論考

Thesis

理想の国家像への理念

理想の国家ということを考えていくと、漠然としすぎているように感じる。政治とは何か、国家とは何か、ということを歴史的事実から抽出し、現在の国家に至った背景を述べて、その上で、今後向かうべき国家の考察を行うべきではないかと思っている。つまり、理想の政治・国家についての理念提示を行うことを目的とする。

1、日本近代国家成立とその過程

 日本の近代国家の成立は、言うまでもなく明治維新を契機とした明治政府であったと誰もが認識していることでしょう。そして、その前後での違いと言うものを簡単に説明し、その上で明治国家というものの特徴を簡単に述べていくものとする。

 江戸時代は、中央政権、中央政府というものが存在しないに等しいような完全なる地方分権体制であった。各藩の大名に自治権が与えられ、藩による決まりを作り、裁判を行い、税金をとり、軍事力を持っていた。つまり、徹底した分権制度であった。また、幕府という存在は大名を束ねるだけで、人民は大名を通して間接的に統治していただけであった。

 それに対して明治国家では、天皇が日本を統治する体制に変わった。そして主権者として、天皇が法律、裁判、税金、軍隊などの権限を有し、完全なる中央集権体制とした。この結果、日本全体が単一に通用する法律、空間が作られていった。人間の空間的移動が江戸時代と違い自由になり、身分制度も廃止されたために、社会的移動も自由になった。

 こういった変化の中で、専制君主制、立憲君主制へと形を変えながら、明治国家がヨーロッパ型の立憲君主制となっていく。日本における立憲君主制の特徴は、天皇個人の権限ではなく、明治国家という主権国家の機関として、天皇が憲法の下に活動を行うというものである。この中で、憲法はドイツから、民法はフランスからという日本社会のこれまでの実態に即していない部分を取り入れた。これがとても大きな特徴となり、中央集権体制として存在する明治国家となった。

 ではここで、憲法について簡単に触れていく。そもそも憲法とは、誰のために存在するのかという議論を考えていくと、憲法とは人民のためにあって、憲法のために人民があるのではないのである。このように考えていくと、現実社会の変化に応じて、人民の手で憲法を変えていくのが普通なのであり、それが当たり前だということである。そして憲法が存在するのは、民主主義というものを導入した際に、政府が大きな権力を勝手にふるい、人民の利益を損なわないようにするために、国民と政府との約束を行ったからである。つまり明治23年に明治憲法が施行され、民主主義成立のための憲法が成立し、日本が近代国家の仲間入りをしたことを明らかにしたのである。成立の歴史から、次に法と秩序についての近代日本の分析を行っていく。

2、法と秩序

 まず、法とは何かを定義していく。

 橋爪大三郎の定義を考えていくと、「法とは強制力をともなったルールである」といえることが出来る。つまり強制とルールの二つの要素があるということだ。

 ルールと秩序については次のように説明できる。

人間は誰もが自由に生き、誰もが欲望のままに生きていこうと思っているものである。しかし、全員が自由に生きていくと、お互いの自由を奪い合ったり、侵害しあったりしてほかの人との摩擦や衝突が起こってしまう。またある程度のまとまりがないと、自然災害や予期しない事態に生きていけなくなる。そこで初めて秩序が必要になるのである。つまり秩序とは、各人の自由が制限されて、人間の相互関係がパターン化することである。

 集団を形成する以上、規則やルール、秩序が必要となり、それがまったくない社会や集団はありえないのである。

 こういう集団に、秩序やルールを乱そうとする人間が出てきた場合、集団を成立させるためには、無理やりにでも従わせなければならない。つまりこれを強制力という。そしてルールを作り、強制力に裏打ちされたものを法律というわけである。

 また法律の根拠とは、「一般意志」という人間観に裏打ちされた、一人の人間はどうしようもない人間だが、集団で話し合いその中で出てきたものは素晴らしい理性のある内容になる、というものにあるとされている。正義や公正、そして強制力なども同様に根拠としているのである。

 では近代になると、法律をいかに考えるようになったであろうかを分析していく。

法律とは「一次ルールと二次ルールの結合」であるという。
一次ルールとは「責任を何かに課すルール」であり、二次ルールとは「法律を承認し、認識すること、法律を変えていくこと、そして裁定(裁判)することである。」

