Thesis
カネや利便性を主とする価値観の現代社会は、環境問題をはじめ、解決困難な難問が溢れ、行き詰まり、持続不可能な状態である。その解決を「じねん」という自然の恵みを最大限に生かす経営に求める。
「この国ばどぎゃんかせんといかん」と溢れる思いを胸に、学びと自己変革の場を松下政経塾に求めて、はや3年間。とにかく、様々な地域をこの目でみて、肌で色々なものを感じようと努めてきた。その結果、違和感を覚える日々を過ごしている。
私が活動の軸に掲げている地方再生も環境問題も、益々、社会的に大きく取り上げられ、皆がその重要性、対策を口にし、取り組みも盛んになっている。しかし、何か、言葉なのか、心情的なものなのか、通じ合わない感じがする。とにかく、私の肌感覚からはズレがある。「感覚の違い」という言葉は、言い訳としてはピッタリだが、どこからその感覚の違いは来るのだろうか。
まず、自然や田舎の何を感じ、何に価値を置いているのか、そもそも何を大事にして生きているかの違いが、一つ、あるように感じている。男女の別れ話の決め台詞ではないが、「価値観の違い」である。
よく「かけがえのないもの」「お金でかえない大事なもの」といった言葉が使われる。この「もの」の部分に地球や自然、地方や田舎の生活、そこで過ごす時間といった言葉が度々入ってくるのだが、本当にそう感じているだろうか。「本当に」の真意は、自分にとって唯一無二のもの、離れられないもの、自分と一体化したもの、もはや自分自身であるとまで感じられているのかである。私自身も、そう問われると「そこまでは…」と考えさせられる。しかし、常にとは言わないが、そこまで思えるかどうかで、人間の行動というのは変わるのではないだろうか。何となくわかっていても、どこか他人事ではものごとは進まないし、何か判断するときも、正しいか正しくないか、善か、良か、ベストか、ベターかよりも、他に置いている価値――「便利さ」「簡易さ」「金」が優先されるのではないだろうか。これが、自分事、自分自身の問題だとしたら……。劇的に考えや行動は変わるはずである。
地方再生・創成や環境問題を自分事化、我が事にできれば、日本は変わる、世界は変わると信じている。では、「我が事」にするにはどうしたら良いか。これまで考えてきたこと、その取組みについて紹介する。
現在のカネや利便性を基軸とした価値観では、日本の地方はお荷物であり、切り捨てていく対象かもしれない。しかし、私は、カネと利便性を価値の主軸におき、行き詰まっている現代社会においてこそ、日本の田舎と言われる地方の出番と感じている。また、たとえ、経済成長という分野から日本の地方を捉えたとしても、もっともっと地方は生かせるとも考えている。それは、地方に多く残る自然を生かした営みの中に、劇的に変われると信じるに足るものを多少なりとも感じ、経験してきたからである。つまり、その価値を「知っている」からである。
まず、何より田舎には、我々が生きる上で欠かせない、水や食料、エネルギー、空気の源泉がある。これを産む自然、人がなくなれば、カネなどいくらあっても得ることはかなわない。現代社会のように、他国から買えばいいだろうか。世界では、人口は増加するし、今の世界の食料生産地も日本と同じように都市型社会になっていくだろうし、気候変動や環境汚染のリスクはさらに高まることも懸念されているし、今まで通りに買えるとは限らない。
さらに、地方の営みの中には、命の源泉であるものを、自然と共にうまく生きながら、それら限りあるものを永遠としていく生きる術がある。持続可能な社会を形成する上で必要なものが詰まっているのである。日本再生、さらに環境問題をはじめとする世界的な課題を解決する知恵と技術、思想がある。日本の田舎こそ、これからの世界を引っ張っていく存在なのである。
しかし、このように、日本の地方は大事なのだ、命の源泉を生産しているのだから、世界的には人口が増え、様々なリスクが高まる世の中であるし、経済的な価値さえも高まってくるのだと理屈で言われたところで、「いやぁ、これからは日本の地方を大事にします!」「じゃ、田舎に住んでその担い手になります!」とはいかないだろう。
価値を知るとは、単に情報や知識を得ることだけではない。知識で、地方の生活や自然から生み出されるものの重要性を知っていても、「まぁ、大事だよね(でも、自分とは関係ないし、生活は変えられないから)」である。言葉では、「大事」「かけがえのない」「とうとい」などと言ってみても、他人事のままなのである。では、本当に価値を知るとはどういうことか。つきなみな言葉で表現すれば、「肌で感じること」である。
