松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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国家観
2005年5月

塾生レポート

日本国憲法の「三大原理」を考える
安田壮平/卒塾生

わが国の憲法論議に参加することは、松下政経塾生として、あるいは、一国民として、ある面において「義務」であり、「責任」であるように思う。その第一歩目として、今回は、わが国の憲法の「三大原理」について考察しようと思う。

 

はじめに

 冒頭、日本経済新聞の記述を借りるが、この5月、日本国憲法は施行から丸58年を迎え、大日本帝国憲法(1890-1947)の施行期間を超えたようだ。明治20年代から昭和20年代までの国内・国際情勢の変化と、昭和20年代から平成20年を目前に控えた現代までのそれとを簡単に比較することはできないが、科学技術の高度化による軍事面や情報通信面での発達、地球規模での人口の急増、民族・宗教問題に端を発する紛争・係争の多発など、変化の大きさ・インパクトの強さは、後者の方が格段に大きかったのではないかと思う。

 そのような昨今、わが国においては、現行憲法の改正を巡る論議がますます盛んになってきており、改正が現実味を帯びてきた。国民の関心も決して低くない。直近の朝日新聞の世論調査でも、憲法改正への関心が「ある」と答えた割合が65%と、「ない」と答えた33%を大きく引き離している。

 このような状況において、私たち松下政経塾生は、わが国の次世代を担っていくためにも、わが国の憲法改正について、やはり積極的・主体的に考え、議論していかなければならないと思う。

 というのも、憲法は、目まぐるしい変化が予測されるこれからの21世紀の中で、新しい「わが国のかたち」なるものを規定し、方向付けうるものだからである。わが国においては、今後、かなりの高い蓋然性をもって人口の減少が起こると予測されている。人口が減少すれば、労働者・納税者・消費者などが減少するだろう。そうなれば、経済面を中心とする国際競争力のある程度の低下は避けられない。そして、国際社会におけるわが国のポジションも変わってくるに違いない。

 遠くない将来、そのような状況の現出が予測される今日において、「わが国のかたち」をどのように方向付けるのか。社会のリーダーを志望する私たちにとって、常に考え続けなければならない問題であることは言を俟たない。

 とはいえ、そう簡単に結論の出る問題でもないだろう。継続的に考えていく中で、柔軟に修正を重ねていきながら、よりよい「わが国のかたち」に近づけていけばよいのではないかと考える。

 よって、今回のレポートでは、憲法についての考察の第一歩目として、改めて憲法の重要性を確認した上で、わが国の現行憲法の三大原理といわれている「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」について、考察を試みようと思う。

わが国における憲法の意義

 憲法は、現代の民主主義国家においても、そして、もちろんわが国においても、とても重要なものである。それは、なぜか。そもそも、憲法とは何か。

 憲法は、わが国の基本法であり、最高法規である。そこには、国家が国家として成り立ち、運営していくための基本原則が定められてある。その憲法に基づいて、多くの法律・命令・規則・条例などがある。法治国家であるわが国においては、この基本法である憲法の定める枠内でのみ、国会・内閣・裁判所などの統治機構が国家運営をすることができるようになっている。

 その憲法の意義であり最大の機能は、本質のところ、国家権力の抑止・制限と国民の保護に尽きる。つまり、国会などの立法府や、内閣などの行政府の権力濫用による侵害などから、国民の生命・財産や人権などを守るのである。だから、全ての国民において、憲法は非常に重要なものなのである。

 そして、その憲法の中身を決めるのは国民である。もちろん、中身を具体的に議論するのは、国民の代表である政治家が中心ではあるが、その中身を受け入れるかどうか、決めるのは国民である。このことは、主権が国民にあることとつながっている。主権とは、「対内的には国の政治を最終的に決定する権力」(旺文社国語辞典)であるので、憲法制定(改正)権もこれに含まれると考えてもよいだろう。

 そしてまた、わが国の憲法も、主権が国民にあることを規定している。つまり、わが国が民主主義国家であるという、国家体制を明示しているのである。こうすることによって、民主主義国家としての運営が担保される。というのも、憲法は、国民と国家との間でのルールだからである。

 さらにまた、国家体制を明示することによって、わが国が概念付けられる。「日本」という国が、日本国民からも、また、外国の人々からも、目に見えるかたちでイメージされる。そうしてこそ、民主主義国家であることが、名実ともに証明されるといえよう。だからこそ、憲法は大切であるとも考えられるのである。

