論考

Thesis

「縁側」から共創するナショナルアイデンティティ
―映画という装置から問い直す「隠れ移民国家」日本のゆくえ ―

第Ⅰ章 序論:歴史的転換点における「承認なき共生」の止揚

第1節 「隠れ移民国家」日本の構造的矛盾

 現代日本社会は、少子高齢化に伴う人口減少という未曾有の歴史的転換点に立たされている。2023年の出生数は75万8,000人と過去最少を更新し、生産年齢人口の急激な減少は、社会保障制度のみならず経済社会全体の持続可能性を根本から脅かしている。この峻厳な現実に対応すべく、外国人労働者の受け入れはもはや選択肢ではなく既成事実(fait accompli)として加速している。しかしながら、日本政府は一貫して「移民政策はとらない」との建前を維持し続けてきた。出入国在留管理庁が策定した「共生社会の実現に向けたロードマップ」に示される通り、外国人住民は「生活者」として現に日本社会のインフラを支える不可欠な存在となっている。しかし、彼らは法的・社会的な意味での「社会の一員」としての十全な承認を欠いたまま置かれており、国家としての本質的な統合の議論は棚上げされたままである。

 前稿『日本に生きる人とその境界~移民政策から考えるナショナルアイデンティティの行方~』(以下、前稿と呼ぶ)において筆者が指摘したように、「移民政策をとらない」とするこの政策的曖昧さが生み出しているのは、「承認なき共生(Symbiosis without Recognition)」という深刻な社会的矛盾である。その根底には、外国人労働者を、必要な時期に労働力を供給し、期限が来れば帰国する「お客様」あるいは「調整弁」としてのみ規定し、隣人としての相互交流や定住を要請しない「ウチ」と「ソト」の心理的境界による隔絶が存在する。立法・政策決定の基底にあるべき「国家としての価値観」、すなわち次世代に向けた国家的アイデンティティの欠如こそが、現在の不透明な状況を招いていると言わざるを得ない。

第2節 政策的真空とアイデンティティの危機 ― 「子どもへのまなざし」を通して

 この社会的矛盾が最も先鋭化して表出するのは、外国人労働者の「家族」という存在、とりわけ子どもたちへの処遇である。例えば、新たに改正された育成就労制度の議論において、家族帯同の権利は依然として制限的な扱いに留まっている。かつての技能実習制度下においては、一部の企業において妊娠・出産に伴う強制帰国や賃金の未払い、ハラスメントといった問題が表面化し、重大な人権侵害として国際社会からも批判を浴びた。これは、日本社会が彼らを「生活を営む人間」ではなく、「単身の労働ユニット」として扱ってきた証左に他ならない。しかし、特定技能2号への移行などを通じた定住化・家族帯同の流れを鑑みれば、家族の呼び寄せや日本での出産による「外国にルーツを持つ児童(ニューカマーの子どもたち)」の増加は、もはや回避不能な歴史的趨勢である。

 本論考では、日本の移民政策の在り方を考察する上での不可欠な要素として、これら次世代の青少年に着目する。彼らへの教育機会の保障や社会参加の在り方、すなわち国家の外国人政策に現れる「子どもへのまなざし」には、その国家が何を尊び、どのような未来を構想しているかという本質的な価値観が顕現するからである。現に教育システムの周縁に取り残され、不就学やアイデンティティの喪失に苦しむ外国ルーツ青少年の現状は、移民を受け入れる諸外国においても深刻な課題となっており、日本社会においても十分な対応がなされていないことから「政策的真空」の縮図といえる。彼らを疎外する境界線をいかにして止揚し、新たな社会の構成員として包摂していくかが、今まさに問われている。

第3節 本稿の目的と「縁側」としての映画製作

 以上の問題意識に基づき、本稿では日本が抱える構造的な政策的空白を直視し、それを是正するための実践的モデルを提言する。それは、教育現場のみならず、企業や地域社会を巻き込んだ「映画製作」の実践を、日本社会における「縁側」としての社会的装置(Social Apparatus)へと再定義する試みである。

 本来、日本家屋において私的な領域(イエ/ウチ)と公的な領域(ソト)を緩やかに接続する中間領域であった「縁側」は、固定的な帰属を求めず、異質な他者との一時的な滞在や交錯を許容する空間としての機能を有していた。本稿では、映画製作という集団的実践をこの「縁側」に準える。  
 映画製作の現場においては、参加者は国籍、人種、階層といった既成の属性を一時的に留保し、「監督」「役者」「スタッフ」といった作品完成のための「役割(ロール)」に没入する。この「役割」に基づく限定的かつ目的のある連帯は、言葉の壁や文化的差異を超え、身体的な共同作業を通じた「新しい『私たち』観」を育む契機となる。

