論考

Thesis

私たちにつながる日露戦争

本年はわが国にとって、日露戦勝から百年目の節目となる年だったが、日露戦争を振り返る国民的気運に乏しかったのは残念だった。しかし、次の十年や百年を待たずとも、私たちにつながりのある歴史として捉え、折節に学んで教訓を得ることを訴えようと決意する。

はじめに ~二〇三高地の記憶~

 平成16(2004)年11月3日、私は遼東半島の先端、旅順郊外の二〇三高地に立った。およそ百年前、乃木希典大将率いる満洲軍第三軍が計3回に渡る総攻撃の末に奪取した彼の地である。 私はもちろん、この二〇三高地から旅順港を凝視した。軍事学の素養のない私にも、旅順港内の様子を遠目に見取ることができた。この眺望を得るために、6万人以上もの死傷者を出しながら、先人たちは戦ったのである。とはいえ、私の周囲には、初冬の暖かな日差しを受け、かつての激戦が想起しがたい程のどかな風景が広がっていた。

 しかしながら、たしかに百年前、私たちの先人は、この旅順を含む満洲(中国東北部)・朝鮮の大地を駆け回り、国家の威信と存亡を賭けて、ロシア帝国と堂々と戦ったのだ。陸での戦闘は冬期にも及び、おそらく十分な防寒着もないまま、広大かつ荒涼とした凍てつく大地にて精一杯戦った先人たちの努力と苦難を想うと、自然と目頭が熱くなり、胸に残るのは感謝の気持ちだけだった。

 残念ながら、今日のわが国において、百年前の戦争を見つめ直そうとする気運は、言論界・学術界の一部のみに止まっているようだ。一つには百年という時間の経過、また一つには満洲・朝鮮という他国において遂行された戦争だからだろう。(ただし、満洲の日露戦跡が、中国の反日・愛国教育の場となっていることには注意が必要である。)

 しかし、わが国の各地に、日露戦争戦没者の慰霊碑があることだけは確認しておきたい。百年前というのは、決して遠い過去ではない。私たちの身近にも、日露戦争での先人の苦労を偲ぶよすがは存在するのだ。

日露戦争を振り返る第一の意義

 この戦争は、満洲と朝鮮、直接的には朝鮮の帰属を巡る戦いだった。わが国は勝利によって、満洲・朝鮮からロシア軍を駆逐したが、もし敗北していたら、その両者が奪われていただけでなく、政治体制や領土を含めた今日のわが国の姿もなかったと考えられる。特に領土に関していえば、相手は太平洋戦争時に、わが国との中立条約を破って参戦し、南樺太・千島列島・北方四島を占領して、さらには北海道までをも手中に収めようとしていた国である。もちろん、日露戦争時とは政権・政治体制が異なるが、ロシアには伝統的な領土拡大欲望・膨張主義があることは確かだろう。

 というのも、先般の日下部氏のレポートによると、ロシアは東洋と西洋との中間に位置するため、バイキングやモンゴルなど度重なる外敵の侵入を受けてきた。特にモンゴルによる被支配の記憶は強く、黄禍論が広がる下地になったと思われる。そのため、緩衝地帯を広げようとするというのだ。私はそれに加えて、地理学的な観点から、気候が厳しく、土壌が農業に適さないため、未開発の周辺部、特に温暖な南の方への拡大を目指したのだろうと考える。不凍港を求める動きも、この延長上にあるのだろう。このようなロシアの特徴を想っても、もし敗北していたら、今日のわが国の姿がなかった可能性は高いと考えざるをえない。

 私は、戦争そのものを賛美するつもりはない。当時においても戦争はできる限り避けるべき外交手段だっただろう。しかし、戦争回避のために何度も行った外交交渉が頓挫し、開戦もやむをえない状況に至った以上、現代と比べて「常套」と認識されていた戦争という外交手段を用いてなされた日露戦争について、その勝利がロシアによるわが国への侵略を退け、独立国家としてのあらゆる権利・権原を保持したという一点を考えても、銃後を支えた人々を含む当時の先人たちに感謝せずにおれない。ここにこそ、私たち日本人が百年前の戦争について想ったり、偲んだりする第一の意義があるのだと考える。

 それこそ、私たちが日本人であることの一つの姿勢の表れであり、また確実に子孫たちに継承しなければならない精神のあり方だと考える。「この歴史の積み重ねがなければ、今の私たちはなかった」という、わが国の歴史を、自分につながるのものとして捉える姿勢こそ、現代の私たちが堅持すべき姿勢ではないだろうか。

日露戦争の特徴・論点

 日露戦争は、19世紀までの大国間戦争、あるいは植民地戦争と一線を画する、まさに20世紀を特徴付ける戦争だと考えられる。ここでは、戦争の世界史的意義を確認するために、その特徴をいくつか挙げてみたい。

