松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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1998年9月

塾報

全ての子供に保育を
平島廣志/卒塾生

 保育問題は、労働市場、女性、少子高齢化、福祉など様々な社会問題を解くひとつのキーワードである。女性を中心にライフスタイルが多様化する中で、政府は育児に対してどこまで家庭と責任をシェアできるのだろうか。

 
◆保育所に入れない子供たち

 「保育の実状には、かなり地域差があります。それはひとつに都会と、茨城のこの辺りの地域では、家庭のあり方やライフスタイルに大きな差があるからでしょう」。
 茨城県高萩市にあり県内屈指の規模を誇る社会法人「同仁会」の理事長、遠藤光洋先生は、説明してくれた。同仁会は同仁保育園、乳児院、学童保育施設「ゆうゆうクラブ」、養護施設「臨海学園」などを運営し、遠藤理事長は茨城県に対して児童福祉問題など多数の提言を行っている。この遠藤氏が経営する同仁保育園で実習生として2日間程受け入れてもらった。同仁保育園は海に面していて、都会では考えられないほど子供たちは恵まれた環境の中で育っている。地方の豊かさを感じる一瞬である。
 遠藤理事長の指摘するとおり、保育の問題は地域差が大きい。特に茨城県では考えられないような問題が首都圏にはある。そのひとつが希望をしても保育所に入所できない待機児童問題で、これが首都圏では社会問題化しており、例えば横浜市内だけでも1867人(平成8年4月現在)の児童が保育所への入所を希望しつつ果たせない状態でいる。

 保育所に入りたくても入れない子供がこれほどまでに存在するのは何故か。5歳児以下の子供の教育は、主に幼稚園か保育所の二つの選択肢がある。幼稚園とは、学校教育法に定められたの「学校」に属し、3歳児からを対象にしており、文部省の管轄と都道府県庁の監督を受けている。
 1996年現在で、これら幼稚園は全国に1万5千件あり、就学児童は約180万人である。これに対して保育所とは、児童福祉法に基づき、厚生省が管轄し「1日の一定時間、子供を預かり、親に代わってその子の面倒を見るところ」と定義されている。簡単にいえば、幼稚園は教育の場であり、保育所は福祉の場ということになるだろうか。

 保育所は「認可保育所」と「無認可保育所」に分れる。地方自治体が運営する公立保育所と自治体の認可を受けて社会福祉法人が運営する私立保育所の二つをまとめて「認可保育所」と呼んでいる。これらはかつて「措置費」と呼ばれた政府からの補助金で基本的に運営されている。これに対して「無認可保育所」とは、文字通り無認可であるため原則として補助金は受けていない。
 認可、無認可合わせて保育所は全国に約3万3000箇所あり、保育園児は認可保育所だけでも約161万人いると言われている。

◆保育社会主義の弊害

 日本の保育政策は矛盾と非合理に凝り固まっている。ここだけは純然たる社会主義の世界だ。
 実際共働きの核家族は、1日4時間しかやっていない幼稚園では子供を預けられず、保育の需要曲線を右にシフトさせる圧力となっている。
 さらに待機児童問題は見かけ以上に複雑である。原因が、量的な保育所の不足だけでなく、保育サービスの質的な内容にもあるからだ。例えばその地域の認可保育所に自分の子供を預けるだけの「空き」があったとしても、そこが1日8時間、朝の9時から夕方の5時までしか預かってくれないのであれば安心して子供を通園させることはできない。想像して欲しい。平均的な日本の企業に勤める共働きのサラリーマンのうちどれだけが、朝、子供を預けてから通勤時間も含めて8時間以内に引き取りに来ることができるだろうか?このように硬直した公立を中心とする認可保育所のあり方が、需給ギャップを拡大させている。

 一方、無認可保育所のほうは、24時間開園している所まであって多様なサービスを提供しているが、その分認可保育所に比べ割高である。3歳児未満の乳児の場合、保育料が月額8万円以上の所もある。
 また、親が支払う保育料なども不公正の極みであろう。認可保育所の保育料は、自治体がそれぞれの家庭の所得に応じて決める。問題は、料金設定が納税額に準拠しているので、源泉徴収でしっかり税額を捕捉される共働きのサラリーマン家庭のほうが、収入が多いにも関わらず税の捕捉率が低い自営業者の家庭よりも高額の保育料を払っていることにある。