 ここで筆者が強調したいのは、本プログラムが企図するのは、学校や企業内における閉じた交流には留まらないという点である。例えば学生はカメラを手に学校の門を出て、地域社会で働く外国人・日本人住民や、行政主体、企業等への取材を敢行する。多様化する日本社会の現実に直面し、取材や調査を通じて他者のナラティブに深く入り込むこのプロセスこそが、既存の「ウチとソト」の意識を揺さぶるメタ認知の触媒となる。また、特に外国人材と協働する企業にとっても、場所や資金の提供、社員の参加を通じてこの「縁側」に関与することは、職場における硬直的な労使関係を柔軟化させ、多文化共生を実体験する貴重な機会となる。

 本論が主張するのは、国家が画一的なアイデンティティをトップダウンで「作る(Make)」ことではない。映画製作という装置を介して、学校、企業、地域の境界を融解させ、共に汗を流す実践のプロセスにおいて、新たな関係性が自然に「現れる(Emerge)」という動的な統合プロセスである。
 本稿の目的は、こうした提言を基盤とした多文化共生における実践の考察を通じ、松下幸之助塾主の求めた国家100年の大計、すなわち真に平和で繁栄した多文化共生社会のビジョンを示すことにある。本プログラムの社会実装こそが、日本社会における移民政策の空白を埋め、国家としての確固たる価値観を再構築する一助になると確信している。

第Ⅱ章 本論:多文化共生の構造的課題と実践的アプローチの再構築

第1節 「物語なき統合」が招く経済的・社会的バッドシナリオ

 日本政府が「移民政策はとらない」という建前を維持しつつ、なし崩し的な労働力受け入れを継続している現状は、国家としての統合方針を欠いた「物語なき統合」と呼ぶべき危うい均衡の上にある。この政策的真空が放置された場合、日本社会が直面するのは単なる文化的な摩擦に留まらず、国家の持続可能性を揺るがす経済的・社会的な「バッドシナリオ」であると考える。

第一に、労働供給の枯渇による経済成長の構造的な毀損である。独立行政法人国際協力機構(JICA)等の推計(2022年発表)によれば、政府が掲げる経済成長シナリオを達成するためには、2040年時点で約674万人の外国人労働者が必要とされる。しかし、現状の受け入れ体制のままでは供給ポテンシャルが追いつかず、需給ギャップが生じると予測されている。適切な生活環境やキャリアパスを提示できず、「選ばれない国」として人材確保に失敗した場合、この労働投入量の減少は実質GDPを押し下げる直接的な要因となる[i]
 第二に、国際的な人材獲得競争における優位性の喪失である。スイスのIMD(国際経営開発研究所)が発表した「世界人材ランキング2023(World Talent Ranking)」において、日本の「外国人熟練労働者への魅力度」は調査対象64カ国中54位と、アジア諸国の中でも顕著な低迷を示している[ii]。また、INSEAD(欧州経営大学院)等が発表した「世界人材競争力指数(GTCI)2023」においても、日本は長年維持していたトップ25から脱落した[iii]。イノベーションの源泉となる多様な知の流入が滞ることは、知識集約型経済への移行を目指す日本にとって、計測不能な機会損失(Opportunity Cost)を意味する。
 第三に、教育機会の喪失が招く社会的コストの不可逆的な増大である。文部科学省の「日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査(令和5年度)」によれば、公立学校に在籍する日本語指導が必要な児童生徒数は過去最多の約6万9千人(前回の調査から約1万人増)に達している[iv]。しかしその陰で、就学状況が確認できない、あるいは不就学の状態にある外国人の子供が依然として相当数存在するという構造的欠陥がある。十分な言語教育と社会化の機会を奪われた「第二世代」が、低学歴・低賃金の連鎖(アンダークラス化)に陥った場合、将来的な治安悪化や社会保障費の増大といった負の外部性を日本社会全体が負うこととなる。これは「人権」の問題であると同時に、極めて合理的な「国家経営」の失敗に他ならない。