 以上、憲法の重要性を改めて確認してきた。その重要性の要素は、一つには、国家権力の抑止・制限と国民の保護であり、もう一つには、主権在民という民主主義国家体制の明示による実践の担保であると、私は考える。

現行憲法の「三大原理」を考える

 次に、わが国の現行憲法の三大原理について、まず、なぜ私がこれを考察しようと思ったかを説明したいと思う。

 私は、かつて、現行憲法の三大原理が「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」であると学んだのだが、最近になって改めて考えてみると、なぜそういえるのか、疑問を持つようになった。というのも、現行憲法の中から、重要な要素を3つ抽出しようとして、なぜこの3つになるのか、すんなりと理解しにくいと考えるからである。それは、一つには、条文の数や文言の表現のためでもあろう。

 たとえば、「平和主義」について、それに関わる憲法の部分は、前文と第9条といえるだろうが、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分や、第9条の戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認の規定から、どうして「平和主義」が導けるのか、理解に苦しむのだ。誰がこれを「平和主義」と決めたのか。私は、一部の政治勢力による陰謀的な悪意さえも疑えるのではないかと思った。というのも、徹底して自らは戦わないことを規定することが、本当に平和に結びつくのか、疑問を感じたためである。

 もちろん、現行憲法制定当初と比べて、時代や環境が大きく変わったことは事実であろう。制定当初、わが国は国連を中心とした安全保障の傘の下で庇護されていた。その後、日米安保条約を中心とする安全保障体制に移行していった。そのため、前文への違和感や、第9条の解釈変更などが生じてきたことは確かであろう。でも、そうであるならば、なぜ私が抱いたような疑問を招く状態を改善しないのか。これは、いまだ持ち続けている問題意識である。

 そして、考察していくうちに、三大原理のうち、「国民主権」と「基本的人権の尊重」は、たしかに原理といえるだろうことについては、先に述べた内容でご理解頂けるだろうと思う。つまり、「国民主権」は、民主主義体制の明示による実践の担保に関わる部分であり、また、「基本的人権の尊重」は、国家権力の抑止・制限と国民の保護に関わる部分であるからだ。

 しかしながら、この三大原理が果たして原理といえるほどに実現されているか、議論があるところだろう。よって、私は、この三大原理を考察しながら、憲法改正の議論を進める上で、この三大原理が将来においてどのような姿に改善されていくべきか、考えることも重要なことだと思う。だからこそ、私は、この三大原理に切り込もうと考えるのである。

「国民主権」を考える

 まず、国民主権について考えようと思う。
 はたして、この国民主権は、十分に達成されてきたといえるだろうか。このような疑問を持つ理由の一つに、現行憲法の規定の弱さが挙げられる。

 というのも、現行憲法の国民主権に関わる部分が、前文の宣言と、第1条の一部だからである。この第1条は、主に天皇に関する規定である。もちろん、天皇は、わが国にとって最も重要な要素の一つであるとは思うが、それと同等以上に、国民に主権があることを明示することは重要だと、私は考える。この点、PHP研究所の『二十一世紀日本国憲法私案』などは正しい認識を示していると思う。

 また、国民主権を脅かす存在の一つが、わが国の強大な官僚機構ではないだろうか。間接民主主義の制度に則って、私たちの代表として、政治家を選んだとしても、「官僚主導」の政治・行政システムであっては、国民主権も形骸化する恐れが生じる。宮城県の浅野知事も、「民主主義の対義語は、社会主義や共産主義ではなく、おまかせ民主主義である」といっている。この「おまかせ民主主義」は、たとえば、理由なく選挙権を行使しない一部の国民のあり方などをも含むような広い意味を持つ言葉ではあるが、その要素の大きな一つが、官僚主導型の政治・行政システムである。もちろん、政治の現場においては、政治主導への試みを継続中であろうが、絶えずチェックし、進めていかなければならないことであると考える。

 たとえば、私の地元においても、必要度の高くなさそうな道路やダムが散見される。これらは社会資本であり、一定の価値や役割を持つものではあろうが、それらをつくるための財源が、地元住民や多くの国民からの税金に拠ることを考えれば、高い費用対効果の検証や環境への影響を最小限に抑える工夫などを実行してしかるべきだろう。わが地元でも、ようやく「要らないものは要らない」という声を住民が上げるようになってきた感がある。そのような行為の積み重ねこそ、よりよい国民主権・民主主義の実現につながるのではないかと考える。