◆英国の保育政策

 それではどのような保育のあり方が今後わが国にとって望ましいのであろうか。日本と同じように試行錯誤を続ける英国の例を参考に今後の日本の保育政策について考えて見たい。
 英国は第二次世界大戦後、福祉国家として再出発することになったが、児童福祉に関しては、高齢者福祉や医療などに比べて格段に遅れが目立った。これは子供の躾や教育は、主に家庭の責務であるという育児に対する英国人の考え方に原因がある。97年現在でも、家庭で教育を受ける3歳児と4歳児の数が全体の47%近くに上っていることを見ても家庭教育の比重の高さがわかる。
 英国の保育・幼児教育制度は、「1989年児童法」によって以下のように分類されている。

①小学校入学準備学級(レセプション・クラス):小学校附属の幼児教育学級。
②ナーサリー・スクール:日本の「幼稚園」。2~5歳児が通う。
③ナーサリー・クラス(小学校付属幼稚園):小学校内にある幼稚園。
④デイ・ナーサリー:日本でいう「認可保育所」。5歳以下の要介護児童(children in need)なら全て受け入れる。
⑤その他:英国は家庭教育の歴史があり、ナンニーと呼ばれる主に住み込みのベビーシッターや、オーペア・ガールと呼ばれる「ホームスティ型外国人女子短期留学生」などの制度。
 また、一般の主婦が登録して子供を預かる保育ママ(チャイルド・マインダー)や子供を持つ母親が複数集まって子供の世話をするボランティア組織のプレイグループなども多い。

◆果敢なる保守党の挑戦

 上昇志向の強い中流層を新たな支持基盤とした80年代の保守党にとって保育は重要問題であった。1996年、メージャー政権の女性閣僚、ジリアン・シェパード教育相は「保育バウチャー制度」構想を提唱した。シェパードは供給者サイドである保育業界に競争政策を導入し、公立保育に対する政府支出の抑制と保育サービスの向上を目指した。公募に応じたロンドンの4つの地方教育委員会に対して実験的にバウチャー(クーポン券)を配布し、この実験区で成功すれば翌97年4月から全国的にこの制度を実施する方針でいた。

 もともと教育制度にバウチャーを使用することで、学校間に競争政策を導入する発想は、米国のノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマンが、著書『選択の自由』の中で提唱したものである。フリードマンは米国の初等中等教育の荒廃を嘆き、その原因を官僚的で住民と子弟の教育ニーズに柔軟に適応できない公教育制度にあると指摘した。その処方箋として、教育費の一定額をクーポン券(バウチャー)で全ての適齢期の子供がいる家庭に配布し、そのクーポンで親は最も自分の子供に最適と思われる学校を選択する制度を提唱した。経営努力を怠れば公立であっても倒産してしまう。学校に経営感覚がなければ教育内容のレベルアップはありえない、とフリードマンは考えたのである。
 英国版バウチャー制度は、このフリードマンの理念を保育の世界に取り入れたものだ。シェパード構想では、政府は4歳以上の児童一人あたり1,100ポンド(約26万円)相当のバウチャーを支給する。
 親は公立・私立を問わず、また幼稚園でも保育所でも、さらにはベビーシッターでも政府がその資格を認めたところであるならば選択することができる。
 しかし実際この英国版保育バウチャー政策は二つの現実の前に挫折した。ひとつは「バウチャー制度は保育の質を下げる」と主張する労働党が97年5月の総選挙で政権をとったこと、二つ目は4つの実験区においてバウチャーを支給された4歳児の親たちが、評判の良い公立小学校に席を確保しようと、小学校付属の幼児クラスに殺到したこと。このため一般の保育所にはバウチャーの支給されない3歳児しか残らず、倒産する保育所が続出した。
 こうして注目された英国の保育改革は、1年余りで挫折を余儀なくされたが、市場原理の導入で、保育需要に積極的に応えようとした保守党の姿勢には評価すべき点が多い。

