松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

日本語英語


塾生レポート 一覧へ戻る
人間観
2005年4月

塾生レポート

『人間を考える』を考える
安田壮平/卒塾生

はじめて月例レポートを作成するにあたり、「松下幸之助塾主の人間観」に真正面から取り組んでみたつもりである。塾主の著書『人間を考える』に沿って考察を進め、人間観の難しさ、「新しい人間観」、「衆知」、「素直な心」、そして「お互いに」という発想にたどり着いた。私の塾主研究の第一歩目と位置付けている。

 

はじめに

 なぜ、私たち松下政経塾生は、人間観という、大それた、この世の中で一番つかみにくそうなテーマについて取り組むのだろうか。松下幸之助塾主もいっているではないか、
「もとより人間の本質なりそのあゆみ方をのべるということは、いわば幾百巻の書をつくしても論じきれないような大きな問題です。」
 さらには、評論家の三鬼陽之助氏は、より端的に、
「…、古今東西を通じ、人間観は、百万巻の書物をつくしても、論じきれないタブー…。」
 このように、一流の文筆家たちが、人間観とはそれほどまでに壮大で茫洋としたものであるといっている。このようなものに取り組むかと思うと、茅ヶ崎の海岸から遠くに見えている三浦半島を一周して帰って来ることの方がはるかに容易な気さえする…。

人間観の難しさ

 では、なぜ、人間観とは、そのように「論じきれない大問題」なのだろうか。
私は、人間観、つまり、人間とは何か、という問いには、結局のところ、完全な答えがない、また、もしあるとしても、見出すのが非常に難しいからだろうと考える。その理由としては、以下のようなことが挙げられる。
 1.一般にいわれることだが、科学では、whatやhowは解明できても、whyは解明できないからである。たとえば、人間がどのような生物であるか、また、どのような性質・特徴をもって、どのような働き・営みをしているのか、などについては解明できるが、なぜそのような生物であるのか、なぜそのような性質・特徴をもち、そのような働き・営みをしているのか、そもそも、なぜ人間は存在するのか、については解明できないと考えるのである。
 もちろん、このwhyに回答するもの、厳密にいえば、解釈・意味付けするものとして、宗教などの知的営みが存在する。しかし、これはやはり解釈であるため、完全な答えとはいえないだろう。よって、なぜ人間は存在するのか、人間とは何か、なぜそうなのか、という問いに対して、完全な答えはないのではないかと考えるのである。
 2.この世界には、一人として同じ人間は生まれないから、人間とは何か、についての普遍的なことが見出し難いのではないかと考える。もちろん、多くの生物において、全く同じ生命体は生まれないとは思うが、特に人間の場合においては、心や頭脳の働き、いいかえれば「知情意」の働きが非常に複雑であるため、相対的にも絶対的にも普遍化が難しいと考えるのである。
 塾主の指摘を借りれば、この世の中には、物の法則と(人間の)心の法則が働いていて、前者については通常科学の力で究められるものであるが、後者についてはきわめて神秘的で、科学の力では究めることができないという。これはまさに、知情意の複雑さについての言及だろう。
 よく聞く「コンピューターに人間並みの感情を持たせることは困難だ」という言葉に表れている知情意の複雑さ・不可解さや予測不可能性は、人間の本質の一面であるようにも考えられる。よって、人間とは何か、についての普遍的なことが見出し難いと考えるのである。
 3.人間とは何か、について考えるのが、人間自身だから、見出すのが非常に難しいのではないかと考える。つまり、研究対象である人間に、研究する自分自身も含まれているから、主観性を完全に排することができず、自分の経験や知識にも多かれ少なかれ影響されて、完全に客観的になれずに、「あぁ、人間とはこういうものだ」と分かったような気持ちになってしまい、不完全なままの理解に止まってしまう。よって、完全な答えには到達し難いのではないかと考えるのである。

 以上のように、人間観とは、やはり「論じきれない大問題」といえる。しかし、塾主は、その人間観がはっきりと分からないところに、人間世界の混迷の原因があると考えた。だからこそ、人間観の模索という至難の大事業に果敢に挑戦し、いばらの道を進みつつも思索を重ね、そして長い長い悪戦苦闘の果てに、「新しい人間観」を提唱したのである。
 次に、「新しい人間観」について、考察を試みようと思う。

