Thesis
松下幸之助塾主が提唱する人間観の特徴である「万物の王者」論について、塾主の生い立ち等を起点に、自分なりに考察した上で、自らが現在有する人間観である「死を踏まえた生物論」と比較し、人間とはどうあるべきかを考える。
「松下政経塾生とは、一体、何をしている人たちなのであろうか」
普通の人ならば、誰もが抱く疑問である。大抵の人は、憶測で、ひたすら政治や経済の勉強をしている集団と思っているのではないだろうか。活躍されている有名な卒塾生を見ても、頭脳明晰且つ理論派、スマートな印象で受け止められている人が比較的多いように思うからだ。私自身も、政経塾の当事者になるまでは同様のイメージを抱いていた。
しかし、実際に入塾してみて、大変驚いた。何故ならば、政治学や経済学といった、学術的あるいは技術的な研修よりも、「人間とは何か」を勉強する研修が非常に多かったからである。政経塾の設立者である松下幸之助塾主が、「羊飼いは羊を知らねばならない」という理念の下、為政者たるもの人間を知るべきであると考えていたからだ。
よって、政経塾生は、入塾すると様々な研修を通じて、人間の本質とは何かを学ぶ機会を得る。特に、塾主研究等において、今回の課題図書である『人間を考える』という著書を読み、塾主が提唱する「新しい人間観」とは何かを考察する。
約1年間にわたる考察の中で、塾主の考える「新しい人間観」に対し、私は1つの疑問を持った。それは、本当に「人間は万物の王者なのか」という疑問だ。「人間は、それほどまでに立派な存在なのか」「自分自身は、万物の王者足り得ているのか」という疑問が最後まで拭えなかったのである。
今回のレポートを作成するに当たり、この疑問に対する答えを見つける機会と捉え、塾主の考える人間観を改めて考察するとともに、自分自身の持つ人間観と比較することで、本来、人間のあるべき姿とはどういうものなのかということを探求してみたいと思う。そして、そもそも「人間とは何か」ということについて、自分なりに整理してみようと思う。
『人間を考える』の冒頭で、塾主は「新しい人間観の提唱」を行っている。その内容は、大筋で次のとおりである。
「人間は、絶えず生成発展する宇宙の中で、万物の王者として、いっさいのものの本質を見極め生かし、自身が繁栄していく存在である。このことは、自然の理法によって与えられた人間の天命であり、よって人間は偉大で崇高な存在である」
この「新しい人間観の提唱」を読んだとき、正直、私は何とも言えない違和感を持った。それは、この内容を単純に理解すると、人間が、宇宙の中で最も優れた生物であり、偉大な存在であるという意味に読めたからである。自分自身、人間をそこまで優れていると感じていないばかりか、これまでの人生や今の世の中を見ても、戦争で人間同士が殺しあったり、環境を破壊したりと、人間が、とても「万物の王者」としての行動をとっているようには思えなかったからである。つまり、この塾主の「新しい人間観」とは、人間という存在から一方的に見た、傲慢な人間観なのではないかと率直に感じたのである。
しかし、この私の考え方は、塾主がどのような人間であるかということを何も知らず、安易に字面のみで理解したものに過ぎないことに後々気が付くことになる。
塾主がこのような「新しい人間観」を考えるに至ったきっかけは、先の大戦での敗戦にあった。本来、人間は誰もが幸せになりたいと願っているにもかかわらず、その行うところの結果で不幸になってしまうのは何故なのか。幸せになれると思い、戦争をしたにもかかわらず、これまで経験したことがない程の悲惨さを招くことになった原因は何なのか。
塾主は、その原因が、人間自身が人間を把握していないことにあると考えるようになり、それまでの哲学や宗教で述べられていた人間観とは全く違う、新しい人間観の研究を始めた。その結果が、「人間は万物の王者である」ということであったのだ。
つまり塾主の人間観のスタートは、人間の負の部分が原点となっているのである。それは、「新しい人間観の提唱」の中の後段部分にある、現実におけるここの人間の姿のことであろう。人間は、とかく個人の利害等に気を取られてしまう。それが人間の弱い部分(負の部分)であり、これを克服するために挑戦していくこと、即ち、人間自らが自分たちの天命を自覚し、実践することこそが、人間が万物の王者たる所以であると塾主は考えたのである。
このことについて、自分なりに整理すると、塾主は恐らく、人間を考える中で、「責任」の部分に弱点を見出したのだと思う。生きとし生けるもの、宇宙におけるあらゆるものについて、人間がその存在を把握する力を持っているにも係わらず、その存在に対して「責任」を伴った行動を起こすとは限らない。たった1人の人間のちょっとした行動であっても、他のものに(人間を含め)多大な影響を与えることを常に自覚させるために、あえて塾主は、「万物の王者」としての自覚を私たちに持つよう唱えたのではないだろうか。
そして、この「責任」の伴った行動を人間がとるように促す手段として、常に「礼の精神」を持ち、「衆知を集める」ことを怠らないよう助言している。
敗戦から、個々の人間の弱さを知り、二度と悲惨な状況を生み出さないようにするために考え出されたのが塾主の人間観の基礎であり、私が当初抱いていた人間への傲慢な評価に基づく人間観とはちがうということを、様々な研修や著書を通じて理解した次第である。
さて次に、現在、自分自身が持っている人間観について触れてみたい。
私は人間を考察する上で最も大切なことは、「死」という視点だと考えている。「生」という状態は、「死」という状態と常に隣り合わせであって、このことを自覚することで、人間は人間自身の価値を理解することが出来ると考えているのだ。