第2節 国際比較にみる文化支援の可能性と限界 ― 韓国と欧米の事例から

 こうした危機に対し、諸外国はいかなる統合政策を展開しているのか。日本に先行して少子高齢化と人口減少に直面し、移民庁の新設へと舵を切った韓国の事例、および多文化主義を先行して掲げてきた欧米諸国の事例は、日本が採るべき道の選択肢を示唆している。

1. 韓国:行政主導による「パッケージ化」された文化支援の限界
 韓国では、2000年代以降の結婚移民の急増を背景に、ソウル市の特別条例に基づき「多文化家族支援センター(Danuri)」を設置し、韓国語教育や家族相談といった包括的な生活支援を展開している。行政主導による迅速なインフラ整備は評価に値する一方で、人員も極めて少なく、その支援内容はK-POPダンス教室や料理作りといった「パッケージ化された文化体験」に偏重する傾向があり、外国に背景をもつ児童と韓国人児童との交流機会もない。
 こうしたプログラムは、表向きは多文化共生を謳っているが、実態としては移住者がホスト社会(韓国)へ「同化」するためのソフトな圧力として機能している側面が否めない。特に、親の事情で来韓し、自らの文化的基盤を喪失した青少年(中途入国者)にとって、単なる娯楽的な文化体験の提供は、彼らが求めている自尊心の回復や、社会的孤立への対応、自己のアイデンティティを再定義する場としては機能不全を起こす可能性がある。

2. 欧米諸国:「権利」および「社会資産」としての文化政策  
 対照的に、欧米諸国の一部では、文化を「福祉」や「同化の手段」としてではなく、法的に保障された「権利」、あるいは社会を豊かにする「創造的資産(アセット)」として位置づける政策が見られる。

・カナダ:多文化主義法による「物語」の法的保障
カナダは1988年に世界で初めて「多文化主義法(Canadian Multiculturalism Act)」を制定し、出身文化の保持を国民の権利として法的に明文化した。同法に基づき、カナダ政府(Canadian Heritage)は各コミュニティの言語・文化的表現を公的に支援しており、公共放送などを通じて多様な個人の物語が「カナダのアイデンティティ」の一部として日常的に流通する土壌を形成している[v]。これは、文化を私的な領域に閉じ込めず、公的なナショナルアイデンティティの構成要素として認める国家の意思表示である。

・フランス:社会参加ツールとしての映像製作 “Passeurs d’images”
フランスでは、国立映画映像センター(CNC)や文化省が主導する国家プロジェクト「イメージのパス(Passeurs d’images)」が展開されている。これは、経済的・社会的に困難な地域(優先教育地区等)の若者を対象に、プロの映画作家とともに映像製作を行う機会を提供するものである[vi]。単なる職業訓練ではなく、製作プロセスを通じて他者との連帯や自己表現の権利を回復させる「市民的統合(Civic Integration)」の実践として位置づけられており、表現活動が社会参加の強力な回路となり得ることを実証している。

・オーストラリア:プロフェッショナルとしての多文化芸術
オーストラリアのヴィクトリア州における「多文化芸術ヴィクトリア(Multicultural Arts Victoria: MAV)」の取り組みは、移民・難民背景を持つ表現者を「支援されるべき弱者」ではなく、「プロフェッショナルな芸術家」として市場に接続させる点に特徴がある[vii]。文化的多様性を「社会のイノベーションの源泉」と捉え、企業や行政がその才能に投資するエコシステムを構築している点は、日本が目指すべき「共創」のモデルとなり得る。

第3節 社会実装モデル:法人、企業、クリエイターによる「共創」のエコシステム

 前節までの比較分析から導き出されるのは、真正な統合のためには、移住者を「支援される客体」として固定化せず、彼らを「表現する主体」として社会の側に再配置する仕組みが必要であるという結論である。本稿では、これを日本社会に実装するための具体的モデルとして、法人(一般社団法人等)を通じて学校教育や企業、地域社会に提供するエコシステムを提言する。

1. 「責任の空白地帯」を埋める媒介組織
 現在、日本においては、事実上の移民受け入れが企業主導でなし崩し的に行われているにもかかわらず、彼らの生活支援や社会統合(教育・宗教・居住)のコストについては、国家としての統一的な対応は明記されておらず、各自治体や民間の自助努力に任されている現状がある。外国籍人材の公務員登用などの例に加え、生活トラブルやヘイトスピーチへの対応を行政と受け入れ企業が互いに「相手の責任」であるとする「責任の空白地帯」が生じている。本モデルにおける法人は、この空白地帯に介入し、学校、企業、地域住民、そして専門的なクリエイターを動的に結合させるハブとして機能する。

