松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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人間観
2005年12月

塾生レポート

私たちに「志」はあるか
安田壮平/卒塾生

私が個別実践活動を進める中で強く感じるのは、自らの志が正しく力強いものである程、多くの人々の理解や協力を得て、その実現に向かって着実に歩めるのではないか、ということである。よって、今回のレポートでは、私たち松下政経塾生が志を確実に実現するためにも、改めて志とはどうあるべきかを考察する。

 

はじめに

 これまでに2回、人間観という大難問について考察するレポートに取り組んできた。これまでは、松下幸之助塾主の人間観を参考にしながら考察を深めてきたが、今回はいよいよ、私自身の個別実践活動を通して学び得た人間観について、考察を進めようと想う。

 とはいえ、わずか1年間の個別実践活動において、活動する地域・会うことのできる人々が限られている中で、確固とした普遍的な人間観を構築するのは、そう容易なことではない。そもそもの人間観の難しさは、第1回目のレポートで述べたとおりである。

 しかし、私が自らの志に則って活動するうちに気付いたことは、この志が正しい方向に向いており、力強いものであればあるほど、自らの活動をますます鼓舞するだけでなく、多くの人々を感化し、賛同を得て巻き込むことによって、活動の推進力を倍加し、着実に実現に向かって進むことができるのではないか、ということである。

 私は、いわゆる地盤・看板・カバンなど持たない、一介の若者に過ぎない。しかし、研修中に世の中の人々と接しながら感じることは、こんな何も持たない若者に非常に丁寧な対応をしてくださる、大きな期待を寄せてくださる、ということである。この理由について、私は、決して政経塾のブランドだけでそう接してくださるのではないと考える。やはり、いまの政治や社会の状況をこのままで良いと想っておらず、私のような若僧が世の中を少しでも良い方向に導くことに尽力してくれるだろう、と考えてくださるからだろう。おそらく、この若僧の中に宿る志を感じ取り、共鳴してくださるからではないか。

 多くの人々の意識は、深いところでつながっている、という話がある。古代において、地球上の別々の地域で同時多発的に類似した文明が発祥したという歴史も、その現れだろう。また、これまでの歴史に現れた多くの社会変革運動や民族独立運動なども、多くの人々の思想・イデオロギーや感情などを糾合して、膨大なエネルギーを発生させることによって、達成されてきたのだろう。わが国における明治維新も、その例に挙げられよう。

 私は、これからの世界において、これらに通じることが、私たちの志について起こっていくと考える。しかし、その際に考慮しなければならないことは、その志を実現したことにより得られた結果が一過性のものであってはならず、わが国や世界に長期的繁栄をもたらさなければならない、ということだろう。それを達成することこそ、人類の長い歴史を貴び、そこから導き出された「新しい人間観」に学び、わが国と世界の繁栄を目指す私たち松下政経塾生の本懐である。

 よって、今回のレポートでは、自らを突き動かすだけでなく、人をも動かすものとしての志について、それはどうあるべきか考察を進めようと思う。

志と松下政経塾

 志について考察するに当たって、まず身近なところから始めようと想う。

 私の愛する松下政経塾について、「何の塾か?」と問われたら、多くの在塾生・卒塾生が、「志の塾である」と答えるだろうことには異論がない。その意味することは何か。

 学習塾は、学習するところである。ピアノ塾は、ピアノを練習するところ、料理教室は、料理を学ぶところである。だから、政経塾が「志の塾」というのは、志を磨くところである、ということを意味すると考える。ゆえに、決して机上の学問だけを修めるところではない。それは、「徳・体・知」という鍛錬すべき眼目の優先度にも現れていよう。

 政経塾とは、「志のみ持参」の号令のもと、先程の「3つのバン」など持たない若者を鍛え上げ、わが国や世界に貢献できる人材を育成しようとする、世にも稀な機関である。そこでは、常に志が問われ続ける。だからこそ、私たち塾生は、志については、誰にも劣ってはならないと考える。もちろん、志とはそう簡単に比較できるものではないだろう。しかし、後述する志の要件などの面において、人に後れをとってはならないと、私は考える。

