Thesis
先日、ある港の祭りに参加しました。鰡(ぼら)の唐揚げを肴に近くのサッポロビール千葉工場でできた生ビールを仲間とともに流し込む。その後は知り合いの船でクルージングと洒落込みます。どこの海のことかって?「魚の湧く海」、東京湾三番瀬などでの出来事を通じて人と自然の関係を考えます。
世界地図で日本を見た時、その国土は大きいとは言えません。世界でも第60位といわれる国土ですが、海に目を向けると領海+EEZを合わせると世界6位の広さを誇ります。家は小さいけれども「海」という大きな庭を日本は持っています。日本人は世界有数の魚食民族ともいわれ、国別消費量は世界のトップレベルであり年間の水産物消費量は31.9キログラムです(平成19年)。またその本土海岸線は約1.9万キロ、島嶼部では1.4万キロに及び、全国に貝塚があり魚や貝の骨が発見されています。日本人と海の関係は歴史的に見ても切っても切れないものがあるといえるでしょう。
さらに日本地図を眺めてください。関東地方そして東京を眺めていくと東京湾沿いに不思議な海岸線が現れます。長方形や五角形など角ばった島や直線的な海岸が横浜から東京そして千葉の富津のあたりまで続きます。私が小学生の時に千葉県の地図を書くという宿題があり、この海岸線を書くのに苦労した想い出があります。
ある人はこう言います。「日本の首都東京は海を埋め立てることで発展してきたまちだ。」そして千葉県などの周辺県は東京一極集中の拡散先として影響を受けてきました。現在、海岸線の中で純粋に自然海岸として残っている比率は全国では6割弱、三大都市圏では大阪湾1.5%(3.2キロ)、伊勢湾19.8%(88キロ)、東京湾9.0%(74キロ)となっています。(環境省「自然環境保全調査報告書」1994、大阪湾は1974)人口集積地ほど自然海岸を喪失してきたと言えるでしょう。もちろん、自然に手を加える事を一概に否定されるべきではないでしょう。今求められるのは、「wise use」の思想です。「歴史は、現在と過去の対話である。」(E・H・カー)と言います。東京湾の歴史を振り返ると、今なすべきは再生、保全、補修という新しい改善事業であることが明らかになります。それでは歴史と私が足を運んだ現場を追っていきましょう。
1457年に太田道灌が江戸城を築城した頃の江戸は、現在の日比谷公園の近くまで入江が入り込み、この沿岸に漁村が散在する寒村であり、現在の下町の多くは遠浅の入江か沼沢地、低湿地でした。三河を中心とした東海地方から関東地方へ移封された徳川家康はあまりの田舎ぶりに驚嘆したともいわれています。その後徳川家康は、都市形成のため大規模な土木工事を進め、海側に都市を拡大していきました。「江戸は日本人の社会が初めて臨海低地に意識的・継続駅に都市を造った場所である」といわれる由縁です。東京都内湾の埋め立てについては、都市から大量に出るごみ処理との関係が深く、ゴミを埋め立て、土地を造成する「一挙両得」の手法として進められてきました。現在はその行き過ぎた開発の反動なのか、江戸川区の葛西臨海公園やお台場海浜公園などに人工の砂浜が作られてきました。
東京湾の西側、川崎・横浜の京浜工業地帯では江戸時代から新田開発のために埋め立てが行われてきました。明治に入ってから臨海工業用地の造成が始まり、川崎市は京浜工業地帯の中核として機能していきます。横浜でも同時期に近代的港湾や工業地帯の形成を目指して、戦後は根岸湾や金沢地先やみなとみらいなどの大規模な埋め立て事業が進められてきました。自然の海岸線を失う一方で、「海のまち・横浜」という魅力あるイメージ作りに成功しています。
これに対して千葉県側では、戦前に構想はあったものの本格的に臨海土地造成に着手したのは戦後でした。1950年の国土総合開発法に基づき、千葉県は51年に千葉県総合開発計画書を策定。52年に県企業誘致条例を制定し、54年より臨海地域の土地造成を開始します。農漁業県として財政的事情の悪い千葉県(1956年には財政再建団体に指定)では民間企業を活用しながら急速に埋め立て造成事業を推進し、京葉工業地域を作っていきました。