 まず、国家の保有するヒト・モノ・カネなどの資源を総動員した「総力戦」という側面が挙げられる。これは同時に、銃砲や火薬など軍事技術の向上に伴い、武器・弾薬・兵員を大量に費消する「消耗戦」としての側面の表れでもあった。このような側面と、海戦・機動作戦・包囲戦など、第一次世界大戦で見られた戦闘方法の先駆けが出現したことなどから、日露戦争を「第零次世界大戦」だと位置付ける識者もいる。

 また、「情報戦争」という側面も大きく働いた。それが意味するところの一つは、国内・国際世論を味方に付けるための「広報・メディア戦争」としてのもので、それは主に、総力戦としての挙国一致体制創出の必要性と、戦費の外債依存という事情に拠っていた。前者の例として、広瀬武夫中佐が軍神として称賛されたことが、後者の例として、英タイムズ紙のモリソンが自国のために日本有利の報道をしたことによって、日本債の評価が上がったことが挙げられる。

 この国際世論争奪戦において、ロシア側が欧州諸国向けに用いた対立構図が、「白色人種対黄色人種」という人種戦争としての側面、「キリスト教対非キリスト教」という宗教戦争としての側面、「西欧対非西欧」という地理的あるいは文明・文化的対立としての側面であった。一方、これに対抗して日本側が用いた対立構図は、「立憲君主制対専制君主制」という政治体制の相違に立脚したもので、たとえば信仰の自由のないロシアに対して日本がその自由をもたらすための義戦であるという主張がなされた。このロシア専制の打破という目的から、ユダヤ資本の支援を受けられたことは、日本にとって大きかった。このように、日露戦争では様々な面で比較・対立が起こり、その後の世界史にも影響を与えたことは確認しておく必要があるだろう。

 「情報戦争」のもう一つの意味は、スパイ活動や政治的謀略活動を伴う「諜報戦争」としてのもので、ロシアでの明石元二郎大佐や満洲での石光真清中佐らの活躍により、わが国は優勢に進めることができた。また、日英同盟により、英国の情報網を活用できたのも大きかった。

 以上、日露戦争においては、様々な特徴・論点が読み取れる。それぞれについて論ずべきことは多いが、私がこのレポートで伝えるべき最も重要なことは、日露戦争という歴史を自分に繋がるものとして感じ、学んだ上での考察だろう。たとえそれが現時点では拙いものだとしても、このレポートを通して最も伝えたいこととして、以下に記述する。

日露戦争に観るわが国の特徴と課題

 私は、日露戦争という史実を通して、そこに日本という国を考える上での重要な特徴が表れていると考える。その特徴を確認しつつ、そこから課題や教訓を抽出することを試みる。

特徴1.世界に大きなインパクトを与える力を持っている

 私は、わが国を、良い意味でも悪い意味でも、世界に大きなインパクトを与える力を持つ国の一つだと考える。太平洋戦争然り、戦後の急速な経済復興然り、人口の超高齢化然り。それらの先駆けが、日露戦争での勝利ではなかっただろうか。

 日露戦争でのわが国の勝利は、世界の大方の予想を覆したものだった。人口(4千万人対1億4千万人)・工業力(一説に拠れば、約4倍の差)・領土面積(比較にならない)をみても、ロシアの勝利を予想するのは当然だっただろう。ロシアの主な敗因とされる、ニコライ2世や軍幹部たちが日本の軍事力を軽視するのも当然だったといえる。

 しかし、肝心なことは、この戦争が戦場と期限を限った局地短期戦争だったことで、戦争終結の見極めを意識して、スピードを重視した日本に軍配が上がったことも、至極当然だろう。

 この勝利がもたらした一番の影響は、世界各国の民族独立運動への刺激だろう。日本がロシアに勝つことによって、「非西欧の国でも技術を導入して改革すれば、西欧諸国に勝てる」という思想を生み出した。民族独立運動への影響は、中国の孫文、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、ビルマのバーモー、インドのネルー、イラン・エジプト・トルコ・東欧など世界各地に波及した。これらの国々が独立を勝ち取るにはまだ多くの時間が必要だったが、この時の民族主義への点火が後々の独立達成に影響したことは強調すべきことである。

 また、西欧列強もこれまでの古い帝国主義の権威が通用しないと考えるようになった。有色人種に白色人種の高い文明を広めるという「白人の責務」が疑われ、西欧諸国が無敵で威信があると思われていたがゆえに可能だった植民地の維持が困難になったのである。

