松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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歴史観
2006年2月

塾生レポート

私たちの硫黄島
安田壮平/卒塾生

現代を生きる若い私たちの中で、どれほどの方が「硫黄島」と聞いて何かしらイメージすることができるだろう。これも、「閉ざされた言語空間」に生きてきた私たちの宿命なのかもしれない。私はそこを訪ね得た者として、わが国の誇りとして、硫黄島のことをお伝えしようと想う。

 

はじめに

 平成18年3月22・23日、私は東京都小笠原諸島の一つ、硫黄島を訪問する機会に恵まれた。

 「硫黄島」と聞いて、具体的に何かをイメージすることは、現代の若い日本人にとって、非常に難しいことかもしれない。私自身、数ヵ月前までそうであったように。硫黄島は、大東亜戦争における最大の激戦地の一つだった島なのである。

 大東亜戦争後、硫黄島は米国軍の統治下にあり、昭和43年にわが国に復帰した。現在は海上自衛隊と航空自衛隊が防衛の任務に当たっている基地のみの島であり、民間人が自由に渡航できる処ではない。ただ、かつての島民と戦没者の遺族が、定期的に慰霊に訪れるだけである。

 今回、特別な計らいを頂いて、航空機のコックピットから、硫黄島を俯瞰することができた。そこから全貌が眺められるほど、とても小さな島であった。(実際、長さ8.3km、幅4km、面積22k㎡でそれほど大きな島ではない。)かつて米国軍が、「5日間で攻略できる」と考えたのももっともだと想った。しかしながら、この島を俯瞰した日本軍の将兵が、小さいからこそ、明確なイメージをもって、この島全体に愛情を注いで、最期まで戦い抜いたのだろうとも感じた。

 島に降り立つと、南国特有の生温かい海風が吹いていた。椰子の木やブーゲンビリアなどが生え、一見すれば、本当にのどかで平和な島であった。この島が、激戦地になろうとは。

 歴史は、自然と人間が織り成すドラマである。私は、この島を訪れ得た者の責任として、誇りをもってこの島のことを伝えようと想う。

硫黄島決戦までの経緯

 米国による日本への石油禁輸やその後の外交交渉の不調など、数多くの要因によって開始に至った大東亜戦争。日本軍は、序盤こそ優位に進め得たものの、昭和17年6月のミッドウェー海戦を機に、徐々に劣勢に追い込まれてゆく。太平洋方面においても然り、18年のアッツ島守備隊玉砕、翌年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊壊滅、さらにサイパン島やグァム島守備隊の玉砕と続いた。

 そしていよいよ、わが国固有の領土への侵攻が本格的に始まろうとしていた。そこで、中部太平洋方面から着目されたのが、硫黄島だったのである。では、なぜ硫黄島が着目されたのか。

 結論をいえば、小笠原諸島の中で唯一の飛行場適地だったためである。火山島群の中で、硫黄島だけが平坦な地形をもっており、日本軍によって飛行場が3つも建設されたほどだった。ちなみに、島で最も標高の高い処は南西端に在る169mの摺鉢山であり、その他は扁平な土地であるため、米国軍からは「パイプのような島」と比喩されたらしい。

 また、硫黄島が、東京とサイパン島とを結ぶ直線の、ほぼ中間に在ったこともその理由である。

 この島の軍事的重要性は高く、この島を奪取することによって、米国軍は以下のような戦略的効果を得ることができると考えていたようだ。

 ①日本軍のレーダーや戦闘機の前哨基地を奪い、その機能を排除する。
 ②米国軍の爆撃機B29の不時着場所を確保する。
 ③B29護衛のための長距離戦闘機の前進基地を確保する。(昼間の精密爆撃敢行のため。)
 ④沖縄作戦の右翼を援護する。
 ⑤日本固有の領土を侵すことで、日本国民に心理的打撃を与える。

 もちろんこの背景には、第二次世界大戦の戦闘における航空機優位性の発現がある。また効果の中でも、特に②は大きく、大東亜戦争終結までに延べ2千2百余機、2万7千余名が不時着によって命を取りとめた。この成果をもって、米国民は、多大な損害を出したこの島の攻略に合理性があったとみなしているのである。

