松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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国家観
2005年9月

塾生レポート

「平和主義」を考える
安田壮平/卒塾生

憲法改正論議が盛んになる今日、議論の核心は、やはり第9条にあると考えられる。憲法改正には肯定的な世論も、第9条については慎重だと感じられる。その点に重きを置いて、前回レポートの各論として、これからの「平和主義」のあり方を考えようと思う。

 

はじめに

 前回のレポートでは、憲法考察の第一歩目として、現行憲法の三大原理といわれる「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」について考えた。結論として、憲法改正を念頭におきつつ、今後のそれらのあり方は、「参加型民主主義・国民の義務の再確認・責任ある平和主義」という方向性を目指すべきではないか、つまり、国家や国民が「責任を取ることを強化」することが必要ではないか、と考えるに至った。というのも、そのような姿こそ、激動が続くと予測される21世紀の世界において、わが国が対外的には多くの分野で依存よりも自立を強め、対内的には真に自由で民主的な国家へと成熟していけるのではないか、と考えるためである。

 前回は総論的に記述したが、今回からは各論を深く考察していくことが重要ではないかと考える。また前回、上記のうち「平和主義」に関する考察を掘り下げるべきだとの指摘も頂いた。私自身、現行憲法について最も強く問題意識を持っているのはこの箇所である。というのも、憲法の「平和主義」に関わる部分を読む限り、自国の安全保障を他の国を中心に構築していると考えられ、これが本当に「平和主義」なのかと疑ってしまうからだ。

 今回のレポートでは、現行憲法の「平和主義」について、第9条解釈の変遷の歴史を確認し、結果として解釈改憲を認めてきた国民意識や第9条を堅持しようとする意見をも考慮しつつ、改めてこれからの「平和主義」のあり方を考察して、今後の憲法論議や国家観形成につなげていこうと考える。

憲法第9条と、その解釈の変遷

 現行憲法の三大原理の一つ、「平和主義」に関わる部分は、前文と第9条である。ここでは主に第9条に的を絞って考察を深めようと思う。まずは、改めてその条文を確認する。

 ○第9条第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 ○同第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 以上が、公布後59年にわたり、国民を揺さぶり続けてきた第9条である。それでは、この条文の解釈の変遷を概観しようと思う。

 現行憲法の施行当初、この条文は自衛権の放棄をも含むと考えられていた【徹底的平和主義】。それはたとえば、「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」とする当時の吉田首相の発言からも、自衛権の放棄こそ、現行憲法の理想であるという意思が窺われる。この解釈は、吉田首相の国力を経済復興に傾斜する路線に適合しており、また、先の戦争のあらゆる後遺症に苦しむ国民にも大いに受け入れられるものであっただろう。

 しかし、その後まもなく、ソ連の原爆保有や中華人民共和国の誕生など、極東での東西対立が明白になり、米国政府やGHQの要請により、吉田首相は自衛権保持を容認する【自衛権容認主義・専守防衛主義】。その際、吉田首相は、「戦争放棄の趣旨に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではない」と述べた。そして、朝鮮戦争の勃発が引き金となって、昭和25年に警察予備隊が創設され、翌年、対日講和条約とともに日米安保条約も締結された。これらにより、わが国は、実質的に再軍備への道を歩み始めたといえるのではないか。警察予備隊も、保安隊、自衛隊と改編されていった。

 以上が、第9条に対する政府解釈の最初の転換であった。そして、その後数十年にわたり、この解釈が受け継がれてきた。その間、第9条やわが国の安全保障に関して様々な揺れがあった。たとえば、警察予備隊を「軍隊ではない」とする首相答弁や、保安隊を「『戦力』に当たらない」とする政府見解などである。そのような中、日米相互防衛援助協定や新安保条約などが締結され、少しずつではあるが、確実にわが国の自衛力は高まる傾向にあったと見ていいだろう。

 しかし、政府や議会は自衛権・自衛力の行使に一定の制限を課す役割も果たしてきた。たとえば、昭和29年参院本会議の「自衛隊の海外出動禁止に関する決議」や、佐藤首相の非核三原則・武器輸出三原則の表明、三木内閣の防衛費の対GDP比1%枠設定などである。ここには、自衛力増強の必要性と第9条の解釈との間で揺れる政府・議会の悩ましい想いが表れているようである。

