論考

Thesis

「経世済民」~見えない価値を生かして

現代社会はお金で買えないものはない?経済とは何かを考え、貨殖興利から経世済民の道を、伝統文化に基づく価値観から探る。

1.はじめに

 経済とは、「経世済民」の略語とされている。「世を經(おさ)め、民の苦しみを濟(すく)う」の意である。今の“経済”というとどうであろうか?世の中を“カネ”という人参でコントロールできている部分はあるだろうし、日本においては、食べ物も捨てるほどに、物質的な豊かさは充実した世の中を形成している。

 しかし、問いたい。

 「皆さん幸せですか?」

 「今の生活は充実していますか?」

 「日本が経済成長を続ければ、個人所得が増えれば、現社会問題は解決できますか?」

“失われた20年”という言葉に代表されるように、経済成長の停滞が負をもたらしたことばかりが強調されるが、この20年で気付き得たものもあるのではないか。

 高度経済成長期、バブル時代――その時代を知る人には、過去に遡っても聞きたい。

 「“経済大国日本”、“Japan as Number One”と言われた時代、本当に正しい道を歩んできたと言えますか?」

 「お金を手にした一方で、大事なものを失っていませんでしたか?」

 経済成長とお金が万能薬でもなく、それが人間に必ず福をもたらさないことには、多くの人が気付いているのではないか。ただ、それでもお金は必要な世の中だと言われ続けている。

2.価値観の転換を

 今の日本の経済財政政策をみると、得ることに主軸がおかれ、使うこと、その一方で失われるものや抱えるリスクについては、あまり踏み込まれていない。政治家がそれを具体的な政策として唱えたならば、次の選挙で自らの経済活動が停止するというリスクを十分に認識している事情があるのかもしれない。

 今の経済財政政策を例えるならば、お風呂に水を溜める時、際限なく漏れ続ける排水溝の栓は開けっ放しで、水道の蛇口はもうこれ以上開くことができないのに、一生懸命に捻り続けているような状態ではないだろうか。これを家庭でやっていたならば、まさに“不経済”と言われるはずである。

 また、冷戦が終わったと言いながら、新興国の経済力を含むハードパワーが増すにつれて、成熟社会に向かうはずだった先進国までもが、いつまでもハードパワーの競争を続けている現状がある。それを捨てるに捨てられないが、人口をはじめとする社会構造は、そこには不適な状態を生じつつあるのにである。この無理が祟った部分を、グローバリゼーションという大義名分を掲げ、貧困に喘ぐ国や人からも、搾取と言われてもおかしくないかたちで資源を奪い、モノに溢れた裕福な国や人に消費させ続けている。冷戦や帝国主義は、形を変えて続いているのではないか。

 このような社会が持続性のないことを、これまでの歴史から学び、その綻びをひしと身に感じ、警鐘を鳴らしてきた人々も世界各地に存在してきた。しかしながら、誰もがそこからなかなか脱却できないのである。このままではやがて行き詰ることを感じながらも、応急処置で走らせ続けているのである。誰かが、特にそれを牽引してきた者が、そのいずれ終焉を迎える競争から“抜けた”と宣言することが必要な時になってはいないか。

 持続可能な社会に向けて、まともな経済財政政策を打ち出すには、経済成長至上主義、拝金主義からの価値観の変換こそがまず必要だと思われる。こう述べると、すぐに「今の生活を捨てて、原始生活に戻るのか」とか「経済成長を捨てて国家は存続し得ない」といった極論を持ち込まれるが、そうではない。元々経済とは、カネだけで評価できる単純なものではない。有無の二元論でもない。富さえ増えれば万事うまくいくわけでも、幸せでもない。いくらカネを唯一の基準として世の中の矛盾から目を背けても、その矛盾が真実として四方八方から迫っているのではないか。成長のための成長が蝕んできたものが社会問題になっていないか。このことに気付いていない人類ではあるまい。だが、依然、経済成長至上主義、拝金主義などの価値観を捨てられない状況を、自らつくり出しているのも事実である。

