Thesis
本レポートでは、松下幸之助塾主が命知に至った経緯、また命知発表後、その達成のために塾主がどのような実践に落とし込んでいったのか、そして松下政経塾と命知がどのように繋がっていったのかを述べる。
まず初めに、命知を自覚した1932年に至る前の松下電器の簡単な歴史を説明したい。1918年23歳という若さで松下電器器具製作所を開設し、多様な配線器具を考案・発売した[1]。また1929年3月、会社として目指すべき方向性を示す綱領・従業員の仕事の心構えである信条を制定し、乾電池とラジオの新規事業を立ち上げた[2]。この時期は、世界恐慌の最中ではあったが、松下電器は困難格闘しながらもなんとか事業を進めていたのである。
そして、1932年塾主は取引先の人の熱心な勧めで天理教にお参りすることにした[3]。元々布教活動が人々にアピールするためにどのようなことをやっているのか[4]には興味があり、様々な宗教団体を訪問していた塾主であった。その中でもこの天理教の訪問が命知を自覚する大きなきっかけとなったのである。塾主は、この訪問で熱心に奉仕している信者の姿などに感銘を受けた[5]。その後帰りの電車の中で、天理教信者のようにどうしたら人は熱心に働くことができるのかを考えた。
もう一つ塾主に大きな影響を与えた出来事がある。それはアメリカで自動車を製造していたフォードの考え方だ。塾主はフォードの本を読んで、良いものを大量生産することが、社会のためになるという考え[6]に大いに感銘を受け[7]た。
塾主はこれらの天理教とフォードとの出会いを通して自分の事業を見直し「水道哲学[8]」の考えをもつようになる。つまり、塾主は水道の水のように物資を無尽蔵にたらしめることこそが生産者の使命であり、最終的には世の中から貧困をなくして楽土を建設することを目指したのである。
そして1932年5月5日に見習い店員以上の168人を大阪中央電気倶楽部の講堂に招集した。この日を、創業命知第一年とすることにしたのである[9]。そこで「所主告辞」を発表し、生産に次ぐ生産を手段として、命知である「貧乏の克服をして楽土を建設すること」を社員に共有した。この命知を達成するために250年の計画を発表した。これは250年を第10節に分け、また第1節を10年の建設時代、10年の活動時代、5年の貢献時代に分けたものである。塾主は、25年で代が1つかわり、10代かわったところに理想をおいた[10]。この考えを受けた従業員は大いに盛り上がり、士気も高まった[11]。
そして松下電器はこの命知を達成するために様々な事業改革に取り組んだ。この事業改革の中心に据えた理念が「自主責任経営」だ。これは一人ひとりの社員が、自らを自らの仕事の責任者・経営者と自覚して仕事に取り組み、会社の方針に則りつつも、責任をもって自主的な経営を行う[12]という考えである。この理念を浸透させるために、1933年に日々の業務を実践していく上での基本的な心構えを示した「遵奉すべき五精神[13]」を掲げ、毎日の「朝会」での唱和[14]に取り組んだ。もう一つ理念の浸透のために実施したのが「事業部制[15]」だ。これは社内に三つの事業部を置き、それぞれが自主責任経営にあたる体制を敷いた制度である。これらの取り組みの結果、1935年には製品の品種数が約600に達し、宣伝活動もより多彩になり[16]、急速に事業が発展した。このように塾主は松下電器の事業を発展させることによって、命知「貧乏の克服をして楽土を建設すること」の達成を目指したのである。
その後も、塾主は引き続き命知を達成するために、新しい事業を展開した。代表的な例が、「PHP研究所」の設立である。この活動の根底にも、命知を達成するための塾主の想いが込められていた。命知の中に「楽土」という言葉があるが、塾主は楽土を達成するには、物心両面の文化を高める必要があると述べている。そうすることによって、仕事の種類が増え、人おのおのに与えられた天分を生かし、楽土を達成することができるからだ[17]。そのような考えから、物心一如の繁栄を目指して[18]PHP研究所を設立した。PHP研究所設立後は、日本をよりよくするために具体的な構想を描いた。例えば、1951年「新しい人間観の提唱」の基となる「人間宣言」の草案を発表した。また、1972年『人間を考えるー新しい人間観の提唱ー』を刊行した。他にも、1952年「観光立国」を提言、1965年『PHP』誌2月号から「新しい日本・日本の繁栄譜」連載開始した。他にも、1974年『崩れゆく日本をどう救うか』を刊行、1976年『新国土創生論』を刊行、1978年「無税国家構想」を提言した[19]。