私がこのように考え始めたきっかけは、自分自身の姉の死にある。それまでは、身近な人の死を全く経験したことが無い中、突然、死ぬとは微塵も思っていなかった姉がなくなってしまい、「人間は死ぬのだ」ということを改めて自覚させられたことに端を発する。年齢が若いと気が付きにくいが、自分自身も必ず「死」を迎えることを忘れてはならず、その「死」も、いつ訪れるかわからない。であれば、今、生きている一瞬一瞬を、悔いの無いように精一杯生きること、それが人間の価値であり、人間の使命であると考えている。
そして、この考えは、人間に限ったものではない。生きとし生けるもの、命あるもの全てが同様に「死」と隣り合わせである。これら全てのものも、一瞬一瞬の「生」を尊重する義務を負うと考える。故に、人間もこれら全てのものの「生」に対する尊重を怠ってはならないというのが、私の人間観である。
動物や植物を見ていると、常に生きるために懸命であることがわかる。あなたは、生きていることをサボっている動物を見たことがあるだろうか。自然の流れという、誰もが手を出すことの出来ない宇宙における法則の中で、調和し共存していくため、彼らは常に全力で生きている。恐らく、人間だけが、この自然の流れに歯向かい、楽をして生きることを実践する生物であろう。であるからこそ、改めて「死」に対する認識を持ち直す必要があると、私は考えているのだ。これが、私が現在有する人間観である。
では、次に、前述した塾主の人間観と自分自身の人間観を比較してみたいと思う。
両者を比較して、大きく違う点は、やはり人間を「万物の王者」として捉えるかどうかであると思う。但し、私の解釈によれば、塾主も人間の負の部分からこの考え方を導きだしているので、その点では私と同調していると言える。しかし、あえて「万物の王者」と表現すること、人間を崇高な存在であるとすることに対し、やはり私は違和感を持たざるを得ない。
私の考える人間観は、「生」と「死」、つまり命を基準として世界を捉えるため、あえていうのであれば、禅の思想である「自利利他」という考え方に近い。生物の存在そのものに差異は無いことが基本である。全ての存在が崇高で尊重しあうものであると考える。
塾主は個々の人間の弱さ、人間の負の部分の解決方法として、人間を自然の理法から選ばれた存在とすることを選択したが、私はその解決方法として「死」の存在を選択した。恐らくその点が、私の中にある塾主の人間観に対する違和感を生んでいるのであろう。
では、この違和感は拭い去るべきなのか。私は現時点で、そうとは考えていない。大切なことは、どのような考え方にしろ、人間が自分自身の存在に責任を持ち、生きていくことにあると思うからだ。
人間観といっても、塾主や私が持っているものだけがそれである訳ではない。恐らく、人それぞれ、万差億別の人間観があるはずだ。重要なのは、人それぞれが、「考える」ことである。その点において、塾主がPHP活動の中で、「新しい人間観」を提唱したことは、大変に意義のあることだと思う。
最後に、これまでの考察を踏まえて、人間観を考える意義について、改めて考えてみたいと思う。
塾主は、前述したとおり、敗戦の経験から人間が何であるかを改めて考え直す必要性に迫られたと述べている。しかし、私は、これまでの塾主の様々な著書を通じて、それだけが原因では無いと考えている。
塾主は、幼い頃から家族と離れ、商売という世界で身を立ててきた人である。お金という媒介の絡む、まさにリアリティのある世界で、人間の汚さをたくさん見てきたのだと思う。故に、敗戦での経験はきっかけに過ぎず、恐らく、塾主の中には、その時点で既に「新しい人間観」を生むための素地があったように思うのだ。塾主の人間観を考察する上で、最も重要なことは、むしろ商売を通じて人間をどう捉えていたかということではないだろうか。
であるならば、塾主は商売を通じて人間をどう捉えていたのか。私が思うに、恐らく塾主は、人間は結局、1人では生きられないということを心底実感していたのではないか。お互いの存在があるからこそ、商売も成り立ち、人間は生きていける。それは、店主とお客の関係でもあるし、店主と従業員の関係でもある。つまりは社会全体に存在するあらゆる関係においてである。これら人間間の関係を上手に運ぶためにはどうしたら良いのか。このことが、塾主の人間観の最も根幹のところであると私は考える。
「人間とは何か」という課題に対する答えは、恐らくたくさんあるに違いない。その答えは、たくさんの哲学書や週休の考えにも書かれている。しかし、この課題に対する答えを導き出すことで大切なのは、自らの経験から、実践哲学として、自分なりの人間観を作り上げる過程にあるのではないだろうか。
色々な経験をすることで、様々な意見に触れ、それらを基に、内省・自省を繰り返し、新しいに人間観を作り上げることにこそ、人間の価値があると思うのだ。そのためには、塾主が提唱している「礼の精神」や「衆知を集める」ことが重要であることを忘れてはならない。
私自身、今回のレポートを通じて整理できたこの考え方を踏まえ、これからの政経塾での研修を通じて、さらなる人間観の練磨に精進したいと思う。
【参考文献】
松下幸之助『人間を考える』PHP文庫
松下幸之助『若さに贈る』PHP文庫
松下幸之助『素直な心になるために』PHP文庫
養老孟司 『死の壁』新潮新書
養老孟司 『まともな人』中公新書
Thesis
Ayuko Ishii
第27期
いしい・あゆこ
衆議院議員政策担当秘書
Mission
真の住民自治の確立、北海道振興、地域再生