論考

Thesis

「釜ヶ崎」で考える子ども支援の在り方

新型コロナウイルスが猛威を奮った2020年、不況の煽りで多くの人々が職を失った。生活困窮世帯の子どもたちは今どんな日々を過ごしているのか、その実態を知るべく筆者は大阪市西成区に位置する日本最大の日雇い労働者の街、通称「あいりん地区」で現場研修を行った。この経験から得た学びと、西成の子どもたちのことを少しでも知っていただきたいと思い、西成で過ごした1か月半で筆者が感じたこと、学びを本レポートにまとめた。

 みなさんは「釜ヶ崎」と呼ばれる場所をご存じだろうか。大阪府大阪市西成区の北部、JR新今宮駅の南側に位置する地区、いわゆる「ドヤ街」といわれる場所の通称である。日本最大の日雇い労働者の街「あいりん地区」といえばピンとくる方も多いのではないだろうか。釜ヶ崎という地名は明治33年まで使われていたが、のちに町名変更で消滅したため、現在の地図上には存在しない。しかし西成の人々は、江戸時代から続く長い歴史の中で、職を失った人たち、立場の弱い人たちがお互いに支え合いながら暮らしてきたこの地域に対する誇りや親しみを込めてこの呼び名を使っているのではないかと私は感じる。

 そんな街、釜ヶ崎で40年以上に渡って地域の子どもたちを支えているのが「認定NPO法人こどもの里」という団体である。私は昨年11月末から今年1月まで、この団体で
実習を行いながら、釜ヶ崎の子どもたちの暮らしと、彼らを支える大人たちの存在について学ばせていただいた。本レポートでは、実習を通じて感じたこと、気づいたことについて述べていきたいと思う。

 まず初めに、今回なぜ釜ヶ崎で現場研修を行ったのかについてお話ししたい。私は、人生の半分を大阪で過ごしてきたにも関わらず、今回の研修を始めるまで一度もこの街を訪れたことがなかった。私を含め、関西のひとの多くはこのあたりにあまり立ち入らない。路上生活者が多く、頻繁に暴動が起こっていたことから「日本のスラム」などと呼ばれ、幼いころから「西成は危ない町だから、絶対に近寄ってはいけない」と言い聞かされて育った。すぐ近くのフェスティバルゲートや天王寺動物園にはよく遊びに行っていたが、生まれてから25年間、一度も訪れたことがない町。それが私にとっての西成だった。

 2020年11月、私はそんな未知の街に飛び込んでみた。きっかけは、新型コロナウイルスの影響で多くの人が仕事を失っている現状をニュースなどで見聞きし、生活が立ち行かなくなってしまった人たちがどんな暮らしをしているのか知っておくべきだと思ったからである。これまで約5年間子どもの貧困支援について学んできたが、その本質ともいえる路上生活者などの支援については私自身、触れてこなかった。今まで自分が知らないままの状態にしてきた問題に向き合うために、一度自分の目で実態をきちんと見ておきたいと思った。そんなとき頭をよぎったのは、学生時代に観た「さとにきたらええやん」というドキュメンタリー映画だ。この映画の舞台になったのが、今回研修でお世話になった「こどもの里」である。さっそく問い合わせてみたところ「一度、実際に見に来てから決めてもらえますか」とご連絡を頂いた。その日初めて釜ヶ崎を自分の足で訪れた。

