論考

Thesis

日本の伝統精神 ~北海道開拓から探る、真のフロンティア精神~

「開拓者精神で頑張れ!」北海道で良く聞く言葉である。しかし、開拓者精神とは何なのか?北海道には、本当に昔から開拓者精神が根付いていたのか?明治の北海道開拓以降の開拓者精神の変遷をたどることで、現代日本に必要な精神を考える。

Ⅰ 明治以降の北海道開拓の現実

 日本において、北海道を特別な存在として開発するようになったのは、歴史をひも解くと、明治政府の富国強兵・殖産興業による国力増強の時代にさかのぼる。当時は、北海道開拓という名で推進されていた。

 その目的は、一つは、シベリア開発以降、樺太まで迫っていたロシアの南下政策に対する防衛であり、もう一つは、欧米列強に対抗するために、国内で急速に資本主義を育成するため、多くの天然資源が眠る北海道を開発し、国家の経済的国力を高めるためであった。

 この目的を達成するため、明治政府が最初に立てた北海道開拓に関する構想は、藩閥政治と直に結びついた開拓使を設置して、莫大な国家予算を基に、政府の独占支配と直接的な保護により、開発を進めるというものであった。

 その国家方針に基づき設置されたのが、屯田兵制度である。屯田兵は、半農半兵の組織であり、対外的には、国境警備が任務であるが、対内的には、北海道の治安維持と土地の開拓が任務であった。一方で、本土で発生していた失業武士たちの受け皿としても期待されていたが、後に、明治憲法制定により士族政策が廃止されたため、平民層もその対象となり、増強されていくことになる。

 開拓の主役として期待された屯田兵だが、その開拓精神は、土地を自ら切り開き、新しい世界を構築するというようなアメリカ的フロンティア精神とは異なるものであった。政府は、屯田兵員及家族教令を公布し、平民屯田兵も含めて特権階級化を計り、従来からの封建的な武士道を用いて、天皇に忠誠を誓わせた。天皇を中心とした新たな明治政府の国家体制に最も適した臣民が屯田兵とされたのである。

 しかし、現実はそううまくはいかなった。実際に屯田兵となったのは、貧しい失業武士か農民であり、彼らはもともとの土地で食べていくことができなくなった人たちであった。政府が言うような都合の良い開拓精神を自ら担うためでなく、生きるため、食べるために移住してきたのだ。結果、政府が押し進める開拓精神の下で行われる、厳しい訓練や重労働についていけず、屯田兵制度が廃止されると同時に、屯田兵村を離れる者が続発した。

 明治政府のこのような北海道開拓への考え方、対応に対し、当時、疑問を投げかけていた人物がいた。それは、フロンティアの元祖ともいわれるアメリカからやってきた、ホレス・ケプロンらである。彼らは、北海道開拓に際し、農耕や牧畜、資源開発等に必要な技術や行政の仕組みを助言・指導するために日本に召集されたが、明治政府の開拓に対する考え方と母国アメリカにおけるフロンティアの考え方の違いにとまどいを持った。特に、屯田兵等明治政府の移民政策の内容について、アメリカ開拓の際に、自発的移民層が中心であったことと比較し、政府の保護を期待する貧困層が中心で、政府が強いて実施される移民では、開拓は成功しないと助言していた。結果、その後開拓政策で、ケプロンらが期待した自立心の高い自営農民等は、なかなか生まれてこなかった。

 1870年代に入り、明治政府の殖産興業政策が本格的に進められるようになると、北海道開拓に対する政府の直接投資も増大していく。これに伴い、開拓使の実施する様々な政策と財閥が結びつき、北海道内における政商による産業独占が進んでいく。自由な経済活動に伴う民間資本の発展は、当時の北海道では、ほとんど期待できる状況にはなかった。

 開拓使が廃止され、北海道庁が設置されると、それまで開拓政策の中心であった直接保護・独占支配は緩和され、官営工場は民間資本に安く払い下げられる。しかし、ここでも工業設備のみならず土地も含め、広く民間資本に払い下げられたのではなく、特権階級(皇室、華族、高級官僚、資本家等)に有利な形で処分されている。結局、当時の北海道開拓で得をしたのは、内地に暮らす特権階級の人たちであり、現地で実際に開拓した人たちの多くは、貧しい中を、政府による保護等にしがみつき、何とか生きている状態にあった。