 ここで、硫黄島の自然環境にも触れておきたい。先に、「歴史は自然と人間が織り成すドラマ」と述べたが、まさにこの島の過酷な自然環境が、日本軍の戦闘を壮絶なものにした。

 硫黄島は、火山灰土に覆われた島である。土地に保水性はなく、雨が降っても数時間で地中深くしみこんでしまう。島には、河川もなければ井戸もほとんどない。水は雨水に頼るしかない。雨水を貯めて使うのだが、もちろん水が大量にある訳ではなく、「水の一滴は血の一滴」と訓えられていたのである。

 また、硫黄島は火山活動も活発で、島の処々で硫黄ガスが噴出しており、地熱も高かった。後述するが、日本軍は地下に陣地を構築するために、手作業で壕を掘る必要があった。60度ほどの地熱、時折噴出する硫黄ガスによって、作業は3分程度で人員を交代せざるを得なかった。しかも、飲み水が十分になく、本格的な戦闘が始まる前の比較的恵まれていた時でも、一日に水筒一本分の水しか支給されなかったという。いかに過酷な条件の下で、日本軍の将兵たちは任務を遂行していたかが察せられるだろう。日本軍の奮闘努力は、戦闘以前の状況においても、何と私たちの胸に訴えることだろうか。

硫黄島決戦の結果

 先に硫黄島決戦の結果から確認しておきたい。この戦いは、大東亜戦争において米国軍が攻勢に転じて以来、初めて米国軍の被害が日本軍の被害を上回った戦闘となった。

 日本軍の死傷者数は20,933名、米国軍は28,686名である。これは、両軍の戦力を考慮しても驚くべきことである。当初の兵力は、日本軍2万名余り、米国軍7万名余りであった。砲弾などの攻撃力の差で見ると、一説には3,500倍の鉄量差があったという。米国の強大な生産力を背景にした圧倒的な物量、それに比べ、日本軍は武器・弾薬・食糧の補給も十分ではなかった。当時、硫黄島周辺の制海権・制空権を米国軍が握っていたためである。そのような状況下で、米国軍の方が被害が大きかったということは、驚いても驚きすぎることはない。

 米国軍の被害の内訳を見ると、戦死者6,821名、戦傷者21,865名である。この戦傷者の多さこそ、軍隊にとっては負担となる。護送や看護などに多大な人的・物的・時間的コストがかかるためである。このことが米国軍を大いに悩ませたのは間違いないだろう。

 一方、日本軍の内訳は、戦死者19,900名、戦傷者1,033名であった。戦死者の多さは、降伏して捕虜になる兵士が少なかったためであると考える。たしかに、投降して捕虜になることの重要性を訴える議論にも一理ある。多くの人命を救うことができたのではないか、捕虜になった方が相手方に大きな負担を掛け得たのではないか、などである。しかしながら、「生きて虜囚の辱めを受けず」、捕虜になるよりも自決を選ぶ覚悟と、それに根ざした勇猛な敢闘心・敵愾心があったからこそ、米国軍に多大な損害を与えることができたのだと考える。私たちは、このことをも考慮した上で、先人たちが後世に伝えたかった悟りを確実に受け継がなければならないと想う。

硫黄島決戦の推移

 日本軍はいかにして、米国軍に多大な損害を与え得たのか。それについて述べる際に最も重要な人物が、陸軍第109師団長であり小笠原兵団長の栗林忠道中将である。

 昭和19年3月下旬、大本営により硫黄島要塞化の方針が決定され、栗林中将が硫黄島に着任したのは6月上旬であった。この頃から既に、大本営はフィリピン方面に戦力を集中するため、硫黄島を見捨てざるを得なかった面が見受けられる。それは、配備・補充される人員の数や武器の種類・量からも察せられる。また実は、第109師団長の任務は、はじめ別の人物に託されようとしたが、断られた。生還の可能性がほとんどなかったからである。そして、栗林中将に白羽の矢が立った。この任務を引き受けた栗林中将には、生還はほぼあり得ないという悲壮な覚悟があったに違いない。

 栗林中将が司令部を硫黄島に設置してまもなく、マリアナ諸島決戦のため、米国軍による硫黄島への牽制の空爆が始まった。その間に、栗林中将は島内をくまなく見て歩き回り、来るべき米国軍の上陸作戦への対応策を練っていった。