急速な開発に対する反省なのか、その後親水地や潤いのあるまちづくりの一環として海浜が見直され、稲毛、幕張、船橋、検見川、千葉ポートパークに人工海浜が作られました。たとえば、幕張の浜の総事業費は32億円かかったといいます。私も学生時代にこれらの海浜に友人たちと集い、夜通し語り合った思い出もあります。また、多くの人が潮干狩りやバーベキューに訪れる賑わいも生んでいます。人工海浜であってもそのものの価値を否定するわけではありませんが、海浜をつぶして土地を造成したら、今度は海浜造成事業を行うということが果たして経済的・効率的なことであったのか疑問が残るところです。今東京湾内の千葉県側で残っている主な自然干潟としては、船橋・市川の三番瀬、習志野の谷津木更津の盤洲です。東京湾にある干潟の大部分が埋め立てられる中で、何故これらの干潟は生き残ってきたのでしょうか。三番瀬の物語を例に追ってみましょう。
三番瀬とは千葉県船橋、市川、浦安の地に囲まれた東京湾最奥部に広がる浅海干潟を指し、水深5メートル以下1650平米のものです。この水域は将軍家に海産物を献上する御菜浦として、特別な保護と豊かな漁場を誇ってきました。地元の方によれば、戦前、小さい頃に三番瀬でじっとしていると足の裏にカレイの子供が潜り込んできて、カレイをふんづけて捕まえていたと言います。また引き潮になると潮だまりに残った多くの魚を取りに狐がやってきていたそうです。そんな豊饒の海三番瀬の近代的な埋め立て計画は1948年に船橋港が指定港湾になった結果商港を建設することに始まり、その後千葉県によって大規模化していきます。工業化と都市化が進む1970年代には、工業廃水と生活廃水で東京湾は汚染されて漁業はもうできなくなる、石油臭い魚しか取れない悪臭を放つ海など埋め立ててしまえ、といった声が高まり、漁業者側にも動揺が広がります。船橋、行徳、浦安などの漁業協同組合が次々に漁業権の放棄と補償を決めていきました。
一方でオイルショックと200海里問題という社会状況の変化が生じました。オイルショックにより埋め立て地への企業進出が見込めなくなり、また工業化へのアンチテーゼとしての自然保護運動が活発になります。200海里水域の設定により遠洋漁業から沿岸漁業、育てる漁業への見直しも始まります。そのような中で1973年には千葉県は大規模埋め立て計画を断念。浦安から富津にかけての埋め立て計画を15,200haから12,000haに縮小します。市川、船橋、習志野地区についても当初計画は2,758haであったが、1,600haで埋め立ては打ち切られ、残りの浅瀬が三番瀬として残ったのです。その後1983年には中曽根内閣の内需拡大政策にも押されて埋め立て計画が再始動され、これに対する自然保護活動も活発化していきます。
1999年には時の環境庁長官が三番瀬を視察し、「立派な干潟を保存したい。」との国会答弁を行います。現在、三番瀬に第二湾岸道路を作る計画(地下方式も含めて)はあるものの、堂本前千葉県知事により、埋め立て計画の白紙撤回という政治的な決断がなされ、今後の三番瀬のあり方について、三番瀬再生会議にて議論が続けられています。現在このような状況を打開すべく、三番瀬のラムサール条約への登録により三番瀬保全を進めようとの動きや、市川側を中心にアマモ再生による三番瀬再生を図る具体的な動きもあるものの、議論百出の中で千葉県庁では三番瀬をどのような方向に導くのか積極的な旗振りをする姿勢は見られず、森田現千葉県知事の動向が注目されています。一方で船橋・市川にとっては東京湾三番瀬が市の辺縁部にあたること、海と陸とを遮断する直立護岸、中心部から海への公共交通機関によるアクセスの不便さなどによって、市内内陸部の市民の関心は決して高くないのが現状です。
今各地で干潟の機能に注目した様々な取り組みが進められてきています。では、何故干潟に注目が集まっているのか、干潟の機能について整理します。まず、干潟は多くの微生物が存在し、有機物を分解し発生する植物プランクトンなどを捕食する二枚貝や甲殻類が多く存在する天然の浄水場です。干潟は沿岸部や河口といった人間の活動によって汚れやすい海を浄化する役割を持っています。特に三番瀬は江戸川河口に位置し、都心や千葉県の廃水の浄化を一手に引き受ける場とも言えます。三番瀬の浄化機能が衰えることにより青潮などの被害が増大し、江戸前の魚が危機に陥ることが危惧されています。