 たしかに知識の面では、その道の専門家に劣ることもあろう。だが、知識は借りてくれば良い。しかしながら、問題意識や危機感を含め、志については、決して人に譲ってはならないと想う。志に根ざした活動については、誰よりも深く考え、行動しなければならないと考える。

志とは何か

 ここで改めて、志とは何かについて考察しよう。

 私の辞書には、「人生における、その人としての到達目標。理想。」とある。しかし私は、志が単なる個人的な夢・目標・理想・願望であるとは考えない。少なくとも、私たち塾生は、志についてもっと高度な意味付け・価値付けを求めるべきだろう。個人的な目標を実現するために開かれた塾でないことは、設立趣意書からも明らかであるからだ。

 それでは、角度を変えて、「志」の字義について調べてみよう。志は、もともとは「心が之く」、つまり、心が向かうという意を示すという。ここでも、意志・目的・願いという意味である。辞書上の第一義的な意味は、たしかにそういうものだろう。

 しかしながら、私が考えるに、私たち塾生にとっての志とは、「公の」目標であること、これに尽きると想う。個人的なもの、私的なものではなく、公のものであること、これが肝心要である。つまり、志は公の目標であるからこそ、多くの人々にとっての共通の願いたり得るし、だからこそ、多くの人々を感化し、揺り動かしていくことができるのだろう。

 先程の「志」を、「士の心」と解釈するのもあながち間違いではあるまい。そうだとすれば、私は、士(さむらい)の公に対する強い責任感や義務感を、その代表的な特徴の一つとして強調しようと想う。これをもって、志は公の目標である、と考える一つの根拠に据える。

 また、目刺しは、イワシの目を刺して連ねるから目刺しであり、志は、多くの人々の心を貫いてつなぐから志(心刺し)なのだ、という話を聞いたことがある。言い得て妙な表現であり、まさに志の本質を突いていると考える。

 たとえば、幕末の志士たちは、思想や立場の違いこそあれ、わが国を他の国々に負けない強い国にしようという公の目標を持っていたからこそ、「志を持った士」であったはずだ。多くの志士たちは、決して個人的な欲望や好き嫌いで動いたのではないだろう。

 志は、公の目標である。だからこそ、その実現に向けて活動するに際しても、限りなく私心を捨てることが要求される。そこに私心が入れば、公の目標自体に、あるいは、その実現に向けての活動のあり方などに歪みが生ずるだろう。明治政府樹立の後、西郷南洲翁が官位を辞して下野したのも、文明国家建設の大なる目標を達しえぬうちに私欲に趨ったかつての同志たちに、生き様の違いを観たからだろう。翁は、維新創業の時に当たり、家屋や衣服をきらびやかに飾り、きれいな妾をかこい、一身の財産を蓄えることばかりを思案するならば、維新の本当の成果を全うすることはできない、と指摘している。

 志は、公の目標であるからこそ、先頭に立ってそれを掲げる者は、必然的に世の中のリーダーとなる。だから、リーダーは、できる限り私心を捨てなければならない。私が、郷土鹿児島の先人、南洲翁を慕うのも、翁のほとんど私心のない人物像が、私が追求するリーダー像に重なるからである。

 たしかに塾主は、「リーダーは公のことを6割、私のことを4割」考えればよいと話したことがあったかもしれない。しかし、塾生はその言葉に安心し、安住してはいけない。常に高みを目指すことこそ、塾主も、また世の中の人々も望んでいることだろう。PHP研究所の江口克彦氏も話すように、混迷を極める21世紀のこれからの時代、リーダーは公のことを10割考えなければならないと想う。私たち塾生は、まずはこのことを覚悟しなければならないと考える。

志の大前提とは

 次に、志の大前提であり、必ず備えなければならないことを考える。それはまず、絶対的に正しい方向に向かっている、ということだろう。時代につれて価値は変わるとはいえ、私はこれから先、絶対に変わらない、あるいは、変えてはならない普遍的な価値があると考える。たとえば、世界にただ一つしか存在しないものであり、一度失うと二度と取り戻すことのできない生命や自然環境、または地球そのものである。もしくは、「新しい人間観」に現れている人間の使命も、普遍的な価値の一つだろう。