 今、求められることは何か――お風呂の蛇口を眺めても根本的な解決策はない。排水溝を眺めてみよう。排水溝の栓を失った状況ならば、その修復と、溜まらない水を割り増しする知恵を探そう。「原点に戻って考える」「古来の知恵」――困った時こそ、根本に立ち返り、長い年月を経て築き上げられた知恵に学ぼう。この価値観の変換を含む経済財政政策について以下に述べたい。

3.道徳なき経済がもたらすもの

1) 所得倍増計画と水俣病~奇跡の経済成長のために

 日本の高度経済成長を支えた物質の一つに、アセトアルデヒドがあげられるだろう。合成酢酸やプラスチックの可塑剤の原料である。そのアセトアルデヒドの生産量で、水俣病の原因企業となったチッソは、その時代の国内生産量の大部分(3分の1から4分の1)を常に占めていた。

 水俣病の悲劇を象徴づける一つの事実は、電気化学から石油化学工業への転換が図られるまで、政策的意志をもって、アセトアルデヒドの増産が行われたことにある。つまり、アセチレン水付加反応によるアセトアルデヒド製造工程において生ずる、水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物を海に垂れ流し続けたのである。水俣病という公害は、水俣病被害が拡大したから、認められたわけでも、原因への対処がされたわけでもない。単にその工業的製法が次のステップへ進歩できたから、一つの工業が役目を終え、経済成長を続けられる確信が得られたがため、公害としての水俣病が認められ、チッソの工場排水に原因も認められた一面がある。

 時の厚生大臣から「有機水銀説を政府見解とし、チッソの排水規制に踏み切るべき」との提案があってから、8年10か月もの間、水俣病の原因である排水は流され続けた。それも範囲、量、場所ともに被害を拡大するかたちで流された。奇跡の経済成長のためには、人命さえも犠牲にできた、いくつかの地域の崩壊などは厭わなかったのである。

 日本社会においても、今もなお、公害で苦しんでいる人はおられ、地域社会の再生も道半ばである。奇跡の経済成長は終わっても、それによってもたらされたことは、水俣病をはじめ、終わったとは言えない。また、世界に目を向ければ、経済成長のために、「沈黙の春」も「ミナマタ」も現在進行形の地域があるのが現状である。

2) 利己主義の果てに~共有地の悲劇

 生物学者のギャレット・ハーディンが1968に発表した論文に「共有地(コモンズ)の悲劇」というものがある。

 羊飼いたちに共有された一定の広さの牧草地を巡って、自己の利益を追求した結果は、全ての羊飼いが共倒れするというものである。牧草地の生産量は決まっており、必然的に羊の飼育可能量も決まっている。しかし、ある羊飼いは、他の羊飼いに先んじて羊の頭数を増やし利益を最大化しようとする。すると他の羊飼いも同様のことを行う。その結果は、餌の牧草の生産が追い付かなくなり、羊を飼い続けることはできなくなる。

 このことを人間社会に置き換えれば、「限られた資源のもとでは、個人の利己的な利益追求である経済合理主義に基づいた行動は、社会全体を悲劇的状況に向かわせる」ということである。

 今のグローバル経済の社会に置き換えれば、牧草という限られた場所にしかない共有資源を、大勢の羊飼いが奪い合っているのと同じである。この共有資源、あるいは共有地そのものを奪い合っては共倒れなのである。また、この共有資源はなにも食料や水、化石燃料、鉱物資源のようなものだけではない。空気といった環境もである。良好な環境を生み出す生態系を壊すこと、廃棄物によって汚染することも競争で奪い合っている様と同じなのである。 これまで先進国は、便利で快適な生活、物質的な豊かさを追い求め、この競争を繰り広げてきた。今はこの競争にさらに多くの人口を抱える開発途上国も経済的豊かさを求めて参入してきている状況である。このような自己利益追求の社会に持続性があるだろうか。その結果を、この「共有地の悲劇」が教えてくれている。さらに、歴史が、不足する資源や豊かな土地を求めて、争いを繰り返してきた悲劇を補足する。

3) 養殖サーモンと絶滅のカスケード~グローバリゼーションの影

 自然界では、食う―食われるの関係に限らず、様々な種間関係のネットワークで繋がれ、生態系を形成している。そのため、一種の生き物が絶滅すれば、その影響は生態系全体へと波及する可能性がある。ひとつの種の絶滅が予測できない他の種の絶滅を引き起こし、その結果、順々に他の種に影響を与え、連鎖反応的に絶滅を引き起こす「絶滅カスケード」を生むことがある。