 また、在日米軍や自衛隊の基地周辺で生活する住民らを中心として、第9条を主な根拠とした反基地闘争も繰り広げられた。これはもちろん、住民らが生命・自由・財産を守る闘いであっただろうが、一方では、第9条の解釈を巡り、日米安保体制や自衛隊の合憲性を問う争いでもあった。ちなみに、裁判所は多くの場合、昭和34年の砂川事件最高裁判決を踏襲し、安保条約や自衛隊の合憲性の判断については高度な政治性を要し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外であるという「統治行為論」を援用して、司法判断を避けてきた。

 その後、改憲姿勢を明確にした中曽根政権を通り抜けて、第9条が大きく揺り動かされたのが、東西冷戦の終結という時代の転換点だっただろう。米ソの締付けが緩んだ矢先に起きた湾岸危機において、わが国は米国政府をはじめとする各国から人的貢献などの支援要請の圧力を受けた。わが国は合計130億ドルの経済的支援とともに、自衛隊法99条を根拠にして、平成3年、ついにペルシャ湾へ掃海艇の派遣を決定し、初の自衛隊海外派遣を行った。また翌年、PKO協力法も成立し、自衛隊がPKOに参加するための法整備がなされた。専守防衛とされてきた自衛隊が、「国際貢献」の旗印の下に、海外派遣という一線を超えてしまった瞬間だといえよう。

 このときに政府が用いたのが、「武力行使と一体化しない後方支援や人道支援なら問題ない」とする論理である。その後、カンボジアやモザンビークなど、自衛隊の海外派遣が当然のように行われるようになった。ここでも、解釈改憲がなされたと考えていいだろう【海外派遣容認主義】。

 そして、平成10年の北朝鮮による弾道弾ミサイル発射訓練や、翌年の不審船事件などが起こり、周辺事態法などの新ガイドライン関連法が成立した後の平成13年9月11日の米国同時多発テロによって、わが国政府はさらに解釈改憲へと進んだ。テロ対策特措法、イラク復興支援特措法などを通して、「非戦闘地域」というには相応しくない、いまだ戦火のくすぶる地域に自衛隊を派遣したからだ。これは、【海外派遣容認主義】を超えつつも、武力行使や武器使用ができないため、【集団的自衛権容認主義の一歩手前】という状態になったといえるのではないだろうか。

 以上のように、公布から59年を経た現行憲法の第9条は、解釈改憲によって、意味合いが大きく変化してきた。このような姿に違和感を覚えるのは、私だけではあるまい。以下、この違和感を掘り下げてみたい。

解釈改憲に対する違和感

(1)立憲主義上の疑義

 この違和感の一つが、わが国は民主主義国家として、法を大切に扱っているのか、という疑問である。第9条の条文と、集団的自衛権容認の可能性さえ感じられる現実とが乖離していることは、誰の目にも明らかである。このような姿は、立憲主義・法治主義上おかしいのではないか。民主主義国家であるならば、悪法であっても基本的には従うべきであり、そうでなければ、法を変えるか、無理やり現実を変えなければならない。それをしないというのは、たとえどのような理由があれ、私も含めて、政治家や国民全体の怠慢だと考えざるをえない。ここにおいては、司法判断を避けてきた裁判所も責められてしかるべきだろう。改めて、わが国にとっての「民主主義のあり方」が問われているといえよう。これは、現行憲法の三大原理の一つ、「国民主権」にも関わることである。

(2)脆い「平和主義」への疑問

 もう一つの違和感が、わが国の安全保障の要となる第9条、そして、三大原理の一つ、「平和主義」がこんなに揺さぶり続けられるほど脆くていいのか、という問題意識である。上述の通り、第9条の歴史は解釈改憲の歴史であり、だからこそ、憲法改正論議の中でも、第9条が中心的存在であり続けてきた。私は、この事実こそ問題であると考える。わが国の安全保障、そして、三大原理の一つが、様々な解釈を許すことによって揺さぶられてきたのだ。こんな危うい憲法、安全保障に関する条文、そして三大原理の一つを放置していいとは全く思わない。

