論考

Thesis

辺境の奄美から、日本を考える

「地方はいまも、中央の発展を支えるための礎石でありつづけている。」国の方針や政策は、間違いなく地方へ影響を及ぼす。わが国の辺境である奄美において起こってきた諸問題を通して、これからの国と地方との関係を考え、その原点たる想いを強く主張したい。

はじめに

 わが国では先般、5年半という戦後3番目の長期在任となった小泉政権が幕を閉じ、安倍政権が誕生した。対米追従・新自由主義志向ともいわれる小泉・竹中路線が進めた構造改革なるものの是非や功罪については、歴史の審判を待たずとも、「格差社会の到来」を最たるものとして、既に大半のわが国民に課題を突きつけている。

 小泉政権の代表的なスローガンは、「官から民へ」「国から地方へ」というものであった。国の財政再建への動機とも相俟って、効率や競争を重視する経済社会システムに向かおうとする一連の動きが見て取れた。しかし、現状を見渡すと、規制緩和や税制改革も、結局は一部の大企業や富裕層ばかりを潤すことになってはいまいか。また、政府が主導した三位一体改革や市町村合併なども、結局は大きな人口を抱える一部の自治体ばかりが有利になってはいまいか。現に、地方では全般的に人口減少が続く中、人口を増やしている自治体と過疎化が深刻に進んでいる自治体との差がより大きくなっている。これでは、「官から一部の民へ」「国から一部の地方へ」ではないか。

 もし、本州だけがわが国だというのであれば、問題はないだろう。しかし、実際はそうでない。北海道・四国・九州と数々の島嶼を併せてこそ、島国・日本なのだ。そのことを私は、改めて強く主張したい。合理性や効率性だけで、国家や人間社会を動かそうとすることに疑問を差し挟みたいのだ。

 もちろん、構造改革なるものを批判するばかりではフェアでない。要因は多々あるにせよ、景気が回復したのも事実だ。しかしながら、その影の部分は、やはり政治力や経済力などの「競争力」に乏しい地方やそこに住む人々に対して、多くのしわ寄せとなって現れるのが世の常である。その代表的な例が、島嶼部や交通の不便な山間部・沿海部などのいわゆる「僻地」だろう。

 私の故郷であり活動拠点でもある奄美諸島も、そのような地域の一つである。そして、後述するが、わが国の他の島嶼部などと比べてもより強く、中央政権などからの政治的な影響を受け続けてきた地域である。

 今回のレポートでは、そのような歴史的経緯を踏まえながら、過去から現在にかけて奄美諸島において起こってきた諸問題を通して見えてくる、国と地方の関係や問題点について考えてみたい。国として、このような僻地を含めた地方とどう向き合うべきなのかを考察してみたい。予算を投入すれば済む話ではない。国や地方の政治・行政のしくみや制度がどうあるべきかを、身近なところから考えてみたいのである。

奄美諸島の地政学的位置

 わが国では古代以来、国土領域の南限の境界が奄美諸島辺りで伸縮を繰り返してきた。

 まず、『続日本紀』や『日本紀略』などによれば、7世紀から10世紀にかけては、国土領域の南限は種子島・屋久島までとされていた。それ以南とは盛んな交易はあるものの、所領とは認識されていなかったようだ。

 次いで、11世紀から14世紀頃になると、「金沢文庫蔵日本図」などから、国土領域の南限は奄美諸島であったことが分かる。平家一族を中心とする武家勢力が南進したと考えられる。

 15世紀初頭、琉球王国が成立し、奄美諸島までを統治下に組み込んだことにより、日本の国土領域の南限は、種子島・屋久島の南にあるトカラ諸島に移った。

 そして、17世紀初頭、薩摩藩の南下政策により、奄美・琉球を影響下に置くものの、幕府との関係上、奄美諸島は表向きでは琉球王国の所領とされた。その後、明治期の廃藩置県により、奄美諸島は鹿児島県に組み込まれることになった。

 大東亜戦争後、米国により北緯30度以南の島嶼が国土から分離され、国土領域の南限は、再び種子島・屋久島までとなった。続いて、昭和26年にトカラ諸島が返還、さらに昭和28年に奄美諸島が返還されて、そこから昭和47年に沖縄諸島・先島諸島が返還されるまで、国土領域の南限は奄美諸島だったのである。