 本モデルにおいて、法人は希望する「学校」および「企業・地域社会」の双方に対し、映画製作プログラムを提供するハブとして機能する。本プログラムにおける「参加者」の定義は小学生から大学生までの青少年、企業や社会人、あるいは地域住民など、依頼主のニーズや地域課題に合わせてカスタマイズされる。また、ここで組織される「制作チーム」とは、単なるアマチュアの集団ではない。それは、多様な背景を持つ「参加者」と、法人から派遣されるプロフェッショナルのクリエイター(監督、脚本化、役者、カメラマン、音響、美術スタッフ、ファシリテーター等)によって構成される混成チームである。プロフェッショナルが技術的な指導やクオリティ管理、ワークショップを担い、参加者は専門家のアドバイスの下、自身の希望する「役割」(照明や録音、演者等)を遂行する。この「プロとの共創」という構造こそが、活動を単なるレクリエーションではなく、社会に発信しうる強度を持った「作品制作」へと昇華させる素地となる。

2. 2つの展開パターンによる社会実装
 この共通メソッドを用い、法人は以下の2つのパターンでプログラムを展開する。

・パターンA:青少年・教育機関向けプログラム
 主体となるのは、本プログラムの実施を希望する学校に所属する小学生から大学生までの青少年である。彼らは教室という閉鎖空間を出て、地域で働く外国人や企業、高齢者、行政機関等への取材を敢行する。教科書的な多文化理解ではなく、生身の人間との対話を通じて「日本社会の縮図」に触れることは、次世代のアイデンティティ形成における強烈なメタ認知の契機となる。

・パターンB:企業・地域社会向けプログラム
 主体となるのは、主に外国人材を受け入れる企業や多様性を推進する企業、そして地域住民である。本モデルの最大の特徴は、企業を単なる資金提供者(スポンサー)としてではなく、「場所」や「人」を提供する当事者として参画させる点にある。具体的には、法人が組成する映画製作プロジェクトに対し、企業は自社の工場やオフィスをロケ地として提供し、あるいは社員をスタッフやキャストとして派遣する。企業にとって、この参画はCSR(企業の社会的責任)に留まらない実利をもたらす。職場における「日本人/外国人管理者」と「日本人/外国人労働者」という硬直的な関係性が、映画製作の現場においては「照明係」や「美術スタッフ」といった水平的な役割(ロール)へと書き換えられるからである。本プロジェクトを通じて、社員が多様な背景を備えた制作チームでの共創を実体験することは、座学の研修では得られない高度な多文化対応能力(DE&I)の獲得に直結し、社内のコミュニケーションを向上させる組織開発(OD)として機能する。
 地域住民においても、自治体等の行政機関へのインタビューや外国人住民との協働を通じて、「日本人住民」と「外国人住民」の間にある見えない境界線を越えた交流を促す契機とする。

3.インタビューを通じた「相手の靴を履く」体験
 本プログラムにおいて、依頼主/参加者がフィクション(劇映画)制作を選択する場合であっても、ドキュメンタリーを制作する場合であっても、その脚本はいきなり書かれるものではない。制作の第一フェーズには、必ず「相互インタビュー(360度取材)」という工程が必須条件として組み込まれる。ここでは、参加者の中から希望する者(可能な限り多くのメンバーが望ましい)が「取材者」となり、国籍や社会的肩書に関係なく、広範なステークホルダーへのインタビューを行う。取材対象は、プログラムに参加する多様な国籍・職位の社員(管理職を含む)に留まらず、地域の行政担当者、外国人住民やその家族、あるいは近隣の地域住民にまで及ぶ。取材者は、この徹底的なリサーチの中で互いの「生活史」や「背景」を聞き合うことで得られた「生の声」や「不都合な真実」を参加者全員で共有するプロセスを経る。このような交流を通じて、インタビューする側・される側の境界線を意図的に曖昧化し、双方が「取材者」であると同時に「当事者」となることを目指す。その後、インタビュイーの匿名性や扱いたいテーマについて参加者全員で意見を出し合い、作品をフィクション/ドキュメンタリーのいずれの手法で表現することが望ましいかを決定する。