 JR新今宮駅を降りると、まずその見慣れない景色に少し驚きを感じた。あべのハルカスの完成以来、大阪観光の新名所としてにぎわいを見せている天王寺から歩いて15分ほどの場所にあるとは思えないほど、街並みには昭和時代の雰囲気が残っている。日雇い労働者の街といわれるだけあり、工事用の道具がそろった店が多く、その日もヘルメットをかぶって作業している人を何度か見かけた。メイン通りを入っていくとさらに驚く。「1泊700円」と書かれた安宿や「福祉の方歓迎」と書かれた賃貸住宅、駐車場の看板には「違法薬物お断り」と書かれていたりと日常では見ることのない光景が目に飛び込んでくる。また、路肩には段ボールの上でうずくまりながら横になっている人も見かけた。本格的に冬が始まろうとしていた頃だ。横を通り過ぎる時に、何かが心にひっかかった。こどもの里までは駅から歩いて10分ほど。これから出会う子どもたちはどんな子たちだろうかと緊張しながらしばらく歩くと、外壁に虹が描かれた建物が見えた。この3階建ての小さな建物が釜ヶ崎の子どもたちに「さと」という名前で親しまれている場所である。ここでは放課後の居場所として無償で開放しているほか、様々な事情で家族と暮らすことができない子どもたちの社会的養護も行っている。毎日15時ごろになるとランドセルを背負ったまま約20人前後の子どもたちが遊びに来る。宿題を済ませ、部屋の中でドッヂボールなどをして遊ぶのが子どもたちの日常だ。私がこどもの里で初めて出会った子にかけられた第一声は「おまえ、何しに来たん?」という言葉で、これまた小さな驚きの一つだった。そんな驚きの連続の日々がしばらく続き、初めのうちは慣れることに必死だった。パワフルな子どもたちと過ごす中で一人ひとりのことを知っていくことで手いっぱいだったが、あまり難しいことは考えず「まず、子どもたちのことを好きになろう」というのが私の中で定めた唯一の目標である。初めのうちは、いわゆる「試し行動」と思われるような様々な要求があり対応に困ったこともあったが、できる限り誠実に向き合うことを心がけた。体力にあまり自信がなく、子どもたちがいつも夢中になっている身体を使った遊びは苦手だったが、代わりに子どもたちの間で人気のテレビアニメ「鬼滅の刃」など、なにか共通の話題がないか探して遊びに活用した。またもう一つ心がけたこととしては、なにか一つ、小さなことでも褒められるところを見つけたら積極的に伝えるようにした。限られた時間しかいない私にとってできることはわずかだが、一緒に共有できる時間だけでも楽しい経験を分け合えるよう自分にできることはなにかと考えて行動した。

 実習が始まって少し経つと、初めは不安を抱えながら通っていた釜ヶ崎の温かさに気づくようになった。街の中を歩いていると、地元の人同士よく立ち話をしていることに気づく。実習が終わる21時ごろには「1曲100円」と書かれた居酒屋で多くの人が会話やカラオケを楽しんでいる。また、子どもたちを小学校まで迎えに行くと年配の人が「おう、元気やなあ」と話しかけてきたりと、地域の繋がりという意味ではむしろ他の地域よりも強いのではないかと思った。また、こどもの里で育った子どもたちが下の子たちの面倒を見に手伝いに来ることも多い。自分が育ててもらったように、それが順送りになっていることがとても温かく感じた。また大人になったら終わる関係ではないということは切れ目のない支援の在り方だと言える。

 もちろん、よいことばかりではない。こどもの里でケンカになると、言葉よりも先に手が出てしまう子たちが少なくない。口喧嘩がエスカレートするとかなり強い表現でお互いを罵倒することもある。そんな時にさとの職員は、本気で叱っている。お互いの言い分をきちんと聞いたうえで、徹底的に何が問題なのか話し合う。中には何十分も叫びながら、なかばパニック状態のまま感情をぶつける子どももいたが、落ち着くまでずっと粘り強く話す姿を何度も見かけた。私自身は叱ることが苦手である。けれど、真剣に叱るということは、真剣にその子のことを考えているからだと感じた。こどもの里では、「生きる力」を伸ばすために自分のことは全部自分でするように促している。まだ4歳ぐらいの子どもたちも食べた食器は自分で洗わなければいけない。叱ることも自立を促すことも、大人になってから生き抜くための力を蓄えておくためではないかと考える。

 上記が約1か月半の実習生活のなかで私が感じたことである。当然、私が見てきたものは短期間で垣間見えたわずか一端にすぎない。ただ今回の経験が今後の活動を続けるうえで大きな糧となると感じるのは、子ども支援を考えるうえで、こどもの里で一緒に過ごした子どもたち一人ひとりの顔が頭に浮かぶようになったことだ。今まで足を踏み入れてこなかった、私にとっては非日常である釜ヶ崎で、当たり前に過ごす子どもたちのことを知ることができて、彼らを一体となって支える大人の姿を知ることができて、自分の狭かった視野に深みが増したように思う。ただ、今回限りの関係としてではなく今後も引き続き関わりながらもっと多くの経験を共有してみたいと思う。最後に、実習でお世話になったこどもの里の方々には、コロナ禍で受け入れの厳しい時期にもかかわらずご対応いただき、深く御礼を申し上げたい。

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中山真珠の論考

Thesis

Shinju Nakayama

中山真珠

第40期

中山 真珠

なかやま・しんじゅ

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