 絶対的に正しい方向とは、天地自然の理に基づくものである、といってしまうのは簡単だが、天地自然の理を追究しつづける姿にこそ、絶対的に正しい方向に近づくヒントがあるように想う。

 また、もう一つは、長期的な視点だろう。志は、決して私たちや子や孫の世代だけの繁栄を求めるものであってはならないと想う。繁栄が長期的に続くことを考えながら、次世代に確実に繁栄を受け継いでいくことこそ、私たちの世代の責任である。これを達成してこそ、私たちは、人類の長い歴史において役割を果たし、貢献ができるのだと考える。

 よって、私は、志の大前提として、絶対的に正しい方向に向かっているということと、長期的な視点を挙げようと考える。

志の要件とは

 続いて、志の要件について考える。これは、志を高める際に強化しなければならない要点であり、また、その志の高さを評価する際の基準になるものと考えている。

 まず、1)具体性、である。志は、公の目標である。これを達成するためには、多くの場合、自分ひとりの力だけでは困難で、人々の理解と協力を得る必要がある。そのために、志は具体的なものであり、確実に相手に伝わるものでなければならない。そして、自分や相手が即座に行動に移せるような、明確なものでなければならない。だから、漫然と「世界平和」を唱えても、それは志とはいえないと考える。

 私は、志とは、広義には目標と手段を合わせたものではないかと考える。目標達成の道筋を示し得てこそ、それを着実に実行に移すことができるし、また、実際に多くの人々に理解や協力を得ることが容易になるだろうからだ。志が、即座に行動に移せるぐらい明確であれば、自分や人の行動のモチベーションも一層向上するだろう。

 だから、手段も重要になる。手段を誤ってはならず、慎重に計画を立てたり、効果や影響を予測するような緻密さが必要になるだろう。

 次に、2)公益性、である。志は、公の目標であるのだから、それが本当に公のために役に立つものでなければならない。この公益性は、どのくらい多くの人々に役に立つか(幸福を増進するか、あるいは、不幸を取り除けるか)という面と、どのくらい深く役に立つかという面を勘案しなければならない。この両面を勘案してこそ、公益性がより良く量れるのではないかと考える。

 この公益性が大きいに越したことはない。しかし、先の具体性と異なって、この公益性の観点から、ある志と別の志を単純に比較・評価することは難しいように想う。たとえば、ある志は特定の地域の繁栄を考え、別の志はそれよりも広い地域の繁栄を考える場合だ。もちろん、後者の方が優れているだろうが、だからといってすぐさま前者を低く評価することは妥当でないように想う。というのも、前者にもそれなりの価値があると考えるからだ。よって、この公益性に関しては、一定の下限を設け、それを超えていれば、ある程度の評価を与えるのが妥当だと考えることができる。

 最後に、3)真剣さ、である。これは、活動の原動力であり、1)の具体性の源にもなる。つまり、志に真剣に向き合えば向き合うほど、具体性が増すと想われる。そして、この真剣さや一生懸命さこそが、多くの人々に感銘を与え、自らだけでなく、人々をも突き動かすだろう。

 この真剣さは、問題意識の大きさや危機感の深さに基づいていると考えられる。それらが強いほど、真剣さも強くなるだろう。端的に真剣さを問えば、その志に命を懸けられるか否か、ということであろう。全ては、根本的な想いの強さから始まっているのだと考える。

 以上は、あくまでも現時点での私の持論である。志の要件については、他にも独創性や社会変革力の大きさなどが考えられる。今後もこの持論について検証を深めつつ、より優れた志の要件を確立しようと想う。