 そして中将は、それまでの日本軍の島嶼守備隊には常道の水際撃滅作戦(敵が海から陸へ上がろうとする間際に攻撃を集中して撃退しようとする作戦)を用いず、水際よりも後方に陣地を構築して、ゲリラ戦などにより粘り強く対抗する作戦を採る決意をした。

 当時、日本軍の伝統的戦法であった水際撃滅作戦を退けることは、非常に困難であったに違いない。事実、師団内部からも反対意見が出たし、また海軍からも反対された。その後、海軍に譲歩するかたちで水際にも多少の兵力を配備したが、しかし栗林守備隊の真価は、後方の洞窟陣地から発揮されることになる。ちなみに、8月下旬には大本営からも、島嶼守備に関し水際撃滅作戦より後退配備を採るべき旨の指示が出されたのは注目すべきことである。中将の先見の明がうかがえるというものだ。

 中将は、内陸部に洞窟陣地を構築するよう指令した。この洞窟陣地を拠点に、米国軍に対してゲリラ戦で対抗して、持久戦・消耗戦に持ち込もうとしたのである。この狙いは何だったのか。

 硫黄島の攻防戦において、勝つということ、つまり米国軍を撃退するということは、先の戦力差から考えても、望むべくもなかった。ここでの使命は、負けないこと、つまり少しでも全滅を遅らせることによって、日本本土への攻撃を一日でも遅らせることであった。その間に、本土では防衛体制を堅固に整備し得る。そのための時間を稼ぐ必要があった。また、栗林中将は、大本営に対し、早期の対米和平を痛切に要求していた。中将以下硫黄島守備隊が生還できる可能性があるとすれば、この早期和平に拠らなければならなかった。そのことをも深慮した上で、中将は長期戦に挑んだのである。

 苦難の陣地構築作業の末、島全体で1,000を超える地下壕がつくられ、壕と壕とは地下通路でつながり、地上に出ることなく移動できた。総延長は18km以上もあったという。この洞窟陣地のおかげで、米国軍の航空機や軍艦からの猛烈な砲爆撃に耐えることができたのであった。
(ちなみに、私も数ヵ所の壕に入ってみた。壕の中は暗く、蒸し暑く、息苦しい。入るとすぐに、地熱の高さで汗がにじみ、のどが渇く。このような密閉された空間に身を置いていると、不安で気がおかしくなりそうになる。戦闘中であれば、その不安や恐怖はどれほど大きかったことだろう。また当時は、遺体や糞尿からの悪臭が立ちこもっていたという。兵士たちは、とても人間が生活できないような環境の中で、耐え抜いたのである。)

 3日間ほどの集中砲火の後、ついに20年2月19日、米国軍海兵隊による上陸作戦が敢行された。主に島の南側の海岸から、上陸用舟艇によって大勢の兵士が送り込まれ、水際では激烈な戦闘となった。米国軍は初日だけで、ガダルカナル島決戦の約半数の死傷者が出たという。

 上陸作戦から5日目の23日、米国軍は摺鉢山を占領し、その際にはピュリツアー賞で有名な、兵士が山頂に星条旗を立てようとする写真が撮影された。しかし、事実はまだ摺鉢山の地下陣地に日本軍兵士が潜んでおり、23・24日の夜襲によって、日章旗に掛け替えられたこともあったらしい。

 その後、米国軍は島の北東部への侵攻を始めた。日本軍は数少ない航空機や戦車、臼砲や迫撃砲などを用いて応戦したが、破壊されたり弾薬が尽きたりすると、狙撃・肉迫・斬り込みなどによって勇猛に戦い、敵の進撃を容易には許さなかった。

 それでも、米国軍は徐々に侵攻を進め、日本軍は、栗林中将が指揮を執る司令部壕付近まで追い詰められた。そして3月17日、中将は大本営に対して決別の電報を打ったが、同じ日に米国軍は戦闘の終結宣言を発表した。

 しかし、日本軍の最後の兵力は、依然夜襲など戦闘を展開しつづけ、そして26日の総攻撃をもって、組織的戦闘は終結したとされている。この戦闘によって、栗林中将も戦死に至ったようだ。

