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2021年12月

塾生レポート

被害者を責める風潮を考える
中山真珠/松下政経塾第40期生

日本における一部の報道において被害者が責められるという不思議な現象が起きてしまっている。無理心中や虐待死、いじめ、性犯罪など窮地に追い込まれた人たちをさらに追い詰めてしまう危険性もあるこの現象に危機感をおぼえた。本レポートでは、犯罪被害者に対する対応やメディアの在り方、メディアとの向き合い方について考察し、この風潮に警鐘を鳴らしたい。

 

 筆者は「子ども・子育て世代を包摂する社会の実現」をテーマに、これまで子どもの貧困や教育格差を中心に研究・研修を行ってきた。前回のレポートでは「包摂」の定義をもう少し広げ、子どもを守ることの重要性を認識し、学校内におけるいじめ問題を扱った。北海道旭川で起きた少女の自死事件を題材に筆者の考えを述べたが、その中でどうしても気になったことがある。それは、日本における一部の報道において被害者が責められるという不思議な現象が起きてしまっていることについてである。無理心中や虐待死、いじめ、性犯罪など窮地に追い込まれた人たちをさらに追い詰めてしまう危険性もあるこの現象に、筆者は日本社会における集団心理の特殊性、特異性を感じた。そこで本レポートでは、犯罪被害者に対する対応やメディアの在り方、メディアとの向き合い方について筆者の考えを論じたい。

 では、被害者が責められる状況というのは具体的にどのようにして作られるだろうか。例えば、昨今相次いでいる電車内における傷害事件や放火事件を見てみよう。走行中は密室ともいえる空間を利用した悪質な犯行に多くの人が怒りや恐怖を感じたのではないだろうか。事件の場に遭遇した人の中には、二度と電車に乗れなくなってしまう方もいるかもしれない。こうした犯罪事件に対し、おそらく誰一人として「そんな時間に電車に乗っていたから悪い」、「なぜ自分で身を守る努力をしなかったのか」などという人はいないだろう。
 しかし同じく電車内で発生している犯罪であるわいせつ行為について、世間の反応は少し異なる。共感や同情といった理解の姿勢を示す人もいるが、中には助けを求めなかったことや、被害者の状況、服装を注意する人、冤罪の事例を引き合いに出す人も少なくない。二つの事件にはどのような違いがあるだろうか。なぜ後者では被害者が責められるという状況が生まれてしまうのだろうか。筆者は大きく三つの大きな要因があると考える。
 一つは生命の安否に関わるかという点が考えられる。前者の傷害事件では生命の危機が非常に明確かつリアリティのあるものである。一方後者は、究極のところ、「命があるからまだよかった」という結論にたどり着き得てしまい、さらには女性専用車両というセーフティエリアも用意されているということから被害者の危機管理意識を追求する人もいる。しかし当事者の状況をきちんと理解するためには、もう少し想像力を働かせなければいけない。確かにわいせつ行為そのもので命を落とすことはないのかもしれないが、その影響は、心身にさまざまな症状となって現れ、うつ病やPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する危険性がある。被害者の心に大きな喪失感を与えたり、自尊心を著しく低下させたりすることから、性犯罪は「魂の殺人」とも呼ばれる。したがって後者は命にかかわらないということは誤った理解であり、命があるからまだいいという認識を持つ人がもしいるならば、理解を求めていきたい。
 二つ目に、自分が当事者になり得るかという点、すなわち事件の普遍性である。多くの人が電車内で起きる性犯罪と聞くと若い女性が被害者であるという認識を持つだろう。実際には年齢や性別に関わらず、だれもが被害者になる可能性があるのだが、前者のような「自分がその場にいたら」という強烈な恐怖感や当事者意識を持つ人は少ないかもしれない。

