論考

Thesis

調所広郷から掘り起こす、鹿児島人へのエール

私の故郷・鹿児島は、戦後60年を迎えてなお、持てる力を十分に発揮した発展を達成できていないように思う。そこで、薩摩藩家老・調所広郷(ずしょひろさと)を中心に、歴史からエネルギーを掘り起こし、鹿児島発展のための、ひいては日本発展のための、一つの試みとしようと思う。

はじめに

 私の故郷は、鹿児島である。詳細にいえば、鹿児島の一部、奄美大島であるが、私は鹿児島に対しても、愛郷心を抱いている。その延長上に、わが国を愛する想いがある。

 しかしながら、その鹿児島も、戦後60年を迎えた21世紀初頭の今日において、順調に発展しているとはいいがたい。具体的な数字で見ると、この10年間で人口が約2%、3万人ほど減少している。また、経済に関する指標では、県民一人当たり所得が、全国平均の7割強で止まっており、これは全国でも沖縄県に次ぐ低い水準である。そして、鹿児島県という自治体は、財政力指数0.26であり、歳出規模の約2倍の1.6兆円の県債残高を抱えており、いつ財政再建団体に転落してもおかしくない状況である。鹿児島の、この惨めな状況はどういうことなのか。明治の新政により、中央集権型の統治機構に押し込められて「47分の1」になってしまったから、というには、あまりにも哀しすぎる。

 たしかに、どう見ても疲弊していると感じてしまう鹿児島であるが、その県土なり県民が持つポテンシャルは、限りなく高いものがあると、私は考えている。それは、鹿児島の自然環境や歴史などに鑑みたときに湧き起こってくる確信である。

 鹿児島の歴史を考えた場合、最重要なテーマの一つが、明治維新であろう。鹿児島の前身の薩摩藩は、間違いなく維新回天の原動力となった雄藩の一つである。そして、明治政府において新しいわが国をかたちづくった多くの人物を輩出することができた。参議・西郷隆盛や、初代内務卿・大久保利通などがその例である。

 幕末・維新という時代の転換点に、薩摩藩が活躍できたのは、もちろん、それを可能にした下地があったからだ。そして、その下地を整えた最大の功労者が、薩摩藩家老・調所広郷だといわれる。今では、彼が1820年代に始めた財政改革がなければ、薩摩藩が後々、歴史の表舞台に現れることはなかった、ということがあちこちで聞かれるほどである。よって、調所広郷を中心に、歴史を温め、歴史に学び、そこからエネルギーを掘り起こすことによって、私は故郷・鹿児島にエールを送りたい。鹿児島人が、少しでも、誇りから湧き上がる活力を取り戻すことを願って、以下に筆を進めようと思う。

鹿児島の自然環境について

 人間の諸活動の集大成である歴史について述べる前に、それを育み、影響を与え続けている自然環境について述べようと思う。

 自然環境といっても、地質・気候・植生など多岐にわたるが、鹿児島県において最も特徴的なのは、その地形であるように思う。

 先日、私は、鹿児島から福岡まで、空路で移動する機会があった。その際、窓から風景を眺めていて気付いたのだが、それは、長崎・佐賀・福岡・熊本の各県、つまり、かつての肥前・筑後・肥後の各藩は、有明海や島原湾に向かい合いながら、活発な交流圏をなしていたのではないか、ということである。おそらく、海を挟んで、船などの移動による密接なつながりを持っていたのではないかと思う。

 また、これは地図を見ての推測ではあるが、福岡・大分・宮崎の、鉄道でいう日豊本線沿いの各県、つまり、かつての筑前・豊前・豊後・日向の各藩も、平地沿いに移動がしやすく、活発な交流があったと思われる。

 一方、鹿児島と熊本との県境は、山がちで行き来が非常に困難そうである。鹿児島のもう片方の県境、宮崎とのそれについても、霧島連山がそびえ立っており、やはり容易に移動しがたいようである。

 つまり、鹿児島県およびかつての薩摩・大隈藩は、陸上では閉鎖された地形にあるといえる。そこから、同じ九州とはいえ、他県・他藩と比べてかなり異質な、独特な文化風土が育まれたことは想像に難くない。たとえば、薩摩弁は、幕府の間諜に解読されないための暗号といわれるくらい、他の方言との違いがある。