 その後、日清・日露戦争を経て、日本はアジアに植民地政策を展開していくことになる。これにより、北海道開拓の意義は失われ、北海道に投入されていた資本も予算も、大陸へと移っていった。

 何故、今になって、このように、明治以降の北海道開拓を振り返ったのか。

 それは、現在、閉塞の真っただ中にある北海道を元気にするためにはどうしたら良いか、そのヒントが隠されているように思ったからである。

 現在の北海道では、様々な振興策に取り組む際に、「開拓者精神をふたたび!」というようなキャッチフレーズを用いることがしばしばある。しかし、この「開拓者精神」とは一体何なのか?突き詰めて考えることはほとんどない。ここに、これまでの北海道振興の甘さがあるのではないだろうか。明治政府が推奨していた開拓は、移民してきた多くの人たちに夢を与えるようなものではなかった。政府による過度な保護政策により、未開の地を切り開くという勇ましさは失われ、官に依存する体質を植え付けていた。北海道に本当の意味での開拓者精神が根付いていたとは、残念ながら言えないのだ。

 私たち北海道民は、この見せかけの開拓者精神を捨てなければならない。真の開拓者精神を持ってこそ、北海道の未来は開けるのである。

Ⅱ 一筋の光 ~日本のフロンティアマンたち~

 では、真の開拓者精神とは何なのか?
 フロンティアの本場、アメリカの精神を取りこまなければならないのか?明治以降の北海道開拓には、真の開拓者精神は、全く無かったのか?

 実は、明治以降の北海道開拓にも、現代を生きる私たちに大きなヒントとなる、一筋の光が存在した。それが、赤心社である。

 赤心社とは、1880年に、加藤清徳らにより設立された、北海道開拓を目指した会社であり、翌1881年に、現在の北海道日高支庁管内浦河町に移民を起こした組織である。

 赤心社の開拓者精神の根幹は、愛国意識であり、それに基づく同士としての結びつき、自主独立の精神にある。貧しくても、志のある同士が、国家権力や巨大資本に依拠することなく、少ない資本を持ちより労働力を提供し合うことで、自立資本・自立経営の開拓を推進し、ひいては、国家の衰運を挽回するまでの一大事業にまで発展させるという壮大なものであった。

 赤心社の開拓が実際にどのように進められたかを見てみたい。

 赤心社による第一回目の移民は、様々な悪条件が重なり、開拓だけで食べていくことができず、出稼ぎが必要となり、これにより、開拓のための作業は進まないという悪循環に陥っていた。この厳しい状況を目の当たりにした当時の経営者の一人、鈴木清は、様々な開墾用の機械を購入した外、移民たちを召集し、技術訓練や教育を積極的に施していった。志の高い赤心社の移民とはいえ、このころの移民の多くは、前述したように、政府の保護に慣れた者が多く、自主独立の精神があるとは到底言えなかった。そんな彼らを鈴木は気の毒に思い、心から信頼し、開拓にあたっての苦情等を真摯に受け止めつつ同士性を高めていった。

 第二回目の移住では、新たな地区の開墾をさらに進めた。一回目の移民の際に培った技術と経験を用いた結果、軌道に乗り始める。政府による経済政策の失策から、経営危機に見舞われることもあったが、着々と経営基盤を固めていき、企業として利潤を追求するまでに成長する。

 その後、私立赤心社学校兼キリスト教集会所や、移民の相互扶助及び共済のための組織である永命会等が設立される。これらは、会社に依拠せず、移民の一部有志が発起人となり、自発的に設立したものである。まさに、赤心社の開拓者精神の柱である、自主独立の精神が確立された結果であった。

 赤心社は、当初目指していた国家の衰運を挽回する程の発展を遂げることはできなかったものの、自分たちの力で未開の地に立ち向かっていったその取り組みに、本当の意味での開拓者精神を見ることができるのではないだろうか。

 恐らく、何もないところから新しいものを作り上げるときに、最も大きな原動力となるものは、「自発性」とそれに伴う「創造性」であると私は考える。これこそが、現在の北海道を改革するために、一番必要なものであり、赤心社に見ることのできる、真の開拓者精神ではないか。

Ⅲ 今、求められる新しい時代のフロンティア精神

 平成20年7月2日、北海道に激震が走った。福田首相が、北海道の公共事業を管轄する国土交通省北海道開発局について、地方分権並びに道州制の観点から、廃止に前向きな姿勢を示したからだ。

