Thesis
「十年前を思い浮かべてもらいたい。当時、一体どれだけの関心が国際貿易に払われていただろう。… 時の移り変わりは激しい。WTOは今や、グローバリゼーションという、我々の時代と切っても切り離せない問題をいかに定義するかという熱心な議論の真っ直中にある。」
(M.Moore,The WTO after Seattle, Business Recorder (www.brecorder.com), 2000)
1)はじめに
ジュネーブの大噴水を右手にみながら、ジュネーブ市街からレマン湖沿いに続くアメリカ公園を二十分ほど歩くと世界貿易機関(WTO)に着く。湖側のオフィスからは、天気の良い日にはヨーロッパで最も水がきれいともいわれるレマン湖越しに、遠くモンブランを望むことができる。WTOは、アメリカ公園の敷地内にあり、だれでもWTOの敷地内へ入ることができる。敷地内どころか、建物内に入るときですら、セキュリティーチェックはほとんどなく、日本の外務省に入るときの方がよほど厳重である。シアトルであれだけの暴動を引き起こした張本人とも言えるWTOの本部とは思えないほどの無防備さである。WTOの建物は、大小会議室、非公開な会議用の有名なグリーンルーム、そして事務局スタッフのオフィスからなる。この風光明媚なスイスの片田舎にある小さな建物の中で、グローバリゼーションとは何か、また急速な世界のグローバル化にどのように対応すればよいのかなどについて、各国代表部によって真剣に議論が戦わされている。
2)WTO(世界貿易機構)とOECD(経済協力開発機構) ~グローバル・ガバナンスの観点から~
先月の塾報で、佐和隆光氏が「グローバルな市場経済をコントロールする問題として、グローバルガバナンスを考える必要がある」と述べているが、WTOは、今後、グローバルガバナンスの要となって行くことが予想されている。グローバルガバナンスの問題は、佐和氏の言葉をそのまま引けば、「経済はグローバルになっているのに、それを統治しうる「政府」はない」という問題と言いかえることもできよう。では、数多ある国際機関の中で、なぜWTOであるのか。世界経済のあり方に大きな影響を与えている国際経済機関の中でも代表的なOECDと、WTOを比較し、その理由を明らかにしたい。
パリに本拠をおくOECDは主として先進国と一部旧東欧諸国から構成される。OECDでは、国際社会において、現在そして今後、問題となるであろう経済問題についてリサーチがなされ、そして、そのリサーチに基づいて、加盟国でRecommendationとよばれるモデル・ルールが採択されている。けれども、Recommendationが非拘束なものであるため、加盟国は基本的にその行動を拘束されることはない。
一例を挙げれば、1990年代にOECD加盟国は「ハード・コア・カルテル」に関するRecommendationを採択した。これは、その名の通り、数多くあるカルテルのなかで、誰の目から見ても明らかに不公正であるようなカルテルを、加盟国が法律を制定して取り締まることを勧告するものである。けれども、あくまでもこれは勧告であって、加盟国に法律の制定・運用を強いるものではない。もちろん、法的拘束力がないからといって、重要でないと言うことではない。例え非拘束であっても、実質的に世界をリードする先進国の合意によって出されたRecommendationが、OECD加盟国以外の国々の法律制定においても、大きな影響を与えることは想像に難くない。
先の例でいえば、ハードコアカルテルのRecommendationでは、どのようなカルテルがハードコア・カルテルに該当するのかの定義がなされているが、途上国が競争法を新たに制定する際には、ここに定義されたカルテルが、規制対象となることはまず間違いない。但し、OECDは、上述のように加盟国が限られていること、そして基本的に法的拘束力をもたないことから、その限界もまた明らかである。
これに対して、OECDとは対照的に、WTOは(1)130を越える加盟国により構成されていること、そして(2)その協定が法的拘束力を持つことが、その特色として挙げられる。先の例をそのまま用いるなら、もし、ハード・コア・カルテルに関する協定がWTOにおいて合意されたと仮定すれば(まだ、現時点では合意までには至っていないが)、途上国を含む全加盟国は、ハード・コア・カルテルを取り締まる競争法を制定・運用する義務が生じる。(もちろん、LDC(最貧国)への移行期間などは考慮されるであろうが。)そして、規定の期間内に、法律の制定・運用がなされていない場合には、加盟国の合意によって選出されたメンバーからなるDispute Settlement(紛争解決手続き)によって、その行為が協定に反するかどうかについて判断・決定が下されることになる。その決定に基づいて、当事国は、相手国からの輸入に高関税をかけるなどの対抗措置をとることが、協定上、合法に行えるようになる。以上のことからわかるように、WTOにおいてなされていることは、貿易に関するルールを、加盟国間の話し合いにより法的拘束力を持つ協定として制定し、そのルール違反を取り締まる司法機関の役割をも果たすという、まさにグローバル・ガバナンスそのものであるともいえよう。