 その一方で、鹿児島は南海に向かって開いている。薩摩・大隈両半島の先から、太平洋・東シナ海が洋々と広がっており、その向こうには、種子島・屋久島をはじめ、トカラ列島・奄美諸島・琉球諸島が、まさに「道の島」として連なり、台湾から中国大陸へ、そして、フィリピンから東南アジアへと続いている。まさに鹿児島の位置は、アジア、そしてその先の世界へつながる交易の道の玄関口となっているのである。その証しとして、西欧からの鉄砲とキリスト教が、まずはじめに鹿児島に伝えられたことは有名な史実である。

 よって、薩摩の人間が、南下への希望・野心を抱いたことは必然的であったろう。実際、関が原の合戦が終結し、藩政が落ち着き始めた頃の1609年に、南下政策として、奄美諸島や琉球諸島を統治下においたのである。

 ここで思い至るのは、松本健一氏の『砂の文明・石の文明・泥の文明』で提唱される「外に進出する力」である。これは、主に石の文明である欧米諸国に強く見られる力であり、大航海時代や帝国主義政策などがその例である。ちなみに、砂の文明であるイスラム諸国には「ネットワークする力」が、泥の文明であるアジア諸国には「蓄積する力」が、より強く見られるという。

 薩摩藩および鹿児島県は、たしかに農業が重要な産業ではあるが、土壌はシラス台地という火山灰性の土で、保水力が乏しく、決して恵まれた環境にあるとはいえない。稲作も、主に県北部の方で行われているのみである。

 そのような状況の中、かつては、藩の人口の26%をも占める士卒をまかなっていた。もちろん、士卒の中には半農半武の者も大量に存在したが、当時、わが国の全人口に占める士卒の割合が0.4%であったことを考えれば、それだけ大量の士卒をまかなうことは非常に大儀なことであったと思う。

 よって、「外に進出する力」が内発的に強まりやすくなり、南海への関心が高まっていったのであろう。それが後々、藩主・島津重豪や斉彬の西欧化政策につながっていったのだろうし、また、調所広郷の藩政改革の柱である清との密貿易や黒砂糖の専売などにもつながっていくのであろう。

 ここで私は、この「外に進出する力」を、鹿児島県人はもう一度見直すべきではないかと考える。貿易の展開や、道の島から中国・東南アジアとの交流の可能性を、もっと見つめ直すべきではないかと考えるのである。それは、たとえば、鹿児島からの航路が沖縄止まりであることなどからも、現在以上の発展の可能性がより多く考えられるのである。たしかに、わが国の南の玄関口は沖縄県になり、それはそれで有効な面があるのだろうが、鹿児島人が自分たちの地域の地球上の位置をよく見つめ直し、東京や沖縄が中心ではなく、鹿児島が中心となっての経済交流や人材交流の可能性をこれまで以上に探ることは、決してできないことではないと思う。

 例を挙げれば、台湾や中国との航路の整備を充実することにより、より多くの人材と交流することができる。鹿児島は上海とはほぼ同緯度であり、直線距離では、上海の方が東京よりも近いのである。

 このようなことは、既に試行されているだろうが、なるべく早い時期に定着させることこそ、今求められていると考えるのである。

 最後に、鹿児島の自然環境といえば、錦江湾に壮大にそびえ立つ桜島が、今も昔も多くの人々の心を奮え立たせ続けている存在であることを付記しておく。

鹿児島の歴史について

 続いて、鹿児島の歴史を、概略として確認しておきたい。

 薩摩・鹿児島の成り立ちを考えた場合、古代の隼人族に端を発するだろう。隼人族とは、古代の南九州一帯を生活圏にしていた集団であるが、大和朝廷に反発した、異質な民族だったようである。時代が下って、鎌倉期に、源頼朝によって、守護大名・島津氏が乗り込んできた。よって、島津家は700年近くの長きにわたる統治の歴史があることになる。その後、島津義弘により九州統一を目指すが、秀吉との戦いに敗れ、薩摩・大隈・日向の三州に押し込められてしまった。関ケ原の戦いで西軍に味方した経緯などにより、徳川時代においても、幕府の強い監視を受ける存在であり続けた。その証しに、加藤清正は熊本城を建てて、常々薩摩を監視していたということである。また、薩摩人にとっても、熊本城は中央・幕府の象徴であり、だからこそ、西南の役において、西郷軍が陥落を目指して何度も攻め込んだといわれている。

 これらのことに鑑みると、薩摩は古くから中央政府に反発し続けた存在だったようである。中央政府から見れば、九州の最果ての、天嶮に囲まれた閉鎖的な地において、何を企んでいるのか計りしれない、不気味な存在だったろう。

 一方、薩摩から見れば、中央政府に決して屈せず、独自で力を蓄えて、いつか見返してやろうという気概に満ちあふれていたに違いない。その背景には、秀吉や家康など中央の人間に雪辱を期す思いが積もっていたことだろう。そうであるからこそ、明治維新において、薩摩藩が爆発的な力を発揮することができたとも考えられる。

