に船橋の人口は爆発的に増加していった。これは松戸や柏といった周辺の地域でも同様の現象があったことが推察される。

 この人口集積と交通の要衝という利便性を背景に船橋はちょっとした観光地としての要素も強くなる。船橋で観光というとピンと来ない人が多いと思われるが、古くはその水辺の風景にひかれて、太宰治などの文豪も訪れ、また温泉と遊園地機能を有した船橋ヘルスセンター、公営競技、東京ディズニーランドの創設とともに消えた谷津遊園。屋内スキーのメッカであった船橋ザウス。今はショッピングを楽しむ回遊性の高いIKEAやららぽーと。船橋の歴史を見れば「遊」という要素も浮かび上がってくる。

 話がそれてしまったがこのような経緯で発展してきた船橋は現在、住宅にまつわる様々な課題を抱えている。中でも住宅バリアフリーは全国平均値や千葉県内の平均値を下回るものでありリフォームという点で課題を抱えている。また空き家率は10%近く、定性的ではあるが、ある市内のNPOを運営する友人に聞くと、市内で事業を行うための空き家には事欠かないという。特にJR総武線から離れた地域にある戸建住宅の空き家の話をよく聞く。このような中古住宅を活用していき、個人の資産としてもまちの資産としても有効に機能するようにしていきたいものである。

住宅観の転換

 以上のように住宅に対する私の思い、住宅政策の歴史、そして現代における住宅問題や船橋の現状を確認してきた。その上で私は次のような住宅観の転換を訴えたい。

(1)「住宅は個人的なものである」→「住宅は個人だけのものではなくまちの資産である」

 住宅は人の生活を支え、家族を育み、まちの賑わいを形作る大切な社会インフラである。人口減少社会を迎える中で住宅をまちの資産と考えて多くの人が適切に管理していくことが求められている。地方自治体ではこれまで住宅政策といえば公営住宅の建設・管理・運営のみであり、家賃の滞納整理など負の側面のイメージがある政策であった。近年、横須賀市ではマイホーム取得支援、千葉市長では住宅のトップセールスなど、地方自治体では住宅がまちのにぎわいを作るものであると捉えて民間住宅に着目した取組みが始まっている。

(2)「持ち家主義」→「住宅は持つものだけでなく、借りるものでもある。」

 医療、年金、介護、子育てなどの要望が高まる中で、日本が新たな成長分野を見つけない限り、限られた財源の中で公的住宅を増やすことは極めて困難であろう。民間の力を借りた高齢者専用住宅の供給は前述のようにうまく機能しておらず、また新築のものは10~20万円の家賃を要するために年金だけでは入居困難な状況にある。若年者世代も子育てなどのためにより良い住宅に住み替えたいとしても厳しい雇用環境の中でなかなかままならないのが現状である。一方で全国総数5759万戸中、空き家の割合は13.1%を占め、5年前より0.9%上昇し、過去最高の「空き家時代」を日本は迎えている。全国の総住宅数は5年前より370万戸(6.9%)増加する中で756万戸が空き家である(数値はいずれも総務省調査2008)。住宅を所有している者は幅広い年齢層に適切に貸し、また若い世代は持ち家にこだわらないようになれば、需給ギャップは少しずつ埋まっていくのではないか。貸主は当然リスクを負うことになるので税制などによる公的支援が検討されても良い。

(3)「新築至上主義」→「中古リフォームを盛んに(環境配慮も)」

 住宅産業が内需の要であることに異論はないであろう。しかし新築が政策誘導によってなされていたのであれば、中古リフォームも政策誘導することは可能ではないだろうか。現在の日本の住宅寿命は欧米と比べて著しく低く、スクラップ&ビルドを繰り返しているといえる。住宅の新築、取り壊しというプロセスは多くのCO2を排出し、廃材は産業廃棄物となる。リフォームをすることによって、古い物を大切に使って住宅供給のコストを低減するとともに、地球環境保全にも貢献する。2009年10月6日現在、前原誠司国土交通相は国土交通省所管の各産業の成長戦略会議を設置する方針を明らかにしており、その中で住宅リフォームについて「住宅産業は、着工戸数が1965年並みに低迷している。(新築)住宅を買い替えるには厳しい経済情勢にある。リフォームにより新築同様の住宅を安価に取得することができる。どのようにすれば、需要を喚起できるのか。省内各局にも、それぞれ成長につながる戦略を洗い出すよう指している」と述べており、今後のリフォームの興隆に期待したい。