また、潮干狩りや海釣り、バードウォッチングなど、人を魅了する観光資源としての役割があります。船橋三番瀬海浜公園では春に潮干狩りが楽しめます。それ以外にも休日の晴れた日には貝採りを楽しむ人が絶えません。初日の出では関東の富士見百景に選ばれる地であるなど伝統ある美しい景観を作っています。
さらに海苔やアサリの直接的な漁場であるとともに、微生物の豊かさや浅海により大型魚が存在しないことから、稚魚たちを育む揺りかごでもあります。船橋漁業協同組合だけでも海苔は10,240,000枚、1億円、アサリは463t、1.1億円、スズキやカレイなどは3,000t、6.5億円の漁獲高(いずれも平成20年度:船橋市資料)を誇っています。千葉県は日本一の水揚げ量を誇る銚子港を要する水産県です。中でも東京湾水域は県内水産高の3分の1を産出します。この高い生産性は干潟あってこそ保たれているといえるでしょう。そして、これらの多様で豊富な魚介類を求めて野鳥が集まる生物多様性を保全する場としての役割もあるのです。
2009年11月、世界に誇る美しい海をもつ島、沖縄に私は行ってきました。目的は南西諸島最大といわれる泡瀬干潟の埋め立て事業の視察と関係者のヒアリングです。この干潟の埋め立てについては昭和の時代から計画があり、歴代の沖縄市長の悲願とされてきたものでした。背景には、市の多くの土地が米軍の基地利用のために制限を受けてきたため、海に新たな土地を求めて発展してきたことがあります。事業の目的は若者の雇用創出と地域経済の活性化にあり、埋め立て地はリゾートホテルや商業施設として利用する計画です。長年の国、県との交渉が難航する中で、隣接する港から浚せつした土砂の放棄地を探していた国との交渉を契機に計画が実行に移り、現在は1期工事として96haの水域を囲う工事が完了したところです。このような工事が進む中で、地元住民が中心となり埋め立て中止の訴訟が提起され、先日、高裁判決によって経済的合理性が疑問視されるという指摘を受け、中止・中断の機運が高まっています。政治的にも政権交代直後に前原沖縄担当大臣、国土交通大臣が視察に訪れ、公共事業の在り方を見直す重要な事例にもなっています。私はこの問題を多面的にとらえるために、推進派である自治体、反対派である住民団体、そして地元紙などから多様な意見を伺いました。
その中で、沖縄県が抱える厳しい雇用・所得の状況や、基地による土地問題を打開したいという思いは私の心に突き刺さるようなものがありましたが、一方でリゾート法などによって全国が開発ブームに沸いた昭和時代の構想をそのまま受け継いでいるような計画は、時代的な背景を欠いていると感じました。事業主体は国と県ですが、総事業費489億円のうち181億円は県の事業費負担となります。仮に事業を推進したとしても、造成地への誘致がうまくいくのか、それは地元の自治体財政にとっても大きなつけとなりかねません。6年間公務員として勤め、役所の仕組みを多少なりとも知る私としては、一度決めた事業を辞めることの困難さ(というよりも辞めるというマインドもシステムも無いに等しい)も理解できます。ですが、景気悪化に伴う空前の税収減が見込まれ、国・自治体ともに厳しい財政運営が迫られている中で、このようなものを放っておくことはできないでしょう。
そして私が最も心に残ったのは、その中で反対派の住民の方に何故干潟を守るのかということに対するこんな答えでした。
「ここにしかいない希少種の保全や、きれいな海を守りたい。この地は終戦時に多くの飢えた人々を救った命をつなぐ地でもあった。いまでもアーサ、貝、たこの宝庫で、この時期は1日いればたこが20匹は取れる。この地に感謝するとともに、干潟は沖縄のサンクチュアリだ。」
「沖縄は霊的なものを大切にする土地柄。今は目に見えないものを先取りすることも政治の大切な役割。」