小さな村は、自然と共に生きてきた。土に親しみ、樹木に親しみ、海に親しみ、川に親しみ、風に親しみ、四季に親しみながら、生きるための糧を得てきたのである。それ故に村を取り囲む大地や海は、「とうとい」のであり、「したしみ」ながら共に生きた人間の、伝えられた経験もまた「とうとい」のである。*1
親しむこと、ともに生きることで、自分にとっては真に欠かせない存在になり、長年繰り返すことで、自分に生きる上で必要なものがどんどん蓄積されていく、心も、精神も育まれていく。しかし、現代において、これらを体験することは容易ではない。自然と切り離された現代の生活において、どうやって体験したら、経験したら良いのか。そこで、それらを学べる場が重要であると考え、私は、その入口として川に人を誘う活動を行っている。
川は、森と海を繋ぎ、自然界の物質循環の主要な役割を果たし、人間の生活に欠かせない。地球の命の源泉は、ズバリ水であって、川はその水を森から海に届ける。また、海からは、生物を通じて森に栄養を還す。川は、地球の動脈とも、心臓とも言える非常に重要な場なのである。
それにも関わらず、現在では、川は単なる水の通り路とされてしまった。「川は危ないから近づいてはいけません」という教育を受ける世の中、川が地域の、地球の命を循環させる場であるとは、どれくらいの人が実感しているだろうか。
私は、幼少期には、魚を差し置き、地域の人から“川の主”の称号を頂くほど実によく川で遊んだ。川ガキではなく、河童とまでも言われるくらいである。そして、自然の恵みとともに、水の怖さ、大切さ、自然の変化の激しさ、複雑な生命の繋がりなど、実に多くのことを感じさせられた。同時に川に対する愛情も大きく育まれたと感じている。このような幼少期の、知識として教えられるのではなく、自ずから結びつき、自然に肌で感じる体験こそが、「かけがえのない」に繋がるのではないか――その想いからの活動である。
実際に子ども達や親子で川遊びなどを行った結果、次回も体験したいという参加者の感想とともに、「はじめて、身近にたくさんの生き物、まして食べられる生き物がいることを知った」「身近な場所でこんなに楽しく遊べるとは思わなかった」といった声があがっている。その場に身を置いてみて、初めて経験してみて、感じたこと、知ったことが多かったようである。このような機会というのが思いのほかに断たれているが故に、「まず体感して知る」活動の重要性が高いことを私も改めて感じた。
一方では、遠い都市部から来た家族では、また家族だけで来て遊ぶにはハードルが高いことなども挙げられた。また、「楽しかった」という一過性の体験にとどめず、さらにその先の自然の中で生きる力を養うには――入口からその後の行動にどう結びつけていくのかについては、今後、都市部と田舎の双方の人たちの意見を集約することで、さらなる活動の充実もできると考えている。
写真1:環境学習会の様子――“自然”を体感、自然と笑顔がはじける(東村立 山と水の生活博物館提供)
たとえ自然や地方の営みの価値を知っても、それを生かせなければ、地方再生・創成や、環境問題の解決には繋げられないと考えている。私自身、日本各地方の価値を知るため、「学びの行脚」というものを行っている。訪問先は32都道府県20離島、100箇所近くにのぼっている。 その中で感じたことは、各地域に自然を生かす素晴らしい知恵や営みがあり、それは今の地球の病気に対する処方箋、健康の管理方法とも言えるのだが、なかなか生かしきれていない、忘れ去られようとしている現状である。
その原因は、地域の様々な「もの・こと」に対して、田舎暮らしでは当たり前過ぎて、価値に気付いていないことがまず挙げられる。そして、今まで当たり前に継承されてきたそれらが断絶してきている現状がある。たとえ気付いた価値でも、遠慮や今のご時世にはといった感覚から、他者や次世代に伝えられておらず、生かしきれていないのである。
この現状を目の当たりにして感じるのが、「価値を知り生かすことのできる人材」を育む場づくり、「多様な価値観を持つ人が連携できる」場づくりが重要ということである。
先の「まず体感して知る活動」を行っている場所の一つに、沖縄県東村の川がある。そこに、このような場を創られないか、展開中である。
取組みの一つとしては、「まず体感して知る活動」、環境学習会以外でも、もっと子どもたちが川遊びを楽しめるよう、地域の人がより自然の恵みを得られるよう、この川の生き物たちもより快適に棲めるよう、水の生き物の家づくりを行っている。狙いとしては、魚が集うことで、他の生き物も集い、それにより、自然好きな人が集い、人が集うことで、観光業をはじめ、様々なことに関わる人が集うことが可能となる。一つの場の、魚という一つの価値を通じて、様々な連携、循環が生まれると感じている。
