論考

Thesis

議論はなぜ死んでいるのか

ユーロXをめぐるルクセンブルクの欧州首脳会議はことが通貨統合の意思決定機関の問題だけに予想通り荒れた。
その中にあってイギリスの目的は、通貨統合第一陣に参加せず意思決定機関のユーロXにはオブザーバーとして参加できるように各国を説得する事であった。
英側としては99年の参加は見送るものの第二陣の2000年以降にいずれ参加せざるを得ないであろうことが予想されている以上、ユーロ政策について全く無関係であるわけにはいかないのである。
また既にポンドがマルクにリンクしているためイギリスの金融政策は事実上フランクフルトのブンデスバンク(ドイツ中央銀行)が決定権を握っているようなかっこうであるが、ユーロが誕生し欧州中央銀行がこれに変わることを思えば、ユーロXへ参加するかしないかは残留した自国通貨ポンドそのものの決定権を確たるものに出来るかどうかという意味合いも帯びてくる。
が、二重帳簿まがいのことまでやって血のにじむ思いで財政再建を進め通貨統合参加にこぎつけた他のユーロ参加国としては通貨統合には参加しないがその意思決定機関には参加するというイギリスの主張は我侭以外のなにものでもないと映っていた。
そのためルクセンブルクにのりこんだブレア首相の使命ははじめから困難を極めた。
いわばことユーロXに関する限り対英包囲網の中に飛び込んだかっこうになったのである。
ユーロX参加は絶対に通貨統合参加国に限られるとする独仏を筆頭とする欧州首脳を前にブレア首相は熱弁をふるい、あるいは情熱をこめて説得を試み、あるいは激しく応酬した。
同首相が相手を制止して反駁すること実に30回に及んだというからプロトコールを重んじるEUの首脳会議としては異例の激しさであった。
結局多数を得ることなくイギリスの主張は退けられたが、ブレア首相の力強い弁舌には最も強硬な反対者であったフランスのジャック・シラク大統領をして感嘆せしめたほどであった。
ビジョンを提示する構想力と、人々を動かして実現しうる説得力が政治家の資質の第一であることは英国議会にいけばすぐにわかる。
オックスブリッジに限らずあらゆる大学には学生保守党協会や学生労働党協会などがあり、ここで将来の政治家をめざす学生がディベートの習熟に余念がない。
かのサッチャー女爵や現保守党党首のウィリアム・ヘイグ氏などに限らず有名な政治家の多くはオックスフォードの学生保守党協会で会長職を務め、政界への足がかりをつかんでいる。
イギリス政界においてはまず討論ができないというのは政治家として一生バックベンチ(陣笠議員が座る議会後部座席のこと)で暮らす事を意味している。
閣僚や影の内閣といわれる野党の有力議員はフロントベンチといわれる最前列に陣取って、激しい舌戦を展開するので口下手には生涯このフロントベンチに座る順番は回ってこない。
例え座ったとしても一度議論で躓けば即バックベンチ行きという極めて厳しい議員間の競争がまちうけているのである。
また選挙民も一生涯バックベンチで終わるような人物を選挙区の代表には選ばないので自然政治家を志す候補者は弁舌の研鑚に血道を上げるのである。
だからイギリスはこと議会に関する限り徹頭徹尾市場原理・自由競争の国である。
日本のようにただ議員として何回か当選すれば政務次官、その後常任委員会の委員長、そして閣僚というふうに当選回数至上主義は存在しない。
何十回当選しようとも議席で黙っている議員は、政治のあらゆることに関して永遠に黙ってなければならないのだ。
だから閣僚をめざす議員たちは日々政策を研究し、議論に磨きをかけ、万全を期して真剣に議会に望のである。
新人議員は週二回、月曜と水曜の午後30分間設けられたクェスチョンタイムという時間がある。この時間が始まるとバックベンチの議員たちは一斉に挙手をして議長に指名してもらおうとする。彼らバックベンチャーが首相や閣僚に質問できる唯一のチャンスであり、この時間帯でいかに優れた質問ができるかどうかが、下院で認められ閣僚(もしくは野党なら影の閣僚)になりうるかどうかの言わば瀬戸際と言ってもよい。当然皆必死の形相である。
