論考

Thesis

『日本と日本人を考える』で「北海道と北海道民を考える」

松下幸之助塾主は、「国民性」を知り、生かしていくことに、国内の諸活動成功の秘訣があると説いている。この考え方を基に、自分の活動拠点である北海道を開拓使時代から見つめなおし、北海道民性を考察し、これからの北海道がどうあるべきか、その足がかりを見つけたい。

1 はじめに ~塾主は何故、日本と日本人を考えたのか~

 今回、歴史観レポートを作成するに当たり、政経塾から指定された課題図書は、『日本と日本人を考える』という、松下幸之助塾主の著書であった。この著書は、人間の本質について考察された『人間を考える』の第二巻として発行されたものであり、日本の伝統精神を中心に、改めて、自分たちの国と自分たちの特性について語っている。

 この著書の中で塾主は、国内で行われる諸活動について、まずその国の国民性というものをあるがままに認め、これを適切に処遇し生かしていくことが重要であると述べる。特に、政治については、人間共通の普遍性の部分と、この国民性の部分が共に十分に生かされて初めて円滑な国家運営が可能であると考えている。

 塾主は、特段政治に密接に係わってきた人ではない。真の企業人であり、現代風に言えば、カリスマ中のカリスマ経営者である。幼少期から晩年に至るまで、日々、商売という世界から人間を見つめ、人間の本質を見極めようとしてきた。「どうすれば商売が上手く運ぶのか」を突き詰めた結果、「人間とは何か」を知る必要性に気付き、人間の普遍的部分について考察をし、さらには、国民性が重要であるという結論に達したのであろう。まさに、実践哲学の結果として、この著書は、私たちに対し、国民性の重要さを説いているのだ。

 私の政経塾での生活も4月から2年目に入り、いよいよ個別研究活動が始まる。研究テーマは、「北海道振興」だ。私の地元である北海道を何とか盛り立てたいと色々頭を絞っているうち、最近、自分自身に足りないものがあることに気付いた。それは、「今後、北海道をどうしたいのか」という大枠のビジョンが無いということである。各論としては、色々挑戦したいことはあるものの、「北海道全体でこうあるべきだ。」という大枠からの観点が抜けていた。そのような状況の下、この著書で塾主の考え方を知り、まずは、北海道という地域の地域性を探る必要があるということに気付いた。

 この課題の趣旨を考えると、本来であれば、著書を読み、日本という視点を前提とした内容に即して持論を展開すべきなのであろう。しかし、今回、自分に最も重要なことに気付いた私としては、どうしても北海道に触れざるを得ない。

 以下の章では、北海道の開拓史を見つめ直すことで、「北海道と北海道民」を改めて考察し、塾主のいう国民性ならぬ「道民性」を探ろうと思う。さらには、塾主が著書の中で述べている日本人の国民性と「道民性」を比較検討することを通して、日本という国と北海道が今後どうあるべきかを探りたいと思う。

 既に亡くなられたものの、著書を通じて、まるで生きているかのごとく、私たち政経塾生にチャンスやヒントを与えてくれる塾主に感謝しつつ、本題に入りたい。

2 そもそも論から始めよう…北海道の歴史

(1)北海道のはじまり

 我が故郷であり、今後の個別研究対象となる北海道について触れることから始めたい。まずは、塾主にならって、北海道の歴史的背景を中心に、特に重要と思われる開拓使時代の特質について簡単に考察してみたいと思う。

 北海道がいつ「北海道」となったのかをご存知だろうか。

 北海道は、開拓使設置と同年、1869年(明治2年)に、「北海道」として誕生した。それまでは蝦夷地と呼ばれており、和人と呼ばれる本土からの移住者が、主に松前藩を中心に道南の和人地区に居住し、それ以外の地域には、土着のアイヌ民族集落があって、そこは幕府の管轄外の地とされていた。全島のほとんどが幕府の関与してない土地だったことになる。しかし、幕末の頃から、樺太におけるロシアの南下が問題化、日露間の国境問題「北地問題」が急浮上し、維新後の政府の最重要課題の一つとされた。これに対応すべく、蝦夷地が日本国家の領土であり、アイヌ民族を含む居住者も日本国民である旨を宣言する必要性が高まり、「北海道」が誕生したのである。