(3)違和感への考察

 このような現実が起きてしまった理由は、一つには、先の大戦後の世界において、第9条がもともと無理な内容であったからだと考えられる。もちろん私は、わが国が「平和主義」を掲げることは、わが国の対外戦争が比較的少ない歴史に鑑みても、非常に重要であると考える。しかし、現行憲法の「平和主義」のあり方には、やはり問題があって、大戦後の戦争・紛争が頻発する国際社会において、国連や米国を中心に安全保障を構築し、「戦わずに平和を守る」という姿勢を続けることは、現実離れした無責任な状態であったといえるだろう。まして、天然資源の過少なわが国が、世界各国からの協力を得て経済大国に成長した歴史を想えば、なおさらである。大戦後の世界には戦火がくすぶり続け、現行憲法が理想とする平和な国際社会には程遠いのである。その点、「戦争はわが国を放棄した訳ではない」とするPHP研究所の指摘は真実だろう。

(4)第9条堅持の意見に対する考察

 しかしながら、いまだに第9条堅持への強いこだわりを見せる世論が存在することも事実である。その理由は様々考えられるが、一つには、「第9条がわが国の平和を守ってきた」という想いがあるだろう。たしかに、第9条はわが国の戦争参加や武力行使において、大きな制約・歯止めになってきた。しかし、解釈改憲によって、条文に風穴が開けられ、現実が先へ走り、条文と現実との間に大きな乖離が生じた。自衛権行使と戦争参加には大きな隔たりがあるとはいえ、どこまでが制約であり歯止めであるのか見えなくなってしまった状態の第9条を守り続けることの方が、むしろ恐ろしいことだと思う。戦後60年を生きてきた先達たちが、21世紀の子孫に受け継いでいこうとするには、あまりにも無責任な条文ではないだろうか。

 また、世論には、自衛隊は認めるが、第9条改正は認めないとする声も多いようだ。この意見について、根底にある想いは、「もう戦争はしたくない」というものだろう。私自身、戦争はできる限り避けなければならないと考えるし、侵略戦争については、世界のどの国の憲法にもそれを認めたものはなく、国際社会が許すことはない(イラク戦争のような、判断が難しい場合もあるが)。

 ここで問われるべきは、わが国の有する戦争観、および平和観ではないだろうか。戦争にも様々な種類があり、自国の領土への急迫不正の侵害を防ぐための自衛戦争を含め、全ての戦争を禁じなければならないとはいえまい。また、私たちは「平和ぼけ」といわれるように、平和はただで手に入ると考えていると指摘されるが、誰かがコストをかけて守っているからこそ、平和は享受できるのではないだろうか。そして、行為をも表す「戦争」の対極は、はたして状態のみ表す「平和」なのだろうか。基本的なことであるが、このような議論を現実に則って行っていくことこそ、今後のわが国に資するものだと、私は考える。

(5)第9条へのさらなるこだわりに対する考察

 第9条へのさらなるこだわりについて、それに様々な価値や意味合いが見出されてきたことも確認しておくべきだろう。先述の通り、第9条は反基地闘争など安全保障に関わる訴訟を住民らが起こす際の憲法上の根拠であり、また、反戦・非戦を訴える市民活動の拠り所であり続けてきた。そして、前文と併せて、国民は国に対し平和維持の要求ができる「平和的生存権」なる人権規定が導かれるとも主張されてきた。第9条の背景には、先の戦争への責任意識があるとし、よって第9条はアジア民衆の共通の財産とされた。さらに、第9条はガンジーの説く非暴力平和主義につながるとされ、また、個々の人間を単位として安全保障を構築する「人間中心的な安全保障」という考え方の核心となる理念だと価値付けされてもいる。

