松下政経塾 The Matsushita Institute of
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1995年7月

塾生レポート

難民庇護の先進国スウェーデンの苦悩
平島廣志/卒塾生

 
 私、平島は1年生との共同研究「難民問題と日本の対応」の一環として、7/13~8/1の約2週間の期間、単独で北欧の国スウェーデンに滞在し同国の難民問題に対する取り組みをつぶさに視察してきた。
 ヨーロッパは難民受け入れの先進地域であるが、その中でも数量的にもドイツや上記のスウェーデンは大量の難民を毎年積極的に受け入れているので有名である。
 これらの国において難民はどのように保護され、どのように暮らしているのか、難民政策の現場で働く人々とのインタヴューを通して政府(国家)としての「難民保護」のあるべき姿を考えてみた。

 北欧の夏は日照時間がやたらと長い。早朝から夜の9時ぐらいまでまるで昼の様に明るく、ストックホルム市内の公園では、この明るい夜を楽しむ家族連れをよく見かける。
 67万人を数えるこの国の首都ストックホルムは、それはこの公園を見ても感じることだが、「人種の坩堝」という言葉がぴったりな街である。

 実数は市の人口の約22%(約147000人)が移民(難民として入国した者以外の移民労働者も含む総体)だそうだが、街の大通りを歩くとむしろ観光客も多いせいもあって外国人のほうが6:4で圧倒的に多い様に思える。

 まるで世界の縮図の様に出会う外国人の顔も様々である。
 南米系の露店商、アフリカ民族衣装をまとったソマリ族の女性、黒人の家族、イランやアラブなど中東系の建設労働者の一群、華僑とおぼしき東洋系の若者などなんの違和感もなく皆街に溶け込んで暮らしているようである。

 「私たちには移民(移民労働者)や難民を受け入れてきた長い伝統と実績があります。そしてそれはスウェーデン自身がかつて貧しい農業国で移民を海外に送りだし続けたという苦い経験に始まっているのです。」
 スウェーデン移民庁の広報官はインタヴューの冒頭でそう切り出した。  スウェーデン移民庁は移民及び難民政策を扱うスウェーデン労働市場省の内局に位置し、移民と難民に関する実質的な実務を行う管轄省庁である。

 ほぼ全土を森林と湖沼群で覆われ、ろくな耕作地も無いスウェーデンはかつて欧州でも最貧の農業国であった。
 それは第一次世界大戦の前までは生まれたばかりの新生児の死亡率が欧州でもトップクラスであったことからもその貧しさぶりがうかがえる。
 多くのスウェーデン農民は不毛の耕地を捨て続々と北米などに新天地を求めて移住していったのである。

 スウェーデンにおいて移民がはじめて移出超過から移入超過になったのは1930年代の終りのことである。
 当初はアメリカなどからの出戻りのスウェーデン系移民が多かったが、両次大戦前後の国際政治の激動期を反映して、ロシアから革命を逃れたロシア難民、ナチスの迫害から逃げてきたユダヤ人、北欧のレジスタンス、ソ連の併合に反発したバルト三国や共産化を嫌う東欧の人々などが、40年代前半だけで20万人以上も流入してきたのである。

 第2次大戦後の欧州大陸の戦禍による荒廃は、ある意味で無傷のスウェーデンにとっては経済成長の大きなチャンスであった。
 この頃からスウェーデンは荒廃した大陸諸国に復興のための資材を提供する輸出国に変貌、今日の通商国家スウェーデンの礎を築くことになる。
 このことが遠因となってスェーデンの「移民受入れ史」は戦禍による難民の時代から急激な経済成長で必要となった労働力不足を補うための移民労働者(経済移民)の時代に入るのである。

 1950年代、スウェーデンは外国人法に北欧市民特別条項を設け、まず北欧諸国の市民に自国の労働市場を開放。
 47年からハンガリー、イタリア、オーストリアとの間で二国間協定にもとづく移民労働者の受け入れを行う様になった。
 その後も「黄金の60年代」といわれた高度経済成長を背景に、トルコや南欧諸国から事実上ほぼフリーハンドで政府や大企業が移民労働者を受け入れ続け、実際気づいて見ると1951年から66年の期間に実に約46万人の移民がスウェーデンに移住していたのである。

 しかしこの様な状況は、スウェーデン経済にようやく陰りが見えはじめた70年代、多数の移民労働者の存在に危機感を持った労働界とその労働界の意向を受けた社会民主党政権によって、その後よって大きく転換される。
 1971年のユーゴスラビアでの募集を最後に移民労働者の組織的移入は停止され、翌72年には単純労働者の移民は禁止されたのである。
 こうしてスウェーデン経済の悪化とともに「移民受入れ史」の第二段階、労働移民(経済移民)の時代は幕を閉じたのである。