 平成13年に実施された中央省庁再編により、単独の大臣を設置できる北海道開発庁が廃止されて以降、道民の誰もがいつか来るのではとやきもきしていたところに、時の首相による爆弾発言が行われた。

 「とうとう開発局が無くなる…」
何とも言えない複雑な心境に、北海道は大きく揺れた。

 首相の発言の根拠となったとされるのは、地方分権推進委員会の委員である、猪瀬直樹東京都副知事の北海道開発局に係る私案である。私案の中で、猪瀬氏は、北海道開発局の度重なる談合等を指摘し、開発局内のガバナンスが機能不全となっており、組織自らの自浄作用では改善は期待できないと提言。北海道開発予算は従来通り確保したまま、地方分権により、北海道開発局の組織、人員を丸ごと北海道庁に移管することを提案している。

 このことを受け、北海道内は、とにもかくにも、開発局が無くなることに伴う影響について広く論じられた。それでなくとも減ってきている公共事業がさらに減るのではないか、6,000人弱もいる北海道開発局職員はどうなってしまうのか、北海道庁に開発局の代行ができるのか等である。

 私はこの一連の開発局廃止騒動を受け、上記の反応とは違う疑問を持った。
それは、「北海道開発とは何か」ということである。

 猪瀬氏の私案では、地方分権により、二重行政最たる例の開発局を整理し、行政の無駄をなくすことを目標にしており、開発行政そのものの必要性は検討されていない。しかし、北海道開発局の問題の本質は、単なる行政改革とは違うのではないかという疑問を持ったのである。北海道開発は、北海道内の行政に限られた問題ではなく、北海道民に限られた問題でもなく、日本国民が考えるべき問題であると思う。しかし、現在の日本国内で行われている北海道開発局に関する議論は、「北海道開発=公共事業=無駄が多い=廃止」という単純な構図に過ぎない。国家における地域開発の意義について、何ら議論されていない。

 現在の日本において、北海道を特別視し、開発していく意義は何なのか。ここがはっきりしなければ、北海道を特別に開発することに、何らの意味も無いのではないか。ここで注目したいのが、明治以降の北海道開拓である。明治政府は表向き、対ロシア政策と経済における国力増強のために、巨額の予算を投じ、北海道を開拓した。しかし、移民の自主性が無い開拓は、当初の計画のようにうまくいかず、一部の特権階級だけが得をすることになった。

 現在の北海道開発の意義が何なのか見定めることは、最も重要である。しかし、これを国が単独で決めると、明治以降の開拓のように結果を伴わないものになる。現に、北海道開発局が無くなる理由もそこにある。北海道開発局の根拠法である北海道開発法は、現在の日本の状況、北海道の状況に合っていないにも関わらず、そのまま用いられてきた。国に任せると、こういうことになる可能性が高い。また、立派な意義を見出せたとしても、開発による効果を一部の人間が独占してしまう可能性がある。中央政府という狭い範囲で決めるのではなく、広く国民一般に裾野を広げ、北海道を開発する意義を考えなおさなければならない。

 さらには、当事者である北海道、北海道民の開発に対する自発性も忘れてはならない。明治以降の開拓には、北海道に暮らす人たちの幸せの実現は、目的に入っていなかった。結果、政府による過度な保護政策により、移民の自主独立の精神は失われ、保護がなくなるとともに、多くの人たちが北海道を去った。この二の舞を踏んではならない。北海道を開発し、そこで暮らしていくのは、私たち道民である。私たちにやる気がなければ、北海道開発をする意味はない。今こそ、本当の意味での開拓者精神を呼び起こし、私たちは前進しなければならない。北海道をこれからどうしたいのか、北海道はもっと自分から全国に発信していかなければならないのである。

 これらの取り組みができて、初めて、北海道開発行政の改革が進むのではないだろうか。そして、北海道開発行政の改革は、北海道以外の地域、地域再生にも必ずや役に立つはずである。これからの地域開発には、国と地方が一体となることが重要だ。北海道開拓の歴史から学び、現代に合った新しい開拓者精神が全国に広まるとき、日本は再生すると私は信じている。

Back

石井あゆ子の論考

Thesis

Ayuko Ishii

松下政経塾 本館

第27期

石井 あゆ子

いしい・あゆこ

衆議院議員政策担当秘書

Mission

真の住民自治の確立、北海道振興、地域再生

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門