Thesis
社会のグローバル化に伴い、人・モノ・カネそして情報が常に越境し続ける世界において、ナショナルアイデンティティはどのような意味を持つのだろうか。現在、日本における外国人人口は322万人であり、2050年には人口の10%に達するとの試算がある[i]。少子高齢化に伴う労働力不足に対応するため、外国人労働者の受け入れを実質的に継続してきた日本社会において、今何が問題とされており、今後どのような課題が顕在化するのだろうか。
現在、少子高齢化の進む日本において、移民受け入れの可否が実感をもって議論されている。一方で、政府は移民政策の存在を公式に認めていないにも関わらず、特定技能分野の枠を拡大し、2024年度から5年間の受け入れ人数を82万人とすることを決定した[ii]。本決定は、人手の足りない産業分野における労働力不足の解消を目的としているが、短期的な外国人労働者の受け入れ数において日本は既に世界4位であり[iii]、日本は「隠れ移民国家」になりつつある。
本来であれば日本における移民政策の是非についての本質的な議論が先にくるべきだろうが、先述の通り日本はもはや移民受け入れ社会になりつつある。外国人住民との生活トラブルなど喫緊の課題への対応として、移民が日本社会に溶け込むことを支援するような施策が自治体などの現場レベルでは個別に行われているが、日本政府は、(事実上移民政策を採っていないとして)国策としてこれを支援せず、移民政策に関わる体系的な方針を示していない。
私の目指す理想の社会像は、日本に住む「誰もが自尊心をもち、生き生きと幸福を追求できる社会」である。 私がこの志をもつに至った原体験として、多様な文化や民族が共存し、相互に尊重し合いながら、個々の文化的なアイデンティティを保持しつつ社会全体の一部として調和を図る多文化主義を採用するカナダと、移民受け入れにより経済発展を遂げたシンガポールでの在住経験がある。両国での体験が、未熟ながらも私の中での異文化コミュニケーションや多文化共生の在り方に一つの視座をもたらした。
私は日本に暮らす誰もが(それが日本人であれ他国からきたどのようなバックグラウンドをもつ人であれ)、自らのアイデンティティ(言語、性自認、ルーツ、文化、生活様式など多岐にわたる)を表明する意思を妨害されず、多様な「個」のままでいられる社会を実現したい。しかし、ここで問題となるのは、いわゆる「多様性包摂」という概念の孕む矛盾である。個々の「多様性」がある国において際限なく尊重された結果、互いに競合したり、敵対したり、国家からの離脱を宣言するアイデンティティが表明された場合(あるいは複数の集団的アイデンティティがこのように表明した場合)、かえって社会の分断を煽り、混乱を招くことにもなりかねないのではないかという懸念である。
つまり、差別や闘争なき平和な状態と、個々が「多様な個のままでいられる」状態を両立する社会は、国家としての統合機能から完全に自由であっては実現し得ない。なぜなら、特にアイデンティティポリティクスの陥りがちな問題点にみられるように、特定の集団的アイデンティティが政治的に強調されるとき、その陰には集団間の対立やマイノリティへの差別、社会的分断の助長といった排除の原理が隠れており、最悪の場合、集団間の争いが虐殺や抗争へと発展することもあるからだ。
政治学者フランシス・フクヤマによると、人間の自分自身の価値や尊厳の承認を求める普遍的な欲求こそが、歴史を自由民主主義体制へと向かわせ、最も完全な政治体制としてこれを支持する主な理由であるとされる[iv]。人間の自尊心とも密接に関わる多様なアイデンティティを持つ人々が、民主主義国家において平和的かつ対等に共存し、法の下に自由な活動を行う為には、ある種の国家的な統合によるアイデンティティ表明への制限が不可欠であり、かつこの統合が国民的な共通観念(ナショナルアイデンティティ)として、他者との平和共存への欲求と共に一定程度の重要性と共感をもって国民に受け入れられなければならない。
スイス人作家マックス・フリッシュはスイスにおける外国労働者問題について「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった(“Wir riefen Arbeitskräfte und es kamen Menschen.”)」と語った。この言葉が示唆するように、移民として一時的であれ長期的であれ日本に滞在し、社会生活を送る「外国人労働者」はこれからの日本を共に生きていく新たな隣人なのである。
多様化する住民・国民を内包する国家として日本社会が変容していく中では、個々の多様性の表明とそれを制限する国家的な統合がどのようになされ、どのような思想的裏付けによって制限ラインをそこに引くのか(その国家にとって許容できる「表明」の範囲を決定する)、という本質的な問いに答える必要がある。例えば、移民を受け入れる上では、外国人にある程度日本のマナーや、文化を理解してもらう必要が生じると共に、日本人も新たな日本社会の形に適応し、国民としてのアイデンティティや、考え方、コミュニケーションの在り方などを変化させていく必要があるだろう。
この国民と移民双方の歩み寄り(国家的な統合)をどのように(あるいはどの程度)実現し、移民と国民の間のどこに歩み寄りのラインを引くかで、移民受け入れ後の日本社会が形づくられていくだろう。例えば、移民と国民の間に横たわるこの想像上のラインが日本人側に近く引かれれば、日本人にとっては住みよいが、移民にとっては比較的住みにくい国になるだろうし(行政支援が不充実、移民法制の不備等)、移民側に近く引かれれば(日本の公用語に英語を加える、外国人労働者への優遇措置等)、多くの日本人にとって新たな隣人との共存は大きなストレスとコストのかかる社会変容になるだろう。