 私は、現代においても、このように中央に対抗・対峙する気概・気迫は必要だと思う。現行の都道府県制度が敷かれ、鹿児島が失った最たるものは、まさにこの気概ではないかとさえ思えてくる。

 これからの時代、中央政府の存在する東京を向く必要は全くない。やはり、鹿児島にとっては、鹿児島が中心である。この姿勢こそ、道州制が政治日程に上がり始め、地方分権から地域主権へと新たな国のかたちをつくろうとしている現代において、ますます必要となってくるあり方だと思う。わが国の現行の税財政制度では、どうしても中央政府に対峙することはしにくいが、自立する力を一刻も早く回復するためにも、重要な姿勢であり続けるだろう。

 ところで、江戸時代中期の薩摩藩は、参勤交代の影響や、宝暦の木曽川治水などの影響により、財政面で非常に苦しい状況にあったようである。そのような状況下の宝暦5(1755)年に、開明的な第25代藩主・重豪(しげひで)が登場した。彼は、きわめて積極進取的な性格で、開国主義の急先鋒だったようである。その背景には、幼少期における江戸でのオランダ人の通行見物の体験などがあったといわれている。蘭学や本草学を熱心に探究し、書物も編纂している。藩学の造士館や医道研究の医学院を創立したり、天文学の研究から「薩摩暦」を発行せしめたりしている。

 これらの施策には大変な費用を要し、藩財政をさらに困難に陥れたことはいうまでもない。そこで、第27代藩主・斉興の時期、大御隠居重豪が登用した人物が、先に述べた調所広郷であった。この文政10(1827)年時点での薩摩藩の借金は、500万両といわれている。このときの藩の経常収入が年間14万両前後であるから、途方もない借金であることがわかる。ちなみに、当時の500万両とは、現在に換算すると1兆円ということである。

 ここにおいて、調所広郷は、「無利息250年賦償還法・清との密貿易・黒砂糖の専売」という3本柱によって、藩財政を立て直していく。この改革は、徳川270年の封建社会において、幕府の松平定信と並び称される改革である。

 まず、無利息250年賦償還法とは、借金の利息をゼロにして、元金を250年かけて返済するという、体のいい踏み倒し策である。これを決めたのが1835年であるから、完済は2085年になる。相当無理な方策である。

 彼の老獪なところは、商人から奉行所に訴えられるのを見越し、幕府に計35万両ほど上納したことなどである。その一方で、「殺されても構わない」といった強い気持ちがあったのもたしかなようである。それ程の覚悟、勇気があったからこそ、今とは金銭的な倫理観が異なる時代だったとはいえ、大胆な手術を施すことができたのだろう。

 また、清との密貿易とは、富山の売薬商人らと組み、漢方薬を密輸入し、北海道の昆布などを輸出したことである。「唐物方」または、「琉球生産物方」と呼ばれた。これは、もちろん、鎖国体制を敷いている幕府にとっては重大な犯罪である。しかし、民間では「一度の航海で蔵が建つ」といわれるほど莫大な利益を見込める事業であったようであり、八方ふさがりの急場しのぎには欠かせなかったのだろう。藩の財政にとって、相当大きな収益を上げることができたようである。

 そして、黒砂糖の専売とは、奄美大島や徳之島などで生産する黒砂糖の管理を厳しくし、限られた商人にしか扱えないようにして、価格を高く維持することである。これについては、島民に対する過酷な収奪があったようである。島民たちは、水田を潰して砂糖きび畑に替え、年貢として黒砂糖を納めなければならなかった。本土では高値で取引される商品であるのに、島民たちが潤うことはほとんどなかったようである。このような過酷な歴史も、薩摩藩の財政再建の裏側にあったことを忘れてはならないと思う。

 以上のような、一面においては、調所広郷本人がいつ殺されてもおかしくない、危険きわまりない手法によって、また一面においては、天文学的な膨大な額の借金を返済し、財政再建を成し遂げるための、選択肢が限られた中でのきわめて大胆な離れ技によって、薩摩藩の財政は回復していくのである。調所が登用されて10年後には、下級士族の出身としては異例の家老昇格を果たす。そして、それから6年後には、藩に50万両ほどの備蓄ができるのである。