「新しい人間観」の宇宙観

 「新しい人間観」において、塾主は、宇宙の原理・天地自然の理は、「生成発展・変わること」であると説いている。この部分は、塾主の宇宙観ともいえるもので、その次の人間観にも密接に関わる重要な部分だと考えるので、考察を加えてみたい。はたして、宇宙の原理は本当に「生成発展」なのだろうか。
 宇宙や地球について考えてみると、これほど科学技術が発達した今日の人間世界とはいえ、まだまだ未知の領域は大きいように思う。たとえば、前述のように、科学はwhatやhowは解明できても、whyは解明できない、ということはこの分野にも当てはまることだろう。
 このように未知の領域が大きい宇宙について、塾主は、「なぜ宇宙は存在するのか」というwhyへの解釈として、「宇宙には目に見えない大きな力が働いているから」と漠然と感じたのであろう。そして、その「目に見えない大きな力」の原理・原則は何か、未知の領域は沢山あるけれども、既知の範囲でいえそうな原理・原則は何か、という自らへの問いに対して、身近なところから考えてみて、「生成発展」はいえそうだ、とにかく、「変わること」ということは間違いなさそうだ、と考えるに至ったのではないだろうか。
 塾主のいう「生成発展・変わること」には、塾主のプラス志向・肯定的な人生観が多分に働いているから、「変わること」にしても最終的には良い方向に変わっていくことを意味していると思われるが、宇宙や天体について現在判明していること、宇宙の一端であるこの人間世界において見られる心の法則や物の法則、また時間の変化などからも、この「変わること」が宇宙の原理であるということは、必ずしも的を外していないだろうと、私は考える。また、一面において真理であるようにも考えられる。よって、とりあえず、宇宙の原理は「生成発展・変わること」であると考えてよさそうである。

「新しい人間観」の人間観

 次に、塾主は、人間の本性・特性・天命・使命として、物心一如の真の繁栄を生み出す大きな責任・役割を挙げている。人間は、万物の王者という偉大な存在として、それを達成せよというのである。
 この人間観は、人間の進歩の歴史に基づいている。現在、この地球や宇宙において、最も中心的に活動しているアクターは、アリでもなければ、ダンゴムシでもない、人間であるというのが最も適切な見方だろう。世界を見渡すと、たしかに、人間は万物の王者と呼ぶに相応しい実力を備えているように思う。
 そして、この人間観には、塾主の人間肯定の哲学が強く働いている。また、時に戦争したり、自然環境や社会環境を破壊したりする人間への戒め・方向付けとして、このような本性・特性・天命・使命を導き出したのだろうと考えられる。より高いレベルの人間のあり方を提唱しようとしたのだろう。
 私は、塾主のこの人間観について、まだこの段階では疑問を差し挟まない。というのも、前述のとおり、人間観とは完全な答えのないもの、または、あるとしても非常に難しいものだからだ。むしろ、私は、塾主のこの人間観に共感するところが大きい。人間を肯定し、人間をして熱く鼓舞せしめる名文だと思う。この文章のとおりに、力強く進んでいきたいと思う。

 そして、塾主は、人間のこの本性・特性・天命・使命を全うするために、「自覚認識・衆知・素直な心」の大切さを説いている。
 「自覚認識」とは、人間のこの本性・特性・天命・使命を自覚認識することである。まずはこれこそが出発点である、ということについては、疑う余地もない。
 私が気になるのは、「衆知」であり、「素直な心」である。塾主の思想や哲学において、この二つの概念は非常に重要なものであると、私は認識している。塾主の著書や、塾主に縁のある場所において、事あるごとにこの言葉を目にする。私たち松下政経塾の塾訓も、「素直な心で衆知を集め…」で始まっている。そして、塾主にとって非常に重要な「新しい人間観」の大切な要素となっている…。
 私は、「新しい人間観」を突き詰めていくと、その中核は「衆知」であり、「素直な心」だと考える。決して、「まことに人間は崇高にして偉大な存在である」などの華々しい文章に目を奪われてはならないと思う。塾主の人間観の肝心要は「衆知」であり、「素直な心」であると考える。
 では、この二つの概念に考え至った塾主には、どのような思いがあったのだろうか。