ここで重要なのは、日本社会が多様性を包摂しようとするうえで、日本という国のアイデンティティのコアにある諸要素(社会的価値観、慣習、文化、歴史観、国家観、日本人観等)について、どのような部分の変化は許容でき、どのような部分は許容できないのか、本音を自らに問うことである。移民と国民双方の歩み寄りのラインをどこに引きたいのか、言い換えると日本社会にとってどのような多様性の表明、社会の変容度合であれば許容できるのか、ということである。もちろん、意図したところで必ずしもその通りになるわけではないかもしれないが、少なくとも日本人がその条件を明らかにしていく作業を通して、これまで日本人が何を大切にしてきたのか、歴史や文化から学びつつ、多様化していく日本社会における自国のナショナルアイデンティティを再構築していく必要がある。
このように、移民受け入れ国として日本がどのような国家像を構築するのかという国民的議論なくして移民政策を進めることは、指針を持たずなし崩し的に社会構造を大きく変容させていくことであり、諸外国の移民政策の結果とその不可逆性を鑑みれば、国策として「無方針」という方針を採用することの危険性は火を見るより明らかであろう。遅ればせながらも、これらの移民をめぐる諸問題に対し早急に日本なりの答えを出さなければならない。
これらの観点から、国民国家である日本において移民政策の導入が如何なる意味をもつのかを追求する中で、自治体レベルの多文化共生施策から、労働政策、言語教育政策、国籍付与政策など移民政策全体を貫く方針として、またその思想的基盤としてのナショナルアイデンティティの行方に一つのビジョンを見出すことが、私の在塾中の主な研修テーマである。
本論考では、字数の制限上、移民政策の是非を問う国民的議論の必要性と、日本のナショナルアイデンティティを再定義することの重要性について問題を提起するに留め、日本のナショナルアイデンティティが何であるのか、その内容と個別の移民政策についての考察は次稿に譲る。
以上の問題提起を行う上で、まず第Ⅱ章では日本の移民政策のおかれた現状について、国内の外国人労働者とナショナリズム、社会的統合をめぐる状況について概観し、移民政策をとりまく諸問題を明らかにする。続く第Ⅲ章では、国民の条件と関わりの深いショナルアイデンティティや国籍付与条件がどのように変遷してきたのかをまとめ、これからの日本社会におけるナショナルアイデンティティの再構築の必然性について論じる。また、グローバル化に伴う個人のアイデンティティの多様化と国家の関係についても「愛国心」を切り口に考察する。
1.日本の「外国人労働者」をめぐる現状
少子高齢化による労働力不足を解消するために、日本における外国人労働者の受け入れについての議論が白熱している。いわゆる「高度人材」としてイメージされるような、専門職に就く外国人は「フロントドア」からの移民として就労している。2012年に導入され、一定の条件を満たす外国人労働者を優遇する高度人材ポイント制度では、認定要件や優遇措置の見直しを経て2018年には1万5千人の認定者を輩出している。
これに対し、2018年の外国人労働者総数は146万人[v]、2023年には200万人を突破し過去最高数となっている[vi]。日本政府は一貫して「移民政策」はとらないという立場を表明[vii]しているが、これらの大多数を占める実質的な外国人単純労働者の受け入れはいわゆる「バックドア」(不法入国や資格外の不法就労)および「サイドドア」(他の目的で作られた制度を利用しての就労)から行われてきた。
このような外国人労働者流入の背景として、社会学者の永吉希久子によると、日本の専門職移民は二つの要因によって企業に主導されてきた[ix]。第一の要因として、日本の専門職移民の受け入れに際し「労働市場テストや受け入れ上限の設定を行っていない[ⅹ]」為、「政府が受け入れ数や労働市場の状況に合わせたコントロールを行うというよりも、企業の必要性が重視されている」[xi]。第二の要因として、「日本ではポイント制度があくまでも企業がすでに採用を決めた移民に対して適用されている[xii]」ことが挙げられる。つまり、専門職の外国人に関しては、企業の裁量によってどのような人材をどの程度受け入れるかが決められており、政府は在留資格の付与を除いては企業の採用を追認する形で人材が獲得されている。
産業別には、特に漁業、農業等の一次産業や、介護職を含むサービス業、製造業等で人材依存が進んでおり[xiii]、産業構造を大きく転換させ、デジタル化を更に推進するなどの対策は急務である。
このように、本来国家的な政策として位置づけられるべき移民政策が国内の労働力不足にあえぐ企業主導で行われており、政府が実質的にこれを追認している現状は看過できない。また、今後国内の労働者も外国人労働者との厳しい競争に晒されることが想定される中で、ドバイやシンガポールにみられるような自国民優遇措置をとっていくのか、(シビアな話ではあるが)受け入れる外国人労働者を「選定」するのか、そうであればどのような条件を設定し、変更していくのか、移民送り出し国が変遷していく中での人材獲得に何が必要なのかなど、課題は山積している。2019年に施行された「特定技能」在留資格の導入は、大きな政策転換として新たな移民受け入れ国としての日本を意識させたが、国民への説明は十分とは言えず、いまだ多くの国民がメディアやインターネットで目にする情報をもとに、感情的な印象論で「移民」問題を捉えているのではなかろうか。そもそも国内の課題として非正規雇用や男女の賃金格差等をめぐる日本の雇用・労働環境にも問題があり、これらが混同され論じられる中で国内の問題が棚上げにされ、「外国人労働者の」問題として語られることの危険性にも留意する必要がある。
2.国内の「外国人」に対するまなざし
