Thesis
「昔、昔、あるところに」という昔話を聞いたことがあるであろう。桃太郎、金太郎、浦島太郎、一寸法師など、日本人で知らない人はいない。つまり日本人の伝統精神を語るとき、私は日本人を共通に貫く昔話に注目してみた。そして日本の祖先より受け継がれてきた伝統精神を解き明かしていこうと思う。
昔話は世界各地に存在している。それは神話や伝説とはどこが違うのか。世界各地に存在する昔話と日本のそれを比較することによって、日本の伝統的な精神要素や文化的な特質を見出すことができるのではないだろうか。私はこの内容の下に第一章では昔話とは何かについて概略的に述べ、第二章以降において、如何に日本の昔話が、日本の伝統精神を表現したものであるのかということを示していきたい。
まず、昔話とは何か。昔話とは、主要登場者の一つの行為を中心に構成され、文芸としての一定の型を物語の単位として持っているものをいう。具体的に「桃太郎」「浦島太郎」はこれにあたる。一方、伝説や神話とは、これは人物や山・川・池などの具体的なものに結びついて、それが事実存在したことと信じる人々によって伝承されるのを言い、具体的には、「山の争い」「雨乞地蔵」など、各地にそれぞれが存在している。余談ではあるが、戦後日本では、昔話と伝説をまとめて「民間の説話」の意味で「民話」と呼ぶことが多く、しばしば昔話と同義語で用いられてきた。
次に昔話の起源を探ると、これは本来口伝えのもので文字で残されたものではないから、最初に語られのはいつかは判定しにくいという。文献を探っていけば昔話・伝説・神話の起源は一つに行き着くが、現在まで広く語り継がれているのは昔話なのである。この辺の歴史的経緯は後ほど詳しく説明していく。
日本昔話をその系譜で見ると、日本民族が独自に生み伝えてきたものと、海外の異民族から伝えられ日本化した話と、二つの系列に分けることが出来る。前者の例としては、「火種盗み」「穀物盗み」といった人類史上の進歩を表す話がある。多民族の文化から伝わってきた例としては、「イソップ物語」を日本語に訳し、「伊曽保物語」とした仮名草紙が非常に有名である。
平安時代の説話を集めた「今昔物語集」が「今は昔の物語・・・・」と伝えられ始め、その衰退後に現れた「御伽草子」では昔話が庶民文学として好まれた。一方草双子から「御伽噺」として江戸時代に定着した昔話もある。明治期になって「御伽草子」「御伽噺」などをあわせ、「日本昔話」がまとめられ、これが現在の「昔話」につながっている。中でも「桃太郎」「一寸法師」「浦島太郎」「花咲爺」「酒呑童子」(金太郎の登場)「鶴の恩返し」などは、明治20年代に子供向きに書き換えられることによって広く日本人の心に定着していくことになった。
日本各地にはさまざまな昔話が残っていて、柳田国男が日本中を歩き回って調査し分析を行っている。中でも桃太郎、浦島太郎、一寸法師、酒呑童子、花咲爺、鶴の恩返しなどは古くは800年近く前より寸分も変わらずに語り継がれているという。先人達が何代にもわたって語り継ぎ、現在まで残ってきたこれらの話のなかに、日本人特有の精神を見出すことができるとして以下、分析し、考察していきたい。
まず「鶴の恩返し」という昔話を取り上げてみることにしよう。簡単なあらすじを書いていく。
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいた。ある日、おじいさんが町に薪を売りに出かけた帰りに罠にかかった鶴を見つける。そして鶴を罠から逃がしてやった。激しく雪が降り積もる夜、美しい娘が家へやってきた。道に迷ったので一晩泊めて欲しいと言う娘を夫婦は快く家に入れてやった。娘は老夫婦の家に留まって、甲斐甲斐しく夫婦の世話をし大そう喜ばせた。ある日、娘が「布を織りたいので糸を買ってきて欲しい」と言うので糸を買ってきた。作業を始める時「絶対に部屋を覗かないで下さい」と言い残した。布を一反織り終わると、「これを売って、また糸を買ってきて欲しい」と託した。娘が織った布は大変美しく、たちまち町で評判となった。しかしある晩、夫婦はついに好奇心に勝てず覗いてしまった。そこには一羽の鶴がいた。鶴は布に自分の羽根を織り込み、夫婦に売ってもらっていたのだ。機織を終えた娘は自分が助けてもらった鶴だと告白し、両手を広げ鶴になり空へと帰っていった。
誰もが知っているこの話には、日本人の文化や精神が宿っているものと考えられている。しかし同じような話は世界にいくらでもあるのではないか。さまざまな文献を探ってみると同種の話は確かに他国にも存在する。だが決定的な違いが3点もあって、そこには確かに日本人の精神を垣間見ることができる。以下、それをこの後説明していこう。