 なぜこのように考えるのか、次のように捉えることができる。

 そもそも絶対王政時代には、ルールはあってもそれが公平かどうかをチェックする権限がなかった。そのため、権力を有する人間だけが自分の都合に合わせて捕まえたりしたのである。今後、そういう権力から人間一人の自由を守るような原則を作らなければいけないと変わっていき、このような定義で裁判を行い、第三者による公平な審査を経るという流れに変わったのだと考えられる。

 つまり、現代の法律とは大きな権力や力から個人の自由を守るためのものであるのだ。

 ここまで、近代における法の成立と理解を考えてきたが、日本の明治以降、法についての日本人の意識について続けて考えていく。

 明治政府は、天皇が「公」の最たるものであり、天皇の下に国家は組織されている。「公」とは国家のことであり、天皇のことである。官僚や軍人、役人もである。そしてこの「公」の下に「民」というものがある。

 官は民よりも一段高く、民である個々人は、官を敬い、国家のために献身すべきであると徹底したのである。これはすなわち、教会に似ているのである。ヨーロッパを考えていくと、国家と教会は独立し、政教分離の原則が成立して近代国家が成立しているが、日本は国家が宗教と政治を主導していったのである。政教分離とは軍事、外交、経済など外面的機関への働きは政治が行えるとしたが、政治が内面的な部分、精神まで支配するのは禁止していたのである。

 明治国家がこのように行ったのは、教会がなく、江戸時代のバラバラな藩を一つに統合し、国民に税金や兵役などの大きな負担をしいらせた。そのためにイデオロギー操作を行い、国家、国民が正しいことをやっているという観念を持たせることを考えたわけである。そのために、国家が教会のような組織をしたと考えられるのである。

 そのため、公平性や正義ということを審議し、議論する機会を失い、偏った公共性や法律というものが官僚組織を中心にして誕生してしまったのである。

 そしてその結果、法律とは個人を守るものという意識はあまりなく、個人から権利を奪うものという意識すらも持たせるようになってしまった。

3、人間とは何か

 現代社会の日本の理想の政治像を分析していく前に、近代国家を誕生させた原動力となんだったのかを考えていく。

 まず国家をどう解釈するかではなしに、理論的にどう構成するかという発想を考えていく。国家を構成するのは、単に権力者だけではなくて、そこにいる人間が構成するものに違いないのである。しかし、マキャヴェリが考えたように、権力者が自分の権力にものをいわせて、構成するという段階を超えて、すべての人間が、自分たちの社会生活をどう組み立てていくかという問題に変わるのが近代という時代なのである。そういう時に起こる基本的な特色は、社会を論ずるのにまず人間に立ち返って、人間を検討することから始まるのである。

 ここまで言えばわかるように、近代の政治思想を作ったのは、ホッブス、ロック、ルソーという3人の思想家の人間観なのである。

 では、これら3人の人間観を簡単に述べていくとする。

 ホッブスは「人間とは非常に不安定なものであり、個人としては自律できない存在である」とした。その結果、「リヴァイアサン」という、強力な権力をもった存在に他律して人間社会が成立するという思想が出来てくるのである。しかし、富の生産を考えていくと、固定された総量ゆえに富の分配を争うことになってしまう。そこでロックが現れる。

 次にロックは「人間は理性的であってかつ勤勉なものである」とした。ここでもう少し具体的にイメージしてみると、自立してやっていけるだけの規模をもった独立自営の農民の姿である。そして、労働を人間の本性として富を生産していく。こうして、人間が自然に働きかける生産労働を通じて、人間の生存手段、人間の欲求対象としての富が総量の限界を破り、無限に増すことにより不必要な争いを解決できるようになるとしたのだ。

 最後に現れたのがルソーである。ルソーが現れた時代には、ロックの考えるような自立自営の出来る人間が社会で生き残れる時代ではなく、絶対王政という権力と金持ちの横暴の時代であった。こういった時代をルソーは生きる中で、「人間とは個人では自立できない弱い存在であるが、社会に主体的に参加することが出来るようになれば尊厳や理性を得ることが出来る」とした。つまり、本当に人間にふさわしい尊厳を自分のものにすることができると期待して、その時初めて本当に自由になると考えるに至った。ここから政治に参加することは、人間が自由になるための根本的条件であり、単に権力を制限するための手段ではなくなるとし、個人ではなく社会の一員として、制度の運営に携わることが重要であるという行動様式を確立した。先ほど述べた一般意志も、この思想からくるのである。

