Thesis
90年代以降、多くの先進諸国で個人化と呼ばれる現象が起きている。それぞれの生き方に自由度が増す一方、様々な生活リスクへの対処が個人に求められるという負の側面がある。こうした個人化社会のなかで孤立や課題の潜在化のリスクを最小化するためには社会的包摂政策[1]を拡充していく必要があると筆者は考える。本稿では、個人化時代における孤立について筆者の考えと対策について述べていきたい。
日本を含む先進諸国における社会が「個人化時代」に突入したと言われるようになって久しい。これにより個が尊重され、それぞれが思い描く理想の生き方を追い求めることができるようになり、差別をなくし、文化や多様性を尊重する考えが主流となるなど、個人にとって自由な時代になったといえる。一方、個人化により地域のつながりが希薄化し、孤立や孤独が潜在化しやすくなるなど負の側面も大きい。ドイツの社会学者、ウルリヒ・ベックはこうした個人化の特徴を「リスク化」と表現し、個人化に伴う社会的リスクを訴えた。こうした状況の中、筆者は子どもを取り巻く環境における孤独、孤立に強い課題意識を抱いている。そこで本稿では、「個人化時代」という切り口から現代日本における孤立に焦点を当て、その解決策としての包摂社会の在り方について筆者の考えを論じていきたい。
「個人化」もしくは「個体化」(individualization)とは1990年代後半以降頻繁に用いられるようになった考えである[2]。個人化の背景には、1960年代以降起こった共同体の衰退、1970年代以降急速に進展した高度消費社会化、1990年代以降本格的に展開された新自由主義政策が原因として挙げられ、「親密圏の変容」すなわち自己の在り方、他者との関係の取り方の変容という事態をもたらしている。[3]
ドイツの社会学者、ウルリヒ・ベックは現代社会における個人化の特徴について「リスク化」という言葉で表現し、今まで安全で安心と思われていた生活がリスクをともなったものに変わったと警鐘を鳴らしている[4]。(ベック, 1998) 個人化社会においては、それぞれが生活における様々な選択の主体であり、その過程において他者の干渉を受けることはない。それぞれが自分の人生に責任を持ち、理想の生き方を自由に追い求められる社会と言い換えることもできるだろう。他方、この決断によって起きる様々な出来事は、「自分自身が招いた事態」であり、その責任もまた個人に帰結する。すなわち、これまで地域や会社などコミュニティーとして対応してきた様々な生活リスクへの対処が、個人に求められるようになったのである。こうした個人化時代において、個人がさらされるリスクの最小化、特に身体的、精神的、経済的ハンディキャップなどのある立場の弱い人たちを孤立から守るためには社会的包摂政策が必要だと筆者は考える。次章では、その理由について詳しく述べたい。
ここまで「個人化時代」に至るまでの経緯と社会変容に伴うリスクについて、多くの先進諸国が向き合っている共通の課題として述べてきたが、加えて日本国内においてはもう一点特筆すべき特徴があると筆者は考える。社会変容にともない「個人主義」が国民の思想に定着しつつある一方で、いまだ根強い「家族観」である。1990年代以降、多くの先進諸国がそうであるように、日本も例にもれず個人化の道をたどり、それに基づき社会システムが変化を遂げたことはもはや説明の必要もないだろう。この社会変容は、子どもや若者、子育て世帯を取り巻く環境にも大きく影響を及ぼし、子ども会の加入率や児童館利用率の低下などから地域コミュニティーとのつながりが希薄化していることがうかがえる。
江戸川区の子供会の事例を参考に見ると、ピーク時の昭和54(1979)年には38,872人の会員が加入したのに対し、令和元(2019)年には5,941人と著しい現象が見られる。当然、少子化傾向にあることから児童数が相対的に減少していることは留意しなければいけないが、「子ども会に加入しない理由」として、「役員をやりたくない」「塾や習い事で忙しい」「加入しなくても困らない」「子ども会活動に魅力がない」などが挙げられており[5]、共働きなどの理由で多忙が考えられるほか、地域コミュニティーへの期待の薄さ、子育ての個人化などが背景にあるのではないかと推察する。
図: 江戸川区「子ども会活動に関するアンケート結果」(2019年実施)
しかし子育てや結婚などの制度や現実には伝統的価値に基づく家族観が今も根強く反映されており、この強固な「家族観」は時として仕事や子育てにマイナスに作用していると筆者は考える。子育てに関する社会課題を表すキーワードとして「孤育て」、「子育て罰」などの言葉がメディアなどで散見される[6]。これは、子育て環境における孤立や重圧を象徴的に表す言葉であり、筆者は実際に当事者からの共感の声を耳にしたことがある。さらに犯罪学を専門とする龍谷大学の浜井浩一教授は、日本の連帯責任的な家族観を次のように痛烈に表現した。
「日本は家族全体が非難される、ある意味“家族人質社会”みたいなところがあります。諸外国でも多少こういう傾向はあるんですけれども、家族がここまで非難されるのは日本独特の現象。家族全体がバッシングの対象になってしまう。社会的に孤立して、重大な事件の場合には自殺する人も出てしまう」[7]
これは、昨年9月に放送されたNHKの番組のなかで加害者家族に対する支援について言及した際の発言だが、「家族人質社会」という言葉は日本における家族観のネガティブな部分をとても的確に言い表しているように感じた。こうした「家族主義」と個人化社会のギャップの中で、だれにも助けを求められない、SOSが潜在化してしまうといった「孤育て」問題が生じているのではないだろうか。すなわち、このダブルスタンダード的矛盾が子育てにおける社会的孤立を生み出す要因になっており、国家はその解決に踏み出すべきだと筆者は考える。
以上の考察から、筆者は社会的包摂政策の拡充が今、最も求められる対応の一つであると考える。コロナ禍の影響で、個人化はいっそう加速したと言えるだろう。社会変容がもたらしたリスクを最小化するため、孤立や孤独を予防し、一人ひとりが自分らしく生きられるよう支えることが福祉国家としての責任ではないだろうか。「孤」ではなく「個」を伸ばしていけるよう、引き続き包摂社会の実現に向けて励んでいきたい。
注
Thesis
Shinju Nakayama
第40期
なかやま・しんじゅ
Mission
子ども・子育て世代を包摂する社会の実現