 いずれの場合でも、プロフェッショナルのサポートを受けながらワークショップを行い、参加者の声を元に、プロの脚本家が全体の構成やシナリオを構築する。本プログラムがドキュメンタリーだけでなくフィクション(劇映画)の手法を重視する理由は、参加者が「現実の自分」という重い属性から一時的に離脱できる点にある。例えば、技能実習生が直面する孤独やハラスメントといった「不都合な真実」を扱う際、ドキュメンタリーでは当事者が特定されるリスクや心理的負担が障壁となる。しかし、フィクションという「役(キャラクター)」の被膜を通すことで、彼らは安心して自己の内面を吐露することが可能となる。同時に、日本人学生や社員が実習生への取材を通じて、相手の立場を疑似体験(他者の靴を履く(Empathy)経験)することは、マニュアル化された理解を超えた、身体的な他者理解と情動の共有を強制的に発生させる。
 このように、媒介組織としての法人が、企業のリソースとクリエイターの技術、そして市民の参加を有機的に結合させ、日本各地に「映画製作」という名の社会的な「縁側」―すなわち、属性を脱ぎ捨てて交流できる居場所―を創出する。ドキュメンタリー/フィクションいずれの作品制作においても、この仕組みを社会のOS(基盤)として実装することこそが、分断された境界線を縫合し、新たなナショナルアイデンティティを草の根から「現出(Emerge)」させるための、最も実効性の高いアプローチであると考える。

第Ⅲ章 結論:実践のナラティブと「現れ」としてのアイデンティティ

第1節 越境の実践 ― 『わたしのにんしん』と『まだみぬあなたへ』における参与観察

 本節では、筆者が在塾中に企画・製作を主導した2つの短編映画プロジェクトを、多文化共生における「境界線(Boundary)」の所在とその変容を観測するための社会実験の場として分析する。

1. 『わたしのにんしん』:摩擦が可視化する境界と、役割による連帯
 短編映画『わたしのにんしん』は、筆者が技能実習生による孤立出産と死体遺棄事件を題材とし制作したフィクションである。背景として、法務省のデータによれば、技能実習生による刑法犯検挙件数は増加傾向にあり、その中でも孤立出産や遺棄に至るケースは、制度的な不備(妊娠時の解雇リスクや相談窓口の欠如)と密接に関連していることが指摘されている[viii]。こうした「不都合な真実」は、日本社会において不可視化されやすい領域である。
 本製作過程において特筆すべきは、企画段階で生じた日本社会側からの「拒絶反応」である。撮影のためのロケ地交渉において、テーマが「技能実習生の妊娠・遺棄」であることを伝えた途端、複数の施設から貸出を拒否される事態に直面した。また、一部の日本人スタッフからは「重すぎるテーマに関わりたくない」との理由で離脱の申し出があった。  社会学的な見地からすれば、この「摩擦」こそが、日本社会における「ウチ」の純粋性を守ろうとする排外的な境界維持機能(Boundary Maintenance)が作動した証拠であると考えられる。
 しかし、逆説的な現象が制作チーム内部で観測された。外部からの拒絶に晒されたことで、現場に残ったベトナム人実習生(演者)と日本人スタッフの間には、単なる「支援者・被支援者」のイメージや、「日本人・外国人」の関係を超えた、強固な連帯意識が醸成されたのである。撮影現場において、彼らは「日本人」「ベトナム人」という属性ではなく、「監督」「役者」「スタッフ」などという「役割(Role)」によって相互作用した。過酷なスケジュールの下、一つのカットを完成させるために汗を流す身体的な共同作業は、言語の壁を無効化し、撮影が終わるころには深い絆が現出した。これは、外部社会が設けた境界線が、役割遂行という目的の前で一時的に融解した事例として評価できる。

2. 『まだみぬあなたへ』:政治的断絶を越える非言語的共感
 続いて制作した短編映画『まだみぬあなたへ』は、悪化の一途を辿る日ロ関係を背景に最もロシアとの国境に近い北海道根室市で制作された。2022年のウクライナ侵攻以降、日本政府はロシアへの制裁を強化し、ロシア側も日本を「非友好的な国」に指定するなど、外交的・政治的な断絶は決定的となっている[ix]
 しかし、本作品の制作プロセスにおいて、ロシア語の翻訳および収録(音声出演)を担当した在日ロシア人女性との協働作業では、国家間の対立とは無縁の「ミクロな越境」が確認された。翻訳のニュアンスを調整する対話の中で、互いの母語ではない言語(日本語や英語)を介しながらも、声のトーン、表情、そして沈黙の共有といった「非言語的コミュニケーション(Non-verbal Communication)」が、意味の空白を埋める機能を果たした。政治的には困難な状況下にある国民同士であっても、一つの芸術作品を創るという文脈においては、個人の尊厳に基づいた深い共感の回路が開かれることが実証された。

