松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

日本語英語


塾生レポート 一覧へ戻る
歴史観
2006年6月

塾生レポート

奄美から、西郷南洲翁を考える
安田壮平/卒塾生

西南の役から130年を迎えようとしている今日、わが国では西郷南洲翁の精神やその目指した国家像が再び注目を浴びつつあるように感じる。私は、翁が思想や人物を形成する上で重要な役割を果した奄美の地から、新しい西郷像を見出し、西郷精神の現代的意義を考察・発信したい。

 

はじめに~西郷塾開始の機縁~

 今年9月、奄美大島の龍郷町において、「西郷塾」なる郷土史研究・勉強会が発足した。この龍郷町とは、かつて西郷南洲翁が、僧月照との錦江湾入水自殺失敗の後に、薩摩藩によって潜居を命じられていた土地である。そして、3年間にわたる潜居生活の中で、島妻愛加那を娶り、西郷にとってはじめての子供である菊次郎・菊草をもうけ、ともに暮らした土地でもある。

 この龍郷町は、島内でも屈指の教育・人材育成の町として知られ、第2代京都市長の西郷菊次郎をはじめ、大審院院長や代議士など多くの人材を輩出している。その背景には、西郷による島人の教化や教育への開眼があるといわれている。

 この西郷塾が発足した直接の理由は、西郷が奄美潜居時代に「菊池源吾」と名乗ったことに因るから、ご縁というのは味なものである。このおかげで、2つの地域が交流を始めることとなったのだから。

 去年3月、南洲翁の祖先発祥の地とされる熊本県菊池郡七城町が、周辺の菊池市や2町と合併して、新菊池市が誕生した。西南の役の激戦地、田原坂にも程近い菊池市は、合併を機に、南洲翁祖先発祥の地としての歴史を掘り起こすために、西郷が生涯で唯一「菊池源吾」と名乗った土地である龍郷町に目をつけ、人や情報の相互交流を呼びかけたのである。

 理由は後述するが、潜居時代の西郷の生活状況や人となりなどは、奄美ではこれまでほとんど研究されてこなかった。1年半の滞在だった沖永良部島における研究状況とは雲泥の差があった。そこで、龍郷町では、菊池市との交流に先立ち、西郷塾を開講し、研究や勉強を開始したのである。

 私もこの塾に参加しているが、研究・勉強の目的は、奄美時代の西郷をあるがままに、等身大に描くことである。奄美発の新しい西郷像を描き、地域の教育などに活用するとともに、ゆくゆくは全国に発信することによって、西郷の多面的な把握に貢献したいと考えている。さらには、西郷を通して見える奄美の特性を把握し、ゆくゆくは地元の活性化などにも役立てようと考えている。

 今回のレポートは、この西郷塾で研究・勉強したことをまとめ、新しい西郷像や西郷精神の現代的意義の考察・発信を試みるものである。

奄美潜居時代の西郷

 西郷塾で用いているテキストは、主に『西郷隆盛全集』に所収されている西郷の書簡である。専門家による解説書ではなく、西郷直筆の一次資料にあたることによって、ありのままの西郷像に迫るためである。また、各人の感性や想像力によって、自由な解釈を可能にするためでもある。そうでなければ、等身大の身近な西郷像は抽出しがたいだろう。

 私はここで、鹿児島で定着している「幼い頃から立派で、偉大な西郷像」というものに一石を投じたいと考える。むしろその逆で、西郷の人生は、失敗や挫折の連続で、それに挫けずに己を磨きつづけたからこそ、大きな人格が鍛え上げられていったのではないだろうか。

 西郷が月照との入水自殺に失敗し、蘇生してから35日目頃、肥後の長岡監物宛の書簡には、

「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第」
とあるが、ともに入水して月照を死なせながら、自らは生き延びてしまったということは、武士として余りにも恥ずかしく、辛い心境だったことは想像に難くない。この後暫くの間、西郷はこの「土中の死骨」という言葉を書簡で使用している。それ程に、死んだ方がまだまし、死んだも同然という苦しい心境だったのだろう。

 西郷は、安政6(1859)年1月10日に鹿児島の山川港を出発し、翌々12日に龍郷村阿丹崎へ到着した。そして、奄美での生活が始まるが、当初は西郷自身の自暴自棄のような状態とも相俟って、奄美の気候や島人とのやりとりなどで非常に苦労し、困っていた様子が窺える。