 ちなみに、何故、他の都府県と違い、「北海道」と称せられるのか。その由来は、開拓使設置と同時期に、蝦夷地開拓御用掛に任命された松浦武四郎の案に基づく。まず、「道」は、日本古来の地方行政区画である五畿七道から取られた。これに、松浦が付けた道名(行政区画)の1つである、「北加伊」を接合した「北加伊道」が語源である。「加伊」とは、アイヌ語で、「自分たちのくに」を表す。「加伊」を「海」と置き換え、最終的に「北海道」となった。

 こうして、同年8月15日、明治政府は、蝦夷地の正式名称を北海道とし、道内を11カ国86郡に画し、以降、国の直轄として本格統治を始めることになる。このときの国郡区画が、現在も、北海道内の行政管轄区として使用されている支庁区画の基となっている。

(2)北海道開拓史

 このように誕生した北海道では、明治政府の「富国強兵」と「殖産興業」のスローガンの下、開拓政策が推進されていく。明治政府にとって、北海道は、前述のとおり、南下政策を執る対ロシアのための要地であることはもちろん、未開の農地適地や豊富な天然資源等が潜在する、国力増強・国益に大いに役立つ地域として、認識されていた。1870年(明治3年)、黒田清隆が開拓次官に任命されると、樺太視察にを行って改めて北海道開拓の重要性を再認識し、翌年「開拓使十年計画」と呼ばれる、10年間で1,000万両もの開拓予算の支出を推進する。国による直轄開拓の本格化である。以降、開拓使は、筆頭顧問としてアメリカ合衆国農務省長官であったホーレス・ケプロンを招いた外、たくさんのお雇い外国人を技術者として招き、地勢・気候・地下資源・測量等の調査を実施、その結果が、開拓方針として打ち出された。

 調査の結果、彼らは、北海道に自然環境面でかなり優位な条件が整っていることに注目する。単純なる原料の供給地や当時の帝国主義下での植民地のような商業的搾取地とするのではなく、開拓によってこの地を高度な産業先進地として、自立する地域とするという方針を立てた。この方針の中には、洋式農法の導入や炭鉱開発、民間資本投入による開発等、現在の北海道においても必要性が認められるものもあることから、調査がかなり綿密に行われていたことがわかる。

 産業政策だけではなく、積極的な移民政策も行われた。北海道への移民というと、明治維新により大量に発生した失業士族を救うための士族移民や、ロシア南下に備え、黒田清隆により設立された屯田兵が有名であるが、本格的に移住が推進されたのは、「開拓史十年計画」終了後、開拓使が廃止され、国の新たな役所として北海道庁が設置(1887年)された拓殖計画以降である。ちなみに、私の祖先もこの頃に青森県から移住している。その大半は、開墾が目的の農家単独移住であった。このように、国策として移住が促進されることで、人口も増加安定し、北海道開拓に寄与したことは言うまでもない。

 ここまでが、開拓使を中心とした主な北海道開拓史である。

3 北海道は日本であるべきなのか…

 以上のような北海道開拓史を考察する中で、私の中の歴史観が変化した。

 これまでの私は、将来、北海道は北海道国として独立すれば良いと考えていた。バブル崩壊後の北海道は、東京から見放されお荷物扱いを受け、北海道開発庁は廃止され、公共事業頼りで何の知恵も持たないと揶揄され続けている。良いところがたくさんあるにも係わらず国全体から認めてもらえず、植民地の如く扱われる様子を見て、日本にとって不要の地なのであれば、独立して自分たちで好きなように自治した方がましなのではないかと考えていたからだ。

 しかし、北海道開拓史を見ると、あながちそうとも言えないことに気が付いた。明治政府の要人達は、北海道の魅力にいち早く気付き、日本の先進地域として開発することに尽力していた。本土から移住してきた多くの人達も、厳しい環境であるにも係わらず、夢や希望を持って開墾し続けていた。彼らの努力があるからこそ今の北海道があるということを、改めて強烈に認識させられた。

 開拓時代に生きた人たちが、何故、そんなにも北海道という地で頑張れたのか。思うに、日本という国の中の「北海道の役割」が明確に存在したからである。それは、欧米列強を中心とした世界の国々に対し、日本が自主独立の国であることの象徴として、北海道が先進の大地となるという役割である。今では考えられない壮大な役割だ。北海道は「外地」と思われ、開拓も二の次とされていたと感じていた私にとって、このことは驚きに値し、勉強不足であった自分が恥ずかしくなった。歴史を紐解けば、北海道は、近代史以降の日本の象徴であった訳で、まさに日本の中の日本であったことになる。