このような現状に対し、大多数の日本人は外国人労働者の受け入れを好意的にみているのだろうか。出入国在留管理庁による『外国人との共生に関する意識調査』では、「共生社会実現のために外国人にしてほしいこと」、「外国人労働者に求めるもの」の両方で、「日本の習慣・生活ルールを守る」、「日本語能力」(「日本文化に対する理解」が僅差)が上位にきている[xxi]。一方で、第6回世界価値観調査において、約7割の日本人は「仕事が少ない時は移民よりも自国民を優先すべき」と回答している[xxii]。また、「外国人が増加することについての考え」では外国人が増加しても日本人の働き先や仕事が「減らず」、少子化の部分的な緩和にも「貢献せず(すなわち、外国人労働者の出産や、家族帯同を想定していない)」、日本の文化も「変わらない」と考えている人の割合が、他の項目と比較しても高かった[xxiii]。
これらの結果から、日本人の傾向として外国人労働者を日本社会に影響を及ぼしにくく、雇用が減少すれば即刻本国に帰っていただけるような(行政コストを考慮すると、そのようなことが現実的ではないと分かる)、テンポラリーに滞在する「お客様」とみなしていると推測できる。
次に、移民問題を考えるうえで特に結びつきの強いキーワードとなる「排外主義」、「純化主義」、「愛国主義」に焦点を当て、国民の外国人労働者に対する視点を考えていく。外国人をめぐる日本のナショナリズムの現状について研究する田辺俊介によると、「高齢層や外国・外国人との接触が少なく、生活満足度が低い層が排外主義を抱く[xxiv]」傾向にある一方で「海外旅行の経験があり、経営・管理職や生活満足度が高い層で愛国主義が強い傾向が見られた[xxv]という。
また、濱田国佑は、現状として、外国人労働者の受け入れに関して国内におおよそ三つの立場が存在していると整理している。一つ目は、「経営者あるいはこれに比較的近い層であり、外国人の増加によるメリットを強く感じている。(中略)彼らは既に経済団体などを通じて、積極的に外国人労働力の受け入れの増加を働きかけている[xxvi]」。二つ目は、「ブルーカラー層、あるいは製造業がさかんな地域に居住する人々であり、外国人の増加によるメリットよりもむしろ仕事が奪われるなどの悪影響を懸念している[xxvii]」。三つ目は、「純化主義的なナショナリズムを強く持つ人々であり、日本および日本人の純粋性が失われるという観点から、日本において外国人が増えることを好まない[xxviii]」という立場である。
日本では、第二次世界大戦における国家的な責任から、社会におけるナショナリズムに対する警戒は非常に強いものがあると考えられる。しかし、国民国家を基本単位とする世界において、国民同士をつなぐ作用を果たすナショナリズムの力なくしては、社会における基本的な連帯、相互扶助といった価値観は存在しえないだろう。
国内の外国人労働者に対するまなざしは様々であるが、彼らはこちらの都合で対応を自由に変化させられるお客様ではなく、これからの日本を共に生きる新たな隣人である。また、人口減少の進む我が国において外国人労働者の少なくとも一部は国籍を取得してもらうことが望ましく、その際にはより一層多様化していく民族構成とどう向き合い、社会をどのように統合していくかという議論は必須になるだろう。国籍を取得させない場合でも、在留外国人と国民双方が良い関係を構築することは社会の安定の為に不可欠である。
ナショナリズムというと排外主義として捉える人もいるが、これからの日本社会にとって最適な物語を紡ぐことができなければ、移民と国民の関係性構築のみならず、同じ日本人同士であっても社会的な共感を育んでいくことは困難を極めるだろう。新たな隣人と共に、誰もが住みよい日本をつくるため、これからの日本社会をバインドする新たなナショナルアイデンティティを構築する必要がある。
3.多様化する個人と国家―社会的統合に関する諸課題
アリストテレスは「国家は、人びとが言うような意味で自然本来的に一つではないし、国家における最大の善として主張されたことは国家を無に帰する。[xxxiii]」として、プラトンの『国家』における「国家が一つになること」に対する批判を行った[xxxiv]。確かに、個人の価値観がますます多様化し、グローバル化に向かう社会の進行と、そもそも国家が国民を一つに統合しようとする試みは、相反するものである。個人の価値観の多様化は時代の趨勢であり、それを無理に画一化することは望ましくないばかりか不可能であるが、他方で国民の間で、また同じ社会に暮らす一員としての連帯感は必要であり、その為には一定の統合も必要となる。現代社会では、同じ国民の間においてさえ競争社会における格差の拡大や「自己責任論」の横行により国民の平等意識に基づく連帯感は失われつつあり、相互扶助の前提が崩壊しつつある。つながりの希薄化や孤独の問題もメディアで多く取り上げられているが、困ったときに頼れる人のいない人ほど、孤独感が強いという調査結果もある[xxxv]。日本人同士のつながりのみならず、多様な文化、宗教、生活様式をもつ人々との関係性を構築し、交流できるようなつながり方をいかにデザインし、社会的にバックアップするためにも、社会的統合は移民政策をめぐる課題の中でも最も重要な論点の一つであるといえるだろう。
このような社会の潮流の中での外国人労働者の社会的統合をめぐる現状と課題を整理し、移民の社会的統合の必要性について考えていく。
まず、多文化主義を採らない日本における「共生」の概念として、総務省は「多文化共生」の定義を「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと[xxxvi]」としている。この定義の具体性と政府の統括的指針については今後のアップデートが必要であり、現段階ではあくまで抽象的な理念として受け入れざるを得ないが、そのうえで、多文化共生を実現する重要なファクターとなる「市民的統合」とは、『移民が「市民」のようなあるいは市民的スキルを身に着けることを通じて、統合が生じる[xxxvii]』という考えを指す。広義には、移民がその国の言語や歴史、文化的慣習、社会的価値などについて学び、身に着けることで社会に適応することであり、諸外国においては「統合プログラム」として語学プログラムや市民教育、就労支援などが行われている。