 実は、日本軍が玉砕する以前から、米国軍はかつての日本軍の飛行場を整備し、使用を始めていた。これによって、本土のどの都市へも空爆が容易になった訳であるが、3月10日の東京大空襲をはじめ、本土への攻撃の実態を知った栗林中将や将兵たちの想いはいかばかりであったろう。自分たちがこの地で奮戦している限り、本土は攻撃されまいという目論見が破られたのである。しかしながら、それでもなお、日本軍の将兵たちは、バンザイ突撃にはやることなく、辛く厳しい持久戦を勇敢に戦い抜いたのである。

 この敢闘ぶりに想いを馳せても、私たちは、散華なさった先人たちに感謝をしなければならないことは明白である。米国軍が、当初5日間を想定していた戦いを、1ヵ月以上に渡って引き延ばせたのだから。最後には玉砕してしまったため、結果として島を守り切れなかった。しかしながら、本土にて生活している多くの国民、特に米国軍の空襲から一人では逃れられない女性や老人や子供たちのことをも考え、少しでも攻撃を遅らせようと、厳しい環境に耐え、もてる力を超えて戦った先人たちの奮闘ぶりを、私たちはよくよく感じなければならないと想うのである。

 ちなみに、硫黄島での最後の兵士が投降したのは、昭和24年1月のことであった。何と長い間、戦い抜いたことだろうか。

栗林忠道という人物

 私は、硫黄島の日本軍がこれほどまでに敢闘できた要因として、栗林忠道中将の軍事的才能やリーダーシップなど、全人格的な資質が大きかったのではないかと考える。たとえば、
 ・伝統主義にとらわれない合理性:伝統的な水際撃滅作戦を用いず、洞窟陣地に拠るゲリラ戦を展開した。ちなみに、大東亜戦争の島嶼守備で後退配備を用いたのは、硫黄島と中部太平洋のペリリュー島のみであり、いずれも大きな戦果を上げた。
 ・限界状況下でのしたたかな戦略:置かれている状況を十分に分析し、達成し得る最大限の成果を目指した。中将は米国滞在経験も長く、米国の世論の影響力を理解しており、米国軍の兵士に出血を強いることで、米国世論の厭戦ムードを高め、早期の和平を目指したのではないかという点も指摘されている。
 ・常に現場に立つ姿勢:上二つは、いずれもこのことに因っている。徹底的に現場に立つからこそ、採るべき作戦が判るのだろう。小笠原兵団の司令部は、当初父島に置くという案もあったが、中将自らが断り、硫黄島に置いた。「指揮官は常に最前線に立つべし」との想いを貫いたためだ。将兵共に不便を分かち合い、苦楽を共にする、そうしてこそ、軍隊の士気を高く保ち得たのだろう。

 栗林中将は、米国軍を最も苦しめた武将の一人であり、そうであるからこそ、第二次世界大戦中における十大猛将に数えられている。わが国においてよりも、米国における評価の方が高いというのは、何と悲しいことではないか。

 硫黄島決戦における指揮官とは、部下に対し、死ねと命じる立場であったといえよう。しかし中将は、安易なバンザイ突撃を許さなかった。どんなに飢えても渇いても、武器がなくなっても、潔く散っていくことを簡単には許さなかった。彼は、潔い死を死ぬのではなく、最も苦しい生を生きよと指示しつづけたのである。そして部下も、それを忠実に遵守した。本当は思い切って敵陣に突撃する方が、余程楽だったのではないかと想う。しかしそれをしなかったのは、栗林中将が命を預けても悔いのない指揮官だったからだろう。

 栗林中将の人間的魅力の一つである教養の深さや文才は、彼が書く部下たちへの檄文などからも良く窺い知れる。ここで、中将の書いた「敢闘の誓」をご紹介したい。

 一、我等は全力を振って守り抜かん。
 二、我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
 三、我等は挺身敵中に斬り込み敵を鏖(みなごろ)しせん。
 四、我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆(たお)さん。
 五、我等は敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず。
 六、我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。

 非常に勇壮烈々たる文章であり、兵士たちの血気や闘争心も大いに高まったことだろう。この文才もさることながら、ここで注目すべきは、米国軍によると、この文章が書かれた紙片が島のあらゆる処で発見されたことである。それは、海岸でも、内陸部でも、壕の中でも、多くの兵士の遺体の上で見つかったという。それほどまでに、栗林中将の戦闘に臨む気概や理想が、兵士たちに広く深く浸透していたということだ。