 グローバル化社会も同じことが言えるのではないか。日本もこれまで、そのような例として、オイルショック、リーマンショックなどを経験してきたはずである。

 また、自らが知らないところで逆にどこかに影響を与えていることもある。毎日、必ずスーパーや回転寿司屋に並んでいる生サーモン。ほぼ海外の養殖物である。養殖餌料や飼育環境の改善で、そもそも寄生虫の関係で生では食べられない天然物より、安全においしく、しかも安価に食べられるようになった。この養殖サーモンのおかげで、漁師の地位、年収が格段に飛躍した国もある。ここまでだと皆が幸せを得ているグローバル化の好例である。しかし、その裏では、サーモン養殖餌料の多くを賄っているペルーにおいて、環境問題を引き起こしている。餌料のアンチョビの乱獲による生態系破壊、元来の漁師の漁獲量と収入の減少、餌料会社の産業廃棄物による公害が発生しているのである。

 グローバル化社会では、金融・経済だけに限らず、多様な分野において、複雑に国、人、ものごとが絡み合う。意図しない影響の作用、反作用があるのである。

 現在のグローバル化社会においては、思わぬところでの危機的な影響や報復を受けたり、連鎖的な危機が及んできたりする可能性のある網が張り巡らされているのである。また、この連鎖の網は、どこか一つの網の目の綻び、糸の切断が全体に影響を及ぼすことも十分に認識しておかなければならない。グローバル化社会とは、まさに自然界の生態系の如く、共存共栄の網とともに、一つの綻びから全てが破綻しかねない「絶滅カスケード」の網も張り巡らされた状態なのである。

4.見直そう~豊かさ、成長、効率性

 上記の3つの事例からのように、まさに道徳なき経済がもたらす影響は大きい。我々はこのような事例から何を学び、過ちを繰り返さないようにしなければならないのか。まずは、経済における「豊かさ」、「成長」、「効率性」の見直しではないだろうか。

 水俣病の事例では、経済的な豊かさのみを偏重したために、自然豊かな水俣の地と、そこから得られる豊かな自然の恵みを何十年にも亘って汚した。人々の心の疲弊は、今も続いているのではないか。所得の倍増とともに失ったものは、いくらカネを積まれても還って来ない。福島における原発の問題も、同じ構図のように感じられてならない。我々にとっての豊かさはとは何であろうか。カネや利便性などとは引き換えにできない、大事なもの、豊かさというものがあるのではないか。少なくとも、まずはという優先事項というものはあるのではないか。事実が明らかになり始めてから9年近くもの間、有機水銀説を政府見解とし、チッソの排水規制に踏み切れなかったことによる大きな過ちを、十二分に学んだ我が国ではないのか。

 共有地の悲劇からは、成長を皆が追い求める先を示唆しているのではないか。カネだけを考えれば、増刷もでき、金融システムの中で循環しているので、無限のように感じるが、カネをもって得る対象は有限なものが多いのである。また、たとえ、すぐに生えて来る、再生産可能な牧草であっても、急激な羊の増加には耐えられないのである。そして、共有するが故に、“我先に”と無計画に皆で奪い合うことは、自らを破滅に導く。欲のままに奪い合う世界で、無限の経済成長が可能だろうか。ゆるやかな成長や停滞、後退も次の成長への準備としては必要なのではないか。

 養殖サーモンの例からは、効率やコストのみを追い求めていては、 どこかで辻褄が合わなくなっていることを示してはいないか。自らの感じることの出来ない地で、重大な過失を犯してしまう危険性をグローバリゼーションの中に認めなければならない。無い物を経済上の効率やコストのみで評価して得ることは、結局、歪みを生じ、持続不可能な社会を生みだしていることにほかならないのである。

