松下政経塾 The Matsushita Institute of
Goverment and Management

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1999年4月

塾生レポート

民主主義
小林献一/卒塾生

 
§1.「民主主義の学校」

 「○○です。よろしくおねがいします。」
 この一ヶ月の間、何度となく耳にした言葉である。如何にして後援会などの地盤を固めるか。そしてどのように候補者の名前を有権者に覚えてもらうか。この二点で、地方議員選挙の当否は決するといっても過言ではない。後援者が集う決起大会では「○○を男にしてください」、街宣車からは「○○です。よろしくおねがいします」。候補者が何をしたいのか、そして何をできるのかを判断することは一般の有権者には難しい。有権者から候補者は限りなく遠い。地方議会は「民主主義の学校」と言われて久しい。けれども、戦後50年を経た今、「民主主義の学校」は明らかに機能不全に陥っている。

§2.「権力の正当性」

 ヨーロッパ中世。人々は一定の身分に拘束されながらも、神の創った身分制秩序の中で生活していた。身分制度は、不平等であるからよくない、というような議論がしたいわけではない。身分制度自体の評価は一旦置く。但し、少なくとも身分制度の中で生きていた人たちは、社会的な地位の向上は限られていた反面、何のために生きているのかなどという、自己の価値付けは問題とならなかったという点は、注目すべきであろう。
 さて中世ヨーロッパにおいては、国家権力を担保するものは、キリスト教であった。それゆえ、神からの委任を受けた教皇、国王、そしてその他諸権力は、その正当性を問題とされることはなかった。けれどもガリレオによる天動説の否定、ルネッサンスによる文芸復興、そしてこれらの影響を受けた宗教改革。中世の人々にとって日を見るよりも明らかであった神の創った秩序は、次第に崩壊の兆しを見せ始める。天与の身分制秩序が崩壊することによって、当然、権力者たちはこの正当性の問題に直面することになる。天与の正当性にかわる権力の正当性を担保する仕組みが必要となってくる。そこで登場するのが、ホッブズらにはじまる「社会契約説」である。

 「人民によって信託をうけた公権力が政治責任を負う」という「社会契約説」を基礎として発展してきたのが、現代の民主主義である。この統治原理に基づいて、議会という制度をとおしての政治参加がはじまる。はじめに、それまでは封建領主であった貴族や僧侶が、国王の官僚として絶対主義国家の一部を構成することになる。さらに、地主や一部都市商人などからなるブルジョワジー達が納税者として政治に参加しはじめる。貴族・聖職者・ブルジョワジーからなる制限選挙のはじまりである。
 この制限選挙が、ついには成年全員の参加を目的とする男女普通選挙にいたる。この選挙権拡大の動きは、阿部齊も指摘しているように、近代国家の権力正当化のために不可欠の事柄であったともいえる。

§3.なぜ、日本では民主主義が機能しないのか

 ここで問題としたい事柄は、現在日本で行われている諸選挙が権力の正当化の役割を果たしているのか否かである。もちろん、制度としてないしは形式上、その役割を果たしているかどうかを論じたいわけではない。むしろ、私たち有権者の意識のレベル、大串正樹のいう「メタメタ」レベルでのはなしである。 あちこちでみかける隊列を組む自転車軍団、候補者の名前を連呼する街宣車の群れ、一有権者として、選挙が権力の正当化の役割を果たしているとは思えない。
 このような状況は、どのようにして引き起こされているのであろうか。「民主主義の学校」は、なぜ日本では機能し得なかったのか。

 まず、丸山真男らが指摘しているように、日本人が「近代的な個人」にまで成熟し得ていないという見方ができる。ウェーバーら西洋の研究者達が鮮やかに描き出した「近代的なる個人」、つまり自らの意志で考え、判断し、そして責任を担う「個人」に日本人は未だ到達し得ていないと考えるのである。このような考え方は、一面非常に説得力があるように見える。けれども戦後50年が過ぎ、長期にわたって曲がりなりにも民主主義体制の下で日本人は生活している。にもかかわらず、日本人が「近代個人」にまで成熟し得ていないとするならば、それは「成熟」の問題ではなしに、むしろ文化の質の違いなのではないか。

 このような見方から、第二に、「文化」的な問題として「民主主義の学校」の機能不全を説明することも考えられる。つまり、日本はヨーロッパとは異なるから日本では民主主義は機能しないのだと考えるのである。横江久美が指摘しているようにチェコにおいては社会主義政権崩壊後、即座に民主主義が機能しているのに対して、戦後50年が経つ日本ではいまなお、機能しているとは言い難い。確かにこのように考えてみると「文化」的な差異としてこの問題を片付けるのは、一定の説得力を持つ。けれども他方、第二節でも検討したように、民主主義が国家権力の正当性の機能を果たしているとしたならば、「文化」的な差異から日本では「民主主義」が機能しなくてもよいということにはならない。

 そこで、第三に日本で「民主主義」が機能していないのを「制度」の問題として見る見方が可能である。つまり単に「文化」的な差異のみが原因なのではなく、むしろ日本の「民主主義」の「制度」に問題があるとするのである。例えば、佐々木毅は、「メタメタ」レベルでの問題の解決策として、国民の「潜在的な問題感覚を掘り起こし、明確化し…、国民を説得し、動かす」ような政治的意味空間の創出を提唱する。そして、そのためにはメディアの働きが重要であるとしている。メディアと政治の関係は、アメリカ等におけるラジオの政治番組、つい先日の都知事選挙においても活発に行われていたテレビにおける公開討論会、またインターネットを利用した政治活動など様々な可能性を今後、日本においても追求し、それぞれの実効性を検証してゆくことが求められるであろう。メディアの有効性も含めて、日本において「民主主義」が機能するための「制度」づくりは、様々な角度から検討されてゆくべきであると思われる。

§4.まとめに

 統一地方選挙の現実を見る限り、日本における民主主義は前途多難としか言いようがない。けれども、「民主主義」が権力の正当化機能を果たす装置として組み込まれている以上、この問題を「文化」の差異として見過ごすわけにはゆかない。権力の正当化としての機能を「民主主義」が果たしていないということは、それだけ日本という国家の正当性が国民の意識レベル(メタメタレベル)で確立されていないことを意味する。つまり日本という国家意識が国民の中で薄れてゆくということと表裏一体である。もちろん、日本人から国際人への意識変化が起こるのであるからかまわないというような一世代前の議論はもはや通用しない。日本という国家意識があってこその国際人なのである。私たちは、日本という国家が、日本人の「メタメタ」レベルで成立しうるかどうかの瀬戸際に立たされている。

1999年4月 執筆
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