◆日本版バウチャー政策を検討すべし

 同じような供給不足に悩む日本において、このバウチャー制度は果たして導入の余地はないのだろうか。  「いくつかの点で制度の改良が必要ですが、バウチャー方式の導入は充分可能です」。保育事業のコンサルティングで著名なチャイルド・ケア・ジャパンの栗山正樹社長は明言する。栗山氏が言う「日本版バウチャー制度」(図表参照)は、1).バウチャー(クーポン券)は保育を必要とする全ての世帯に配布すること。2).バウチャーの価格は一率とすること。3).保育コストの半分は親の自費払いとするが、この部分には所得税控除を行う。4).このバウチャーは、保育所・幼稚園・ベビーシッター・保育ママなど全ての保育サービス業で使用できる。栗山氏はベネッセコーポレーション時代に保育事業を手がけ、これを成功させた優れた起業家でもある。
 「事業として見るならば、保育は市場として極めて魅力的です」。
 「保育園に経営努力を促すことで、逆に日本の保育にかかる全体的なコストを削減することができる。また経営努力は必ずサービスの多様化を起こし、保育内容の充実につながるはずです」。
 確かに(社)ニュービジネス協議会が発行している『行政サービス・ビジネス1998年版』に見る通り、97年の東京都における公立と私立の保育園児一人当たりの保育コストを比較した場合、公立が116万2748円で、私立の28万9507円の約4倍になり、割高なのがわかる。これでは財政的上、高コストの公立保育所を増設できないのは誰の目にも明らかだ。保育業界に民間企業が参入しないのもまさに保育コストの高さによるところが大きい。また相手が子供であるだけに民間企業では一般的なコスト競争にも限界がある。それならば保育所への莫大な補助金を廃止した上で、逆に保育コストの一定額を税金で家庭に支給し、政府が「新しい市場」を育成すればどうだろうか。これが栗山社長の考える「日本版バウチャー制度」の基本的な発想である。
 しかし、この考えに疑問を感じる人も少なくない。
 「本当に、マーケットの原理にまかせて保育の質を保障できるのでしょうか。今まで通っていた保育園がある日突然倒産という状態も起こるわけで、児童に及ぼす影響は無視できません」。
 日本子ども家庭総合研究所の山本真実研究員は、民間の参入はある程度時代の流れであると肯定しながらもそこに一抹の不安を拭いきれない。
 「パソナ(人材派遣業)やベネッセ(出版業)のように民間企業が経営している低コストの駅型保育はほとんどがビルの一室で行っています。そんな環境が果たして子どもの成長にとって充分であるとは思えないのです」。
 山本研究員のこの言葉は、実際に子供をもつ多くの親の感想でもある。バウチャー政策を導入するに際して心しなければならないのは、保育の対象とはあくまでも子供であり、一般の企業が扱う商品とは同列ではないことだ。その意味でも厳格な監督者としての政府の役割は、決して小さくはない。

◆全ての子供に保育を

 しかし、子供を抱え仕事との両立に悩む家庭(主に女性)をこれ以上放置するわけにはいかない。労働市場への女性の進出を促し、少子化社会に歯止めをかけるために、保育の貧困に対して何らかの手を打たねばならない。真に保育サービスを必要としている家庭がこんなにも増えているにも関わらず、社会も制度も「子供は親が見るもので、保育所に預けるのは特殊ケース」という偏見が根強い。全ての子供に優れた保育を提供するために、従来型の市場原理の導入やバウチャー方式などのアイディアを取り入れることを恐れるべきではない。日本子ども家庭総研の山本研究員は言う。
 「子供は親のものという考え方から、社会共有の財産という考え方に日本ももう変わらなくてはならないし、変っていくと思います」。
 その文脈において保育改革が21世紀の我々の社会に果たす役割は、予想以上に大きいと言える。

1998年9月 執筆
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