志を磨くには

 これまで、志の定義と、その大前提や要件について考察してきた。志とは、公の目標であり、広義には、その達成手段も含まれると考える。また、志の大前提は、絶対的に正しい方向を向いていることと、長期的視点であると考える。そして、志の要件は、1)具体性、2)公益性、3)真剣さ、であろう。もちろん、これらはまだまだ仮説であり、自らの活動の中で検証しなければならないが、今後私が志を磨く上でも大事な要点となるだろう。

 では、その志を磨き、高めるには、どうすべきだろうか。

 私は、先人たちが教えるところを見ても、また、私が実地に活動していく中でも、強く感じることは、わが身を厳しい環境・境涯に置かなければ、志を磨くことはできない、ということである。志とは、公の目標であるから、公について問題となっているところにおいて取り組むことになる。つまり、私的な狭い空間を出て、公の広い世界に身を置かなければ、問題の本質は見えてこないのである。そこでは問題が起こっているのだから、必然的に厳しい環境となろう。そこに居なければ、問題意識や危機感も強まらないし、その問題に対する真剣さも湧き起こって来ない、よって、志は磨かれないと考える。

 古の人々が、「艱難汝を玉にす」、あるいは、「苦に徹すれば珠と成る」という言葉を残したのも、まさに、苦労をして志を磨くことの重要性を語り、そうすることによって、ひとかどの人物が創られるということに考え至ったからだろう。

 だからこそ、私たち塾生にとって、「現地現場主義」が意義を発揮するのである。現場に入って苦しみ、その中で学んだり、問題意識や危機感を強めたりすることこそ、志を磨くことにつながっていると考える。塾主は、これを体験的に判っていたからこそ、塾の基本理念に据えたはずだ。

 また、南洲翁の「感懐」という漢詩は、志の練磨について、本質を突いている。

幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し
丈夫玉砕して甎全(せんぜん)を恥ず
(※立派な男子はたとえ玉となって砕けようとも、瓦となって全きを得ることを恥じる)
一家の遺事人知るや否や
児孫の為に美田を買わず

 やはり、厳しい想い、辛い想いを何度も味わわなければ、志は磨かれない、本物にならない、ということだろう。それは、わが身だけでなく、子孫にも伝え、実践させるべきだという。この家訓こそ、本当の財産であると想う。

 また、志を磨く上で、同時に重要なのは、身を磨くことであり、身を修めることだろう。つまり、日常の心構えや所作も磨かなければならないということだ。日常の心構えの中でも、特に重要なのが、自制心・自己抑制の心だろう。これこそが、先述したように、私心を限りなく抑制し、捨て去る原動力になると考えるからだ。だから、志を磨く上で、日常の心構えも合わせて磨いてこそ、志をより良く達成することができるだろうと考える。

締め括りとして

 最後に、私は、志を自らの裡に堅持することは、自らの人生のテーマを明確に据えるということであり、それは塾主がいうわが国の伝統精神の一つである、「主座を保つ」ことに通じると考える。志とは、公の目標であるが、それに命を捧げようと覚悟することによって、限りなく私心を捨て、公の事を10割考える、真の意味での公人になるのだと想う。そうなれば、公の目標が、その人の主座になり得るだろう。

 私たち塾生にとっては、たとえどのような志であっても、それがゆくゆくはわが国を良くすることにつながらなければならない。そして、その実現に向かって、実践あるのみである。

 政経塾も設立から25年以上が経ち、世の中に対して、一定の影響を与えることができるようになったといえるだろう。しかし、これからは、政治でも、その他の分野でも、これまで以上にますます厳しく結果や成果が問われるだろう。

 それに応ずるためにも、私たちは、世の中に対して、決して志で劣ってはならない。真に世の中を良くするために、志が本物でなくてはならない。

 「共に励まん!」塾生や読者の皆様にそう訴えて、自らをも鼓舞させる次第である。

参考文献

松下幸之助『人間を考える』PHP研究所、1972年
松下幸之助『人間を考える 第二巻』PHP研究所、1976年
松下幸之助『遺論繁栄の哲学』PHP研究所、1999年
『西郷南洲翁遺訓』(財)西郷南洲顕彰会、2001年
 その他の講義資料 など
2005年12月 執筆
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