「衆知」と「素直な心」

 まず、「衆知」とは、多くの人々や万物からの知恵・知識である。なぜこれが大切なのか。
 これについて、おそらく、塾主は人間を「考える生き物」ととらえていたからだろうと考える。他の生物と人間とを比べたときのいちばんの違い、そして、人間を「万物の王者」とせしめた決定的な要因として、この「考える」ということをとらえていたように思う。人間が万物の王者であるのも、考えたり知恵を働かせたりすることによって、宇宙の原理や天地自然の理を認識できることに起因する、といっているからである。
 さらにいえば、塾主は、知恵こそが人類の本当の財産だと考えていたのではないだろうか。選挙などの手伝いに行くと、よく「カネがなければ、知恵を出せ」といわれるが、それは冗談としても、知恵こそはまさに無限大に存在するもの、本来は共有されればされるほど大きな力を発揮するもの、そして、人類未曾有の難問や危機に対して、それを突破しうるものといえるだろう。もちろん、現代においては、知的財産の名の下に、ビジネスとも絡み付いて、その重要性が一般に認識されるようになっているが、知恵とは根源的に、前述のような人類共有の財産で、人類の持つ最強の武器だと塾主は考えていたのではないかと思うのである。
 その知恵を積み重ねていく、衆知を集めていくことが、人間にとって非常に重要だと認識していたのだろう。これは、「塾主はよくものを考えた」といわれる塾主像にまさに当てはまることではないかと思うのである。

 次に、「素直な心」とは、物事の真実をはっきりとつかむ、とらわれのない心である。本来は、「忠」という言葉の意味に近いという。塾主は、衆知を集めるためにも、この「素直な心」が大切であると考えた。物事の真実をはっきりとつかんでこそ、本当の知恵になるのだと考えたからである。
 たしかに、人間世界に役立つ知恵であるためには、それが真実でなければならない。あらゆる情報に対して真実かどうかを見きわめるために、バイアスのない心で見る、一度受け入れた上でよく消化して判断する、そのような姿勢の中に、余裕やゆとりが生まれ、より高い心境から物事を俯瞰することができ、正しい判断ができるようになるのであろう。
 その「素直な心」の初歩レベルに至るまで、大体30年かかると塾主はいっている。この「素直な心」の重要性は認識しすぎてもし足りないように思う。

 人間が大きな力を発揮する源が知恵であり衆知である、その知恵や衆知を生み出すのが素直な心である、という論理には、疑問を差し挟む余地はないように思う。では、改めて、この「衆知」と「素直な心」に考え至った塾主には、どのような思いがあったのだろうか。

塾主の「お互いに」という発想

 「衆知」と 「素直な心」に考え至った背景には、塾主の生き方の基本に、「お互いに」という思いが強くあったからではないかと、私は考える。それはたとえば、「みんなが一緒に繁栄することによってのみ、みずからの豊かさが得られる」という言葉に象徴されているように、まさに共存共栄の発想である。おそらく、多くの人に幸福観を問えば、スタートは概ね個人レベルの幸福であろうが、それが次第に高まって、最終的にはみんなの幸福、共存共栄がゴールになるのではないかと思う。塾主は、早い段階から、そのような幸福観に立って、PHP研究を行ったり、「新しい人間観」を考えたりしたのだろうと思うのである。
 「お互いに」という態度、決して自分だけがイチバンではない、自分だけが全てではないという態度から、「衆知」、より多くの人々から知恵を集める姿勢が生まれたのだろう。それをよりよく実践するための、一人の人間としてのあるべき心持ちが、「素直な心」だということに考え至ったのだろう。
 塾主の生き方の基本に、この「お互いに」という思いは強く見て取れる。この政経塾においても、塾生と交わるときは、「お互いに」教え合う。そして、「お互いに」塾長として、政経塾を引っ張っていく…。
 ちなみに、『松下幸之助発言集』に最も多く登場する言葉は、この「お互いに」という言葉だということである。この「お互いに」という言葉は、索引には載っていない。おそらく、あまりにも自然すぎて、当たり前すぎて、編集者も索引に載せなかったのだろう。塾主の著作や発言のしかたの自然さに、その思想の奥深さや味わいを感じ取れるようである。

しめくくりとして

 最後に、私たち松下政経塾生は、塾主のこの「お互いに」という言葉の意味を、今一度よく噛みしまねばなるまいと思う。時には、内向きにも、外向きにも、競争したり、衝突したりすることはあるだろう。けれども、そこにこの「お互いに」という思いがなければ、それは本当の意味の切磋琢磨でないだろう。ただ単に、傷つけ合い、憎しみ合うだけになってしまうのではないか。
 私たちは、自分自身の栄達や小利を望んでいるのではないはずだ。目指すべきは、日本の発展、世界の発展。そう考えたら、目の前の敵は、敵にすべき相手ではない、本当の敵は外の世界にまだまだ数多く存在するのかもしれない。そのような大きな思いや気持ちを持って、お互いに力強く歩んでいきたいと考える次第である。

参考文献
『人間を考える』(松下幸之助、以下同じ)
『人間を考える 第2巻』
『松下幸之助の哲学』
その他、講義資料など
2005年4月 執筆
  1. HOME >
  2. 卒塾生一覧 >
  3. 安田壮平 >
  4. 『人間を考える』を考える
ページの先頭へ