論考

Thesis

知価社会における高等教育・研究機関の戦略的重要性

 この月例報告を書いていた5月9日、理化学研究所の日本人研究者らが遺伝子スパイを行った容疑で米司法当局に起訴されたというニュースが飛び込んだ。21紀の知価社会を浮き彫りにする象徴的な事件である。この背後には、遺伝子情報やバイオ技術を国家資源ととらえる米国の基本的姿勢がみられる。

 1991~1993年、私が米国に滞在していた頃、冷戦の終焉と共に、クリントン=ゴア政権の誕生を目の当りにした。その後、「情報スーパーハイウェー」、「ヒトゲノム計画」、「ナノテク」など、次々と科学技術力を中核とした産業復興政策を打ち出し、今日のグローバルな知価社会の幕開けが始まった。もともと日本が決して遅れをとっていなかった科学技術もあったにもかかわらず、冷戦後、“戦略的に”産業と結びついた米国の科学技術力は凄まじいものがあった。

 新たに誕生したブッシュ政権の今後の科学技術・産業の流れを調査するため、5月上旬、ワシントンDCで、AAAS(American Association for the Advancement of Science)の年次大会を現地で取材した。(プログラムのホームページ)AAASは、科学技術の振興を図るため、全米の科学者を中心に組織された団体で、世界的に有名な科学雑誌「Science」の発行元でもある。AAASの年次大会には、ブッシュ大統領の経済担当補佐官のラリー・リンゼー氏や、クリントン大統領の科学技術政策補佐官であったニール・レーン氏など第一線の政策担当者、連邦議員、研究者など、党派を超えて集まり、会場は熱気に包まれていた。

▲ラリー・リンゼー氏
▲ニール・レーン氏
 

NIH(国立衛生研究所)とDOD(国防総省)への集中投資

 ブッシュ新政権の2002年度予算案では、連邦債務の削減・減税等を優先し、基本的に全体の支出を抑制する姿勢を打ち出している。しかしながら、全体の研究開発費は953億ドルと対前年比5.8%も増加している。研究分野ごとにみても、NIH(国立衛生研究所)が前年比13.6%増、DOD(国防総省)が前年比8.5%増と、予算を縮小される省庁もある中で、その伸びが際立っている。(AAAS作成によるチャート図参照

 基礎研究においては、6.1%(13億ドル)増で史上最高額の234億ドルであり、中でもバイオ研究の総本山であるNIHに、国家戦略として集中的に投資されている。省庁ごとの研究開発予算でも、NIHを抱えるHHS(保健・福祉省)が、全体の50%の傾斜配分を受けている。(AAAS作成によるチャート図参照) NIHへの予算の傾斜配分について、ドイツ人のあるゲスト・スピーカーが「NIH(National Institute of Health)は、今やNational Institute of Wealthかい?」とジョークを放ち、会場を沸かせる場面もあった。

知価社会におけるプロパテント政策

 今大会の数ある報告の中でも興味深かったのは、カリフォルニア大学バークレー校・HassビジネススクールのDavid C. Mowery教授による、共和党のドール上院議員によって議員立法されたバイ・ドール法の効果分析であった。知価社会においては、アイディア、発明、科学技術力が富の源泉となる。バイ・ドール法が、今日のソフトウェア・バイオ産業の飛躍的発展に貢献し、いかに先見的な布石であったかを実感した。

 この法律は、アメリカ経済が不況にあえいでいた1980年に成立した。従来は、政府の援助のものとで大学などで行われていた研究の成果は、政府の知的財産となっていた。バイ・ドール法では、これを改め、大学などで誕生した新技術の権利は当の大学に与えられることになったのである。その結果、大学の起業マインドを向上させ、研究者がベンチャービジネスを起こすことなどによって、特許の実用化を促進していった。

 21世紀のキーテクノロジーと目されるバイオテクノロジーは、1973年、カリフォルニア大学のボイヤー教授とスタンフォード大学のコーエン教授が遺伝子組替え技術を確立した。バイ・ドール法が成立した1980年、スタンフォード大学がこの神の技ともいえる生命の遺伝子操作の手法を特許取得し、その権利を手中することにより、2億ドル以上もの大金を手にした。その後、バイオテクノロジーは急速に進展し、1983年にはライデン大学が遺伝子導入(トランスジェニック)植物の生成法を、1984年にはハーバード大学がトランスジェニック動物の生成法を、それぞれ開発し、特許を出願した。こうしてバイオテクノロジーは、巨万のロイヤリティを稼ぎ出し、さらに将来有望な産業となっている。

21世紀の知価社会のエンジンとなる大学や研究所の重要性

 また、今大会でのカーネギーメロン大学のリチャード・フロリダ教授の分析も非常に印象的だった。「企業は、より安い労働力と資源を求め、その時々に応じて多国籍に活動拠点を変える。しかし、大学はその土地に根付き、世界中から若く有能で多様な人材を集め、さらにその周辺の地域に新産業を興す。」

 確かに、スタンフォード大学やUCバークレーの存在を抜きにして、シリコンバレーの隆盛は考えられないし、ハーバード大学やMITの存在なくして、ボストン周辺の新産業は語れない。さらに、全米そして世界から優秀なバイオ頭脳が集まるNIH周辺(メリーランド州)は今や、バイオ・ベンチャーのメッカでもある。急激なスピードでヒトゲノムの解読を進め、ポストゲノム時代を告げる時計の針を早めたセレーラ・ジェノミックス社社長のクレイグ・ベンダー氏も、NIHからスピンアウトして起業した経歴をもつ。ベンダー氏は、21世紀のビル・ゲイツとも呼ばれている。

 ひるがえって日本では、本格的な知価社会への認識・対応とインフラ整備が始まったばかりである。先見的な立法・政策の重要性を今回、まざまざと感じた。そもそも天然資源に乏しく、中国や東南アジアからの安価な製品が世界市場を席巻する中で、日本に残されている道は、高い科学技術力を伴った「知力」を生産する国づくりである。「ソフトパワー立国」、「科学技術創造立国」、「ロボット立国」、「頭脳立国」などスローガンはいろいろ聞かれるが、知力生産の中核現場である「高等教育・研究機関」の社会的役割と責任を、今、根本から日本は見直す時期にきているのでなかろうか。

 21世紀、好むと好まざるを得ず、グローバルな知的開発戦争が展開されていく中で、その中核となる「高等教育・研究機関」のあり方は、かつてないほど“戦略的に”重要である。

(参考文献)

上山明博、『プロパテント・ウォーズ 国際特許戦争の舞台裏』、文藝春秋社、2000
岸 宣仁、『特許封鎖』、中央公論新社、2000
竹中平蔵、『ソフト・パワー経済』、PHP研究所、1999
読売新聞取材班、『覇権大国アメリカ グローバリズムの光と影』、中央公論新社、2000
Richard Rosecrance, "The Rise of the Virtual State: Wealth and Power in the Coming Century" 1999

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下斗米一明の論考

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Kazuaki Shimotomai

下斗米一明

第21期

下斗米 一明

しもとまい・かずあき

PwCコンサルティング合同会社 ディレクター

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