 この日本の勝利により、列強が日本に対する警戒感を強めたのも事実だろう。特に、米西戦争を制し、フィリピン・グァムなどアジアへの足掛かりを固めつつ、門戸開放政策により中国進出を目論んでいた米国にとって、日露のどちらかが大勝することは、自国の利益を損なうと考えていた。ルーズベルトは、日露の均衡と対立こそ米国に益すると考え、満州の利権などを視野に、講和の斡旋を行ったと考えられる。講和後、満州の政策を巡って、日米関係が悪化に転じたことは、日本にとって望ましい進路ではなかった。

 以上のように、わが国は、他のそのような国と同様に、良くも悪くも世界に大きなインパクトを与える力を持っていると考える。これを磨き、良いインパクトを生み出すために善処していけば、今後も世界に対して大きな貢献ができると考える。

 たとえばそれは何かについては、次節で私の仮説を述べる。

特徴2.他者が用意したスタンダードに則って活動を推進することに長けている

 上記のスタンダードとは、国家活動における原理・原則・主義を意味する。ここでは、当時の西欧列強が採用していた、キリスト教文明を基盤とした万国公法に依拠した国際社会体制、つまり主権国家体系による国際法体制と、それに基づいた帝国主義的植民地政策を意図している。

 わが国は、日米和親条約を皮切りに国際社会に参入し、国を富ませ兵を強くすることなくしては国家の独立を保持できないという思想に基づいて、明治維新を断行し、経済力・工業力・軍事力などの国力を蓄えるために、その後の近代化・西欧化政策を導入した。その際、政府が解決すべき課題となったのが、領事裁判権の付与・関税自主権の剥奪・最恵国待遇の付与など自国の経済力強化に支障を来す不平等条約の改正だった。

 この時代、自国が帝国主義を採らなければ、他国が自国に対して帝国主義者として振る舞われてしまう状況にあり、その意味で防衛と侵略は結び付いていた。ゆえに、わが国が不平等条約改正によって、国力の源泉である経済力を十分に蓄えることができなければ、やがて他国に侵略されてしまうと考えるのはもっともだった。わが国が初めて関税自主権を回復できたのが1911年の日米新通商航海条約だったことを考えても、日露戦争での勝利によって、すぐに国際社会に一等国だと認知され、易しい状況に置かれたのではないことが分かるだろう。わが国は、日露戦勝後、東洋一の文明国、「黄色人種の兄貴」という存在になったが、結局は万国公法体制に則って国家運営を進めることを決意し、列強と協調し、植民地獲得競争に向かった。

 しかし、その反面、万国公法体制が弱い国家や民族を収奪するための道具だと考える西郷隆盛や木戸孝允の認識が受け継がれていたことも事実である。日露戦後まもなく書かれた岡倉天心の『茶の本』には、「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう」という、印象的な一節がある。日本が列強と協調した際の民族主義運動への影響たるや、先の喜びが大きかった分、落胆もまた大きかったことだろう。

 不平等条約の下、列強のスタンダードに則り続けることがやむをえなかったのも事実。しかし、西欧のスタンダードを乗り越え、より良いリーダーシップを発揮する好機だったのも事実。歴史の後知恵とはいえ、ただ悔やまれるのは、「長期的視点の欠落」だったのではないだろうか。

 ちなみに、第二次世界大戦後は、米国の主導する合理主義・経済至上主義に則って国民活動を推し進めた。しかし、あまりにも早く上手に活動しすぎて、気付かないままに目標を達成してしまい、行き詰まってしまったように感じるのは、私だけではあるまい。

 他者が用意した原理・原則・主義に則って活動することも悪いことではない。しかし、わが国の存在価値をより良く発揮し、世界に大きな貢献をするためにも、今後必要なことは、わが国独自のスタンダードを追究し、発信していくことではないだろうか。その際には、長期的視点を持ち続けることが必須であり、それこそが、わが国が乗り越えるべき大きな課題であり、わが国自身にとっても大きな挑戦であると考える。それは、先に述べたプラス面での世界への大きなインパクトになるはずだ。

 批判を覚悟で、建設的な議論をするための叩き台を出すとすれば、私の仮説は、「美容・健康・長寿を基盤とした、精神・経済両面の豊かさ」をスタンダードにしてはどうだろうか。特に健康食としての日本食は世界からも注目を浴びている。これにより、農業・漁業などの第一次産業や、環境・教育・医療・福祉分野の改善にも資するだろう。これをいきなり全ての国々に広めることは困難だろうが、まずは成熟した先進国から広めていきたいと考えている。(そうすれば、奄美も世界に対して広く貢献できるのだ。)

