論考

Thesis

木猫と自得

人間観を動物から学べないものかと考え、猫から学ぼうとして探してみた文献がこれである。木で出来た猫ではなく、年老いた猫のお話である。丹波十郎左衛門「田舎荘子」という作品の中にある「木猫」という作品から自得を学び人間観を深めることとした。

1、松下幸之助塾主の人間観より

 松下幸之助『人間を考える』によると、

人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。 長久なる人間の使命は、この天命を自覚実践することにある。

 この2つの文章を考えていくと、「天命」というものを認識し、それを実践していくことに人間の使命があるということが理解できるであろう。しかし、現実の人間社会を分析していくと「みずからに与えられた天命を悟らず、個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんとする結果にほかならない」結果となっていると、塾主は考えられている。

 自らの天命を知ること、悟ること、これは孔子にも「五十にして天命を知り」とあるように青年が易々と理解できるものではない。しかし、孔子は五十になるまでの行為として、「十有五にして学に志し、三十にして立ち」とおっしゃられている。つまり、青年は聖賢の学を学び、30歳になったときに一つの確固たる信念を持ち自立することが大切なのであると考えている。天命とはその先のことであり、一つ一つの道を乗り越えていった先に悟ることができるのであると、孔子は自らの生涯を通して経験したのだと考えられる。

 そこでまた『人間を考える』に戻るが、

古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人々の知恵が、自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を生かすのである。まさに衆知こそ、自然の理法をひろく共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である。

 すなわち、衆知を集めるとは天命を生かす最大の力であると塾主はおっしゃっているが、衆知という行為を注意して読んでいくと、学びの姿勢であり、その心のあり方を説いているものであると考えてよいであろう。前文の孔子の議論を振り返れば、天命を悟るために必要となる人間の基本がこの部分に集約され、抽象化されていると考えられる。では「自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき」という状態とはどういうことか。今後、人間観、天命、使命というものを悟っていくために必要な人間としてのあるべき考え方、あり方とはいかなるものなのかということをこの部分より考察していくことでまとめていきたいと考えている。

 そこで、考えるヒントとなったのが『田舎荘子』であり、安岡正篤の言葉であった。

2、木猫と安岡正篤

 「木鶏」という言葉を知っているだろうか。もともとは、中国の古典『荘子』の中の外篇・達生や『列子』の黄帝篇に出てくる文章であるが、日本では雑誌のタイトルにまでなっている。昔、日本の相撲界に双葉山という横綱がいた。片方の目が見えないというハンディ・キャップに打ち勝って69連勝という記録を打ち立てた人物である。その方自身が語っているように安岡正篤に教えを受けた「木鶏」がヒントとなり、その修行を積んだ成果が実を結んだというのである。安岡正篤は紹介するまでもないだろう。松下政経塾の創設当時、顧問として名を連ね、その他にも「終戦の詔勅」に携わり、「平成」という年号を考案したといわれている人物である。

 簡単に「木鶏」について述べる。闘鶏を養う名人が、王に命を受け一匹の鶏を飼うことから話は始まる。鶏を早く試合に出そうとする王と鶏が本当に強い鶏になるまで鍛えようとする名人とのやり取りの中、最終的に鶏は徳が充実し、どんな鶏が来ても平生と変わらず、応戦することも無く、相手は見ただけで逃げてしまうほどに育て上げるという話である。「木鶏」の話はこれで終わるが、私は安岡正篤が「木鶏」と同様に用いる「木猫」という話にこそ今回は注目し、その中に天命を知るための学びの姿勢や心のあり方を垣間見たのである。

3、木猫

 ではここで木猫についての内容を説明しよう。

 勝軒という剣客の家に大きな鼠が出たことから話は始まる。鼠捕りの上手い猫で、黒猫、虎猫、灰色猫をかりてきてくるが、鼠を捕らえることが出来ず、勝軒自らが木刀でこらしめようとするが、上手くいかない。そこで、召使に頼んで無類の強さを誇る古猫を借りてきた。その猫は大してかしこそうでもなく、はきはきしたところもないが、鼠の部屋に入れてみると、鼠はじっとして動けなくなり、あっさり捕まえてしまうというお話だ。

 面白いのはここからで、その後で、この古猫に他の猫や勝軒が教えを乞う。

 はじめに黒猫「今まで鼠を取ることを仕事にする家に生まれて、どんな早業も軽業もやってきた。失敗したことは一度もないのに今回は残念だ。」

 それに対し古猫「あなたの学んだのは技術だけにすぎない。昔の人が技術を教えたのはその筋道やその中にある深い真理を理解させるためであって、技術だけを磨くことには何の意味もないことだ。」

 次に虎猫「今まで気勢というものを大切に今までやってきた。そして相手の鼠に対して睨みつけ、気合で圧倒し、たけだけしく張りあげてどんな動きにも対応してきた。しかし今回の鼠は動きが早く、相手を圧倒することが出来なかった。」

 それに対し古猫「あなたの修練してきたのは、相手より常に上をいくという自負心の中で成り立ち、それを越える強さのものには対応できるのか。一見、孟子の浩然の気に似ているが、それとは全く違っている。孟子は叡智の中から生まれる剛健であるが、あなたのやり方は勢いに乗じた強がりでしかない。」