 奄美到着後に初めて出した、鹿児島の大久保利通宛の書簡には、

「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」
と、奄美の冬期特有の長雨にぐちをこぼしている。また、当時島の女性には手の甲に入墨をする習わしがあったのだが、それに注目して、
「島のよめじょたちうつくしき事、京、大坂などがかなう丈に御座無く候。垢のけしょ一寸ばかり、手の甲より先はぐみ(入墨、筆者注)をつきあらよう」
と、皮肉たっぷりに島の女性を評している。入墨の習俗がよほど珍しく、野蛮に見えたのだろう。

 さらに、奄美の島人への批評は続く。

「誠にけとう人にはこまり入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申すおもいばかり、然しながら、至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」
と、まさかここまでと思うほど、辛口な表現をしている。「けとう(毛唐)人」とは島人への蔑称であり、「はぶ性」とは、島人が西郷を恐れ、物陰から常に覗っている様子を奄美の毒蛇ハブに見立てたのだろう。「とうがらしの下」とは、慇懃無礼の意味だろうか。

 西郷は初めて奄美を訪れ、薩摩との文化・習俗の余りの違いに大きなカルチャーショックを受けたことだろう。また、島人と接触しても、言葉が通じなかっただろうから、話し相手もなく、島人となかなか打ち解けることができなかったのだろう。島人たちも、薩摩から大男がやって来たのだから、恐れつつも、興味津々だったに違いない。だから、いつも物陰から覗き見ていたことに、西郷は嫌気が差したのだろう。

 このように、島人たちには親しみが持てないものの、奄美の民政への観察眼は鋭く、同じ書簡の中で直ちにその苛政ぶりに言及する。

「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候。当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人さばきよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」
と、当時の薩摩藩の黒糖収奪策の想像以上の厳しさに胸を痛めている。それは、北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどいと指摘しているが、これは西郷が下級役人時代から培ってきた、苦しい立場の農民を思いやる気持ちの現れなのだろう。

 西郷が奄美での生活に慣れるまでには、もう暫く時間がかかった。その間、たとえば、大島代官である吉田七郎に、米・油塩類・薪・鍋・はがまの注文をしたり、さらには龍郷から他所への場所替えまで願い出ている。さらには、同年6月の再びの大久保宛書簡にも、

「此のけとう人との交わり如何にも難儀至極、気持ちも悪敷、唯、残生恨むべき儀に御座候」
と、相変わらずのぐちを伝えている。ここには、本土で活躍する同志たちと比べた己の惨めさや悔しさが、逆に島人への恨みとなってはねかえっているようでもある。

 しかしながら、半年以上が経って、西郷も奄美での生活にようやく慣れてきたのだろう。島人の子弟に学問や書道を教えていく中で、交流も深まり、徐々に信頼関係を築いていったと思われる。

 そして西郷は、奄美に着いた年の11月8日、龍家一族の愛加那を島妻に娶ることとなる。

愛加那との生活

 西郷の愛加那との結婚生活を述べる前に、西郷の女性にまつわる一面を確認しておきたい。

 西郷は24歳の時、薩摩にて伊集院スガと結婚するが、江戸での勤務が長く続き、家庭を顧みる暇もなく、また経済的にも貧しかったため、スガに逃げられてしまった。それが苦い記憶となったのか、義弟に対し、「女子不犯の誓い」を立て、二度と再婚しない旨を伝えたこともあった。

 また西郷は、藩主島津斉彬の一橋慶喜擁立運動を陰で支え、斉彬の養女篤姫の十三代将軍家定への輿入れに奔走し、見事にその役目を果した。

 篤姫の成婚からちょうど3年後、二度と再婚しないと心に決めた西郷は、愛加那を島妻に娶ったのである。一度は、天上界のような華やかな世界の女性と接した経験もありながら、かつて野蛮だと蔑んだ島の女性と結婚したのである。この意味するところは、深く大きいように感じる。

 もちろん、男一人での生活が不便だったこともあるだろう。また、当時奄美に来た薩摩の役人の多くが、奄美滞在中だけの婚姻関係である島妻を持っていたという習慣の影響もあるだろう。

 しかしながら、奄美の島人との心と心の触れ合いを重ねる中で、愛加那と結婚したのは、奄美の人々を信頼し、そして、その一人である愛加那の人間的な魅力にひかれたからではないだろうか。