(1)「部屋をみるな」と禁止され、それでも好奇心に負けてしまい見てしまうという昔話は世界中に存在する。しかし、河合隼雄が主張するように「部屋を見るな」「中を見てはいけない」というのは、日本では若い女性であるのに対し、西洋では男性が多く、あるいは魔女や神様という超人的な存在である。部屋の中には、日本の場合は繊細な美や自然の美を強調するものが多いが、西洋は死を連想させるものが多い。そして禁を犯すものが日本は男性であり、海外は例外なく女性なのである。
(2)結論を見ていくと「鶴の恩返し」などの禁を犯してしまった結果、日本では女性が悲しみの中、去っていき、禁を犯した方はもとのままである。これに対し、西洋では禁を犯した者は罰を受け、その罰から女性を救い出すほかの男性が登場し、幸福な結婚に結びつくというのが大体の結末となっている。
(3)ここで最も意外な相違点は、鶴が人間になり恩返しをするという行動である。西洋では、人間が魔法にかけられて動物になることはあるが逆は絶対にありえないのだ。
以上3点の違いに見られる日本人像を分析していこう。
明らかな相違は西洋は男性が救済に現れ、女性を救うということだ。つまり西洋は強い男性像を描いていることで共通している。しかし、日本では違う。女性が恩返しをし、裏方でも女性が一番活躍するのである。日本は制度的に男性社会でありながら、女性を大切にしており、昔話では女性が主人公として活躍する点が極めて日本的なのである。そして、のぞき見を禁止された部屋に存在する自然の美、また動物が人間に変化することができるということにこめられた自然への敬意こそが日本人の根底に流れる精神として見ることが出来るのである。
次に「桃太郎」と「一寸法師」についてみていく。ここに語られている内容には非常に共通したテーマが存在する。それは老夫婦が突然何かを通し、小さな子供を授かり、その子が成長して、家庭に幸福をもたらすという話である。同時に鬼という存在があって、これが災いをもたらすのである。
「桃太郎」からは男性たるものは忠義(犬)、知恵(猿)、勇気(キジ)の三つの要素を備えてなければいけない、正義を愛してこそ本物の男なのだと教えられてきたであろう。また「一寸法師」からはどんな小さくて、虚弱な子供であっても、大切に育てていけば逆境を乗り越えて、美人になったり、たくましく育ったりして、家庭に幸福をもたらしてくれるのだと一般的に教えられている。
ではここでは「火男の話」を例にとってみよう。まずは概要である。
あるところにおじいさんとおばあさんがいた。おじいさんが山へ柴刈に行き、大きな穴を見つけた。おじいさんはその穴を塞ぐつもりで一束の柴を入れるが、それは穴の中に入ってしまい、三日分の柴が一つ残らず穴に入ってしまった。穴は思いのほか深かった。すると、若い女性が穴から出てきて柴の礼を言い、「一度穴に来てください」とすすめる。穴の中には、女性と白鬚の翁、一人の童がいるのだ。その童を連れて帰り育てていくうちに、へそから金が出てくることがわかった。しかし欲ばりな婆さんが、金のほしさにへそを棒でつつくと、童は死に、元に戻ってしまうのである。
これに似たような話はたくさん日本の昔話に存在するが、西洋には存在しない。西洋にあるのは「欲」がありすぎるとすべてを失うと言う話であり、この話のように「無欲」と「欲」のバランスを図る昔話は存在しないのである。つまり、桃太郎や一寸法師もそうだが「無欲」でいい行為をしていくことにより、「幸福」がもたらされるが、「欲」がわいてくると、良いことも「無」になってしまう。すなわち、「無欲」こそが日本人の伝統的な最高の精神美であると伝えようとしているのである。内にある欲望や醜い心を持っていてはいけないと強調するのだ。
3番目として取り上げたいのは「浦島太郎」である。内容はここで説明するまでもないほど、日本人に愛され、平安時代より語り継がれてきた。これほど深く日本人の心に訴え続けてきた話の中には一体何があるのだろうか。
浦島太郎の歴史を見ていくと時代によって話の内容は少し異なっているようだ。御伽草子では助けた亀が女性となり迎えに来ると語られている。その女性と結婚して竜宮城で暮らすが、両親が心配になって玉手箱をもらいその女性と別れるという話が、それ以降の時代になると、助けた亀に連れられて竜宮城に行き、乙姫様にもてなされ、玉手箱をもらい竜宮城を後にするという話になる。つまり、恩返しに現れる神秘的な女性の扱いが、時代を経るごとに変わっている。現在定着しているのは後者の方であるが、その意味を、河合隼雄は次のように分析している。