 今度は灰色猫「気勢盛んなものは形にあらわれる。そこで私は気勢をはらず、物を争わず、和して矛盾せず、ちょうど投げた石を幕で受け止めるようなものと考えてきた。しかし、今回は勢にも負けず、和にも同ぜず、振る舞いは神のようであり、とらえることが出来なかった。」

 それに対し「君の和は自然のものではなくまだ作為した和である。敵の鋭意をはずそうとしても、君の心にそういう思いがあると、すぐに察知される。そこで、無念無為にしておると、名人の境地であるから敵対するものがなくなる。」

 最後に勝軒「今晩の皆さん方の意見を聞いて剣術の極意を知った。そこで何をもって敵なく我なしというのか。」

 それに対し「剣術というものは人に勝つためではなく、大事に臨んで生死の道を明らかにする術だ。だからこそ、精神の修養と技術の練磨を怠ってはならない。そこでまず、生死の理を良く知り、その精神をゆがめず、他人を疑ったりせず、ゆったりと落ち着いていれば、どんな変化にも応じられるだろう。少しでも心に為さんとする心があれば、形にあらわれ争いがおこる。心には元来形はなく、物を蓄えるということもできない。自分が無物だというものは、蓄えず、偏らず、敵もなければ我もない、つまり無思無為という状態であり、無意識で森羅万象に充満していることを言う。これを考えると、我があるから敵があり、我がなければ敵がないといえる。陰陽水火のように相対するものであるゆえに、心に形がなければ対立するものも無くなるのだ。心と形を共に忘れ、思いのままに動けるようになれば、自分の心から苦楽、損得という境界をつくらずに、良いの悪いの、好む憎むのない世界になるであろう。天地は広大であっても、この境地に達すれば、結局は心の外に求むべきものはないことがわかってくる。だからこそ伝えようと思うが、どんな状態でも心は自分のものであり、いかに大敵でも志だけはどうすることもできないものだ。孔子は『匹夫も其の志を奪うべからず』と言う。まさにその通りだと思う。ただしひとつ注意するとすれば、迷う時は却ってその心が敵の助けになるであろう。あとは自分で反省し、求めなさい。」

 こういう形で話は終わる。何度読んでも思うが、学ぶこと、心のあり方について非常に学ぶべき点、気づかされる点が多くあるだろう。それをまとめ結論としていく。

4、「天命」と自得

 この『木猫』を通して、もう一度最初にもどろうと思う。塾主が、「自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき」と表現する所以は何かということについて考える。

 この猫や勝軒の登場する順序を考えると、人間が真理を会得するための心のあり方や学ぶ姿勢の順序ができているのを気づくであろう。それを参考にしながら進めていく。そしてその中に、この塾主の言葉の意味のヒントと考え方があることに気づいていく。

 猫の言葉の要点を順序良く並べていくと、人間は日ごろ生活していると、知らないうちに技術や調和を意識させ、自分の境界を作り、枠にはめていってしまっている現実があるということを諭していると考えることができる。つまり、周りの人からのいかなる大切な教えやヒント、いかなる先哲の言葉も自分でこういうものだと境界を作っては、それは生かされず結びつかないと言えるのだ。

 好きや嫌い、西洋や東洋関係なく、その言葉をありのままに受け止めて、言葉にするのではなく、心をもって感じることが出来るようになることが大切なのだということだ。ヒントとはこれだ。つまり、心で感じることが「天命」を知るための学びの姿勢であり、心のあり方であるように考えている。そして、心をもって感じる姿勢、感性は日々の失敗や反省から学ぶものであり、それが深ければ深いほど、日一日と新たな自分となり、登場した猫が示していった失敗の段階を進み、最後には自らの心を理解できるようになるのだと考えられる。もっと言えば、心で理解できて、ようやく五十にして天命を知る人間となれる準備ができたということであり、その先には実践していくというまた大きな課題があることを忘れてはならないであろう。そう考えて、次の文章を紹介し結論とする。

 安岡正篤はこの『木猫』の最後の解説を次のように締めくくっている。

師はそのことを伝え、その道理をさとすだけですから、その真実を得るのは自分である。これを自得と言い、以心伝心といい、教外別伝と言うのである。自得とは自分が自分をつかむことであり、教外別伝とは、言葉や形では本当の真理深層を伝えられないということである。

 古猫が勝軒との対話の中で、言葉として伝えきれないことがあることを上手く表現し、自ら会得しなくてはわからないものがあること、いかに心で感じ学ぶことが大切であるかを考えさせられているのは良く分かるであろう。同様に、松下幸之助塾主が人生を通し学んだ人間観の真理はもっと深く言葉や形にできないものであるということも諭している。今はこういった形の文章であるが、今後様々な人間や社会に接するたびに人間観を磨き、常に学びの姿勢でおごらずに進むことこそに天命を自得する道しるべがあると結論にする。塾生として真のリーダーを目指すものとしては、人生をかけて「人間観」「天命」を自得していかなければいけないと、改めて決意するところである。

参考図書

『人づくりの原点』安岡正篤著 (株)DCS出版局
『先哲講座』安岡正篤著 武井出版
『人間としての成長』安岡正篤著 PHP出版
『人間を考える』松下幸之助著 PHP出版
『松下政経塾講話録PART2』松下政経塾編 PHP出版

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菊池勲の論考

Thesis

Isao Kikuchi

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第27期

菊池 勲

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