 しかし問題は、その役割が未だ達成されてはいないということだ。達成が困難であるから諦めたのではなく、時の経過と共に、その時々の状況に流され、道民自身がこのことを忘れてしまい、そして、日本という国も、北海道の役割を忘れてしまった。このことが、現在の北海道が抱える様々な問題の根本にあるように私は感じた。

4 北海道民は開拓者精神を失ったのか…歴史考察から見た「道民性」

 では、北海道民は、開拓時代の勇猛果敢な精神を失ってしまったのか。私は失ったのではなく、あくまで状況の変化に伴い、「忘れてしまった」と解している。

 開拓当時、北海道開拓は主に官主導で行われた。開拓方針を策定したケプロンらは、民間資本の投入を積極的に打ち出していた。しかし、明治維新という劇的な変革の直後は、国内の民間資本もまだまだ力不足であり、黒田清隆ら政府要人は、国の直轄による開拓の道を選択した。開拓の即効性の見地から見れば、それは正しい判断であったように思う。しかし問題は、国内の民間資本にそれなりの力が備わってきた以降も、北海道開拓が戦後の北海道開発まで、一貫して官主導で行われたことにある。

 これは私の推論に過ぎないが、恐らく、ある一定程度の開拓が進み、生活がそれなりに安定してくる中で、政府の官主導政策が変わらず推進されれば、北海道民が、何でも国がやってくれると思うようになることに何の不思議も無い。自らやらねばならないことが減り、やってもらえることは減らないのであるから当然だ。まさに、中央依存体質が綿々と残り続ける、現在の北海道の状況は、ここに端を発していると考えるべきではないだろうか。

 一方で、国の北海道への対応にも問題がある。日本に経済力がついた以降も、官主導で北海道開発を進めたことは間違いであった。日清戦争以降、日本は対世界戦略として、軍事力による自主独立路線を採った。このことにより、開発という手法によって自主独立の象徴とするはずであった北海道の役割が消滅してしまった。このときに、国は新たな北海道の役割を構築すべきであったが、それをせず、一方で当初からの官主導という部分のみは残してしまった。役割が不明確になった北海道には、単に依存体質だけが残ってしまった。これが、現在の道民性の負の部分を象徴しているのである。この状況が変化さえすれば、恐らく、道民自身が生き生きと、開拓時代の精神を取り戻すことになるのではないだろうか。

 ただし、道民性を考える場合、負の部分ばかりを見てはいけない。開拓時代の精神として、忘れ去られていない部分もあるように思う。それは、広く日本人にとっても重要な国民性として、塾主が挙げておられる「衆知を集める」・「和を貴ぶ」という精神が、特に得意という点である。私たち道産子の祖先の多くは、開拓時代、何らかの形で本土からやってきた移住者である。その多くは農業に従事し、開拓に当たって大きな役割を果たした。彼らは、開拓使により導入された洋式農法を取り入れつつ、本土時代から実践していた旧来型の農法をこれと融合させ、改良して独自の北海道農法を確立していった。まさに、衆知を集めつつ、主座をも保つ精神を実践していたのが、開拓民なのである。北海道が本土とあまりに自然環境が異なることから、あらゆる分野において衆知を集める必要があった。このことが、恐らく、現代の北海道民気質の1つである「新らしもの好き」に繋がっているように思う。そもそも、何もないところから自力でスタートした大地であるから、新しいものが導入されることに、あまり抵抗感が無いというのが道民性の良い点といえる。

 また、ほとんどの居住者が移住者であること、そして経済基盤も弱かったことから、和を貴ぶことも実践されていた。互いに協力しなければ生きることのできない厳しい環境の下であったためである。今でもこの精神は残っており、新住民に対して抵抗が少ないという道民性に繋がっている。

 これら道民性の良い面、悪い面を考慮しつつ、歴史的な背景や自然環境を生かして、北海道の新しい役割を構築することこそが、これからの北海道振興にとって最も重要であると私は考えている。そのためには、開拓使が行ったように、今一度北海道を見つめなおす作業を早急に行わなければならない。

5 「試される」のはもうご免…どうするこれからの北海道

 では、これからの北海道の役割をどのように構築していけば良いのか。これはかなりの難題である。実は私自身、まだその答えには残念ながら達していない。2年次以降の個別研究の中で、実践を通して確固たる役割を探っていきたいと考えている。

 しかし、今回のレポートを作成する中で、いくつかヒントを得ることが出来たので、ここで紹介したい。

 現在、北海道が自身のキャッチフレーズとして使用しているものに、「試される大地 北海道」というのがある。このフレーズには、賛否両論あったが、北海道の捨て身のやる気を表現したものとして、今でも使用され続けている。