元内閣府の行政官として勤務した経験を持つ研究者の是川夕によると、日本における社会的統合の現状として、「個々の移民の移住過程において緩やかな社会的統合が見られる[xxxviii]」という。これが意味することは、日本は表向き移民政策を採らず、日本人と日本に住む外国人の「差」(外国人のもつ言語的ハンデなど)を埋める体系的な移民統合プログラムを持たないにもかかわらず、日本に住む外国人は個々の移住経験を通じて緩やかに日本社会に適応する傾向を持つということである。
より具体的には、外国人男性の職業的地位達成は特に高学歴中国人男性にみられるように、専門職以外の管理職や正規事務職においても進んでおり[xxxix]、資格の国際的な相互承認機能が高まることや、転職が容易になるなど労働市場のグローバル化が進むにつれて今後も続くと考えられている。また、外国人女性は主にケアワーク(家庭内や介護職など)を担うことが多いものの、高学歴層においては育児と仕事の両立支援が得られる場合、むしろ日本的なジェンダー構造から「排除」され、かえって彼らの職業的地位達成を進める可能性も示唆されている[xl]。一方で、現在進んでいるような、ケアワーク産業や育成就労制度による主に一次産業への外国人労働者の流入と階層の固定化が進めば、外国人労働者を権利付与や再生産の対象外でありながら都合の良い労働力としてみなす社会のバイアスを助長しかねず、互恵的な結果を生むとは考え難い。
次に、移民第二世代の教育的達成について、最も大きい障壁となるのは日本語力の向上であり、移民研究の主流である「親世代の階層的地位の格差が子ども世代でより拡大するという『分節化した同化理論[xli]』が日本の経験には妥当しない[xlii]」ことは社会的統合を考える上で重要な示唆を与えるものであろう。このことは、日本においては移民1世の抱える格差は子供が流暢な日本語を話す場合においては縮小することを示しており、日本語習得による教育的達成がなされれば他国と比べて移民2世以降が社会に溶け込むハードルが比較的低いともいえよう。しかし、特定の国籍に焦点化した焦点を当てた研究が多いことや、学力調査には国籍のデータが含まれていないことなどから、国勢調査をもとにした是川のデータ解析では大まかな傾向しか把握できないとの指摘もあり[xliii]、移民第二世代の教育的達成の全体像を捉えるには至っていない。
他にも、生活マナーやコミュニケーションの差異や、外国人の集住をどう捉えるのか、地域社会とのつながりの構築など、私的領域における課題が多く存在する。日本社会と移民の生活に接点が少ないことは、「顔の見えない隣人」同士の関係構築に支障をきたす恐れがあるが、外国人住民の自治会への参加や公務員職への登用の是非を考えていくうえでは、参政権付与や社会保障の受給資格などの移民への公民権付与も重要な論点になる。
日本社会は、長期的なビジョンに基づく政策としてではないにせよ、実質的には多くの移民を受け入れている。日本政府が表向きには採用していない「移民政策」が長期的にどのような影響を及ぼすのかを現時点で正確に把握することは困難だ。しかし、彼らを国民として受け入れるのか否かに関わらず、彼らが社会に溶け込み、国民と在留外国人の双方が良い関係を築けるよう支援することは不可欠である。日本の労働力不足は、始めから外国人労働者という特効薬(もはや常備薬になりつつある)によって場当たり的に対処できるものではない。国内の経済格差の拡大や、少子高齢化に伴う産業構造の変化、孤独やつながりの希薄化などの国家課題を「外国人労働者をめぐる問題」に転嫁せず、これからの日本社会と移民をめぐる様々な課題は「日本に生きる」すべての人の問題であるとの認識を広め、外国人も交えて日本社会全体で議論する必要がある。
1.日本のナショナルアイデンティティの変遷
例えば、普段の生活の中であまり外国人と接する機会がないなど、比較的同質性の高いコミュニティに身を置く者にとって、「国民の条件」を意識することはあまりないように思われる。しかし、移民を受け入れれば、定住外国人の中でも国籍取得を希望する者が多く出ることが見込まれ、彼らに国民として共に日本の将来を担ってもらうことは望ましいことからも、「日本国民とは誰のことか」、そして「日本とはどんな国なのか(国民が大切にする社会の価値観や文化とは何か)」という問題に答えなければならない。
日本では、これまでそのナショナルアイデンティティの定義にあたり『言語、文化、宗教にいたるまで同質性の高い単一民族集団が構成する国』というような考え方が影響力を持ってきた。移民の国籍取得により国民の民族構成が変化していくにあたっては、当然そうした見方を変える必要があり、そのような社会におけるナショナルアイデンティティや国民たる要件を考える為にも、「日本人」や「私たち」といった概念やその条件は自然発生的に存在するのではなく、また必ずしも固定的だったわけではないことを知る必要がある。本節では、この問題を考える一助として、日本におけるナショナルアイデンティティの在り方の変遷を探るとともに、国籍政策の歴史についても振り返ってみたい。
元来、多くの日本人にとって「ナショナル」なアイデンティティを持つことは馴染みの薄い態度であった。イエやムラへの帰属意識はあっても、国への帰属意識は意識的に醸成されなければ生じ得ず、政府は、幕末からの政治的変動により多元化する日本人のアイデンティティを統合し、諸外国からの外圧に対抗するため、天皇の下「臣民」としてのアイデンティティを強化した。具体的には、戸籍および「日本人」としての国籍を通して情緒的・政治的に国民との結び付きを強めてきた。また、移民については、明治期以降、日本では政府主導の下に積極的な移民送出が行われ、北米、ハワイやブラジルへの出稼ぎに加え、戦時中には台湾や朝鮮、満州への入植も行われた。敗戦後、海外からの引揚者による人口増に対応するため、再び政府主導の移民送出が行われ、この流れは高度経済成長期まで続いた。
