Thesis
「選挙は制度の中に隠された革命である。」とイギリスの諺にあるそうだが、先週のイギリス総選挙は文字通り「革命的」な結果に終わった。
1979年にキャラハンが失った政権の座をトニー・ブレア率いる労働党は18年ぶりに圧倒的多数で奪回したのである。
しかし今回の保守党敗退の凄まじさは目を覆うべき物がある。
スコットランド、ウェールズの両地方では全滅し、リフキンド外相、ポーティロ国防相ら現職閣僚7名が続々落選するという有り様で、小選挙区選挙の恐ろしさを感じる。
昨年の狂牛病問題で見せたメジャー政権の失態、相次ぐ保守党議員のスキャンダル、欧州問題をめぐる党内右派の反乱、有権者の18年という長期政権への飽き、対する労働党党首の清新さなどなど今回の政権交代の要因は考えられるが、なによりも注目すべきは英国労働党自身の変化であろう。
イギリスは伝統的に完全小選挙区制度を前提とした二大政党制といわれている。
ここで何故、完全小選挙区制を前提とするのか少し説明がいる。
実は政党別の得票率でみるとイギリスは今世紀初頭から一貫して三大政党制なのであるが、1選挙区1議席で相対的過半数を獲得した候補だけ当選する仕組みの小選挙区では圧倒的に第三党は不利な状況に追い込まれる。
すなわち得票率レベルでは特に第二党と第三党の票差は余り無くても、制度の枠組みで二大政党と小さな第三党という状況が意図的に創り出されるのである。
すべての選挙制度は利点と欠点を兼ね備える宿命をもっているが、この完全小選挙区制度も得票率と現実議席数に矛盾が起こる反面、二大政党に議席を集約しやすく(あくまで意図的にではあるが…)、政権交代が起こりやすいなどの特質がある。また間接的な長所としても政党の力が行政府に対して優位になりやすいこと、党首に権限が集中しやすいということもある。
この二大政党制の利点を徹底的に活用し11年という長きにわたって政権を維持したのが、マーガレット・サッチャーである。
イギリスのLSE(London School of Economics & Political Science)で教鞭をとる森嶋通夫氏は著書「サッチャー時代のイギリス」(岩波書店)の中でイギリス政治の非効率な点はまさにこの二大政党制と頻繁におこる政権交代にあると指摘している。
労働党と保守党という社会階層など政党としてよって立つ基盤が完全にことなる場合、追求する政策や政権像も異なる。
このような二大政党間で政権がやり取りされた場合、特に経済政策などで政策の断続が生まれそれがために経済そのものが変調を来たす恐れが強いという論拠である。
1970年代を襲ったイギリス経済の低迷はこの政権交代による政策の断絶にあるという主張である。しかしながら森嶋氏の主張には若干の疑問がある。
まず第一に、1979年までの時点で本当に保守党と労働党の間には経済政策について明確な違いが存在したのかという点である。
第二次大戦直後にクレメンス・アトリー率いる労働党が「揺りかごから墓場まで」をスローガンに社会保障国家(注、福祉国家ではない)の建設を掲げてチャーチル政権を破っていらいサッチャー夫人の登場まで、イギリス経済政策は政権が労働党であろうと保守党であろうと基本的に社会保障政策を軸として展開されきた。
マクミラン保守党政権では労働党が行った一部企業の国有化政策も継続したほどであり、このような両党の合意による経済協調路線を当時マクミラン内閣の蔵相バトラーと労働党党首ゲイツケェルの名前をとって「バツケェリズム」と呼んだほどであった。
しかしこのバツケェリズムは森嶋氏の主張とは逆に70年代末期様々な社会の局面に歪みを生じさせ始める。
特に両党による所得政策は慢性的なインフレを招き、これが英国病といわれるイギリス経済の衰退に拍車をかける結果となったのである。