5.道徳ある経済へ

 では、「豊かさ」、「成長」、「効率性」の見直しを行い、道徳無き経済から脱却し、持続可能な経済、社会を築いていくにはどうすればいいのか。

 二宮尊徳翁が説き広めた道徳思想で、報徳思想というものがある。経済思想の一つともされており、経済と道徳の融和を訴えている。自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世の全てのものに感謝し、これに報いる行動をとることで社会に貢献し、それが社会のためにも、いずれ自らのためになると説いているものである。この報徳思想から、道徳ある経済というものがどういったものであるかを考えたい。

1) 分度によって生む

分に従って度を立つるの意義なり。故に分は自然にして天命に属し、度は作為にして人道に属す。此自然の天分に依って歳入を量り、歳入に依って歳出を節制す。これを分度を立つるという*1

 “分度”とは、単に足るを知るといった精神面のみ、予算といった経済用語でのみで捉えられる言葉ではない。“分度”には、もちろん、そういった精神面、道徳心や経済用語の意味もあるが、「入るを量りて、出ずるを制す」という当たり前の営み、つまり“自ら然らしむ”という考え方が含まれている。天与の恵み、限りあるものを絶やさないように生かし、自らをもそこに適合させていく、この考え方こそ、持続可能な経済・社会の根本ではないだろうか。

 現代社会で言えば、まず消費活動を改める必要があるだろう。例えば、文字通り身近な消費活動として、食事が挙げられる。私は食い意地がはっているので、食べ物を残すことはまずないのだが、最近、食事をともにすると若い育ちざかりの方でも食事を残す場面が多いように感じる。また、子どもの頃に矯正された記憶が残る方も多いと思われるが、色々なものが“好き嫌い”で残されている。

 平成23 年度の食品産業計の食品廃棄物等の年間総発生量は、19,955 千トンである(平成23年度食品廃棄物等の年間総発生量及び食品循環資源の再生利用等実施率, 大臣官房統計部生産流通消費統計課消費統計室)。これでも、食品廃棄物は年々減少している傾向にある。一方で、年間 55,303千トンの食糧を輸入している(平成24年度食料需給表, 大臣官房食料安全保障課食料自給率向上対策室より算出)。また、世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としている、飢えが原因で毎年2000万人の人が亡くなっていると言われている。

 これをどのように解釈するのか。効率性の追求で生まれた歪みの最たる例ではないか。このような現状を、我々国民の一人一人の分度、各事業体の分度、国の政治面での分度によって解決していかなければならない。

2) 推譲によって得る

 およそ、手もとにはいるのは出ていったものが帰るのだ。手もとに来るのは推し譲ったものがはいってくるのだ。

 たとえば農民が田畑のために精を出して、こやしをかけたり干鰯をやったり、作物のために力を尽くせば、秋になって収穫が必ず多いことはいうまでもない。

 ところが、種をまいて、芽が出れば芽をつみ、枝がでれば枝を切り、穂を出せば穂をつみ、実がなりかければ実をとる、こんなことをすれば、決して収穫がない。

 商業もこれと同じで、おのれの利欲だけをもっぱら考えて買い手のためを思わず、むやみにむさぼっておれば、その店の衰微は眼前だろう*2

 「種をまいて、芽が出れば芽をつみ……」――今の経済の活動の状況ではないだろうか。先の共有地の悲劇と同じことではないだろうか。

 これでは、次々に湧き起こる我欲を抑える薬なくしては、世界の経済は衰微の一途であろう。二京二千兆円、実体経済の四倍にも上ると言われる世界の金融資産に人間自身が呑み込まれるだけである。もはや、“カネで買えないものはない”ではなく、逆に余りあるカネと人間の私利私欲が引き金となり、買えるものはなくなる日がくるのではないか。現在の経済には、私利私欲を抑え、推し譲ることによってカネが得られるような「カネの循環」が必要なのである。

 先の我が国における食品廃棄物量と食糧輸入量、世界の飢餓も、各人が分度を立てることで、全体量としては相当の食料に関する推譲が図られるのではないか。そのことによって食える人々が増え、働くことができるようになれば、世界全体の経済状況も向上するのではないか。

3) 一円融合と三方よし~持続可能な経済成長

 分度を立て、推し譲ることは、すべてのものは、互いに働き合い、一体となることで、成果が現れるという“一円融合”に繋がる。一円融合を得心できれば、自らの利害のみに囚われた営みは行われないのである。これは、近江商人“三方よし”といった思想にも通じるものがある。自分の利害だけで商売するのではなく、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神で商売するのである。買い手に心から満足していただけるよう、商いを通じた社会の貢献ができるように心掛けるのである。そのことによって、また自らの商いも成立するのである。