 三つ目に、「正義中毒」的集団心理があると考える。脳科学者の中野信子によると、人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人など、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできており、さらに 他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されるという。傷害事件のケースでは、死者やけが人という目に見える被害があり、加害者が絶対悪となりやすい。しかし性犯罪は、物的証拠が少ないケースが多く、どちらかが嘘をついているかもしれないという状況が生まれてしまう。実際に過去に冤罪事件もあることから、被害者への疑いも残りやすい。さらには被害者側に落ち度がなかったかという粗探しが始まってしまう。
 そうした流れで、本人も意図しないうちに被害者を批難するという行為を取ってしまい、それに対して周囲も疑問を感じない、あるいはその批判に同調するといった空気が醸成されてしまうことがあることに気をつけなければいけない。また、「自分もつらい経験をしたけれど乗り越えた」といったような被害者に寄り添う姿勢のように見えて、実は当事者にSOSを出しにくくしてしまうことにも注意が必要だ。
 受け入れがたいことだが、本人も気が付かないまま立場の弱い人を糾弾しているという構図は往々にしてあると感じる。分かりやすい例は、虐待死した子どもの親への反応だ。児童虐待に関する報道には必ずといっていいほど親を責める声が上がる。この背景には、日本社会における「子育ては家族の責任」という根深い考えがあると考えられる。しかし、もし子どもを死に至らせてしまった親自身も問題を抱えていたとすればどうだろうか。それを罪に対するエクスキューズにしてはいけないが、子どもを守ることができなかった社会にも問題があるという視点も同時に必要だと感じるのである。したがって情報を受け取る側も、当事者意識を持って問題を受け止め、考えるべきではないかと考える。情報収集については節度を持ちつつ、同時に「なぜ問題が起きたのか」、「未然に防ぐためにどのような対策が必要か」といった能動的に情報を集める姿勢も必要だ。

 これらの考察から、被害者を守るために必要だと考えることについて述べたい。
 一つに、被害者のケアの徹底が必要だと強く感じる。筆者は思うに、被害者が一番初めに求めているのは「大変だったね」という言葉なのではないだろうか。不安に押しつぶされながらも必死の思いで声を上げ、警察など見知らぬ人に事情を説明するのはとても勇気のいることである。そんな極限状態の被害者に取るべき対応はまずは安心感を与えることだと筆者は考える。また万が一、加害者を取り逃がしてしまい、泣き寝入りで終わってしまったとしても、その後の周囲の対応で残る傷の深さは変えることができる。被害者のアフターケアを徹底するよう対策を考えなければいけないと考える。
 そして、直接本人と関りはなく報道を見聞きした第三者だとしてもこの心がまえを持ちたい。ことに昨今はSNSなど顔の見えない空間の中で意見を発信しやすい。ネット記事に対し、何気なくつぶやいた反応が、大きく拡散され、事件の当事者に届いてしまうということは十分にあり得る話だ。
 また二つ目に、だからこそメディアの報じ方についても注意が必要であると考える。例えば、自殺に関する報道を見てみると、報道の仕方によっては、それによる子どもや若者、自殺念慮を抱えている人の「模倣自殺」や「後追い自殺」を誘発する可能性があることを踏まえ、厚労省がメディア向けに『自殺報道ガイドライン』[1]を作成している。筆者は、児童虐待やいじめ、性犯罪といったセンセーショナルに報じられる話題、かつ当事者や第三者に大きな影響を与えうる話題には、メディア関係者の繊細な配慮が必要であると考える。

 以上が、日本における被害者保護に関する筆者の考えである。今回のレポートは極めて主観的な考えに依拠して論じているが、研修を行う上で常々思案を巡らせているテーマである。筆者が描く「子ども・子育て世代を包摂する社会」を実現していく上で、今回の被害者保護に関する考察が必要だと感じている。しかし実際にレポートにまとめるなかで、日本独自の集団心理を論理的に把握することは容易ではないと感じた。山本七平の『「空気」の研究』[2]で述べられているような目に見えない存在、「臨在感的把握」に共通するものを感じ、文化的理解、社会学的理解が求められるように思う。今はまだ根拠のない自論だが、残りの1年間の研修の中で言語化できるよう引き続き研究していきたい。



[2]山本七平「空気の研究」(文春文庫)
2021年12月 執筆
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