 私も、現行憲法の「平和主義」の理念・理想が高邁なものだと考えるし、誰もそれを否定する者はいまい。世界中にこの理念を広めていきたいし、軍事ビジネスなどは思考から一切排除して、早く世界から戦争や紛争がなくなってほしいと真剣に考えている。しかしながら、第9条は、登場した時代が早すぎたと考えざるをえない。あと何年かかるか定かではないが、多くの国家が経済的・精神的に繁栄を享受したときにこそ、有効に働きうる理念ではないだろうか。

 たしかに、わが国の平和的な憲法は、少しずつ世界に知られているだろうし、反戦・平和NGOの活動や国際会議などでは、第9条は理念的支柱をなしているだろう。だが、第9条の理念が伝わっていながら、それを採用する国家がなかなか広まらない、という現実こそ重要である。第9条が目指す世界を実現しようとすれば、国家が基礎的な単位をなす現代世界においては、NGOなどよりも、軍事力・防衛力をもつ国家が憲法によって第9条の理念を採用し、直接的に権力に制限を課す方が有効であることは言を俟たない。これが広まっていないという現実こそ、世界はまだこの段階にないという証しではないだろうか。

「責任ある平和主義」を目指して

 私は、現行憲法が掲げる「平和主義」は、現実のレベルに合わせるため、「階段を一段下り」なければならないと考える。もちろん、第9条の理想は忘れてはならない。それを胸に秘めつつ、国際社会が長期的にそれを達成できるような状態になることを目指して、わが国が貢献できることを戦略として持たねばならないと考える。

 また、短期的・中期的に大切なことは、どのような憲法上の規定と、それに基づく法制度が、より多くの国民の生命・自由・財産を確実に守れるか、ということではないだろうか。第9条を堅持する意見との究極的な違いが、世界全体の平和構築という目的に達するまでの戦略や手段にあるとすれば、「どちらが現実に即しているか」、焦点はこの一点に絞られるのではないか。そうすれば、第9条も、今後30年程度を射程にした世界観によって、現実的に改正することが必要であり、その姿こそ、国内においても、また国際社会においても、責任ある姿だといえよう。その際、現状のような解釈改憲を許すのではない、自衛力の保持と自衛権の行使についての明確な規定が必要であることは多言を要すまい。

 そして、わが国の伝統的な「和を重んじる」というあり方についても、わが国の歴史を俯瞰すれば、決して「和」だけでうまく治められてきたとはいえないと考えられる。多くの時代において、衝突・戦乱・戦争が起こってきたのであり、それでも「和の国」だといわれてきた所以は、「和と争とのバランス」において、どちらかといえば和の面が強く発揮されてきたからだろう。文武両道(文が武に優先する)という言葉や、学問を重んじた武士たちの姿からも、それが導かれるのではないか。ともかく、わが国の伝統精神は、全てが「和」だった訳ではない。そうであれば、今後の不安定な国際社会を直視しながら、「和と争とのバランス」を取り直し、これからの第9条や「平和主義」を考えていくことこそ、望ましい姿であると考える。

 繰り返し述べるが、現行憲法の第9条を中心とする「平和主義」は、今後、改正によって、自衛力の保持と自衛権の行使について明確に規定した「責任ある平和主義」を目指すべきだと考える。その具体的なあり方については、これからの私自身の課題である。先日、自民党の新憲法草案が示した、第9条の「第1項はそのまま、第2項に自衛軍保持を明記」、そして、より具体的には安全保障基本法へという考え方は、一つの参考になる。

 わが国が安全保障という面において、米国などへの極度な依存から少しずつ脱し、長期的に自立していくためにも、そして、21世紀を生きる私たち自身がより安全に、平和に生活していくためにも、第9条を現実世界に合わせて改正していくことこそ、これからの本当の「責任ある平和主義」のあり方だと訴える次第である。

参考文献

『憲法』(芦辺信喜)
『二十一世紀日本国憲法私案』(江口克彦、永久寿夫編)
『憲法九条の戦後史』(田中伸尚)
『戦後政治史新版』(石川真澄)
『松下政経塾国際政治講座』(松下政経塾編)
日本経済新聞コラム「憲法」シリーズ
2005年5月3日、11月3日付各社新聞
2004年度憲法講義資料など
2005年9月 執筆
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