 松下幸之助塾主の言葉によれば、人間社会が複雑化し、経済性を追求して分業化が進む中で、民主主義は生まれたという。たしかに、そのような一面はあるだろうが、そこで生活するのは住民であり国民であるので、必ずしも全てを政治家や行政府に任せていていいわけではないだろう。

 以上を考えれば、これからのあるべき国民主権の姿は、それを明確に憲法に規定するとともに、国民と政治・行政をさらに近づけるような方向性が望ましいのではないかと考える。

 たとえば、高度に情報通信が発達し、PCの画面からほとんど全ての情報が得られる今日、政治分野においても、この文明の利器を国民に大いに利用してもらうに越したことはない。国民による、政治・行政へのアクセスが容易になることによって、大いに国民の知恵が集まるだろう。もちろん、多くのノイズも集まるだろうが、その情報を取捨選択して、社会のリーダーたる政治家が行動を決断することによって、官僚や一部の業界の固定観念に縛られずに、多くの国民が望む国家や社会のあり方によりよく近づいていくことができるのではないだろうか。また、場合によっては、国民投票や住民投票のような直接民主主義に近い制度も、より効果的に取り入れるべきだろう。そのためにも、たとえば、ネットによる選挙投票などを、試行錯誤しながら着実に進めていくべきだと思う。いわば、「おまかせ民主主義」から、「参加型民主主義」への移行、そのような努力の積み重ねこそが、よりよき国民主権につながっていくのではないかと、私は考えるのである。

 また、私は、憲法の中身を決めるのは国民であるということが、国民に主権があるということにつながると考えるので、憲法改正について考え、議論することは、国民主権をよりよく発揮することであると考える。よって、大いに議論を続けていきたいと考えている。

「基本的人権の尊重」を考える

 次に、基本的人権の尊重について考える。

 これについては、もちろん、一定の問題をはらむ、つまり、国家権力による国民の人権や財産などの侵害はまだ現実に起こっているが、先に述べたとおり憲法の中核をなす部分でもあり、また、多くの国民に認識もされており、実現されている程度もそれなりに高いように思う。

 この基本的人権は、ジョン・ロックが唱える自然権のように、憲法に規定されることがなくても、根源的に全ての人間が有しているものだろう。しかしながら、それの実質的な獲得までの人類の歴史は長く険しい道のりであった。そのようなことを確認し、確実に国家権力から基本的人権を保障するためにも、これからの憲法においても、必ず規定すべきことであろう。その際には、環境権やプライバシーの権利など、時代が要請する新しい人権も大いに議論されるべきだろう。

 さて、これからの将来において、基本的人権の尊重の面から考えることは、権利とともに、義務の再確認ではないかと、私は思う。つまり、権利と義務、自由と責任が表裏一体であることの強い認識付けである。

 価値観の多様化した現代、わが国民は大いに自由な活動を享受していると思われる。その反面、凶悪犯罪の増加や希薄な人間関係によるトラブルの増加など、好ましくない面が増えていることも実感として感じられることだろう。その背景には、多分に観念的な表現ではあるが、自由が行き過ぎて、自己本位・自分勝手な考え方や価値観が広がってしまってはいないだろうか。

 現在、国民の義務は、教育・勤労・納税の3つである。たとえば、最近よく耳にする「NEET」は、勤労・納税の義務を果たしていないことになる。これは、国家にとって多くの面でマイナスの影響をもたらしていると考える。豊かになりすぎて、自分の進むべき道を探すのが難しいという現実はあるだろうが、日本で生活している以上、わが国の社会インフラを使っているのだから、何とかして義務を果たすべきである。

 ここで私は、行政府に味方して、税金を必ず払うべし、といいたいのではない。行政府には、税金の使い途にまだまだ改善の余地が少なくないであろうことを忘れずに指摘しておきたい。ここで私がいいたいのは、国民と国家とのルールである憲法を守って、義務を果たすべし、ということである。義務を果たし、責任を全うすべし、ということである。それができないのであれば、憲法を変えるように動くのが筋だろう。

 ケネディ元大統領のかの有名な演説も、このことにつながっていると考える。これからの将来においては、憲法の中で、このことをより明確に再確認し、強調していくべきではないかと思う。これはまた、受益と負担ということの認識の強化にもつながっていると考える。たとえば、自由主義経済が行き過ぎた面として、ごみ問題や環境問題がある。それらの問題についても、一定の歯止めとなり、規範付けになるのではないかと考えるのである。