自分を売り込む唯一のチャンスなのでどの議員も質問に相手が例え首相であっても手心を加えたりはしない。
厳しく鋭く、時にはユーモアをまじえながら相手の論理の矛盾を突き自己の論拠を明確に主張するのである。
またこれらを統括する議長の権威も絶大である。
議長はスピーカーとよばれ下院で演説する議員は、議長席の前のディスパッチボックスと呼ばれるテーブルに寄りかかったりしながら「ミセススピーカー、私としては今回の政府の決定が我が国に甚大な不利益をもたらすものであると確信しております。その理由は…。」という風に形式上、議長に話しかけているようなふりをする。
木槌をたたいて「オーダー、オーダー(静粛に)!」と議長は野次る議員を静めたり、それでもやめない行儀の悪い議員は叱責したりする。
ともかく議長は下院の絶対者と言ってよい地位にある。いわば議論の守護者なのだ。
現下院議長はベティ・ブースロイドである。彼女はロンドンのダンサーから芸能人組合を経て労働党下院議員になつたという異色の経歴の持ち主で、また威厳だけでなく人間味も多分に持ち合わせている人物とのこと。下院では議員たちに抜群の人気だそうである。
ともかく議会における自由にして闊達な議論を重視する風土が政治を国民にわかりやすくさせているといえる。
裏取り引きや党首の思惑一つで決まるようなことは余りない(全くないわけでなないが少ない)。
政党そのものの意思決定も年1回の党大会で議論をつくして決める。
だからこそインパクトも大きくいつそれがどんな理由で政策変更されるのか一般国民にもよくわかるのである。
ブレア首相がまだ労働党党首になったばかりの時、この労働組合を祖とする政党は党規約第4条に「主要生産手段の国有化をめざす」という前時代的な条項を持っていた。
要するに労働党が再び政権を取ったら、鉄道や電気、その他サッチャー政権が民営化した国有企業を再国有化しますよ。という意味で労組上がりの古参党員たちはこの条項を指して「労働党の魂」と呼ぶほどであった。
しかし4回連続総選挙で負け続けた末、国民の多くは再国有化など望んでおらずこのカビの生えた条項を削除しない限り労働党を政権の座に押しもどすことは不可能であろうとブレア党首は考えたのである。
かくして「第4条削除問題」が全労働党に浮上する。決定が行われる党大会の代議員票は労働組合が70%、地区の一般党員が30%という労組偏重の歪んだ配分になっており、これが歴代党首をして4条の削除に失敗させ続けた原因となっていた。
すでに巨大労組の幹部たちはブレアの4条削除案には反対を表明しており、この試みは再び失敗するかに当初思えた。
ブレア党首は、党大会までの数ヶ月間イギリス全土を駆け回って、どんな小さな集会にも顔を出し、時には敵意の中で説得しながら、この条項があるかぎり絶対に政権は取れないこと、例えこの条項を削除しようとも弱者のためにより良い社会を建設するという労働党の理念はいささかも変わりはない事を情理をつくして訴えた。
直接対話した党員は延べ2万人におよび、受けた質問にいたっては8千を越えた。
1995年労働党大会においてブレアは労働組合の絶大な力を奇跡的にはね返し、ついに党規約第4条を削除する事に成功する。このことによってサッチャー以来保守党政権が行ってきた民営化路線を労働党もまた継承するのだという事を内外に示し、国民に政権党になる準備が有る事を証明することとなった。
政党を解散するかしないかを党首の一存で決められる国とは隔絶の感があるし、「拍手で承認をお願いします!」といった質問の一つも無い両院議員総会を見ても同じ思いがするのは私だけではないであろう。
あらゆる問題に光をあて、風を通し、オープンに議論しあい、ある者はビジョンを示して説得を試み、ある者はその論理に矛盾あればこれを正して自説を述べるという議会政治の初歩の初歩が存在しないのは何故なのかと不思議である。
問題は風土なのだろうか?
黙っていても日本人同士は理解しあえるとか、「あ、うん」の呼吸というものが信じられているがそんなものは嘘八百であって、もしあったとしてもどこの国どこの民族でも持っている文化的な以心伝心の範囲であろうと推察する。