しかし塾主はこのような様々な提言をするだけでは世直しができず、憂国の情が高まり、1979年に「松下政経塾」を設立した。設立趣意書によると、物的繁栄の裏側では、かえって国民の心の面は混乱に陥りつつあるので、国家の未来を開く長期的展望が必要である[20]と記載されている。つまり、混乱に陥りつつある日本を救うべく、長期的な展望をもつリーダーを育成することで、命知達成を目指したのである。
これらのことから、塾主は命知に至った1932年5月5日から、命知を達成するために一貫して活動をしてきたことが窺える。物資を無尽蔵たらしめる「松下電器」、物心一如の繁栄を目指す「PHP研究所」、長期的展望をもつリーダーの育成をする「松下政経塾」、この三つの活動を通じて、生涯貧乏の克服をして楽土を建設するといった命知の達成に向けて尽力したのである。
百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」.パナソニック株式会社
松下幸之助(昭和37年1月15日)『私の行き方考え方』.実業之日本社
松下幸之助(昭和35年)『仕事の夢 暮しの夢』.実業之日本社
ヘンリー・フォード述 サミユール・クローザー編 加藤三郎訳(1924年)『我が一生と事業―ヘンリーフォード自叙傅』.文興院
松下幸之助(1952年9月発表)『PHPのことば その42』
PHP研究所 経営理念研究所本部編(平成26年11月3日)『松下幸之助 PHPにかける私の願い』.PHP
PHP(2022年7月24日現在)「沿革」(https://www.php.co.jp/company/history.php )
松下政経塾HP(2022年4月25日現在)「財団法人松下政経塾設立趣意書」(https://www.mskj.or.jp/about/setsu.html )
[1] 百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」p26-31.パナソニック株式会社
[2] 同上p61,62
[3] 松下幸之助(昭和37年1月15日)『私の行き方考え方』p282.実業之日本社
[4] 百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」p74.パナソニック株式会社
[5] 松下幸之助(昭和37年1月15日)『私の行き方考え方』p289,290.実業之日本社
[6] ヘンリー・フォード述 サミユール・クローザー編 加藤三郎訳(1924年)『我が一生と事業―ヘンリーフォード自叙傅』p240.文興院
[7] 松下幸之助(昭和35年)『仕事の夢 暮しの夢』p91.実業之日本社
[8] 百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」p75.パナソニック株式会社
[9] 松下幸之助(昭和37年1月15日)『私の行き方考え方』p298.実業之日本社
[10] 百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」p75,77.パナソニック株式会社
[11] 同上p77
[12] パナソニックホールディングス株式会社HP(2022年10月11日現在)「パナソニックグループの経営基本方針 8.自主責任経営」
[13] 百年史編纂委員会ブランドコミュニケーション本部歴史文化コミュニケーション室(2019年11月27日)「パナソニック百年史」p94,95.パナソニック株式会社
[14] 同上p93
[15] 同上p79,81,82
[16] 同上p148
[17] 松下幸之助(1952年9月発表)『PHPのことば その42』
[18] PHP研究所 経営理念研究所本部編(平成26年11月3日)『松下幸之助 PHPにかける私の願い』p70,72.PHP
[19] PHP(2022年7月24日現在)「沿革」(https://www.php.co.jp/company/history.php )
[20] 松下政経塾HP(2022年4月25日現在)「財団法人松下政経塾設立趣意書」(https://www.mskj.or.jp/about/setsu.html )
Thesis
Ryota Akagi
第43期生
あかぎ・りょうた
Mission
公教育改革を軸とした大らかな心で満ち溢れる共生社会の実現