 愛加那を娶った後の西郷は、やはり楽しそうな結婚生活を送っている。先の代官、吉田七郎に対して、「御扶持米御繰替え」、つまり、米の前借りを申し出るなど、新婚生活の経営に一生懸命の様子である。そこには、愛加那を大切にしたいという思いと、二度と失敗したくないという思いとが表れているように感じる。西郷家の生活は、代官の好意、龍家の援助、鹿児島からの仕送りなどにより、一応は安定していたようである。

 ちなみに、愛加那は、世間に流布している想像画のような可愛らしい女性とは少し異なっていたのかもしれない。古老の話によれば、西郷と取っ組み合いの喧嘩をするほど、立派な体格で逞しい女性だったようだ。それでこそ、大男の西郷に似合う女性だと、島人たちは思ったのだろう。

菊次郎の誕生

 文久元(1861)年3月4日、大久保宛書簡の冒頭には、

「尚々、野生(西郷のこと、筆者注)には不埒の次第にて正月二日男子を設け申し候。御笑い下さるべく候」
とある。奄美での生活が始まって丸2年、ついに西郷に男子菊次郎が誕生した。それにしても、大久保への報告文、何と照れくさそうなことではないか。うれしい心情が伝わってくるようだ。

 この前日の3月3日は、桜田門外の変の一回忌にあたり、西郷は歓喜してこの書簡を書いたようである。この中には、「私には頓と島人に成り切り」という言葉があり、西郷はようやく島人になりきったという心境に達したようだ。2年前と比べると、大きな心持ちの変化が分かる。

 さらに1年半後、西郷が帰藩した後に、長女菊草が誕生することになるが、こうして西郷は、奄美で家庭を持ち、はじめて子供を持つに至った。この経験が、後の西郷に大きな影響を与えたと、私は考えている。

 つまり、子供を持つに至ってはじめて、西郷は人間らしい心を取り戻し、そして、守るべきもの、背負うべきものをもったのではないだろうか。このときの一家団欒の生活、さらには、奄美の島人たちとの心と心の触れ合いがあったからこそ、それが心の支えとなって、その後幾度となく降り掛かる艱難辛苦、たとえば、沖永良部島での1年半にわたる厳しい入牢生活などをも耐え忍ぶことができたのではないか、と考えるのである。

 実際、奄美に来る直前の山川港で、西郷が自決しようとするのを大久保に制止されたことがあったが、3年後、西郷が2度目の遠島を受ける直前に、大久保に刺し違えて死のうと誘われた際、今度は西郷が大久保を諭し、命長らえて最後まで国事に尽くすことを誓ったのだ。

 ここには、西郷に天命の自覚があるように感じるが、その根元の一つには、愛加那や子供たちとの生活の記憶が深く刻まれているのではないだろうか。

 西郷は超人ではない。私たちと同じ、人間である。この人間らしい、人間味あふれる西郷像こそ、奄美から発信したい西郷像そのものなのである。どんなに恥をかき、失敗や挫折を繰り返し、そして、困難や困苦に遭おうとも、背負うものができ、如何なる試練にも耐え得るような心境に至ったからこそ、いまでも多くの人々が敬慕するような西郷南洲翁という人格が後々にできあがっていったのではないか、と考えるのである。

 また、この西郷像を通して、奄美の特性、奄美の島人たちの特性も見えてくるように思う。ここで見えてくる奄美の特性を端的にいえば、「蘇生の地」なのだと思う。自暴自棄になっていた西郷の心に、安らぎを与え、生活を楽しませ、そして、どんな困難にも負けないような心を整えさせ、その後の中央での活躍の礎をつくった。そこにおいて果した島人たちの役割は、決して小さくなかったと感じる。

 このような「蘇生の地」としての奄美や島人たちの寛容さ、奥深さは、やはり常に支配されてきた悲惨な歴史、弱者としての歴史にあると思う。自らが弱いからこそ、相手を思いやる気持ちが芽生え、お互いに支え合う関係を築くことができる。これが、外から来た、特に心が荒廃している人たちに安堵感を与え、生きる勇気を与えるのだろう。私は、今後も奄美のこのような特性を大切に守り、そして、多くの人々のために、大切に活用したいと考えている。

 こうしてみると、明治維新の背景に奄美が果した役割は、黒糖による薩摩藩の財政建て直しへの貢献だけでなく、「西郷の蘇生」という、最重要級の人物を復活させたとても大きな貢献があったのだと考える。そうであるとすれば、奄美はもっと歴史的に評価されても良いと思うのだが…。