おわりにかえて~新政府に思う~

民主党マニフェスト

44.環境に優しく、質の高い住宅の普及を促進する

【政策目的】

  • 住宅政策を転換して、多様化する国民の価値観にあった住宅の普及を促進する。

【具体策】

  • リフォームを最重点に位置づけ、バリアフリー改修、耐震補強改修、太陽光パネルや断熱材設置などの省エネルギー改修工事を支援する。
  • 建築基準法などの関係法令の抜本的見直し、住宅建設に係る資格・許認可の整理・簡素化等、必要な予算を地方自治体に一括交付する。
  • 正しく鑑定できる人(ホームインスペクター)の育成、施工現場記録の取引時の添付を推進する。
  • 多様な賃貸住宅を整備するため、家賃補助や所得控除などの支援制度を創設する。
  • 定期借家制度の普及を推進する。ノンリコース(不遡及)型ローンの普及を促進する。土地の価値のみでなされているリバースモーゲージ(住宅担保貸付)を利用しやすくする。
  • 木材住宅産業を「地域資源活用型産業」の柱とし、推進する。伝統工法を継承する技術者、健全な地場の建設・建築産業を育成する。

 先日、鳩山首相の所信表明演説がなされた。政権交代によって多くの政策の変更も予測される。そこであらためて民主党のマニフェストを見てみるといくつか気になる点がある。リフォーム重視などは、エコと高齢社会への対応にもなり理解できる。ストック重視の政府方針がより明確になったものと理解できる。驚きはノンリコース(不遡及)型ローンの普及を促進と多様な賃貸住宅を整備するため、家賃補助や所得控除などの支援制度を創設するというものである。現在の日本の住宅ローンの最終負担先は、主に住宅所有者であり、これを金融機関にすることは大変大きなことである。私としては住宅を手放しても住宅ローンを背負うという仕組みが決して良いとは思わないが、ノンリコースローンの破綻が世界金融危機の原因となったのは言うまでもなく、このような経済金融状況の中で果たして適当なのか理解に苦しむ。次に多様な賃貸住宅を整備するという中身は不明であるが、家賃補助に言及していることから民間賃貸住宅の拡充ということであり、私は賛成したい。私が研修した市役所では今後政権交代によってどのような予算が削減されるのか、それによって公営住宅の整備事業が変わってくると戦々恐々としている。これも三位一体における突然の補助金削減のトラウマであろう。また神奈川県住宅政策懇話会でも今後新政権がどのような政策転換をするのか注目している。先日、成長戦略としてリフォーム促進策の検討が始まったようであり、今後の政府の住宅政策にも目を配りながら地域での研修を進めていきたい。政府は地方分権、地域主権の理念を忘れずに地方自治体や地域住民の意見を聞きながら熟考の上で決断して欲しい。

【参考文献】

長嶋修「不動産のプロから見た日本経済」PHP研究所 2009
李桓「漢字の語源にみる居住福祉の思想」日本居住福祉学会 2006
延藤安弘「何をめざして生きるんや」プレジデント社 2001
青山やすし「自治体の政策創造」三省堂 2007
早川和男「居住福祉」岩波新書 1997
夏目幸子「やっぱり我が家で暮らしたい」岩波書店
週刊ダイヤモンド「ニッポンの団地」ダイヤモンド社 2009年9月号
民主党ホームページ
自民党ホームページ

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津曲俊明の論考

Thesis

Toshiaki Tsumagari

津曲俊明

第29期

津曲 俊明

つまがり・としあき

千葉県船橋市議/立憲民主党

Mission

地域主導による活力ある社会の実現

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