 栗林中将が現場を大切にしたことは先に述べたが、それゆえに、捕虜となった日本兵の多くが栗林中将の姿を直に見たことがあると、米国軍の調査において答えたという。2万名余りの兵団において、そのようなことは通常あり得ないことで、米国軍の将官たちも驚いたということだ。このような、部下への浸透、心の統御こそ、米国軍が栗林中将を評価した一つの所以ではないかと想うのである。

 どこまでも兵士たちと近い処で生き、その信念や敢闘心を部下に伝播し切ったからこそ、硫黄島守備隊の鉄の規律はさらに強化し、どんなに厳しい状況に置かれても、最期の最期まで戦い抜くことができたのだろう。栗林中将は心の底から兵士たちを愛していたのだと想う。そして、兵士たちもそれに応えた。この鉄の結束が、米国軍に多大な被害をもたらしたのであろう。

 日本軍においては、指揮官は最期に自決するのが常であったが、栗林中将はそれを拒み、一兵でも多く死出の道連れを増やすために、兵士たちと共に戦い抜いた。そして、彼が3月17日に硫黄島の全将兵に向けて打った電報の最後の言葉は、

 「予は常に諸子の先頭に在り」

であった。この男の生き様や人生観なくしては、硫黄島における日本軍の奮闘はなかっただろう。私たちの歴史にはこのような人物が存在することを、もっと誇りに想うべきである。

締め括りとして

 3月の硫黄島は、日本本土と比べて大分暖かかったけれど、やはりこの島には霊気が宿っていると感じることがしばしばあった。それというのも、一つにはいまだ火山活動が続き、陸地が年間に最大で30cmほど隆起している、生きた島であるためであり、そしてもう一つには、いまだ1万1千名以上もの遺骨が収集されていないためであろう。戦後60年以上経ち、壕の入り口も風化して見つかりにくいため、収集作業が困難を極めることは論を俟たない。しかしながら、わが国のためにたった一つしかない生命を懸けて戦った英霊たちは、何と想っていることだろう。この現実を考慮しても、わが国は、いまだ大東亜戦争の総決算を終えていないといえる。ちなみに、ある自衛官の方が、遺骨の収集を進めるのは予算次第だと言っていたことに、政治の責任を見る想いがした。

 また、先述の通り、硫黄島は基地の島であるため、わが国の領土ではあっても、民間人は渡航できない。その一方で、年に数回、米国軍が硫黄島の地で訓練を行っている。これを、「安全保障のためだから仕方ない」の一言で済ませてはならない。この島は事実上、米国軍に支配されていると指摘する識者もいるのである。やはり私たちにとって、戦後の決算は終わっていないのである。

 そして、硫黄島については、わが国においてよりも、米国においての方が一般に良く知られていると想う。アーリントン国立共同墓地に、あの摺鉢山の写真をモチーフにしたレリーフがあるそうだが、彼らは、硫黄島における米国軍兵士の勇猛な戦闘を誇りにしているのである。このことをとても悔しく想う。これまでに観た圧倒的な戦力差や不利な状況の中、米国軍に多大な損害を与え得たわが日本軍の方こそもっと賞賛されるべきであり、私たちは先人たちの功績を学び、もっと誇りにすべきではないだろうか。そうでなければ、先人たちに何と申し訳が立つであろう。

 早期に遺骨の収集を終え、わが国民が自由に慰霊に訪れることができるようにすること。そして、二度と戦争を起こさないためにも、そこをわが国の戦史教育の場とすることこそ、後世を生きる私たちの責任であると考える。今回、硫黄島を訪ね得た一人として、微力ながら、このことに向かって活動しようと決意する。「私たち、日本人の硫黄島」という想いを心に掲げて。

参考文献

『散るぞ悲しき』(梯久美子、新潮社、平成17年)
『名をこそ惜しめ』(津本陽、文藝春秋、平成17年)
『日本国民に告ぐ』(小室直樹、ワック出版、平成17年)
『硫黄島』(菊村到、角川文庫、平成17年)
『太平洋戦争上・下』(児島襄、中公文庫、昭和49年)
『記録写真太平洋戦争上・下』(ロバート・シャーロッド他、光文社、昭和31年)
その他、自衛隊関係資料など
2006年2月 執筆
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