これと並行して、学校教育でも同様の動きが始まる。文部省は1881年に「小学校教則綱領」において、「建国ノ体制」を「尊王愛国ノ志気ヲ養成センコト」を目的に、学校教育における歴史教育として「建国神話」を教えるよう明示した[xliv]。
この背景には、急速に西洋化の進む社会の風潮を憂慮した明治天皇とその側近による強い意向[xlv]があり、これを契機として後の教育勅語へとつながる歴史教育の国家主義化が始まった。歴史学者の古川隆久は、建国神話が第一次世界大戦後には議会制の維持や経済発展、国際協調を支える思想的基盤として提案された一方で、満州事変以降、国体論の根拠として国民団結の強化や戦争動員に利用されたと述べている[xlvi]。『古事記』や『日本書紀』が古典としての高い文学的価値を持つのみならず、これらの神話が悲惨な結果を招いた戦争へとつながる思想的基盤としてナショナルアイデンティティの構築に利用されたことは、現代の若者にはあまり知られていないように思う。
その後、敗戦後の日本のナショナルアイデンティティとしては、アメリカ統治下における安定の中で「平和主義」が新たに受け入れられた。国際政治学者である波多野澄夫は「平和憲法を遵守し、平和国家の道を歩むことが『過去の清算』に繋がるという論法は、一九五〇年代から続く政府の一貫した答弁パターン[xlvii]」だと述べ、このような考え方が国民にも浸透していった様を表している。しかし、同時に「平和国家論は、敗者が過去の戦争と正面から向き合い、真摯に戦争を検証するという困難な作業から生まれたものではなく、対外的理解を得られるものではなかった[xlviii]」とも述べている。ここから、国民にとっては「敗戦したのだからしょうがない」といったあきらめとともにこの「平和文化国家」という新たなアイデンティティをみている一方で、「平和教育」の浸透や日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞にもみられるように、日本が「唯一の被爆国」として平和主義を打ち出すことは、欧米諸国に対する倫理的な優越感を基底とした軍事力や戦争への否定的態度として現代社会においても浸透していると考えられる。
これに対し丸山眞男は、『日本のナショナリズム』のなかで戦後の日本人について「資源に乏しく人口過剰で軍備もない日本が今後の世界の中で一体どのようなレーゾン・デートルを持つかについてほとんど答えをもって[xlix]」おらず、「今後新しいナショナリズムがどのような形をとるにせよ、この疑問に対して旧帝国のそれに匹敵するだけの吸引力を持った新鮮な使命感を鼓舞することに成功しないかぎり、それは独自の力としての発展を望みえないであろう[l]」と述べている。これは1953年に執筆された丸山の著書の中での文章だが、いまなお日本人がこの命題に対する解として、これからの日本社会におけるビジョンを見出していないことは明らかであろう。
戦前には帝国として膨張した日本が、戦後は「小国」に戻り、しかも「単一民族からなる平和な国」というようなアイデンティティを強めたことは、戦後日本の状況を考えれば、そのこと自体はそれほど悪いことではなかったともいえるが、今後の社会変容を鑑みると外国人を社会のうちに取り込んで新たな日本を作っていく上ではこうしたアイデンティティのあり方は維持できない。戦前の経験から社会における「ナショナリズム」全般に対する反発も強く、積極的にナショナルアイデンティティを打ち出そうというような試みは忌避されがちであったが、日本が国民国家として多様化する住民・国民を内包しながら変容していくこれからの日本社会におけるナショナルアイデンティティを形成していく中で、ナショナルアイデンティティが単なるスローガンではなく、他者との平和共存への欲求と共に内面化されるためには、丸山のいう「新鮮な使命感」を抱かせるような新たなナラティブが必要である。
2.日本における国籍付与条件の変遷
次に、これまでどのような人々が、どのような条件下で「日本人」とされてきたのかを概観する。
国籍は、近代以降、開国を迫られた日本の西欧との遭遇を契機に法整備された。社会学者遠藤正敬は、日本が血統主義を採用した理由として、民法人事編(結果的に未施行)を起草した熊野敏三の、人種本位の国民観念を根本とし人種決定の要因を地縁ではなく血縁に置く思想に着目している[li]。
1871年の日清修好条規をきっかけに、中国人入国者は約1万人に及んだ。社会の変化に伴う混血世帯の増加を踏まえ、外国人と婚姻した日本人女性が国籍を離脱する「夫婦国籍同一主義」が採用された。これは、「一家の一体性は国籍についても貫徹されるべきであるという家族主義思想に基づいていた[lii]」。
その後、近代日本国家が「帝国」として領土を拡大するにつれ、「生来の日本人と植民地出身とで戸籍制度を区別したため、植民地出身者は対外的には(国籍上は)「日本人」として統括されたが、対内的には(戸籍上は)生来の日本人と差別して管理された[liii]」。
この間、明治民法によってアイヌ民族や琉球人も編入され、「日本人」としての民族意識を天皇の下に統合するため、外国人と結婚した日本人女性や養子となった者は国籍を離脱し「外国人」となった。
しかし、日本の第二次世界大戦の敗戦によって旧植民地出身者は「外国人」として再定義され[liv]、1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本国籍を喪失するとの見解が示された。その際、実質的なアイデンティティや個人の意思とは無関係に、形式上管理されてきた戸籍によって国籍が決定されてきたという事実がある。
