論考

Thesis

キリング・フィールド400キロを行く

松下政経塾ロゴマーク

松下政経塾

1998/9/28

クメール・ルージュによる大虐殺、地雷の被害者1日平均10人、世界最貧国、援助対象国、クーデターと麻薬……。7月26日に行われた総選挙に先立ち、こうした様々な問題を抱えるカンボジアをタイ国境から首都プノンペンまで駆け抜けた。

「アンコール・ワットの隣でフランス人が拉致され、首を切り落とされた死体で発見された」。カンボジアに入る前、こうした怪情報に随分脅かされた。その大部分は「死」や「失踪」に直接結びつくものである。眼鏡をかけていたというだけで殺したというクメール・ルージュの蛮行を振り返ると、噂は急に血生臭い現実味を帯びて迫ってくる。
 バンコク中央駅からカンボジアとの国境に向かう列車に乗ったのは、早朝6時。車内はカンボジア人で溢れていた。彼らは「クラマス」と呼ばれるスカーフを首に巻いているのですぐにわかる。「カンボジア人は、おそらく世界で一番残酷で馬鹿な人たちです。彼らは同胞を殺すだけではなく、他の民族も敵だと考えています」。乗り合わせたタイの大学生は下手な英語でカンボジア人に対する「タイ人の偏見」を語った。それはキリング・フィールドという言葉を産んだクメール・ルージュに端を発している。クメール・ルージュの占領地であったアンノンベンで発見された小学校の教科書に、彼らの思想を示す一文が残されている。「先端に毒を塗った竹で敵を刺し殺すときには、目と心臓を狙おう。そうすると簡単に人を殺すことができる」。

 タイの国境地帯、アランヤプラテート駅に正午に到着した。駅からカンボジア国境検問所まで後約7キロ。タイ製の靴や洋服、薬などを背中一杯に背負ったカンボジア人たちは足早に去って行った。タイの検問所を抜けると非武装中立地帯に出た。カンボジア検問所までの500メートルは、政治的な真空状態が作り出す自由と活気を感じる特殊な空間だ。しかしこのような気持ちもカンボジアの検問所に入った瞬間、消え去った。 「国境を越えるときに写真を撮っただろう。フィルムを全て出せ。荷物も全部見せろ」。しかし、カンボジア国境警備隊のこの険悪な歓迎式は、米国の1ドル紙幣で簡単に解決できた。「ここを通過する記念に1ドル頂戴」と1ドル申告式(?)が終わると、出国手続きは「迅速、正確」となる。
 出入国管理所の向こうには意外な風景が待っていた。長く延びた鉄条網と荒涼とした平原に散らばる軍用テント。カンボジア政府軍のクメール・ルージュ軍一掃作戦が本格化した今年4月、山岳地方に住む10万人のカンボジア人たちがタイ国境に殺到し、タイは国境を越えるカンボジア人に対し、容赦なく発砲するという厳しい態度をとった。結局、国連の主導で難民キャンプが国境のカンボジア側に作られた。先の軍用テントである。

 午後2時、国境検問所を過ぎて500メートルほど進むと、客待ちをする日本製のピックアップトラックと古いバイクの列に行き当たった。運転手たちはカンボジアの通貨リエルではなく、米国ドルやタイバーツを要求する。リエルはタイのバーツと連動してドルとの換算率を決める2重連動制である。カンボジア経済はタイ経済圏に隷属していると言っても過言ではない。交渉がまとまり、午後2時40分ようやく出発した。
 道路のあちこちにクメール・ルージュが設置した地雷の跡が残っている。奇妙なことに道路の周辺には草ひとつ生えていない。見えるのは痩せた平原と寂しい農家だけ。「以前ここはプノンペンから強制的に移動せられた都市市民の思想改造のための労働研修所でした。かつてはジャングルだったのが、都市市民の労働によって広い平野に変わりました。ここで亡くなった人は、おそらく1万人は下らないでしょう」。運転手はかつての惨状を説明してくれた。