 このような歴史を確認すると、南西諸島における国土領域の境界が伸縮する核心地域としての奄美諸島の位置付けが見えてくるだろう。その理由の一つとしては、本州や九州などとは全く異なった気候や風土がもたらす物産、たとえば、螺鈿の原料となる夜光貝・家具材となる赤木・染料となる檳榔(びんろう)や、薩摩藩家老・調所広郷の天保の改革に大いに貢献した砂糖きびなどが、今日想像するよりもはるかに重要で貴重な資源だったからだろう。この地域が利益を生み出していたからこそ、利権獲得のために統治されてきたという側面を忘れてはならない。

 そして、ここで改めて主張したいことは、国境は不変不動のものではない、ということである。先島諸島が国土領域の南限となってからでさえも、まだわずか30年余りしか経っていないのである。

 今日の世界は、国連憲章や国際世論が歯止めとなって、戦争という外交手段を用いることが許されるのは極めて稀にしかない。まして、領土拡張のための侵略行為などが許されることはない。しかしながら、「絶対に自国の領土は保全される」という保証は、どこの国にとってもないのである。不安感を煽る気は全くないが、いかにわが国の人々が平和のぬるま湯に浸かろうと、このことは決して忘れてはならないことである。

 しかも、東シナ海では近隣国の不穏な動きが頻発している。南西諸島への領土防衛への意識は、敏感にしてもしすぎることはないだろう。実際、奄美諸島の一つ、喜界島には「象のオリ」と呼ばれる通信傍受施設が建設中であり、また、奄美大島の南部・瀬戸内町にも、海上自衛隊の基地建設の予定がある。

 しかしながら、国防を担うのは、自衛隊だけではない。自衛隊だけではカバーできないほど、南西諸島は長大に広がっている。不審船での密入国や密輸などへの対処も含めて、国防を担うのは、民間人といえども同じである。このことを考えると、各島々には一定の人口を確保し、居住させる必要がある。(このことについて、わが国の政府はどう考え、どう動くべきなのだろうか。)

 領土問題が、解決の困難な外交問題であることは、竹島や北方領土を見ても、いやというほど身にしみて分かることだろう。そうであるならば、将来に禍根を残さないためにも、わが国政府は実施する政策において、南西諸島などの僻地から本州の大都市に人口を吸い寄せる傾向を助長すべきではない。

 それでもなお、水が高きから低きに流れるがごとくに、人は自然と進学や就職を求めて、都会に出るものだ、という意見もあるだろう。もちろん、民間の流れを遮断することは、政府といえどもできないことは理解している。しかし、まずは政府が、公権力を使って都会に人口や資金などを集中させようとする姿勢を改めることがはじめの一歩だと考える。そうしてこそ、政府が僻地などの地方と向き合うための議論のテーブルに、腰を据えて着くことができると考えるのである。

奄美振興開発事業について

 奄美諸島には、離島振興法の特別法として、奄美群島振興開発特別措置法が適用されている。これは先述の通り、大東亜戦争後、奄美諸島が昭和28年に米国軍の統治下から日本に復帰した後、わが国本土との格差をなくすために採られた特別地域振興策である。施行以来、50年以上にわたって続いているが、実際には5年毎に改廃される特措法によって事業が行われ、名称も『奄美「復興・振興・振興開発」事業』と変わってきた。所轄官庁は旧国土庁・現国土交通省であり、昭和40年代頃から、建設国債による社会資本整備・公共工事が事業の中心となった。

 50年以上も続くこの事業が奄美諸島にもたらした影響は、正負の面ともに大きかった。正の面としては、道路・港湾・空港などの社会インフラが整備され、交通・交易などの面が便利になったことである。また、農地・農道・林道などが整備され、第一次産業の振興に役立ったことも挙げられる。その他、基幹産業が衰退していく中での雇用の受け皿としての効果もあっただろう。

 しかしながら、負の面や問題点も負けず劣らず大きいと考える。その最たるものは、たとえ数百億円の国費が投入されたとしても、その金額はほとんどそのまま、本土の大手ゼネコンに支払われるということである。つまり、奄美諸島での公共工事を請け負う大部分は、奄美の業者ではなく、本土の業者なのである。これでは、奄美への経済波及効果は限定的なものとならざるを得ない。

 さらに問題は、そのことが大多数の奄美や本土の人々に知らされていない、ということである。そうでありながら、この事業の存在や予算額などだけが知れ渡ると、莫大な資金を投入していながら、どうして経済的自立が達成されないのか、という国民の不満感情が高まりもすれば、奄美の人々が自信を失いもする。人々への心理面への影響は、見逃すことができないほど大きいと考える。

 また、事業によってハード面が整備され、産業が発展していく基盤が整備されたのに、それが産業発展にほとんど活かされていないということも大きな問題である。そうであるのに、基盤整備ばかりを続けるという、安易な事業を繰り返している。これでは、手段が目的化しており、また、費用対効果が検証されていない、といわざるを得ない。その他、この事業に群がろうとする建設業者の行政への依存体質なども問題だろう。それが政官業の癒着につながっていくことも否定できない。