3)WTOにおけるグローバル・ガバナンス
それでは、なぜ、この十年の間に、急速にWTOは関心を集めるようになったのであろうか。M.Hartによれば、
“冷戦期は、平和と安全がHigh Policyの問題であって、国家間の政治的な関係を決定づける主要因であった。経済の繁栄やその他の問題は、Low Policyの対象であって、技術者の間で話し合われていた。…(けれども冷戦が終わった今日;引用者注)まずGATTにおいて現された原理に基づいて組織された貿易システムと多くの協定が、急速に、国家関係を規定するゲームのメインルールになりつつある。環境保護や人権の促進は、公衆の関心を喚起する主要な問題の一つである”
とされる。また、このような冷戦後の国際政治環境の急速な変化と同時に、WTO自体の変化もその大きな理由として挙げられる。周知のように、WTOは1994年のマラケシュ協定(WTO協定)に基づいて設立された。WTOになって変わったこととしては、
がある。このうち、(4)紛争解決手続きの重要性については、すでに述べたとおりであるが、M.Hartの発言と絡んで重要なのが、(1)の新分野におけるルールの策定である。
そもそも、GATTは貿易機関であり、1970年代頃までは、「関税」の問題が中心に扱われていた。これに対して、東京ラウンド、そしてウルグアイ・ラウンドの頃になると、一定の成果がみられた「関税」の引き下げに加えて、いわゆる「非関税障壁」と呼ばれる、関税以外の問題が採り上げられるようになってきた。これは、一定の関税引き下げが達成された結果、さらなる国家間の自由で公正な貿易を図るためには、知的所有権や環境の保護などの、関税以外で貿易に影響を及ぼしている事柄に関するルールが必要との認識が、加盟国によって共有されてきた結果といえよう。
例えば、知的所有権に関しては、たとえ関税が無くなっても、相手国において知的所有権が保護されず、不法なコピーやパテント使用料を支払わないで製造された製品が輸出・輸入されれば、公正な貿易が阻害されるということになる。また、環境に関しては、環境保護の名の下に輸入禁止等の措置を取ることが、保護主義の隠れ蓑になっているという指摘がなされている。この結果、WTOは従来の関税に加えて、幅広い事柄、しかも「公衆の関心を喚起する主要な問題」に関する、グローバルガバナンスを行うことになってきている。
4)WTOにおける研修
以上のような観点、つまりWTOにおけるグローバル・ガバナンスという視点から、この1ヶ月のWTOにおける研修を振り返り、まとめにかえたい。
この七月より、WTO事務局のIntellectual Property Division(IP)においてインターンを行っている。具体的には、様々な基礎資料収集から、「競争」に関連する会議に参加し、メモを作成し提出するなど、多岐に渡る研修を行っているが、主として、WTO事務局が今秋出版予定のWTOにおける「競争」政策に関する書籍の校正、そして「競争政策」に関する二国間・地域間ルールに関するリサーチを行っている。研修中、学んだことは多くあるが、その中でも特に、グローバル・ガバナンスという観点において興味深かったことを三点指摘したい。
第一に、議事概要の報告のために出席したDomestic Regulation(DR)に関する作業部会について記述したい。
この作業部会においては、先に会計サービスの内容について、国際的な枠組み(Discipline)が決められたことをうけ、会計サービス以外の、例えば弁護士などの専門職種により提供されるサービスの内容についても、一定の国際的なDisciplineを設定することができないかが、扱われている。会議においては、加盟各国が行った自国の専門職種を管轄する機関へのヒアリングの報告がなされた。会議の中では、枠組みの設置に比較的積極的な、欧米、香港などと、消極的なマレーシアなどの途上国とが相互の議論を展開しているのが、興味深かった。またそれにあわせて、各国が自国においてヒアリングを行い、その結果をシェアするという手法も、グローバル・ガバナンスのルール作りの段階における「衆知を集める」プロセスとして、注目に値する。けれども、何よりも専門職種によるサービスに関する枠組み作りをWTOにおいて扱かっているということ自体が、WTOにおけるグローバル・ガバナンスの一環として印象深かった。国際会計基準の導入を参考に、これを他の専門職の提供するサービスまで広げようという試みは、いささか意欲的に過ぎるようにも見える。けれども、「グローバル化のスピードは、各加盟国が認識している程度をはるかに越えて早い」(A.Otten,Director of IP Division, WTO)ことを考えあわせると、決して行き過ぎとは言えないではないであろうか。