74年保守党のヒース首相は労働組合との交渉に失敗したことで総選挙にも敗れることとなる。
現在でもそうだが、当時イギリスの労働組合は極めて強大でなおかつ戦闘的なストライキで世界的にも有名であった。
政府は雇用対策やその他社会保障の問題にとどまらずマクロ経済政策まで組合や経済団体と話し合い、合意を形成していく「コーポラティズム」と言われる政策過程で政権を運営しており、これは保守党、労働党を問わず共通の政治手法であった。
やがて経済政策をめぐって完全に政府(当時労働党政権)と労働組合が対立し、ゼネストが頻発、主要交通は完全に麻痺し、病院では医者や看護婦が職場を放棄し、学校は休校し、清掃車はゴミを回収せず街には異臭が漂い、イギリスそのものが国家機能を停止したかに見えた。
「合意の政治」はここにきて完全行き詰まったのである。 79年、インフレ撲滅を掲げてサッチャー政権が誕生する。
サッチャーは保守党内でも極めて少数派であったマネタリズムを基礎に新保守主義(のちに彼女の名を取ってサッチャリズムと呼ばれるもの)路線をイギリス経済再生のための唯一の選択肢と考えた。
それは福祉の切り捨てであるだけでなく、非効率な経済部門の切り捨てであり、より具体的には国営企業の民営化を含む、行政府の徹底的な縮小であった。
当然、サッチャリズムの実行は社会保障国家を社会の共通認識とし、コーポラティズムを政治体制として、コンセンサス・ポリティクスを政治手法としてきた従来のイギリス政治を否定する側面を持っていた。
当然あらゆる方面から反発は起こった。
ロンドンから大量の警官を投入して鎮圧した炭鉱労働者の山猫ストや政府部門の職員の反発、野党労働党の激しい攻撃もさることながら、身内の保守党内部ですらけして穏やかではなかった。
サッチャー政権の歴史は閣僚の反乱の歴史でもある。
マイケル・へーゼルタインやジェフリー・ハウ、ナイジェル・ローソン、フランシス・ピムといった次期首相といわれた人々ですら閣議の席上でサッチャーと激突し次々と辞任していった。
ピーター・キャリントン卿やレジナルド・モードリンのようにサッチャーに従わず更迭された有力政治家も後を絶たない。
現在のイギリス経済の好調さはこのときのサッチャー政権の一連の改革に負うところが大きいのは周知の事実であるが、当時は成否のわからない激しい改革に批判の大合唱であった。
サッチャーの成功は「鉄の女」といわれる彼女のパーソナリティーに負うところが大きいのも当然あるが、それ以上に彼女を助けたのは前述した選挙制度と二大政党制、そして日本とは比較にならない政党の党首への権力の集中性であるとも言える。
この党首の地位の高さと権力の大きさが、多くの批判を退け、改革を断行させる要因になったのだというべきであろうか。
サッチャーがなしとげたことで彼女の意図しなかったことが実は一つある。
労働党の大変身である。公共部門や非効率な国営事業の民営化は強固であった労働組合の力を弱体化させることに成功したが、その反面労働組合に忠実な党であった労働党の政策をも労組に依存せず大転換させる契機をあたえたのである。
保守党がサッチャーのもとで急激に右傾化した分だけ、本来保守党の穏健派が主要な基盤としてきた中道的領域に空白ができ、そこに労働党が進出してきたのである。
キノック、スミスと10数年かかって徐々に労働党は右に旋回していったが、ブレアにいたって党是としてきた銀行など主要産業の国営化の放棄、社会保障の抑制など政策転換に踏み切ったといえる。
今回の総選挙で、労組の出身でもなくオックスフォード卒の弁護士で極めて保守党的な労働党党首を首相にする原動力となったのは、歴史の皮肉とはいえかつてサッチャーが見捨てた人々なのである。
Thesis
Koji Hirashima
第15期
ひらしま・こうじ