 実は、私はこの夏、この事業の来年度予算概算要求の記事を地元紙で見て、正直に失望した。事業方針では、「自立を目指して」「ハードからソフトへ」などと謳っているものの、中身はこれまでと全く変わり映えのしない予算配分だったからである。相変わらず道路建設や農地整備などのハード事業が中心で、ソフト事業は予算額にすればわずか2%に過ぎず、その内容も、目的の不透明な調査事業など、例年とほとんど同じだったのである。これも、官僚の前例踏襲の体質がなせる業なのか知らないが、余りにも危機感と構想力に乏しい予算配分だと感じた。

 私は、本来なら5年で終了するはずの特措法が50年以上も延長され続けてきたことについて、奄美振興開発事業は、奄美の人々の方から「不要」といわない限り、永久に続くと考えている。というのも、政府としては公共事業を減らす方針ではあるものの、逆に国土交通省としては、省益確保のために何とかして残したいという思惑があると考えるからである。そして、公共事業の確保を正当化しやすいものの一つが、この特別地域振興策としての奄美振興開発事業なのではないか。本土の大手ゼネコンが潤うのであれば、工事はどこでやってもよい、という発想があるのではないか。

 奄美の道路事情は、この数十年で格段に向上した。後は補修さえすれば、これ以上の整備はほぼ必要ないと私は考えている。それでもなお、これ以上の道路整備が必要だというならば、それは欲望がさらなる欲望を生み出し、止まることを知らない状態と同じだと想う。どこかで歯止めをかけなければ、永久に続くと考えられる。

 政府は、このような傾向を助長するのではなく、食い止める姿勢を採るべきである。特に奄美諸島においては、重要な地域資源である自然環境への影響をよくよく考慮すべきである。まして奄美は、環境省により、世界自然遺産登録の候補地に選ばれている地域である。「縦割りの弊害」などの言い訳は無用である。道路を一本通すことが、私たちが想像する以上に生態系に影響を及ぼすということを強く認識すべきである。地域資源を台無しにしては、その地域を潰すことになりかねない。これでは、自立どころではないのである。

郵政民営化の影響

 小泉構造改革なるものの最大の旗印であった郵政民営化について、私は解散総選挙の時から、郵貯・簡保が抱える巨額の資金の国外流出と、郵貯銀行・簡保会社の外国資本による買収を懸念し、安易に賛成することはできないと考えていた。

 また、有識者からは、郵便局はトータルで黒字であるのに、なぜ民営化する必要があるのか疑問視する声が少なからず上がっていた。残念ながら、その声はマスコミや国民によって、ほとんど無視されてしまった。

 「民営化イコール善」という単純化された論理に踊らされ、郵便局の合理化・効率化が進められた結果、全国の地方、特に僻地において、もちろん、奄美においても、深刻な影響が出始めている。

 今年6月、日本郵政公社により郵便局の再編計画が発表され、集配局の統廃合が進められることになった。全国に4,696つある集配局のうち、1,416つを無集配局として窓口業務だけ行うことにするというのだ。無集配局になる数は地方ほど多く、大阪府3局、東京都5局に対して、九州最多の鹿児島県は32局である。しかも、そのほとんどが離島などの僻地に集中している。

 民営化され、経営の合理化・効率化を図る観点からは、これは当然だという結論になるだろう。しかしながら、金融機関や保険会社、宅配会社が充実している都会に比べて、より郵便局を必要としているのは地方であり、僻地なのである。この矛盾に、私は耐えられない想いがする。

 僻地における郵便局は、金融や郵便配達以上の機能を果している。ほぼ毎日、配達員が高齢者の多い各集落をくまなく回りながら、安否を気遣うなどコミュニケーションをとることができることから、市町村などと協定を結んで、地域の情報提供を行っていることが少なくない。老人福祉や防災・防犯などの面での貢献度は大きく、住民の安心・安全な生活に大きな役割を果している。

 これまでは、奄美においても移動手段のない高齢者のために、配達員が軒先で郵貯や簡保を扱うことができたが、集配局の統廃合により、今後は厳しくなるだろう。配達員が担当する地域が拡大するとともに、配達員と住民との信頼関係を築くことが、これまでよりも困難になると考えられるからだ。不便や不利益を被るのは、やはり地方の、僻地の住民なのである。