 漫画“ドラえもん”におけるジャイアンの決め台詞に「お前のものは俺のもの」という言葉がある。他人からおもちゃなどの道具を奪う“悪い場面”で使われる台詞だが、分度と推譲、一円融合を促している言葉とも捉えらないだろうか。「あなたのもの」であって「自分のもの」、「自分のもの」であって「みんなのもの」という、私有でも共同所有でもなくそこを超えた「無記の所有」、「超所有」ということ、世の中は、「全ては自分のものとして動いている」、「繋がって一つである」ということを説いていると私は感じるのである。

 このように、古来より日本では持続可能な経済の上に乗った経済成長というものが、かたちづくられており、現代のアニメのキャラクターの背景にもその思想を感じることができるのである。この古き良き日本の経済思想、感覚といったものを、現代社会に適応させることで、グローバルというまさに一円の中で、無理のない経済成長が図られるのではないか。「故きを温ねて新しきを知る」ことによるイノベーションとも言えるのではないだろうか。

6.スモール イズ ワンダフル~積小為大から始める持続可能な社会づくり

1) 土台の上に経済を~伝統社会における「文化」

 伝統社会では、人やものの移動が困難であり、その生活圏における資源、しかも自然の恵みに頼らざるを得なかった。そして、その資源の枯渇は、その社会の存亡の危機であった。ゆえに、収奪すること、使い切ることより、分度や推譲といった考えが生まれた部分もあろう。であるならば、今一度、自分たちでしっかりと地域の歴史や文化の上から、経済について考える必要があるのではないか。

 アン・ハイデンライヒとデヴィド・ホールマンは、伝統的社会における文化は、「社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしはコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されたものをすべて含めて、一つの総体としてとらえたもの」を意味するとしている。その地域社会を維持する上の、全ての知恵の結晶が伝統文化と言えるのではないか。いくらグローバリゼーションの世の中にどんどん進んでいくとはいえ、その地域が持続してきた真実はその伝統文化に凝縮されているのである。これを無視して、あるいは捨て去って持続可能な社会など築けないのではないか。

 カール・ポランニーは、経済には「交換の経済(economy of exchange)」と「生存の経済(economy of livelihood)」の二種類あるといった。“交換の経済”が極端化したものが資本主義経済で、人間の集団的な生存を保証するシステム(=社会)に基づくものが“生存の経済”である。資本主義経済は、この人間の生存、生活の基盤を掘り崩してきた。そして、社会の安定性が崩れ、そのことによって資本主義そのものも不安定化しつつあるのが現代だと考える。その点から考えても、この“交換の経済”と “生存の経済”のバランスというよりは、“生存の経済”という土台の上に “交換の経済”を乗せていくことが重要ではないだろうか。

 伝統文化という生活の土台の上に、新しい文明、技術といったもの、グローバリゼーションといった流れを受け止めて、新たな営みや経済を築いていくべきではないか。各地域における分度や推譲に繋がる固有の知恵は、長い歴史の中で、必ずそこに培われてきたはずである。小さな単位の地域社会を大切にすることは、その各地域に培われてきた固有の持続可能な社会づくりの知恵を生かすことにも繋がるのである。

2) 地域の価値を生かす~固有の価値=魅力

 19世紀イギリスの芸術評論家であり、経済学者であるジョン・ラスキンは、「価値には、固有価値と有効価値があり、その固有価値はそれを享受する人々の能力(=享受能力)があってこそ有効価値、すなわち富になる」としている。

 さらに、ラスキンの特徴的なことは、固有価値には、素材そのものが持っている固有性と、それを人間の工夫や創造活動によって、財やサービスを生産することとの二重の意味を持つものとして捉えている。

 また、ジョセフ・ナイは、ソフト・パワーの源泉の一つである「文化」は、政府が管理できないもので、もし政府に管理された文化であれば、その魅力は減ずるため、文化の影響は民間によるところが多いということを述べている。