私たちはいつしか、自然から恩を受けてきたという感謝報恩の精神を忘れてしまったのかもしれません。もちろん人間の幸せあってこその自然や環境であり、自然という価値が最上級であるとは言い切れません。しかし新しい土地や道路や施設をつくるという従来の公共事業から、現状あるものを保全・補修していくという時代の転換点にはあるのではないでしょうか。
先日参加した船橋三番瀬海浜公園のクリーンアップで出会ったあるリタイア世代の方は、こう言いました。
「自分は千葉県でも内陸の出身。護岸もあり海は遠い存在であった。今こうして生命が豊かな東京湾に接すると、もっといろいろな人に東京湾が‘生きている’ことを伝えたい。」
かく言う私も、先日初めて東京湾からふるさと船橋を見ました。三番瀬をこよなく愛する漁業協同組合長の漁船に乗船させていただき、三番瀬の上空をガンなどの水鳥の群れが飛び交い、アサリ漁や海苔を養殖する漁船の姿も見られました。遠く浦安や東京の高層ビル街をのぞむ中でここだけが生物の楽園であることが垣間見られます。海の男、大野船長は言います。
「生物多様性を育むのが干潟。これを守り伝えることが使命。」
父の代から高度成長の荒波に耐えて東京湾での漁業を続けてきた、海の男の自負心を感じるとともに、人と自然の関係についてあらためて考えさせられます。
私は入塾当初に読んだ松下幸之助の書物の「人間は万物の王者たれ」という一節に葛藤を覚えました。それはリーダーを志す者として、人間至上主義でありたいという思いとともに、人間と自然の生命は食物連鎖が象徴するようにお互いに利用し合っている関係であり、生命という価値では同じ仲間なのではないかという思いのせめぎ合いです。私は幼い頃、幸いにして小さな生き物たちと接する機会がありました。近所の小川に住む小魚やザリガニ、果樹園や雑木林に住むクワガタやカナブン、海辺の貝やハゼたちです。また毎年のように通った母の実家隠岐の島は、島全体が国立公園となっている自然の宝庫です。海に入れば魚やカニや貝があふれ、山に入れば貴重な鳥たちと接する。その頃の私にとって彼らは友達ともいえる存在にも思えます。ですが、他の生物と人間を同じものと考えると、昔の時代に戻れといったこと、人間はいなくなったほうが良いという極端な考え方になってしまう気がします。今回の泡瀬干潟の方々が行った自然の権利訴訟という方法は画期的な考え方ではありますが、自然に代わって訴訟をするというのは何ともしっくりきません。私たち自身は毎日、有機物を取って生命をつないでいます。それは他の生命を食すること無しにはできません。それはある意味では、生きていく上での他の生命を活用するというのは宿命あるいは業と言えるでしょう。
自然環境や景観の破壊といっても果たして「人工物にしていくこと=全てが悪」なのでしょうか。保全すべき環境や景観というものでも、そもそも人工物であることは良くあることでしょう。たとえば、雑木林や漁礁となっている砲台などです。私たちは人間であり、その前提のもとに自然に影響を与えない又は良い影響を与えながら上手に活用する。それがまた万物の霊長といわれる生き物としての使命なのではないでしょうか。人と自然を考える際には多様な思想があるようで、私は難しいことまでは勉強不足で現在はよく理解し得ません。ただ幼い頃に接した自然や生き物たちへの慈しみと原体験を大切にしながら、現在の私たちそして未来の世代のために、自然を最大限に活用し共に歩む道を一つずつ探していきたいものです。
人間を考える 松下幸之助 1975
東京湾で魚を追う 大野一敏 1986
東京湾の環境問題史 若林敬子 2006
東京湾漁師町 西潟正人 2006
海辺再生 NPO法人三番瀬環境市民センター 2008
環境思想とは何か-環境主義からエコロジズムへ 松野弘 2009
マリンシティー泡瀬 なんでもQ&A 沖縄市 2005
沖縄タイムス
Thesis
Toshiaki Tsumagari
第29期
つまがり・としあき
千葉県船橋市議/立憲民主党
Mission
地域主導による活力ある社会の実現