このように、元来多様な血統、文化、慣習を持つ人々が「日本人」として統合・除籍されていったが、その境界線としての国籍の付与条件や民族、血統の定義までもがその時流によって変化してきたことが分かる。翻って、血統主義を採用する日本の国籍法とそこから生み出される社会観念は、移民へのまなざしとどのようにむすびついているのだろうか。
そもそも、国民の定義のされ方は、祖先や伝統、宗教などの民族文化を共有する民族的共同体と、領土や法律、自由や民主主義などの価値を共有する市民的共同体におおまかに分けられる(Smith 1991=1998[lv])が、日本の国籍制度は血統主義であることから、実態はさておき「国籍」、「血統」、「言語」を共有する日本人のイメージが大多数であり、このことが「移民」へのまなざしに影響を与えているのではないかと考えられる。
実際に、「外国籍者の割合が高い地域に住む人は、外国籍者への社会的権利の付与に否定的になる傾向がみられた[lvi]」ことから、地域に暮らす外国人の人口規模の増加は排外主義には結びつかない[lvii]にもかかわらず、血統主義に根差した国民の定義に属さない外国人への権利付与を拒否する意識を強めていた。この結果から、民族的共同体としての国民観を持つ純化主義者にとっては、外国にルーツをもつ者はそもそも共同体の外にあり国籍付与は考えにくいこと、その結果当然のこととして権利の付与が否定されていることが分かる。一部の自治体では外国人の公務員登用が始まっている例にみられるように、外国人住民にとっての公民権の付与は、移民が適応しようとする社会へのコミットメントとも密接に結びついている。国籍付与条件に加えて、永住外国人と国民の間の権利義務の差異を示すことは、国内外に住む外国人へ「あなたたち」が日本政府によって「どのように」みなされているかを示す直接的なメッセージとなることを忘れてはならない。
3.多様化する個人と「愛国」
グローバル化の進展に伴い、人の国家間移動も活発になっている世界では、多様なバックグラウンドを持ち複数国に拠点を構えて生活する人々も増えている。多拠点生活の中で複数の国家にシンパシーを感じる個人にとって、ナショナルアイデンティティはどのような意味をもつのだろうか。
移民は、様々な理由により自らの意思で母国を離れ異国の地で生活をする人々だが、彼らの多様なアイデンティティが最大限尊重され、日本社会で平和的に共存していく為に、ナショナルアイデンティティと深い関わりをもち、時には激しい議論を巻き起こす「愛国」というテーマにもふれておく必要があるだろう。本節では、日本における愛国の起源を概観し、多様化する現代社会における個人のアイデンティティとナショナルアイデンティティの交接点を探る。
現代日本における愛国をめぐる状況として、首相の靖国参拝や森友学園での軍歌斉唱などが議論の的になっている。教育の分野では、2006年に改正教育基本法が可決され、2018年には全国の小学校で、2019年には全国の中学校で道徳教育の教科化がなされた。学習指導要領には「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つこと」(小学校低学年)、「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつこと」(小学校高学年から中学校)と明記されており、教育と愛国の距離をめぐり物議をかもしている。
ここで注意しなければならないのは、「愛国」という言葉から連想される様々なイメージが、主に先の戦争と国家主義的教育への反省という視点のみにおいて注目され、そもそもこの概念が如何にして現代日本に存在しているのかが見落とされている点にある。
西洋史学者の将基面貴巳によると、明治期の知識人が英語の“Patriot”を翻訳・受容したが、その邦訳は「愛国」に統一されていたわけではなかった。「愛」という字に馴染みのなかった当時の日本人にとって、「愛国」よりも「報国」の方が普及していたにもかかわらず、明治政府による「敬神愛国」というスローガンによって一般に普及したのだ[lviii]。
後には、軍事的パトリオティズムがフランス国民軍の精神的基礎として士気を上げたことについて、福澤諭吉が『西洋事情初編』で紹介している。同時期の議論として、キリスト教の博愛主義に根差した人類愛的な立場を批判する『教育と宗教の衝突』論争がある[lix]が、立場的には弱いものであった。この状況に対抗する第三の立場として、福澤の愛国論に日本独自の「万世一系の皇統」に基づく「尊王」思想を結び付けたものが、金子堅太郎によって提唱され、後の「尊王愛国思想」に結びついていった[lx]。
紙面の都合上、明治以前のパトリオティズムについて、その全容をまとめることはできないが、古代ギリシャのキケロから続く長い「パトリオティズム」の歴史の中で、国や時代が都度その内実を変容させてきた。コスモポリタンな共和主義的パトリオティズムが日本に浸透しなかった理由として将基面は「『愛国』という言葉が『国』という文字を含んでいるために、「国」という概念イメージから逃れることが難しく[lxi]」、「我が国」というときの「『国』という概念をさらに拡張して、日本を含む地球上のある地域、ひいては地球すべてを意味するものとして再定義するような試み[lxii]」が現代日本で見られないことの問題点を指摘している。
ある国(複数国の場合もある)に対する個人のシンパシー(アイデンティティ)を、「愛国心」だと定義した場合、世界中からくる移民それぞれの持つ「愛国心」が衝突することなく、互いの「愛国心」を尊重しながら平和的な生活を送ることができなければならない。 加えて、個々の愛国心の多様性に加え、「愛国」に対する個人のスタンスにも多様性が存在している。「自分は愛国心などもちたくない」、「愛国心をもつことは悪だ」と考える人も、「愛国心をもつべきだ」、「愛国心には関心が無い/無関係だ」と考える人も存在しており、これらが完全に個人の精神的な領域に存するものであるからには、他者、ましてや国家によってこれが強制されるようなことがあってはならない。