 自動車ラリーのようにジグザグに走ること40分、カンボジアの国境都市シソポンに出た。シソポンの中央バスターミナルに到着したのは午後5時。そのままプノンペンまで行こうしたが、運転手は「1000ドルもらっても行かない」と、強く首を横に振った。カンボジア人にとって、日没は死、放火、失踪を意味する。日が落ちたら彼らは外に出ないのだ。
 「シソポンからプノンペンまでは8時間ぐらいかかります。途中でゲリラに会わなければね」。シソポンで1泊。出発したのは翌日の午前10時。気温は摂氏38度を越えていた。ピックアップトラックの群が朝早くからホテルの前に並び、金持ちの外国人を待っている。30分ほど交渉し、プノンペンに向けて出発した。

 シソポンを離れると道路はすぐに未舗装に変わった。舞上がる砂埃に荷台に乗っていた私は、クラマスで口を覆った。「ここは2カ月前まで通行が困難でした。クメール・ルージュ軍と地雷のためです」。運転の仕方にカンボジア特有の法則がある。必ず前の車の轍の上を通るのだ。地雷に遭わないための知恵である。 カンボジア人は世界のどの民族よりも親切で恥ずかしがり屋だ。1日の平均賃金が1ドルにも満たない世界で生きていても、乞食や自分よりももっと貧しい人を見ると、全財産でもあげてしまう。ポル・ポトは、このように純粋な人々を対象に文化革命式の狂気を注入した。この狂気でカンボジアは現在、前例のない奇形な人口分布を持った国になっている。900万人の人口のうち15歳以下は50%以上、30歳以上のうち女性は70%。75年から79年の間に、全部で200万人、1日平均1300人の自国民を殺害した。

 トラックはカンボジア内陸部バッタンバン地域に向かって速度を速めた。バッタンバンは79年のベトナムのカンボジア侵略の際、ジャングルの中に逃げたクメール・ルージュの中心拠点で、彼らはジャングルのあちこちに、1つ5ドルという世界で最も安い中国製の地雷を埋めた。現在、1日平均被害者10人という地雷事故のほとんどは、バッタンバンで起きている。村に入るとトラックが急に止まった。村に入る少し前から、長い行列が目に入っていた。事故だろうか。「食事をしながら、何が起きたのか調べましょう」。食堂で休んでいる間も人の列が伸びている。人々の表情は一様に深刻だ。運転手は低い声で「バッタンバンにクメール・ルージュが現れたらしい。反撃に立った政府軍が、ジャングルに向かって無差別に砲撃をしているので、みんな道路に逃げてきているのです」。急に近くでパーンと言う音が聞こえた。「砲撃戦なら車は通れないね」。「クメール・ルージュ軍が道路に現れたわけではないから大丈夫です。10分後に出発しましょう」。運転手は何事もなかったかのように出発した。
 10分後、再び車は止まった。プノンペンに続く道路の真ん中に、政府軍が155ミリの無反動大砲を設置し、ジャングルに向けて砲撃している。長さ20メートルの大砲の手前に車を止め、運転手は様子を聞きに軍人の元へ走っていった。荷物と子供を抱え険しい顔をした女性たち、鍋・家具など家族の全財産を積んだインドシナ特有の水牛、10年は経つような古い自転車……。避難するカンボジア人たちは、例外なく笑顔を忘れ、全てを放棄したような表情をしている。戻ってきた運転手はそのままプノンペンに向けて運転を再開した。「ゲリラが4時間前に道路から3キロ離れたジャングルから出てきたと言っていますが、時間が経っているから大丈夫でしょう」。ここではゲリラの出現は日常の一部なのだ。

 プノンペンに入ったのは、予定より1時間遅い夜8時。かつてインドシナのパリと呼ばれたプノンペンは、メコン川とトンレサップ川が合流する美しい都市である。川岸にはフランスのカフェをまねた小さなパブが並んでいる。激しい雨がやむと、バイクでドライブを楽しむ若い男女が現れた。
 歴史上初めて独力の選挙を通して、未来を開拓しようとするカンボジア。しかし美しい未来や希望を夢見るにはまだ早い。「セピア色の悪夢」がカンボジアを覆っている。過去の暗い記憶を1つ1つ消していく作業がそこには残されている。キリング・フィールドでそう思った。

Back

関連性の高い論考

Thesis

松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門