特徴3.武士道・武士の生き様に価値を観る

 わが国の勝因を、軍の指揮官が優秀・有能だったこと、さらには軍の指揮官のほとんどが武家の出身だったことに求める識者がいる。いわく、「武士の最後の輝き」だったと。

 たしかに、当時の日本軍の指揮官たちは、幕末の動乱、戊辰戦争や西南戦争、日清戦争などの実戦を経験した戦上手たちだっただろうが、もっと大切なことは、彼らの持つ武士・武人としての意識や精神だったのだろう。識者によれば、武士の意識は基本的に護民官で、責任が強い。そのため、戦場に出ると先頭に立つし、自分よりも部下を守ろうとするから、どうしても死ぬ確率が高くなったという。この典型例が、先程挙げた広瀬中佐であることは論を俟たない。

 また、軍人としての感覚、特に恥に対する意識が、日本軍とロシア軍とではかなり異なっていたようだ。旅順で降伏したステッセル将軍が無神経にも帰国して、惨めな最期を遂げたのに比べ、日本軍の指揮官は、負けたら自決しようと腹をくくっていたという。この覚悟のあるなし、私よりも公を重んずる姿勢が、戦場での明暗を分けたのではないだろうか。

 そして、指揮官たちの個性も士気を高めたようだ。大山巌総司令官と児玉源太郎総参謀長が、共に格下げといえるような立場を進んで受け入れたことは、全軍の士気を大きく高めたという。また、大山総司令官の、実務は部下に任せ、責任のみ取るという姿勢は、当時だけでなく現代にも通用する理想のリーダー像の一つではないだろうか。児玉総参謀長以下は大いに戦争に集中することができただろう。

 また、旅順戦闘後の乃木大将や、ポーツマス講和後の小村寿太郎外相の一切弁明をしない姿勢は、子弟らの憤激のために勃発した西南戦争を従容として受け入れた西郷隆盛の姿に重なる。彼らの姿に、美しさを感じるのは、私だけではないはずだ。

 事実としても、武士道論が黄禍論の対抗宣伝として効果を上げ、戦費調達に役立ったことを指摘しておく。これについては、明治32(1899)年に出版された新渡戸稲造の『武士道』の功績も大きかったようだ。象徴的には、乃木大将とステッセル将軍との会見での、勝って驕らず敗者をいたわる姿勢が、西欧諸国に好感をもって受け入れられたことが挙げられる。

 いまや、武士道とは何か、その本質を見極めることは難しくなってしまった。まして、私たちの中にそれを涵養し、実践していくことはなおさらである。それでも、その一片を現代にも受け継いでいこうと想うからには、私を乗り越える公の世界の存在を認識すること、言い換えるならば、郷土愛や愛国の精神を涵養することが必要ではないだろうか。

 日露戦争当時、内村鑑三、与謝野晶子、幸徳秋水らに代表される反戦・非戦の声は多くあった。しかし、彼らに共通するのは、政治性を脱し、純粋に愛国の精神に基づいていることであった。たとえ主義・主張は違っても、多くの国民の純然たる愛国の精神に基づいてこそ、国家は国家であり続けられるのだと、私は想う。もちろん、その精神は上から与えられるものであってはならない。客観性を保ちつつも、これをいかにして下から育てていくか。私は、表現の工夫も含めて、愛国の精神の普及と涵養に取り組まなければならないと考えている。

締めくくりとして

 以上、日露戦争に対する私の考察を述べた。日露戦争の評価が、百年を経てもなお固まっていない以上、「戦争=悪」という現代のイデオロギーによる価値観を振り払って、見つめ続けなければならないと考える。

 最後に私は、歴史の功罪両面を捉えることを当然としつつ、なおわが国の歴史を、自分につながるものと捉えるべきであるということを強く訴えたい。そうしてこそ、過去から未来へ連綿と続く歴史において、自分自身の役割・位置付けを明らかにし、使命を全うし、そして、先人たちの遺産を子孫たちに継承し、発展させていくことができると考えるからだ。

 このような想いに基づいて、私は、まだまだ日露戦争の教訓を引き出し続けていく所存である。

参考文献

『検証日露戦争』(読売新聞取材班、中央公論新社、平成17年)
『日露戦争史』(横手慎二、中公新書、平成17年)
『日露戦争の世紀』(山室信一、岩波新書、平成17年)
『西郷南洲翁遺訓』(西郷南洲顕彰会、平成13年)
『日露国境交渉史』(木村汎、中公新書、平成5年)
『歴史街道 平成17年4月号』(PHP研究所)
その他、塾生レポート など

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安田壮平の論考

Thesis

Sohei Yasuda

安田壮平

第25期

安田 壮平

やすだ・そうへい

鹿児島県奄美市長/無所属

Mission

地方における自主独立の振興・発展策の推進

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