 経営的な合理性や効率性、事業性を追求するあまり、公益性を失いつつある郵政民営化。郵政公社は不在留置交付などという代替施策により、現行サービス水準の維持を図るといっているが、どれ程信頼してよいものなのか。集配局だけでなく、全ての郵便局の統廃合が行われるのも時間の問題のように感じる。

 地方の、僻地の住民が安全・安心に暮らすための「空気のような存在」であった郵便局や、配達員などの郵便局員との信頼関係。全体としてみたときに、たとえ小さなものだとしても、これらを破壊する改革を続ける限り、国民を幸福にすることはでないのではないか、と想わざるを得ない。

核燃料廃棄物処分場建設誘致の問題

 今年の夏、奄美大島の人口2千人余りの小さな村・宇検村が全国紙に取り上げられるような事件が起こった。村が主導して、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の誘致を検討し、国策を代行して進める原子力発電環境整備機構(原環機構)による説明会を2度開催した、というものである。

 これに対して、村民だけでなく、島内の他の首長、マスコミ、環境団体や鹿児島県知事からも非難・反対する声が上がり、村長は数日後に計画の検討を断念することになった。

 私もこのニュースを見たときは、正直申して、唖然とした。ついに、目先の利益のために、将来にわたって子孫たちに永久に禍根を残すようなことにまで着手することを考えはじめたか、と想うと、情けなくなるばかりだった。

 実際には、震源立地地域対策交付金という「思いやり交付金」により、資料などを基に地質などを調べる文献調査だけで年間約2億円、ボーリングを伴う概要調査だけで年間約20億円が自治体などに支払われるという。また村長も、交付金に魅力があった旨話している。

 たしかに、同村の今年度当初予算約29億6千万円のうち、歳入の自主財源は21%、起債制限比率18.4%という苦しい台所事情を考えると、藁にもすがるような想いだったのだろう。

 しかしながら、先述の通り、奄美諸島では現在、鹿児島県庁が中心となって、世界自然遺産登録に向けた施策を進めている真っ最中である。そのような中、核燃料廃棄物処分場の誘致などは、この流れに真っ向から反対する発想だといえよう。たとえ、どこかの自治体が引き受けなければならない迷惑施設だとしても、建設を検討すること自体、奄美大島という固有の価値を理解していないことの現れだと考える。哀しいことに、行政のトップが、地元の価値に気付いていない、あるいは、軽んじているということなのである。

 しかしながら、他方において、高額の交付金をふりかざして立地を公募する原環機構の進め方にも大いに疑問を抱く。この原環機構は「市町村の自主性を尊重する」として、4年前から処分場を受け入れる市町村の公募を始めた。そして、これまで候補地として浮上してきたのは、宇検村と同じく過疎地の小規模自治体であり、税収が少なく、財政難であることが共通している。

 このように、国策を進める機関が、財政力の乏しい自治体を高い交付金で釣るようなことを続けてもよいものだろうか。建設の必要性は分かるとしても、また、これ以外の進め方がないとしても、やはり疑問に想う気持ちは絶えない。その理由の一つには、過程の透明性を確保すべきであるのに、説明会開催が公表されたのは後日だったからだ。(だからこそ、2回も開催することができたのだ。)

 ちなみに、高レベル放射性廃棄物処分場の建設が決まっているのは、世界でもフィンランドだけで、米国・英国・仏国とも建設に苦労しているという。それほどに、厄介であり、慎重にも慎重を期さなければならない施設であるということだ。

 圧倒的に情報の格差があると考えられる中で、国策の代替機関が、地方の弱小自治体を、そして、地元住民を欺くことにならないか。この動向については、私たちの多くが関心を持って、継続的にウォッチしていかなければならない問題であると考える。

まとめとして

 これまで、過去から現在にかけて奄美で起こってきた諸問題を通して、国と奄美、国と地方との関係や問題点を見てきた。過去から続く問題や最近起こった問題から共通して見えてくることは、「国の論理によって、地方が振り回されてきた」ということである。さらに激しくいうならば、「地方は、常に中央の発展を支えるための犠牲になってきた」とさえいえよう。これは何も、奄美に限った話ではない。たとえば、多くの地方都市では、過疎化や財政悪化などの共通した問題を抱えているが、その原因として、国策として進められた全国総合開発計画やリゾート法などが少なからず影響していることが挙げられる。夕張市もこれに該当するだろう。もちろん、地方への厚い財政的手当てなどの措置を無視する訳ではない。しかし、残念ながら、それが功を奏していない現状、つまり、地方の多くにおいて、全ての源となる人口の減少に歯止めがかかっていないことを指摘しておきたい。

