松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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人間観
2008年7月

塾生レポート

生きる根拠
冨岡慎一/卒塾生

「もうやってられない…。」救急室の看護師がそう呟く。 簡単に死を選択する時代。生死を巡っての混沌は様々な場の空気を濁らせ、当事者を取り囲む人々は痛みや憤りをようやく越えて行くために、時間が過ぎるのをただ待つしかないという結論に辿り着く。 そんな中、人間とは何か―その答えを塾主・松下幸之助と共に考えた。

 

1.死を前にする患者と我儘な論理

 今まで多くの人の死に立ち会ってきた。死を前にして人はその本当の姿が見えるような気がしている。

 末期癌―――もうどうにもこうにも救いようがない。「それでも」とあの手この手を尽しながら、死からの抜け道を模索する彼らの心情に触れる度、医師としての諦めと人としての共感が出たり消えたり。最後の最後まで何とか成らぬものかと、私にとっては苦しい時を共有することになる。あの病室に入る戸の重さは何にも譬えようがない。

 「もう十分に生きましたから、殺してくださいよ」笑いながらそう言って真面目に取りあってくれなかった老媼も、孫たちの賑やかなパレードが過ぎ去った後にはすっかり別人のように治療の話に耳を傾けた。「もう少し生きてあの子達の明日を少しでも見届けたい」言葉にはならないその思いを心のどこかでひしと感じ、私もまた心を新たに治療に向かい始めるのだ。

 生も死も無表情に受け止める人もいた。どんな重い病状をお話ししても特に表情ひとつ変えず、聞いているのか聞いていないのか。不安になって繰り返そうとすると、やっぱり聞いていたらしく、その必要はない旨を告げられる。手ごたえのないまま、自分のことでもないしなんて割り切ると少し楽にはなるものの、やはり今後を考えると不安の方がずっと大きい。

 何に対する不安なのか。人間いつか死ぬことも分かってはいるものの、せめて自分の目の前でだけは死んでほしくない。そんな我儘な論理を通したい。その論理が通らなくなるのではという不安である。きちんと病気に向かいあって、きちんと治療を受けてもらって、きちんと退院してもらって、きちんとその後も使い慣れた自分の手と足で精一杯生きていってほしい。そんな理想の患者像を当て嵌めようとする医療者側の我儘な論理を今まで意固地に保持しながら、私はずっと仕事を続けてきたように思う。

2.自殺者を取り巻く真相

 一方、そんな論理も軽く吹き飛ばすかのように、自ら死を選ぼうとする人達が毎日のように病院には担ぎ込まれてくる。

「また?」
「まただよ」
「もうやってられない」
「そうも言ってられないだろう」

 そんな会話も病院の救急部では跡を絶たない。リストカット、薬物過量服用―――彼らはリピーターとして、その名と顔を救急スタッフから覚えられることもしばしばで、その名を伝えるだけで救急隊ごと病院から敬遠される。故に往々にして幾多の病院から来院を拒否され、最後には断る理由を咄嗟に見つけられなかった病院に辿り着く。「もうちょっとだけ我慢できないの?」なんて、仕事のストレスも相俟って到着前には言ってやろうと意気込んでも、本人を前にするととてもそれは声にはできない。彼らがかつて真剣に生きようと願っていたことは誰の目にも明らかであるからだ。

 私が仕事を始めてひとつ驚いたことがある。端的に言えば、「自ら死を選択する人達の数」。厚生労働省の統計によると2007年の自殺による死亡者数は33093人。この数字は最近10年間大きな変化がなく、換算すれば15分に1人が自殺死を選んでいることになる。これは死亡者に限定しているためまさに氷山の一角で、何らかの形で自ら命を絶つことを試みて病院に運び込まれてくる人の数はこの10倍を優に越えるだろう。現場の肌感覚としてもこの数字にまったく違和感はない。中にはただ周囲の注意を引きたいだけの(死ぬことができない)軽いものから、(確実に死ねる)重いものまで、その様は多々あろうが、とにかく自ら死を願う人達の数は戦後確実に増え続け、今後も一向に減る気配がない。「自殺大国」そのように呼ばれても決して否定できない状況である。