 この3つのことから、地域の固有の価値としての伝統文化を自らの営みの中に生かし、それを地域の魅力として、それによって富としていくことこそが、経世済民、持続可能な社会づくりへと繋がっていくのではないかと考える。

 今、各地で地域ブランド化が進められている。その中で、伝統文化や当たり前にそこに存在し続けてきたものの見直し、価値の再発見が行われている。この動きの活発化、その中に報徳思想のような一体となって発展、共存共栄していく考えがあれば社会は変わるのではないかと考える。

3) 小さな場所で小さな一歩から

 小さな単位だからこそ、やれることもある。価値観の転換などいうものは、いきなり大きな単位、多くの人に作用して変えることは難しいだろう。ただし、誰もが身の回りのことに目を向ければ、小さな気付きはあるはずである。世界各地、どんな土地だって、長年、その土地に住む方に聞けば、おかしいと感じる変化、昔の魅力はいくつも聞けるはずである。世界的な社会の歪みも、行き過ぎた経済至上主義を修正するのも、高所大所から唱えるだけでは、各地域の事情がある以上、解決は難しいだろう。であるならば、真摯に地域の声に耳を傾け、各地域に根差した伝統文化を大事にし、その中の知恵を集め、各人が「自分のできる活動」を各地域で積み重ねていくしかないと私は考える。

 「積小為大」――自分のいる場所で、発見した小さな気付きから、できることをコツコツと積み上げていく。そのことによって、世界をも変えていけると捉えると、グローバリゼーションを地域で生かしていくこともできるのではないだろうか。私も地域の固有の魅力づくりに向けて、地域の伝統文化とそこに存在する知恵を生かし、小さな活動を積み重ねていく所存である。

 「あなたが何かを知っていながら、それでも行動に移ろうとしないのなら、あなたは内部から腐敗するのみである」――エルンスト・フリードリヒ・シューマッハの言葉を胸に刻んで。

注:

*1 二宮尊親 『二宮尊徳 報徳分度論』大槻太郎 1903年

*2 福住正兄 佐々井典比古訳注 『訳注 二宮翁夜話(上)』一円融合会 p172 2008年

参考文献:

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松下幸之助 『実践経営哲学』PHP研究所 1978年

松下幸之助 『人間を考える 第二巻』PHP研究所 1982年

松下幸之助 『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』PHP研究所 1994年

松下幸之助 『松下幸之助発想の軌跡 経営の道・人間の道』PHP研究所 1997年

松下幸之助 『遺論 繁栄の哲学』PHP研究所 1999年

エルンスト・フリードリヒ・シューマッハ 小島慶三・酒井懋 訳 『スモール イズ ビューティフル』 講談社 1973年

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内山 節 『共同体の基礎理論 自然と人間の基層から』農山漁村文化協会 2010年

宇沢弘文・大熊 孝編  『社会資本としての川』東京大学出版会 2010年

佐伯啓思 『日本という「価値」』NTT出版 2010年

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中山智晴 『改訂版 地球に学ぶ――人、自然、そして地球をつなぐ』北樹出版 2011年

森 政弘 『退歩を学べ――ロボット博士の仏教的省察』佼成出版社 2011年

柳田邦男 『生きなおす力』新潮社版 2011年

エルンスト・フリードリヒ・シューマッハ 長洲一二 監訳 伊藤拓一 訳 『宴のあとの経済学』 筑摩書房 2011年

ジョセフ・S・ナイ、山岡洋一・藤島京子訳  『スマート・パワー 21世紀を支配する新しい力』日本経済新聞出版社 2011年

池上 惇 『文化と固有価値のまちづくり――人間復興と地域再生のために――』水曜社 2012年

中山智晴 『競争から共生の社会へ――自然のメカニズムから学ぶ』北樹出版 2012年

吉田謙太郎 『生物多様性と生態系サービスの経済学』昭和堂 2013年

宇沢弘文 『経済学は人々を幸福にできるか』東洋経済新報社 2013年

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塩根嗣理の論考

Thesis

Hidemasa Shione

塩根嗣理

第33期

塩根 嗣理

しおね・ひでまさ

百姓/地域&自然おこし団体 自然処 代表

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自然の恵みを生かした持続可能な社会づくり

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