神秘に満ち溢れた女性という存在は、男と結婚するような同一の扱いを受けるのではなく、浦島太郎が日本の永遠の少年にふさわしい、永遠の少女であると言うことが出来るのである。また、玉手箱を持たせた背景には日本人女性がただ粗末に扱われ、単に消えていくだけではないということの表れでもあるのだ。恩を受けた亀が乙女に変化したという内容のものだった話が、亀と乙女を分けて昔話の内容を変化させたのはこういった背景が大きいと考えられる。
「鶴の恩返し」にも見てきたように、日本の文化は女性を重んじる文化であり、そして如何に女性が神秘に満ち溢れた力を有し、大切かを説いた昔話が多いかを改めて感じさせられるのである。その反面、男性についてはいかに努力しようとも女性には追いつくことが出来ない「あわれさ」や「滑稽さ」を玉手箱というものを通して伝えている。ハッピーエンドにならない日本の昔話の典型でもあり、まさに日本人の伝統や精神を重んじる内容であることがよくわかるのである。
これらの昔話を通して、日本の伝統精神とは何かを語るのはやはり非常に難しいテーマには違いない。断片的な切り口の昔話の後には、しかし奥行きのある何かが残されているように思われる。それ故に語り継がれてきた昔話だからだ。
しかし、これまでの考察の中で何点かはっきりわかるところを整理していくと、
一、日本人の中に流れる精神と言うのは極めて女性的性格であるということ。西洋は男性が主役や救世主になるが、日本は女性の優しさや美しさが救世主として強調されている。
二、日本の昔話の中では、万物すべて人間と同等に並び、女性や自然の美だけが宝物のように存在する。昔より、自然を美として大切に思い愛する心が非常に強かったことがわかる。自然愛、そして万物へ対する敬意と、八百万の神の国であることの教えまで話の延長線上に見えてくる。
三、「無」という概念が非常に強いと言うことだ。つまり「ハッピーエンド」にならずほとんどが「元に戻る」。「欲を持つ」「下心がある」ということに対する反発が大きい。故に成功するのは「無欲」という状態であることが強調される。仏教的な背景を含め、「無」や「盛者必衰」という概念を思い、それこそが人生であるとの教えている。また「自然体」という生き方、考え方が示されているともいえる。
四、どんな存在であっても大切にすべきだ、と述べている。すべてのものには意味があり、すべてを大切にしなければいけないということを基本にしている。障害ある子や人、人間以外の生物まで大切にしていくことを基礎にしている。その結果として、人間の幸福と言うものを獲得するという展開が多くの昔話に見受けられる。
以上4点こそ、昔話によって受け継がれてきた日本人の伝統精神であると考えられる。
明治の改革の中で国定教科書にこれらの昔話が載せられ、日本人の価値観を決定する大切なものとなった歴史がある。そして、金太郎などは当時の子供の理想像とされるまでになった。それほど、教育的にも子供の価値観を育むのに有意義なものとして認められてきたのが昔話なのである。先人が苦労を重ね語り継ぎ、推敲してきたベストセラーにほかならないのである。
しかし、今日の日本では、書店に行っても、日本昔話というものがほとんど見当らなくなっている。最近、私はたくさんの書店を探し回った挙句、インターネットからようやく探し出して買うことができた。これだけのベストセラーにこそ、日本人が伝えようとしたことが詰まっているのではないだろうか。子育て中の方、子育ての方向性が見えなくなっている方やどんな子供に育ってほしいかわからなくなっている方には日本昔話を読んでもらいたい、と私は思っている。ここにはヒントが見つかるだろう。日本人が昔話に価値観をこめ、生きてきたのならそこにこそ、子供の育て方が書いてあるはずだ。だから子供に何度も読み聞かせてほしいと思う。女性や自然を大切にしない事件や少年犯罪が多くなっている今日のありさまは、本屋さんに日本昔話がなくなったことと関係があるのではないか、私はふと思うのである。
参考文献
『日本昔話ハンドブック』 稲田浩二 稲田和子編 三省堂
『世界昔話ハンドブック』 稲田浩二編 三省堂
『日本の昔話』 柳田国男著 新潮文庫
『日本の伝説』 柳田国男著 新潮文庫
『昔話と日本人の心』 河合隼雄著 岩波現代文庫
『神話と日本人の心』 河合隼雄著 岩波現代文庫
『日本昔話百選』 稲田浩二 稲田和子編 三省堂
『御伽草子謎解き紀行』 神一行著 学研文庫
Thesis
Isao Kikuchi
第27期
きくち・いさお
青森県議(弘前市)/無所属