 国と地方、この両者は、今後どのような関係で歩むべきなのだろか。政治というものが、正義を実現するためのものであるとすれば、このままの流れを放置してはならないのは明らかだろう。

 後者に属する者として述べるならば、私は自らの故郷を繁栄させるために、国から予算が欲しいというつもりは全くない。ねだりやたかりをするつもりはない。国も財政面で危機的状況にあることは十分に承知している。

 むしろその逆で、早く自立しなければならないから、暫くの間、力を貸して欲しい、ということである。また、政治・経済・文化の東京一極集中を含めて、早く中央集権体制を改めた方がよい、ということもいえる。そして、住民ができることは住民が優先的に執行することを基本とし、次いで住民に最も身近な市町村が担い、市町村が執行できないときは県が担うという、いわゆる「補完性の原則」を貫き、道州制をはじめとして、地域が主役となるしくみや制度に早く移行した方がよい、ということである。原理原則の論理ではあるが、これが国の都合により、なかなか実践に移されないことが問題である。制度変更に慎重を期しているためでもあろうが、ここでは、さらにこの原理原則を強調する必要がある。人々の幸不幸の現場に最も近いところにある市町村に強力な権限と財源とを与えずして、どうして国民一人ひとりの豊かな人生に貢献することができようか。政治・行政の役割や目的が問われている課題なのである。

 また、近年の構造改革なるものについて述べるならば、地方の切り捨て・弱い者いじめと受け止められるような施策はなすべきでない。まして、僻地においてはなおさらである。そこに住む人々を大切にしなければ、防衛の面でも、治安の面でも、必ず禍根を残すことになるだろう。離島から人がいなくなれば、将来にそこへの移民政策をしなければならなくなる可能性がある。そのとき、何の文化も残っていない島へ、どこの誰が行くのであろうか。

 私は決して、地方の悲惨な過去と現状とを代弁したいだけではない。かつてのような、地方を中心とした多様な日本を取り戻したいのである。それこそが、わが国の繁栄に資すると考えるからである。

 地方の論理が国の論理よりも優先され、地方が自らの地域にある資源を活用して、強く逞しく自立できるような日本を、私は目指したい。そして、国はそのために、当面は地方自治体の財政健全化や人材育成を後押しする役割を果たすよう、さらに強く望んでいきたい。

締め括りとして

 やや唐突ではあるが、笹森儀助という人物をご紹介して終わりたい。彼は幕末、弘前藩士の子として生まれ、青森県の役人を経て、後に第2代青森市長となった人物である。

 彼は地位や役職には頓着がなく、県役人を30代で辞した後、士族への授産事業である「農牧社」を設立した。そして、1年をかけて日本中を「貧旅行」した後、青森出身のジャーナリスト・陸羯南の依頼を受けて、北方の千島列島を探検した。その旅行記『千島探検』が時の内務大臣・井上馨の目に留まり、南方の糖業振興を図るため、今度は奄美・沖縄など南西諸島の探検・調査を依頼された。

 その探検から帰着して、旅行記『南島探検』を著した後、彼は奄美大島島司に任命され、約4年をかけて、島民が抱える巨額の負債の償却に道筋をつけるとともに、糖業振興に全力で努めた。

 このように、私の故郷・奄美とご縁がある素晴らしい人物が存在したことだけでもうれしさを感じるが、ある識者によれば、彼の最大の功績は、「中央から忘れられた人々に目を向けさせた」ことであるという。

 彼が『千島探検』を著したのが明治26年であるから、明治政府による中央集権体制の構築が大方進んでいた段階にあったと想われる。中央の政界では、明治22年の大日本帝国拳法発布など、中央にのみ焦点が当てられる中で、「辺境の貧しい人々の存在を気付かせた」ことの意義は、決して小さくない。彼もまた「最後の武士」の一人といえるほど、貧しい人々の立場に立ち、その状態の改善に全力を尽くしたのである。

 私も、そのような土地において政治に挑戦しようとする者として、その姿勢を見習わなければならない。故郷のために、全体を見渡した上で、私は常に弱い立場の者のために働きたい。本当の弱者を見きわめる眼力を養いつつ、そのために動くことを決意する次第である。

参考文献

西村富明『奄美群島の近現代史』海風社、平成5年
皆村武一『戦後奄美経済社会論』日本経済評論社、平成15年
『興南』第66号、興南会、平成16年
読売新聞、東奥日報、南海日日新聞、大島新聞 など

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安田壮平の論考

Thesis

Sohei Yasuda

安田壮平

第25期

安田 壮平

やすだ・そうへい

鹿児島県奄美市長/無所属

Mission

地方における自主独立の振興・発展策の推進

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