第二に、貿易と環境に関する作業部会においてインドが提出したペーパーについて記したい。
このペーパーの中で、インドは、先進国で取得されているバイオテクノロジーに関する特許について議論を展開している。インドは、インドなどの途上国で採取される植物等を用いて、しかも途上国において永年にわたって伝承されてきた手法を、欧米企業が自らの特許として申請・取得している点をPiracy(剽窃)として糾弾している。国際社会における特許、しかもWTOにおけるTRIPs(Agreement on Trade Related Aspects of Intellectual Property Rights)などというと、欧米諸国が先行技術により早々と特許を取得し、途上国の特許権侵害を訴えるという構図が、まずに思い浮かぶ。けれどもこのペーパーは、「特許を不正に侵害している」とされている途上国が、実は「特許を侵害されている」場合が多々あるという事実を鋭く指摘している。このペーパーに関しては、先進国、途上国双方から活発な意見が寄せられた。恐らく、TRIPsの積極的な運用に熱心な米国は、このペーパーによって戦略の見直しを多かれ少なかれ図らざるを得なくなるであろう。これに対して、「TRIPsは先進国にのみ有利」とTRIPs全般に関して消極的であった多くの途上国は、自国の権利を保護する手段としてTRIPsを再検討することが予想される。「知的所有権を国際社会の中でどのように保護するか」という、グローバル・ガバナンスの問題に関するルール作りにおける「衆知を集める」プロセスをここにも見たような気がする。
最後に、現在、私がリサーチに携わっている「国際競争政策運用」に関する二国間・地域間の協力協定について感想を述べたい。国際カルテルや国際企業統合に対する、グローバル・ガバナンスの必要については、塾報等において指摘しているので、再述は避けるが、現在、これらの国際カルテルや国際企業統合に対しては、二国間、地域間、そして多国間での取り組みがなされている。WTOの「競争と貿易の相互作用に関する作業部会」において、米国は、有名なWorldCom/MCIの合併に関する審査や、昨年検挙され注目を集めた国際ビタミン・カルテル事件の審査などにおける、二国間協定に基づく各国当局の協力の実績を強調し、二国間の枠組みだけで十分にこれらの問題に対処できるとの姿勢を従来示してきた。これに対して、ブラジルなどは、個々の事例は二国間協定で対応できると米国の立場に理解を示しつつも、世界規模で発生するアンチ・カルテルの事件に適切に対応するためには、まず世界各国が競争法を制定・運用していることが求められるとする。現在、世界では80数ヶ国が競争法を制定しているに過ぎない。グローバリゼーションのスピードと、それに伴うアンチ・カルテル行為の国際化を考えると、WTO全加盟国の迅速な競争法制定が望ましい。そのためには、TRIPs協定のように(TRIPs協定により、WTO全加盟国は、適切な特許・著作権法等を制定・運用することが義務づけられている。)、WTOで加盟国に競争法の制定・運用を義務づけることが望ましいと、ブラジル等の国々は主張している。
このように、WTOにおける「競争ルール」策定に関しては、WTO加盟各国はいまだコンセンサスは得られていない。けれども、競争政策の国際的な運用に関する、二国間協定、地域協定、多国間協定に関して、活発な議論がなされているにもかかわらず、筆者の見る限り、現在、どれだけの二国間、地域間、多国間の協定があり、それぞれがどのような内容を有するのかを明確に記した文献は、見あたらない。競争に関する多国間協力が必要というコンセンサスに至るのであるにせよ、二国間協力だけで十分となるにしろ、それぞれの協定に関するまとまったリサーチが、その議論を明確なものとするためには不可欠である。筆者自身は、(いささかおこがましくはあるが)このリサーチをよりよいものとすることによって(作成した資料はWTO作業部会の正式なペーパーとして提出される予定)、少しでもグローバル・ガバナンスの確立に貢献できるのではと考えている。
以上。
参考文献 |
Thesis
Kenichi Kobayashi
第19期
こばやし・けんいち
Philip Morris Japan 副社長
Mission
産業政策(日本産業界の再生) 通商政策(WTO/EPA/TPP)