 「出会い系自殺」という言葉がある。ネットで知り合った若者同士が同じ時間に同じ方法で自殺しようと約束することだ。また「学校裏サイト」の記述をきっかけにいじめを苦に自殺する学生や、「老老介護」などによる介護疲れを理由に自ら命を絶つお年寄りも少なくない。自殺の問題は社会問題を反映し続け、更に新しい自殺の形態を生み出していく。その数は今後も増え続けるのだろうか。

 お願いだから生かしてと願う人もいれば、自ら進んで死を選ぶ人もいる。また、世の中には人を殺してまでも自分の生にこだわる人がいる。そんな中、果たして自殺は悪であろうかと問うてみた。殺人は悪であろうが、自殺は悪ではないかもなどと考えてもみた。死には死なりの苦しみが、生には生なりの苦しみがある。自らに授かった生命である。真剣に生と向き合った結果として、自ら死を選択することも彼らの自由ではないか―――そのような考えにもうなづいてしまいかねないほどに、今、生死に対する考えは混沌としているのかも知れない。

3.「新しい人間観」の考察

 人にとって最大の不幸とは何か。多くの自殺者を見ていると、それは自分の存在意義を見出せないことではないかと思えてならない。同時に人類にとって最大の不幸とは、人間とは何か―――その答えがあまりに曖昧であることではないかと思われる。

 理由も分からないまま生を授かり、理由も分からないまま死んでいく。周りが大学に行くから行き、周りが仕事をするから仕事をし、周りが結婚するから結婚し、ふと気がつけば人生終わりに近付いている。人間とは何か、自分とは何か、ある時慌ててその答えを探そうと両足で必死に踏ん張ってみても、問いの答えは簡単には見つからぬまま、いつしか「日常」という逆らい難い奔流に押し流され、ただ時の流れに身を委ねることしかできない無力さ。その答えをもう少し早く自覚できるのなら、個人も人類もあるいは今より理想的な姿に生まれ変わるのかも知れない。

 松下幸之助は著書『人間を考える』の中で「新しい人間観」を提唱した。彼はその中で人間とは何か、その答えを次のように力強く表現している。

 「人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。
かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。
この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる」

 人間は万物の王者である―――そう言い切っているこの言葉が私はとても好きである。一体どれほど多くの人々がそのように感じながらも明言することを憚ってきたであろうか。ややもすれば傲慢ともとれるこの言葉を明言するところに松下幸之助の決意さえ感じ、またその決意に共感もするのである。過度の謙遜は美しいどころか、何も生み出すことはないと私は思う。むしろ自らの立場と意思を明言するところに義務と責任が生まれ、そこに真の発展があるのではないだろうか。つまり王者としての自覚を保持し、この世の森羅万象をことごとく解明すること、その調和と発展を生み出すことに全力を傾ける決意こそが大切なのではないかと思う。

 人間には天命が与えられている―――天命とは本質的に確認することができないものである。ただ、その不確実なものを確と信ずるところに強い力が生じる。

 私は人間には元来どこかに「永遠」を求める心があるのだと思っている。そのために時には長久なる美たる芸術を愛し、時には神秘の自然を求め、時には生命の輝きに感動する。「永遠」と触れあう時に人の内なる神性が目を開き、宇宙万物の一部であることを無自覚に認識するのではないかと思う。その認識が魂の安らぎとなり、また時に霊感となって真理を悟るが故に、人はどこかで永遠を求めるのではなかろうか。

 天命こそはまさに永遠の力から与えられる生命の意義であり、また人類の存在意義である。それはまた時代の流れなどを遙かに越えて賦与される悠久の使命でもある。

「このすぐれた特性を与えられた人間も、個々の現実の姿を見れば、必ずしも公正にして力強い存在とはいえない。人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている。
 かかる人間の現実の姿こそ、みずからに与えられた天命を悟らず、個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんとする結果にほかならない」