第2節 「現れ(Emerge)」の論理とナショナルアイデンティティ

 以上の実践から導き出される理論的含意は、多文化共生およびナショナルアイデンティティの形成メカニズムに関するパラダイムシフトである。
 従来、ナショナルアイデンティティは、国家が教育やメディアを通じてトップダウンで「構築する(Make)」もの、あるいは歴史的・文化的属性によって「所与のもの(Given)」として捉えられてきた。しかし、本稿の実践が示唆するのは、アイデンティティとは、具体的な活動と関係性の中でボトムアップに「現れてしまう(Emerge)」動的な現象であるという視点である。
 映画製作という社会的に構築された「縁側」―すなわち、社会的属性を留保し、役割によって参入できるアジール―において、参加者は他者の靴を履く経験を反復する。そこでは、「日本人であること」や「外国人であること」といったアイデンティティ・ポリティクスの対立軸は後景に退き、「共に物語を紡ぐ者」という新しい集合的アイデンティティ(Collective Identity)が前景化する。この「現れ」は、制度設計や啓発活動によって人工的に作られる調和ではない。摩擦を恐れず、不都合な真実に向き合い、他者と協働するという負荷のかかるプロセスの果てに、意図せずして立ち上がる不可逆的な連帯である。この「創発的なアイデンティティ(Emergent Identity)」こそが、流動化する現代社会において、排外主義に陥ることなく統合を維持するための唯一の基盤となり得る。

第3節 結びに代えて ― 共に物語を紡ぎ続けるミッション

 日本社会が「承認なき共生」という構造的矛盾を打破し、持続可能な多文化共生社会へと移行するためには、本稿で提言した「映画製作による社会実装モデル」を、社会のOS(基盤)として機能させ続ける必要がある。
 教育現場、企業、地域社会が、映画製作という共通の「役割」を介して接続されるとき、そこには無数の「縁側」が創出される。学生は教室を出て社会の現実に触れ、企業人は管理の論理を離れて他者と協働し、地域住民は多様な隣人の物語を知る。この実践の集積が、境界線を分断の壁から交流の居場所へと転換させる。
 筆者は、本稿で論じた「多文化共生支援法人」の設立と運営を通じ、この仕組みを日本社会に実装し続けることを自らのミッションとして宣言する。それは、松下幸之助塾主が求めた「国家100年の大計」―物質的な繁栄のみならず、精神的な調和と平和を実現する国家ビジョン―を、現代の多文化社会において具現化する挑戦に他ならない。映画という装置を用いて、日本という国家の輪郭を「排他」から「包摂」へと静かに、しかし確実に書き換えていく。これらの活動を通じて日本に生きる「外国人住民」を顔の見える「隣人」へと変容させ、その物語を紡ぎ続ける意志の共有こそが、これからの日本における新たなナショナルアイデンティティ構築へとつながると信じている。

引用文献

[i] 2030/40年の外国人との共生社会の実現に向けた調査研究 – JICA

[ii] IMD World Talent Ranking 2023 – InvestChile

[ⅲ] World’s most talent competitive countries, ranked for 2023 – The World Economic Forum

[ⅳ] 「日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査(令和5年度)」結果、発表

[ⅴ] About the Canadian Multiculturalism Act – Canada.ca

[vi] Passeurs d’images – Ministère de la Culture

[vii] Submission to the National Cultural Policy – August 2022 – Office for the Arts

[viii] 法務省「技能実習生の失踪・犯罪等に関する現状について」(令和4年版 犯罪白書等を参照). 技能実習生の刑法犯検挙人員は、在留者数の増加に伴い高水準で推移しており、背景にある社会課題が指摘されている。

[ix] 外務省「ウクライナ情勢に関する対応(対露制裁措置等)」(令和4年〜現在). 日本政府による対露制裁およびロシア政府による対日対抗措置(非友好国指定)の経緯に基づく。

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清水紀沙の論考

Thesis

Kisa Shimizu

清水紀沙

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