「平和主義」を考える

 最後に、平和主義について考える。これが三大原理の一つだという危うさは、先ほど述べたとおりである。

 もちろん、平和主義を唱えることは、尊いことであると、私は考える。長い歴史の中で、世界の国々と比べても、極端に対外的な戦争が少なかったことは、わが国が世界に誇ることができる貴重な特性だと思う。やはり、日本は「和の国」、平和主義を掲げるのは自然な姿である。

 ここで私が問題視するのは、現行憲法における平和主義のあり方である。自国の安全保障を、国連や他の国を中心に構築してよいのだろうか。現行憲法の規定には、歴史的な経緯があることは既に述べた。そして、その背後に、「戦わずに平和を守る」日本国民の精神性があることも確かだろう。

 つまり、たとえば、アメリカ合衆国も、わが国と同じく民主主義国家であるが、この国においては、紛争解決の手段として、武力行使が正当化される。「戦うことで平和をつくり出す」という考え方である。この考え方の背景には、この国の成立した背景、つまり、外部から来た移民たちが、先住民族と戦って勝つことによって、支配領域を拡大していった史実がある。だから、必要に応じて、戦うことが正当化されやすいのではないか。

 一方、わが国においては、近代に至るまで、本格的に領土拡大の野心を抱いて他国と戦おうとしたのは、豊臣秀吉以外にほぼなかったといえよう。一般にいわれるように、狩猟民族と異なる農耕民族としての側面、戦うことを避け、戦わずに平和を守る側面が、わが国には強く表れていると考えられる。

 また、私は、この伝統的な平和の考え方が、現行憲法の改正を強く阻んできた要因の大きな一つではないかと考える。憲法改正の代表的な争点が、第9条であることは間違いない。「憲法を改正すれば、第9条も変質するのではないか」、この懸念が、護憲派や憲法改正に不安を抱く人々の最たる懸念ではないかと、私は考える。わが国の近現代史を顧みれば、共感しうる心情である。

 しかし、私は、これからの将来を考えれば、それも少しずつ変わっていかなければならないのではないか、発展していかなければならないのではないかと考える。平和は、わが国を防衛することだけでは達成しえず、世界の平和への貢献も必要だと考えるからである。

 これからの将来、戦争のあり方も変わってくるだろう。兵隊同士の肉弾戦のほとんどない、ミサイルや戦闘機が中心の戦争になっていくだろう。だから、それに合った防衛体制や平和構築体制を築くためにも、現実に合った条文に規定しなおす必要があると考える。

 かつて、粛軍演説で有名な斎藤隆夫は、大日本帝国憲法を君主独裁政治になる恐れのある憲法だと指摘した。そこから、軍部や右翼を中心に、大東亜戦争へもつれこんでいったのである。そのような過ちを二度と繰り返さないためにも、私は、憲法に明確な規定をすべきだと思う。それこそが、国民が憲法を決める民主主義国家・法治国家における、自衛軍のあり方だと考える。

 これからの将来は、「責任ある平和主義」を掲げ、できる限り戦争を回避し、そして、様々な問題で喧しい世界の平和に貢献すべきであると考えるのである。

締め括りとして

 以上、三大原理について考察してきた。今後のあり方は、国民主権については、国民が政治・行政にアクセスしやすくなる「参加型民主主義」に近づくこと、基本的人権の尊重については、権利だけでなく、義務もより強く確認すること、平和主義については、「責任ある平和主義」に近づくことである。

 これらに共通する方向性は、「責任を取ることの強化」ということである。これは、とかく責任の所在が曖昧な日本人や日本の組織への、大きなチャレンジといえるだろう。たとえば、赤字国債の解消も、一つの大切な責任の履行であろう。

 これからの21世紀、世界の情勢を見渡せば、わが国が生き抜いていく環境は決して易しくないと考える。政治・軍事・経済など、多くの面であらゆる国と国との摩擦・衝突が繰り広げられるだろう。その中でも、人口増加による食糧問題や環境問題は、相当に深刻になるのではないか。

 そのような状況において、自立した国家として生き抜いていくためにも、責任取ることを強化することが大切ではないかと考える。そうしてこそ、真に自由で、民主的な国家となるのではないかと考える。

 以上、私は、現段階において、このような方向性を軸とした憲法改正が望ましいのではないかと考えている次第である。

参考文献

『憲法』(芦辺信喜)
『二十一世紀日本国憲法私案』(江口克彦、永久寿夫編)
日本経済新聞コラム「憲法」シリーズ
2005年5月3日付各社新聞
2004年度憲法講義資料など
2005年5月 執筆
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