具体的な一つの取り組みは、伝統的な漁法である「しば漬け」や「石黒」の活用である。これは、石や草木を使って魚の隠れ家をつくり、そこにウナギをはじめとする魚やテナガエビ、モクズガニなどを蝟集させて、それを捕える方法である。隠れ家、つまり生息場を提供するので、生き物を増やしながら、その増えた分を利用していくことが可能である。また、漁獲対象でないその他の生き物も利用するので、一つの漁法を通じて、様々な生物を育む。まさに、持続可能なかたちで、自然の恵みを増やしながら得ていく知恵と技術、思想が詰まっている漁法である。この「しば漬け」や「石黒」によって、人と川を近づけ、これを一つの入口としながら、価値を知り生かす一連の流れを共有し、持続可能な地域産業づくりへと繋げていきたい。自然の恵みを活用する際は、その価値を知るとともに、このような自然に対する人の「手入れ」が重要となってくる。この手入れによって、自然を壊すか生かすかが決まる。この手入れの知恵と技術、思想を伝えていくことも、価値を生かす上で、環境問題を解決していく上で重要なことである。
写真2:魚と人を繋ぐ“うなぎ塚(石黒)”づくり―― 一つ一つ石を積み重ねてつくるウナギのマンション
写真3:モニタリング調査と手入れ――ウナギやテナガエビがより住みやすい家に
自然の価値を知り、生かしていく――自然の恵みを最大限に引き出して生きていくこの生き方が自然の別の読み方の「じねん」の一つと私は考える。おのずから然るである。
しかし、この生き方は放っておいても、勝手に生きられるということではない。何よりも自然と親しみ大事にするこころと、先程の「手入れ」が重要となる。このようなじねんの生き方は、日本に限らず、自然の恩恵を身近に感じながら、もっと自然と密接に繋がって生きていた時代には、どこにでもあった普遍的なものではなかったのだろうか。各地域が、それぞれの自然に応じた「じねん」の営みをしていくならば、地方と都市の経済格差も、環境問題も、現代の歪んだ価値観も、自然と解消されてはいかないだろうか。
私の実践活動のテーマは、「地方再生によるエコ立国日本の実現」としていた。「エコ立国」というのは、各々の地域がその自然の恵みを最大限に生かす営みをし、そんな地域の営みの花が咲き誇って融和している、百花繚乱状態のイメージである。しかし、どうも省エネに引きずられ、なかなか伝わらなかった。これからは、自然の恵みを最大限に引き出して生かす経営、生き方である「じねん」の実践と伝道を通じて、そのような姿の社会をつくっていきたい。
持続可能な社会を考えた時、元気な地方をつくることは日本の命題、自然環境はじめ、健全な環境をつくり維持していくのは人類・地球の命題というのは、これからも変わらない課題と捉えている。それを「地球の医者」として治療という活動だけでなく、各地域で「じねん」の生き方ができる手入れの技術と心をもった「地域の臨床医」とともに、取り組んでいく方向に転換しながら、解決をはかっていきたい。
地道な活動ではあるが、これからも子どもたちの笑顔と、地域、さらには日本、地球のために、「価値を知り、生かす」という活動を自ら行い、他者に伝え続けていく所存である。「かけがえのなさ」「大事さ」「とうとさ」という言葉への違和感についても、価値を知り、生かすといった一連の営みをつくることで、なくしていきたい。
価値を知る活動としては、子供向けの環境学習会から、対象を大人にも拡大させ、都会と田舎のバイリンガル、さらに海外も含めたトリリンガルを育む取り組みを行う。根底には命の源泉である自然に価値を置きながらも、決して、一様な価値観でものごとを展開するのではなく、多様な価値を生かしあうことのできる人材を育む活動としたい。また、自分自身が育まれた地域を大事にする心とともに、その地で力強く生きる力、その地を生かしていく力も育みたい。郷土を捨てさせる教育から、郷土を支え、繋げる活動への転換である。
価値を生かす活動としては、自然に根差した産業づくりとその広域連携、多様な地域・人々が関わる共同体づくりを、まずは先の伝統漁法を入口として進めていく。小さな一歩かもしれないが、地方再生・創成も環境問題も、一つ一つ積み重ねでしか解決できない問題である。地域の「価値を知り生かす」人材を育む場としての「じねん塾」の設立なども踏まえ、じねんの伝道師としての活動をより拡大させていきたい。
引用文献:
*1.松山巖 解説 少年少女に呼びかける声 「日本の村・海をひらいた人々」 宮本常一 筑摩書房 1995年 P274
Thesis
Hidemasa Shione
第33期
しおね・ひでまさ
百姓/地域&自然おこし団体 自然処 代表
Mission
自然の恵みを生かした持続可能な社会づくり