 「試される」という言葉について、読者はどのような感想を抱くであろうか。開拓史を見ると、北海道がまさに「試される大地」であったことは明白である。但し、この時点では、北海道には事実上、何も無かったことを忘れてはならない。しかし、今の北海道は違う。開拓、移住以降、既に100年以上が経過しているのだ。そこには、固有の歴史や文化が存在している。一方的に‘試される大地’であってはならず、自主性を持って、「挑戦する大地」でなくてはならない。開拓時代の人たちが現代も生きていたら、お雇い外国人を連れてくるのではなく、恐らく自分たちで工夫して北海道の役割を見出していただろう。そのことを踏まえて、今後の北海道の役割を考えていく必要がある。

 また、役割を考える上で、開拓使時代以降の北海道史を今一度見直すことも重要である。単に、北海道庁や北海道開発局という役所が見直すというのではなく、北海道民全体がその内容を見直す必要があるということだ。

 恐らく、多くの道民が、北海道がどのようにして出来たのかを知らないと思う。小学校の郷土史では、地域の歴史は多少習っても、北海道史はほとんど習わない。中学校以降の歴史の時間でも、北海道史といえば、箱館戦争とシャクシャインの戦いくらいしか習わない。これでは、昔の人たちが、いかに北海道を重要な土地として考えていたかが全くわからないことになる。潜在的に植え付けられている北海道に対する負のイメージを払拭するため、「北海道はダメじゃない」ということ、そして日本の一員として重要な役割を担ってきたことを、もっと道民自身知る必要がある。それを知った上で、開拓時代の開拓政策同様、自立した地域となるべく、道内各地の地域政策を構築していく必要があるだろう。

 さらには、それらの地域政策を構築する際、開拓時代には重要視されていなかった分野について、新たに認識を深める必要がある。時代背景の変化に対応した役割を構築しなければならないからだ。開発優先のため目をつぶらされていた自然環境の保全はもちろん、確固たる中央集権体制を確立するために蔑ろにされた、北海道土着の独自文化であるアイヌ文化や、オホーツク文化にもしっかりと目を向ける必要がある。これらの分野を融合することで、新しい北海道の価値を創造することが出来、これを基にした北海道の役割の構築は、足腰の強い、素晴らしいものとなるに違いないからである。

 今回、このレポートを課せられたことによって、以上のようなヒントを得ることが出来た。まさに、塾主が「国民性を知る努力」を求めた理由がここにある。今後の個別研究の中で、北海道史をしっかりと見つめ直し続けたい。

 最後に、塾主が著書の中で述べていることで、私の大好きな部分があるので紹介したいと思う。

「この日本の国には一億あまりの人がいます。その一億の人は、それぞれ顔かたちもちがえば、好みもちがう。職業にしてもものの考え方にしてもいろいろさまざまです。一億人が一億人みなどこかしらちがっているといってよいでしょう。けれども、その一億人がみな、自分の意思によらずして、日本人として生まれてきたという点において、いわば共通の運命を持っているとも考えられます。(中略)われわれが日本人であること、そしてそれは一つの運命であることをしっかりと自覚し、そこからよりよい日本の姿、国の姿を生み出していこうという共通の心がまえを持ちたいものだと思います。」

 日本という国を考える場合同様、北海道という地域を考える場合も、この塾主の考え方が重要である。北海道という土地に生まれたのは、まさに運命であり、北海道民は、そのことに自覚を持ち、よりよい北海道の姿を構築しなければならない。私自身、その一翼となれるよう、今後の研究活動をしっかり頑張りたいと思う。

【参考文献】

松下幸之助 『人間を考える第二巻 日本の伝統精神 日本と日本人について』 PHP研究所
㈳北海道開拓記念館・開拓の村文化振興会
『北海道開拓記念館 常設展示解説書4 近代のはじまり』
関秀志/桑原真人/大庭幸生/高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』
北海道新聞社
田端宏/桑原真人/船津功/関口明 『県史1 北海道の歴史』 山川出版社
和野内崇弘 『北海道の宿題』 海豹舎

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石井あゆ子の論考

Thesis

Ayuko Ishii

松下政経塾 本館

第27期

石井 あゆ子

いしい・あゆこ

衆議院議員政策担当秘書

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真の住民自治の確立、北海道振興、地域再生

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