 人類は長い歴史の中で幾度となく繁栄と貧困を、平和と争いを、結果としての幸福と不幸とを繰り返してきた。私は人類の歴史は反復の歴史であると言ってよいと思う。過去から未来へと続く数直線上をただ一方向に進むものではなく、繰り返し繰り返す。ちょうど人間の遺伝子がそうであるように螺旋状に円環を描きながら進んでいくもの。大きな目で見れば、それは一国の誕生から滅亡まで。小さな目で見れば一個人の生から死まで。その過程の中で一日数回の食事や睡眠、毎日の畑仕事や学業、日が昇り、そして落ちてゆく日々の生活。それら全ての円環が大なり小なり、繰り返し繰り返し重なりあって歴史が成される。

 松下はそのような歴史の中で人類が往々にして不幸に陥る由縁は、衆知を集めず、天命を悟らずに、人々が個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんとすることによると説く。

「まことに人間は崇高にして偉大な存在である。お互いにこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を高めつつ生成発展の大業を営まなければならない」

 松下は経営者として、また思想家として特に「素直な心で衆知を集める」ことに非常に重きをおいた。衆知を集めることによって個人としての知恵や知識の限界を超えることができる。先哲諸聖の考えをも衆知として集めうるところに現代を生きる人間の優位性があるのである。それこそが人類が生成発展の大業を営むことができる理由であろう。過去の歴史を顧み、その偉業を仰ぎ罪過を省みて現代の肥やしとすることである。

 私は松下のこの「新しい人間観」に芯から賛同したい。これはややもすれば後ろ向きにさえなりかねない人類の存在を力強く前に向かわせ、また個々人の生に使命感を与えるに十分な根拠になると思う。

 結局人は何を信じて生きるのか(何に洗脳されて生きるのか)が大切なのではなかろうか。お金こそ全てと考え拝金主義に陥る者もいれば、楽しむことこそ大切だと享楽を最優先する者、また何かを残すことだと研究や著作に耽る者。それぞれに信ずる道を行く人生である。しかし、時に自身の存在の根拠すら見出すことができず、生の結論として積極的に死を選ぶ者もいる。

 たとえば彼らが様々な生の苦しみにぶつかって立ち往生するその前に、相応しい信念=生きる根拠と出会うことができていたならば、或いは困難を事も無げに乗り越え、或いは死を選択することもなかったであろう。人の信念も人格も時を経るにつれ、まるでその皮膚が水気を失って皺がより、次第に硬化していくように、瑞々しさを失っていくことが往々にしてあると思う。まだ若く有為な時にこそ、人間に与えられた万物の王者たる天命と、その義務と責任とを自覚してもらえたなら、どれほど違った人生になるであろうか。苦しみに喘いで前後不覚になり、この世の全てが闇と化するその前に、どうか自らの生きる根拠を感じてもらいたいと強く願っている。

4.むすびに

 今まで多くの人の死に立ち会ってきた。死を前にして人はその本当の姿が見えるような気がしている。

 死に近づくにつれ、その人が積み重ねてきた生が版画のように浮き彫りになるように思えてならない。最期まで強い輝きを放つ者もいれば、弱く地に墜ちる者もいる。強い輝きを放つ者は、強い信念をもって美しく生を生き抜く者でないかと思う。

 松下幸之助はその晩年まで輝きを放ち続けた人物である。それはこの「新しい人間観」が誰より彼にとっての強い信念となり、彼の生を力強く肯定したからであることは容易に想像できる。

 私もまた松下幸之助のように「新しい人間観」を身に纏い、万物の王者たる人間の一人としての天命を自覚実践していきたいと強く願った。そして私の生も死も一人でも多くの人の役に立てばよいと静かに思う。

(参考文献)

松下幸之助『人間を考える』PHP文庫

2008年7月 執筆
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