要は議論を恐れる心にこそ問題がある。
弁舌の才はもちろん先天的なものもあるであろうが、後天的な訓練のほうが一定レベルの水準ならば大きい。別に日本の政治家のすべてがダニエル・ウェブスター(19世紀の米上院議員。天才的な雄弁家)にならなければならないと言っているわけではないのだ。
結婚式のスピーチなどがそうであるようにカラオケと一緒で場数が物を言う場合が多い。より高度で技能を必要とするディベートにしても訓練と思考法の基本的な習得をすればあとは場数の問題であろう。
「遺憾」「前向きに善処」等々国会で日常会話で誰一人つかわないような不思議な言辞を弄するのは実状に基づいた論理で争わず、言葉を濁して論拠の薄弱さを隠蔽する卑怯さによるものだろうが、これは国会議員に限らず日本人がよく使う手である。
「フラクタル」「パラダイムシフト」と言ったカタカナ専門用語をつなげて会話にしているのもたぶん類似の心理によるところが大きい。
日本人の面白さは、カタカナや専門用語に極端に弱いということである。
さっぱり何言っているのかわからないのに、聞いているだけで頭がよくなった気になるのか「わからない」とは絶対いわない。
議会に限らず雑多な人々に説明する時は、できるだけ簡潔な言葉でわかり易く説明するのが聞いている人に対する礼儀であろう。もちろん一人で壁に向かってしゃべっている時ならばこの限りではないが。
これは議論というよりも人間関係の能力の不具合に帰するところ大なのでここではこれ以上論じない。
ただ質問を恐れるあまり(または答えられず面子を失うのを怖がる余り)全ての人間がなるべく相手が理解できないようにと言葉を選らんでしまったらこの世は小さな国会だらけになってしまうだろう。
余談ながら大学教育のレベルではゼミ活動などでずいぶんとディベートを導入するところも増えてきてはいるようだ。
ただ本来このような談論風発の風潮を引っ張っていくべき各大学の弁論部が最近低調なのは残念の一言につきる。
私も学生時代は余り熱心だったとは言えないので説教がましい事は慎みたいが、欧米の大学を見るにつけもっともっと学生弁論界の真剣な競争を通した技術の向上が必要であるように思える。すくなくとも体育会のスポーツクラブ並みの努力と時間を払う必要があるのではないだろうか。
また政党も人材難だと嘆じているのではなく、積極的にこれらの中の優秀な学生を吸い上げる努力をして欲しい。ディベート等のコンテストを主催するのもよし、政策研究会を開催するのもよし、英国のようにその中でこれはという学生をリクルートして党の政策調査会で研究させたり、選考を行ってから各種国政・地方選挙の候補者として擁立したりすべきであろう。
現在企業や公務員に流れている優秀な人材の内1割でも政治の世界に引き寄せることができるならば大きく日本の政治が変わる可能性があるのではないだろうか。
ともかく政治を決定する本質が「影響力」と「裏取り引き」ということならば、いずれ行き着く果ては収賄であり、接待であり、ノーパンしゃぶしゃぶという政治腐敗の蔓延する世界でしかない。
議論と説得力が優れたリーダーの素質第一であるところは洋の東西を問わない。形而上の正義体系を言い争う朱子学の風を見てもわかるとおりかつて李朝朝廷においては議論に敗れれば「即チ、九族滅ブ」という過酷なものであった。
文明論をもって議論を忌避するのはまさしく詭弁以外のなにものでもないことがよくわかる。
結論を言えばどこの世界でも、議論のできない者、説得する熱意に欠けるものは何事かを為すことはないであろうということである。
我が松下政経塾はどうか。この文脈において真に議会人を育てる場であるだろうか。
ここでは敢えて答えないが、答えなくとも我が心中は伝わるに余りあるであろう。

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平島廣志の論考

Thesis

Koji Hirashima

松下政経塾 本館

第15期

平島 廣志

ひらしま・こうじ

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