 ここまで述べてきた結果が近代国家成立につながり、民主主義国家形成に至るのである。

 では新しく近代から現代へ移り変わる中で、どのように考えていくべきかを最後に述べていく必要がある。これまで近代の歴史と成立過程を分析した結果、人間観こそが重要になり、その上に現代のあるべき国家像を提示することを手法としていく。

4、自由の追求

 現代の国家を考えていくと、日本は法の秩序、その支配があることを認識することが基本的に欠けている。また、法を運用することが出来るということを理解し、憲法というものが国家との約束であり、それが守られているのかをチェックしていくと意識をそもそも培っていく必要がある。基本的に短期的な目標として、今まで歪んでしまった法や秩序、憲法への意識改革にあると考えることも出来るであろう。

 しかし、長期的な理想追求へはこれだけでは不十分である。つまり、近代国家という形の成立から、現代を超えて未来を考えていく場合には、先ほどあげた3人の人間観をもとにしただけの国家定義では、解決することが出来なくなる問題が多く存在する現実がある。それは、プライバシーという基本的人権と自由の問題であると言える。

 今後この問題を解決し、現代の理想的国家像を考えていくには、また長い期間が必要であろう。しかしここでその導入という形で、人間観と理念を掲げたいと考えている。

 21世紀という時代を考えていくと、さまざまな権利や自由が獲得され、多くの人間とのコミュニケーションや情報交換が可能になった。人間は一見、自分のやりたいことが出来、自由になったかのように思う。そして、これまでの人間像を考え直していくと、明らかに近代国家が起こった時代とは変化したのである。そこで、私にとって現代の人間を考え定義していくとするならば「人間とは、本来、物事を謙虚に受け止め、常に善くなろうとしている存在である」と言えるのではないかと思う。詳しい説明は、私の論文「人間とはなにか」を読んでいただきたい。そして、そこに誕生する国家は、自助と新しい自由を獲得することが可能になるハイエクが提示する国家ではないかと考えているのだ。問題提示を行い、理念を提示する。

 21世紀を述べるならば、日本は基本的人権の中、社会保障と中央集権体制の中、国民は自助努力を生み出すことなく、政府や国家の仕事に甘んじ、自らの権利を主張し、個人レベルにおいても、自らの目標や夢さえも抱けなくなっていると考えられる。また、国家は高い税金を国民に課し、国民の士気への悪影響や努力に見合った収入を得られない仕組みを作り、明治からの慣習である一様な法律設定の中で、非常に的を得ない法律設定と個人への干渉を行うまでに至っていると考えられる。この状況を解消し、理想的国家像を提示できるとするならば、次のようにである。

 国家は国民の生命に関わる最低限度の仕組みに対してのみ深く関わり、それ以外の多くの権限は、地方または個人に対し委譲すべきである。その大きな理由は、国家や地方の公共サービスだけの限られた教育機関や社会保障の中での、縛られた価値観や、積極的意識の持てない受動的保障ではなく、自らの努力や知恵によって目標や夢を達成できるような国にすることであり、そのための個人における自立や自助力を付けていくべきであるからだ。また資産の面に関しても、高い税金をとり、国家がサービスするのではなく、自ら努力により稼いだお金を、自らの考えや決定によって、有効に使えるようにすべきであるのだ。国家に役割があるとするならば、外交や治安、金融などもそうであるが、努力によってなかなか報われない人間を、再度社会に出るために訓練する機会や、サポートしてをいく機会を与えることではないかと考える。日本国に生きる人間の国家として、チャンスを与え落伍者を出さないことこそが、最低限度で最大の役割である。

参考文献

『隷属への道』 F・A・ハイエク著 春秋社
『ハイエク』 渡部昇一著 PHP研究所
『人間にとって法とは何か』 橋爪大三郎著 PHP新書
『老荘のこころ』 安岡正篤著 福村出版
『近代の政治思想』 福田歓一著 岩波新書

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菊池勲の論考

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Isao Kikuchi

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第27期

菊池 勲

きくち・いさお

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