Thesis
21世紀は、生命科学の時代と言われ、医療・環境・食糧など多様な分野への応用可能性が見えてきている。ES細胞、クローン、ゲノム創薬、テーラーメイド医療、遺伝子組替え食品など、マスメディアで毎日のように話題になり、バイオテクノロジーの産業化の波は、一気に押し寄せている。日本政府はミレニアム・プロジェクトでも、約1200億円のうち、半分以上の予算はバイオ関連へ注ぎ込まれている。この背景には、先進国の中でも急速に高齢化社会を迎える日本で、夢の先端医療技術の発展を促進させようとする狙いがある。
一方、その中で日本ではほとんど言及されないのが、その負の側面、とくに生物兵器開発とそのテロ使用の危険性である。三菱化学生命科学研究所室長の米本昌平氏は、「一連のサリン事件などオウム真理教事件を招来させてしまった日本が、生物・化学兵器によるテロに対してほとんど議論をしてこなかった事実は、海外からは異様なものに映る」と指摘する。
生物兵器がテロ集団によって使用されやすい理由は、その獲得の容易さと使用効果の面の、双方がある。生物兵器はその開発費が比較的安価で、開発装置は生命科学研究のものを流用できるため容易に入手できる。人材面でも微生物学と工学の基本知識があれば、テロのための研究開発に支障はない。問題は病原微生物の入手であるが、これも最近までそれほど困難ではなかった。爆発物や銃火器、放射性物質は運搬段階でチェックを受けやすいが、病原微生物の原体は小さなプラスチック容器で容易に国境を越えて運ぶことができる。(1)
ただ、「生物兵器はSF的なイメージで語られることも多く、このことが対応策の議論をゆがめている」と米本氏は指摘する。冷戦末期の1980年代半ばに、ソ連がアメリカのエイズ流行は軍事施設フォート・デトリックでの遺伝子組替え技術を使った秘密研究の産物、というデマを流したことも、まだ少し尾を引いている。
生物兵器の拡散防止を行おうとした場合、そのいちばんの難題は、民生研究との差がきわめて小さいことである。現代の生命科学研究は、その研究課題や研究設備をもって医学研究か生物兵器化学研究かを識別することは困難である。表面的には、一般の予防医学研究と、小規模な軍事研究との差がきわめて見分けにくい。
また、生物兵器に利用される恐れのある病原生物を国が管理しようとすると、そのための作業が膨大になってしまう。条約交渉の場でアメリカは、信頼醸成措置の1つとして、防衛的研究とワクチン生産の実態に関して、毎年自発的に宣言する方法をアメリカは提案している。しかしアメリカ自身ですら、これを意味のある正確さで行おうとするとかなりの費用がかかってしまうことが分かっている。これは大学医学部や医学研究所ではたくさんの病原性微生物や生物毒が扱われていることの反映であり、テロ行為を企てた者が病原生物を入手することは容易であることを示している。 (2)
過去の生物兵器開発の過程をみると、最初に生物兵器の重要性を力説して政府に働きかけるのは生物学者である場合が圧倒的に多い。核兵器問題を討議する科学者のパグウォッシュ会議は、1957年の設立時から生物・化学兵器もその対象としてきた。1970年のノーベル賞受賞講演で、J・レダバーグ氏が、専門である分子生物学の成果が軍事研究に利用される恐れを初めて指摘して以来、バイオテクノロジーを駆使して、強力な生物兵器が作られるのではないか、という懸念は繰り返し表明されてきた。 (3)
生物兵器の不拡散・不使用は、病原微生物や生物毒の管理や研究設備の規制だけでは、実現不可能である。同時に、個々の研究者の心の内側に規範感覚を育まなくてはならない。21世紀における広義の安全保障の観点からも、日本の科学界は、理性的な職能集団の名誉と責任において、「生命科学の研究とその成果は医療と人類福祉のためのみにあり、生物兵器開発には関与しない」と対外的に宣言すべき時にきている。 (4) このような倫理原則を職業倫理として再確認すると同時に、高等教育に組み込む必要がある。
(1) 米本昌平、「生物兵器のテロ使用とその対応策」、『警察行政の新たなる展開 上巻』、2001年、p.519-520
(2) 米本昌平、「生物兵器とテロを議論しない日本」、中央公論2000年8月号、p.45
(3) 前出(2) p.44
(4) 前出(1) p.530-531
Thesis
Kazuaki Shimotomai
第21期
しもとまい・かずあき
PwCコンサルティング合同会社 ディレクター