一方で、本論考の冒頭で述べたように、多様化・多元化する個々のアイデンティティが最大限尊重される社会は、国家の統治機能なくして存在できない。だとすれば、これらの愛国心の衝突を防ぐ日本の役割が何であるのか、すなわち日本が世界に表明するナショナルアイデンティティが何であるのかを明確にする必要があるだろう。そして、逆説的に聞こえるかもしれないが、日本に住む人々がこのナショナルアイデンティティにシンパシーを感じ、内面化することで、誰もが、自らのアイデンティティを表明する意思を妨害されず、多様な「個」のままでいられる社会を実現するのだ。
日本における移民問題の独自性とは何なのだろうか。おそらくその答えの一端は、日本の「境界線」が可視化できてしまうことにある気がしている。日本は他国と国境を接さず、宇宙からその国境を俯瞰できる数少ない国家である。それがゆえに、他国とのせめぎ合いの中で「日本/日本人とは何か」、「自国にとって最も大切な価値観とは何か」、ひいては「日本のナショナルアイデンティティとは何か」といった大きな問いに晒される機会が少なく、移民を受け入れ、国民・住民構成や社会が大きく変容していく過程で「私たち」にとっての「当たり前」も変容していくということについて、具体的なイメージを抱きにくいのではないだろうか。本論考では、このような日本社会の現状に警鐘を鳴らしたいとの思いで、日本の移民政策をめぐる諸問題と思想的基盤としてのナショナルアイデンティティの不在について述べたが、問題提起をするに留まった。
画一的なナショナルアイデンティティを規定しそれを押し付けることの危険性は、戦争に向かったかつての日本社会や、人類のファシズムへの対抗の歴史を見れば明らかである。しかし、「日本のナショナルアイデンティティとは何か」という深淵な問いに向き合うことなくして、日本が移民政策に指針を見出すことは土台不可能な話である。なぜなら、日本人がどのような価値を重んじ、国民が移民とどのような関係性を構築していきたいと願っている(あるいはそうでないのか)のかを知るためには、己が何者であるかをまず知ることから始めなければならないからである。
もちろん、「日本のナショナルアイデンティティ」という言葉の連想させるイメージが人によって異なるものである以上、国民全員が納得する確定的かつ不変のナショナルアイデンティティを見出すことは困難である。しかし、ナショナルアイデンティティが単なる絵に描いた餅としてではなく、多様化していく日本における国家の連帯感や相互扶助といった価値観を再醸成し、国民と移民の良好な関係構築において貢献するためには、避けては通れない命題である。これまで政府の移民政策はとらないという建前の下で十分に議論されてこなかった日本のナショナルアイデンティティとその再構築の必要性について、さらなる議論を積み重ねていくことで、日本に暮らす外国人を取り巻く社会環境について国家としての長期的かつ一貫した方向性を明示する必要があるだろう。
今後の課題として、移民政策を起点に日本のおかれている現状についてさらに理解を深め、対する日本人の大切にしていきたい本質的な価値観を探求していく必要がある。多様な個人の自由な自己表明が最大限尊重される社会における、新たな日本のナショナルアイデンティティを定義したい。
[i] 2070年、1割は外国人に 進む少子化、総人口8700万人 厚労省推計.朝日新聞.2023-04-27,朝日新聞デジタル,
https://www.asahi.com/articles/DA3S15622065.html?msockid=25b3b4e711cc6d9221aba7d6101e6c11
, (参照2024-10-31)
[ii]特定技能の外国人、5年で82万人に拡大 政府が閣議決定.日本経済新聞.2024-03-29,日経電子版,
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2757E0X20C24A3000000/?msockid=25b3b4e711cc6d9221aba7d6101e6c11
,(参照2024-10-31)
[ⅲ]International Migration Outlook 2023.OECD.23-10-23,OECD Website,
https://www.oecd.org/en/publications/international-migration-outlook-2023_b0f40584-en.html
,(参照2024-10-31)
[ⅳ]フランシス・フクヤマ.『「歴史の終わり」の後で』.中央公論新社,2022,p.184-185
[ⅴ]「外国人雇用状況」の届出状況【概要版】(平成30年10月末時点).厚生労働省.2019-01-25,厚生労働省ウェブサイト,
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_03337.html
,(参照2024-12-12)
[vi]「外国人雇用状況」の届出状況【概要版】(令和5年10月末時点).厚生労働省.2024-01-26,厚生労働省ウェブサイト,
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_37084.html
,(参照2024-12-12)
[vii] 岸田文雄首相「いわゆる移民政策を取る考えはない」入管難民法改正案で重ねて強調 – 産経ニュース (sankei.com).産経新聞.2020-05-24,産経ニュース,
https://www.sankei.com/article/20240524-2OPRAPOMZ5GGLPHP7MSFSBH6XI/
,(参照2024-08-31).