奄美での西郷評価

 先にも述べたが、奄美では不思議なくらい、これまで西郷が研究されてこなかった。これについて、前西郷南洲顕彰会会長の山田尚二氏はこう書いている。

「大島・徳之島には、西郷を尊敬する古老が多い反面、反西郷の広い知識層がいる。昇曙夢の『大奄美史』は前者を代表し、原口虎雄・大山麟五郎氏が主筆した『名瀬市誌』は後者を代表するだろう。『名瀬市誌』は、異色の傑作だから、その影響の一つが奄美(沖永良部島を除く)に西郷研究者がいなくなったことにあらわれている。西郷は至誠の人といわれるが、西郷をとりまく周辺の人々が醸し出す政治情勢は、結局、西郷の功罪として、賞賛され、また、糾弾されることになる」

 哀しいかな、奄美で西郷を語ることの難しさを少しでもお感じ頂けるのではないかと思う。

 この反西郷という考え方の根本にあるものについて、私は、やはり薩摩藩による苛烈な黒糖収奪の歴史と、先人より語り伝え刷り込まれてきた島人たちの記憶なのだろうと思う。これについて簡略に述べるならば、薩摩藩は江戸後期から明治初期まで、黒糖の専売制を敷き、島人には水田を畑に変えさせてまで砂糖きびを作らせ、全て黒糖で税を納めさせた上、島人の生活物資も値を高くつり上げて売るという「二重の搾取」を行って、藩財政を潤したのである。

 そして、反西郷派が反西郷を唱える直接的な所以となったのが、明治4・5年に発生した、いわゆる「大島商社問題」である。要は、明治に入り自由売買の世となり、薩摩藩が黒糖の専売制を廃止しなければならなくなったため、代わりに大島商社という士族救済の授産事業会社を建て、引き続き島人に不利になるような取引を行ったのだが、その設立に西郷が加担し、島人たちを裏切った、という問題である。

 ここで反西郷派が論拠にしている書簡が、明治4(1871)年12月11日、鹿児島県の高官桂久武による大島商社設立の提案に同意した返書である。この書簡を読むと、たしかに西郷は、奄美の黒糖によって窮士救済をすることに同意している。しかしながら、よく読んでみると、西郷は大島商社の詳細については知らされず、まさか旧藩時代と同じようなやり方で島人を搾取するとは全く思いもしなかったのではないか、と考えられる。明治4年といえば、廃藩置県の大改革を行い、西郷にとって多忙を極めた年である。そのような中で、大島商社計画の実態を知る由もなかったのではないか。いずれにせよ、西郷に過失があるとはいえ、島人たちを裏切ったとまではいえないのではないか、という印象を私は持っている。むしろ、返書からは、「そんなことは意図していなかった」という嘆きのような西郷の呟きが聞こえてくるように感じるのだ。

 反西郷派の論拠は、ここまでである。悔しいことに、その前後の書簡をほとんど無視している。

 明治6(1873)年6月、西郷が沖永良部島でお世話になった島役人の土持政照が、大島商社の改善を東京に直訴に来たのを受けて、同19日、西郷は急いで大蔵省で租税を担当する松方正義に書簡を送っている。その要旨は、奄美においてぜひこれまでとは変わった条理の立つような周旋をしてほしいという西郷自らのお願いと、そして、後日土持が松方へ直接懇願に行くので、その際には何かしらの確約をして帰してほしいというお願いである。

 土持の話を聞いて、西郷は自らの落ち度に気付いたのだろう。そして、過酷な収奪に苦しむ島人を救おうと、すぐに松方にお願いしたのだが、これこそがまさしく、西郷の本心だと思う。

 そうでなければ、西郷という人物の、思想や生き様とつじつまが合わない。敬天愛人の思想、その根本を育てた、愛加那をはじめとする、奄美の島人たちとの心と心の触れ合い、沖永良部島時代に何度も書いた、黒糖収奪の改良策の上申書などの文書、さらには、南方の島を表す雅号「南洲」を用いつづけたことや、自ら朝鮮派遣使節に名乗り出た道義外交への決意など。

 なおいえば、西郷の影響を大きく受けて育った菊次郎は、西南の役で片足を失った後、1年間を奄美の愛加那のもとで生活している。その後、台湾にわたり、貧しい現地民のために河川の治水工事をするなど善政を行ったとして高い評価を受けた。また、菊次郎も奄美を愛し、娘には「洲子(しまこ)」と名付けている。西郷が奄美を見限ったのであれば、息子の菊次郎はこのような人生を歩まなかったはずだ。