 たしかに、調所の財政改革については、評価は分かれよう。これほどまで無謀かつ違法で、人々を苦しめた面もあるのだから、それもやむをえまい。その後、継嗣問題で開明的な斉彬と対立し、幕府の老中・阿部正弘と手を組まれ、密貿易の情報などを握られるなどして、一切の罪をかぶるかたちで非業の死を遂げる。そして、遺族は追罰され、家格も下げられ、家禄と屋敷は没収される。西郷や大久保などの元勲からも、憎まれ続けたという。明治の世に、調所の贈位が問題になったときも、元勲たちの横槍で沙汰やみになったということもあったようだ。

 時代が下って、海音寺潮五郎などにより、調所の功績の発掘がなされ、だいぶ評価も変わってきた。調所の改革がなければ、斉彬の集成館事業や、薩摩藩の幕末・維新期における活躍もありえなかったといわれるようになった。

 私も、まさに調所を評価すべきだと考える。調所に苦しめられた島人の末裔の一人ではあるが、調所の功績のその後の影響はあまりにも大きいと考えるからだ。また、調所も、私利私欲で改革を進めたのではなかっただろう。彼は、財政改革の責任者に抜擢されたときに、身分が低いのを理由に、一度固辞している。彼は、茶坊主出身であり、身分が低い者が藩政を動かそうとしても、封建的な薩摩の風土では、実行できないと考えたからだ。しかし、重豪の強引な要請もあって、その役目を引き受け、その責任を果たすべく、命がけで取組んだのだろう。まさに、命がけ、死んでも構わないという強い気持ちがあったからこそ、財政再建も達成できたのではないか。調所の改革達成の要因は、その大胆な知恵・アイディアよりも、この命がけという覚悟であり、強い気持ちであり、胆力であったように思う。ここに私は、リーダーたろうとする者の気持ち・気力の強さの必要性を感じる。それでこそ、大業を成し遂げられるのだろう。場合によっては、一時的に厳しい評価を受けるのもやむをえまい。それを乗り越えて、大きな展望に立ってこそ、本当の意味での大事業を達成できるのだと考える。調所のこの生き様こそ、郷土の子孫である私たちが、脈々と受け継いでいくべきものであると考える。

最後に

 これまで、鹿児島の自然環境や歴史を見てきた。その中で、「外に進出する力」や、中央に対峙する気概の重要性を掘り起こしてきた。また、調所広郷について、命がけの気概あふれる改革の姿を見てきた。重ね重ねになるが、彼の改革にかける強い気持ちは、必ずや私たちが受け継いでいかなければならないと考える。

 多くの識者が指摘するように、歴史を学ぶとは、そこに生きてきた人たちの生き様を学ぶこと、史実の背景にある想い、気持ちを学ぶことであると、私は考える。まさにここにこそ、郷土に誇りを持ち、郷土を愛する人材を育成する要諦があるように思う。

 将来の鹿児島を想うとき、人材を育成することの大切さは、語っても語り尽くせない。人材あってこその、地域活性化であり、日本活性化であろう。今日の鹿児島の衰退の原因は、一つには人材の流出が大きなものであったように思う。

 最後に、人材の育成において、地元・鹿児島の歴史を教えること、つまり、歴史教育の充実の重要性を指摘しておきたい。私が鹿児島での学校教育を受けてきて感じたことは、地元の歴史をほとんど教わっていない、ということである。私が中学校を卒業して、ちょうど10年になるので、その間にいくらかの変化はあったかもしれないが、郷土の歴史教育はまだ十分ではないように思う。現代の子どもたちに、郷土の先人の功績を伝え、誇りと希望を持たせ、よりよいわが国をつくっていってもらうためにも、これは重要な教育のあり方であると考える。

 鹿児島は、偉大な歴史に恵まれている。その中に脈々と受け継がれている先人たちの想いや生き様こそ、次代に確実に伝えていくべきものの一つである、と改めて思う。この歴史を、将来に活用しない手はない。

 わが国のかたちが変わりつつある今日、道州制の導入などによって、一層激しくなる国内の地域間競争に伍していくためにも、そして、日本と世界の発展に少しでも貢献していくためにも、私たち鹿児島人は、歴史に眠るエネルギーを掘り起こし、未来に向かって進んでいきたいと考える次第である。

参考文献
『幕末の薩摩』(原口虎雄)
『新薩摩学1』(犬塚孝明他)
『薩摩と西欧文明』(芳即正他)
『砂の文明・石の文明・泥の文明』(松本健一)
『苦い砂糖』(原井一郎)
日経新聞2005年1月23日付 など

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安田壮平の論考

Thesis

Sohei Yasuda

安田壮平

第25期

安田 壮平

やすだ・そうへい

鹿児島県奄美市長/無所属

Mission

地方における自主独立の振興・発展策の推進

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