 そして現在、再びスウェーデンを襲っている移民の大きな波の主役は、冷戦の崩壊によって頻発しはじめた地域紛争が生んだ「大量(戦災)難民」である。
 89年の湾岸戦争後のクルド難民をかわきりに、旧ユーゴスラビア(ボスニア)難民、ソマリア難民、ルワンダ難民、ブルンジ難民などなどスウェーデンをめざす戦災難民は枚挙にいとまがない。

 特に93年は、この年だけで約8万人の庇護希望者があり、前述のスウェーデン移民庁も職員を5000人に増員し24時間体制で難民審査にあたったそうである。
 もはやこの状態を見るにつけスウェーデンは、「移民受入れ史」の第三段階に突入したのだと、移民政策関係者は一致した認識を持っているようである。

 スウェーデンには以上の様に常に国民一人一人が難民や移民と向き合ってきた長い歴史がある。
 それは欧州における武装中立国家としての長い伝統の副産物であり、戦後の急激な経済成長と高度な福祉社会の副産物ともいえるのである。

 それ故に海外においても難民たちのスウェーデンに対する人気は高い。
 昨年(1994年)夏にクロアチアのボスニア難民キャンプを訪れたおりにも、今年ケニアの難民キャンプを訪れた折にも難民たちは再定住の希望国としてその大多数がスウェーデンの名を挙げていた。
 スウェーデンは毎年1万人以上の難民を受け入れているが、その枠に洩れた難民たちもあの手この手で入国を試みるのである。

 その手口の中で今一番スウェーデン政府の頭を悩ませているのが、アフリカなどから何もわからない幼い子供だけを飛行機などで先にスウェーデンに送り込みその子供がスウェーデン政府の手で保護されスウェーデンの市民権を得たあとで親として名乗り出て、あわよくば自分も親権を楯に定住しようというやり方である。

 難民の家族と暮らす権利を逆手にとったやりくちだが、インタヴューした難民審査官の話だとこういうケースが年間2000件以上もあるそうである。昨年12月には難民レセプションセンターの史上最年少記録の生後10ヶ月程度の乳児が当惑した空港警察の手でセンターの当直審査官に届けられた。
 10ヶ月の乳児が一人で亡命してきたとでも言うのだろうか?
 さすがに業をにやした移民庁と外国人委員会は難民の家族呼び寄せに関する規程を一部変更、上記の様なケースに対しては問答無用で後から名乗り出た親ともども強制退去処分にすることに決めたようである。

 「私達は基本的に難民の亡命する権利を認めています。しかし難民審査の現実が難民だと主張する人々の90%以上が実は難民でもなんでもなく難民の保護制度を利用してスウェーデンでいい暮らしをしようと考えてる人々なのです。
 こうゆう人々の存在が、国際的な難民の保護システムを機能麻痺においこみ真に保護を必要としている人々にまで欧州各国が背を向ける一因をつくらせているのです。」
と、上記の審査官は怒りをこめて悪質な偽装難民の存在について非難している。

 難民を引き受ける以上は責任を持って受け入れたい。できるかぎり一般のスウェーデン人と同じ権利を認め、同じ生活水準を保証したい。
 そういうスウェーデン政府の善意が今は裏目にでて、スウェーデンの模範的な難民の保護システムそのものが皮肉にも世界中の難民をひきつける原因となっているのである。

 1995年1月、スウェーデンは隣国フィンランドとともにEU(欧州連合)第4次加盟国となった。
 加盟申請の是非を問う国民投票で賛成派はかろうじて過半数を制したわけであるが、とりわけ農村部では賛成派はおしならべて劣勢であった。
 スウェーデンにおいて加盟反対派が根強い主な理由は、伝統的なスウェーデンの福祉政策や消費者政策や環境政策、少数者の権利擁護についてEUの規制が影を落すことになるからである。

 特にスウェーデン国内の移民や難民と政府の移民政策関係者の間には、歴史的に寛容なスウェーデンの移民難民政策と特に英仏など欧州諸国の偏狭なそれとはあいいれないものがあることを敏感に感じとっているのである。

 EU加盟国の間で将来共通の移民政策を作っていくとするならば、それは確実に英仏など外国人の流入に過敏な他の欧州諸国のスウェーデンに対する圧力となりかねない。  スウェーデンがサンテール氏率いる新欧州委員会の移民政策担当委員に自国のアニタグラディン女史を送りこんだのもそういう危機感のあらわれである。  スウェーデンは今「難民受入史」の第4段階をどう自ら描いてゆくか新たな苦悩の時を向かえている。

1995年7月 執筆
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