 ここにおいて、歴史の研究とは、現存する文書のみにとらわれず、それを参考としつつも、己の感性と想像力とをもって、古人の心と対話することである、ということを感じずにはおれない。これこそが、歴史研究の醍醐味なのかもしれない。

 私は、西郷は、奄美の島人を、苛政に苦しめられている島人を、見捨ててはいない、むしろ、大切にしていたと考える。奄美の悲惨な歴史を忘れる訳ではない。しかしながら、そこで、西郷南洲翁という人物の普遍的な価値を歪めてはならないと思う。奄美での西郷評価に一石を投じ得るか否かは今後の課題として、これが私の「大島商社問題」に対する結論である。

締め括りとして

 平成19(2007)年は、西南の役130周年、すなわち、西郷南洲翁没後130周年にあたる。これに合わせるかのように、小さな流れが集まって、一つの大きな流れが生じつつあることを感じる。たとえば、今年においてさえ、PHP研究所『歴史街道』12月号の西郷の特集、『立雲頭山満先生講評大西郷遺訓』の復刻、平成20年の大河ドラマ『天璋院篤姫』の決定などがある。

 もちろん、これは偶然かもしれない。私が敏感になり過ぎているのかもしれない。しかしながら、時代はいま、西郷南洲翁の精神を必要としているのではないか、と感じるのである。

 バブル崩壊により、「第二の敗戦」を経験したわが国。残念ながら、いまだに次の国家経営の目的、目指すべき国家像を見出せていないのではあるまいか。それをおざなりにしながら、欧米から借りてきた価値観や発想によって、国の運営を進めてはいまいか。

 新自由主義、経済至上主義、科学万能主義。近代以降の欧米の合理的精神の根底にあるものの第一は、「弱肉強食・優勝劣敗の論理」だと私は考える。いつまで、わが国はこの価値観を追い求め続けるのか。

 西郷が命を懸けて明治政府に尋問しようとしたのも、この一点にある。わが国は、内政においても、外交においても、固有の価値を実現しなければならない。それは何かといえば、思いやり、憐れみ、いたわり、慈悲、惻隠の情である「仁」と、人として正しい道、強い者が弱い者を助け守ることである「義」であろう。このような、道義国家、道義を踏み行う国こそが、西郷が目指し、そして、今後私たちが、たとえ数百年かかっても目指さなければならない国家像ではないだろうか。それを果してこそ、真の意味で明治維新が完結するのではないだろうか。

 西郷の思想や生き様は、常に私たちにこのことを投げ掛けている。そして、私たちの多くが、意識下に、あるいは、無意識のうちに、このことを受け容れ、求めようとしているのではないだろうか。たとえそれが理想であっても、いや、むしろそれが究極の理想だからこそ。

 このような国家を目指すためには、まずは世の中に対して責めを負うべき指導者が無私を貫かなければならない。己を捨て、公のために、共同体のために尽くすという姿勢があってこそ、多くの人々がそれに感化され、巻き込まれて、少しずつ世の中は動いていくだろう。このことは、『西郷南洲翁遺訓』にも明らかである。

 最後に、西南の役における西郷の生き様や死に様から何を感じ、何をつかみ取るか。

 海音寺潮五郎氏は、天命を諦めるべきでなかったと指摘する。あくまでも人事を尽くし、精一杯戦った上で、天命を待つべきだったと。

 稲盛和夫氏は、西郷は情に厚すぎたと指摘する。情と理と、両方を兼ね備えたリーダーシップが必要であったと。

 私は、本物の道義国家を目指すのであれば、長期戦を覚悟しなければならないと考える。薩摩武士の血気盛んな勇敢さの対極にある、粘り強さや忍耐力を持たなければならない。まさに、「大忍」を実践することこそ、道義国家への道であると考える。

 しかし、私に偉そうなことを申す資格はない。西郷が、そして、郷土の先人たちが伝えたかった想いを少しでも感じ取って、実践するだけである。

参考文献

『立雲頭山満先生講評大西郷遺訓』 K&Kベストセラーズ、平成18年
『歴史街道』12月号、PHP研究所 平成18年
岩田温『日本人の歴史哲学』 展転社 平成17年
『西郷南洲翁遺訓』 財団法人西郷南洲顕彰会 平成13年
西郷塾テキスト など
2006年6月 執筆
  1. HOME >
  2. 卒塾生一覧 >
  3. 安田壮平 >
  4. 奄美から、西郷南洲翁を考える
ページの先頭へ