注)岸田文雄首相は24日の参院本会議で、「政府として国民の人口に比して、一定程度規模の外国人やその家族を、期限を設けることなく、受け入れることで国家を維持する、いわゆる移民政策を取る考えはない」と強調した。
[ix] 永吉喜久子.『移民と日本社会-データで読み解く実態と将来像』.中公新書,2020,p.38-39
[x] 永吉、前掲書、p.38
[xi] 永吉、前掲書、p.39
[xii] 永吉、前掲書、p.39
[xiii] 将来人口推計に基づく2070年の外国人労働者依存度について-産業別の推計.ニッセイ基礎研究所.2023-07-12,ニッセイ基礎研究所ウェブサイト,
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=75436?site=nli
, (参照2024-10-31)
[xxi] 出入国在留管理庁,2023,「外国人との共生に関する意識調査」出入国管理庁.
[xxii] WVS Wave 6(2010-2014),World Values Survey Association, 2014-04-29,
https://www.worldvaluessurvey.org/WVSDocumentationWV6.jsp
, (参照2024-10-31)
[xxiii] 出入国在留管理庁,2023,「外国人との共生に関する意識調査」出入国管理庁.
[xxiv] 田辺俊介編著.『外国人へのまなざしと政治意識 社会調査で読み解く日本のナショナリズム』.勁草書房,2011,p.40
[xxv] 田辺他、前掲書、p.40
[xxvi] 田辺他、前掲書、p.64
[xxvii] 田辺他、前掲書、p.64
[xxviii] 田辺他、前掲書、p.64
[xxxiii] アリストテレス.『政治学』.京都大学学術出版会,2001,p.51-52
[xxxiv] アリストテレス、前掲書、p.49-52
[xxxv] 内閣官房孤独・孤立対策担当室,2024,「人々のつながりに関する基礎調査 調査結果の概要」, 内閣官房孤独・孤立対策担当室
[xxxvi] 総務省、2006、『多文化共生の推進に関する研究会報告書』
[xxxvii] Goodman and Wright 2015(p186)
[xxxviii] 是川夕.『移民受け入れと社会的統合のリアリティ
現代日本における移民の階層的地位と社会学的課題』.勁草書房,2019,p.258
[xxxix] 是川、前掲書、p.258
[xl] 是川、前掲書、p.259
[xli] Portes and Rumbat(2001=2014)
[xlii] 是川、前掲書、p.259
[xliii] 永吉、前掲書、p.236
[xliv] 古川隆久.『建国神話の社会史 史実と虚偽の世界』.中央公論新社,2020,p.39
[xlv] 古川、前掲書、p.39
[xlvi] 古川、前掲書、p256-257
[xlvii] 波多野澄夫.『国家と歴史』.中公新書,2011,p.259
[xlviii] 波多野、前掲書、p.280
[xlix] 丸山眞男.『日本のナショナリズム』.河出書房,1953,p.24
[l] 丸山眞男.『日本のナショナリズム』.河出書房,1953,p.24
[li] 遠藤正敬.『戸籍と国籍の近現代史』.第三版,明石書店,2024,p.93-94
[lii] 遠藤、前掲書、p.95
[liii] 遠藤、前掲書、p.27
[liv] 朴、2017 p.26
[lv] 田辺俊介編著.『日本人は右傾化したのか-データ分析で実像を読み解く』.勁草書房,2019,p.122
[lvi] 田辺他、前掲書、p.132
[lvii] 田辺他、前掲書、p.111
[lviii] 将基面貴巳.『愛国の起源 パトリオティズムはなぜ保守思想となったのか』.ちくま新書,2022,p.154-159
[lix] 将基面、前掲書、p.173
[lx] 将基面、前掲書、p.175-183
[lxi] 将基面、前掲書、p.207
[lxii] 将基面、前掲書、p.208
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Thesis
Kisa Shimizu
第43期生
しみず・きさ
Mission
誰もが自尊心をもち、生き生きと幸福を追求できる社会の実現