論考

Thesis

人間とはなにか

「人間は誰もが日々成長しようとしている」というのが突き詰めていくと、私の人間観の根底にある。そして、自然や宇宙を考えていく時、その進化にも同様のものがあると考えている。宇宙の本質を導き出すことにより人間観をまとめていく。

1、仮説とダライ・ラマ

 『新しい人間観』を読み、毎日の活動を通していく時、どんな要素から人間を感じ、考えることがあるであろうか。それは日々のコミュニケーションであったり、朝から夜までの誰かとの生活や、または電車に乗る時の隣に立っている人、車を運転している人、犬の散歩をしている人、買い物に行く人であったりする。そういう一人一人の人間から得られる人間観ももちろんあるであろう。私が現実に関わってきた人から、私は人間観を学んでいるし、すべての人間がそうであるはずなのだ。ここにも大きな人間観が存在する。

 幸いにして、人間にはすべての人に対して無関心であるということはない。誰かに対して関心があるのだ。また人間以外にも、本や物といった世の中の何かに関心を持っているのが人間であると考えることに、誰も否定はしないであろう。なぜだろうか。私は「人間は、自分を成長させるものや人に対して関心を持つし、魅力的で自分が尊敬している人間に対して興味をもつからである」と考えている。もちろん、恋愛感覚もこれに似たようなものがあると個人的には思う。つまり、こういった人やものを通して「人間は自らを向上させようと日々努力しているのである。」

 これこそが私の人間観への仮説であり、今後実証していくべき命題である。

 この人間観探求にあたり、松下幸之助塾主の言葉「人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている」に大きなヒントを得た。宇宙の中で生まれ育った人間であるならば、宇宙にこそ、人間を考える要素がたくさんあるのではないか。そして、宇宙を理解せずして人間を理解することは難しいのではないかと考えている。まずは、宇宙を考えていくことにする。

 まず、ダライ・ラマ十四世の宇宙の起源をめぐる議論を参考にしたい。天文学の宇宙を考えていくとき、二つの理論に帰結する。ビッグバンと呼ばれる第一の説は、宇宙は100億年かそこら前に、熱く燃える大変動で始まったとし、この先何十億年かすると同じような激変で終末を迎えるのではないかとしている。宇宙定常説として知られるもう一方の説は、宇宙は無限で永遠に変化しないという考え方だ。ダライ・ラマは、チベット仏教でカルパという世界の崩壊と輪廻を見事に暗示しているという。そして、現代の科学もビッグバン理論の方へ傾きつつあるのである。つまり、科学の可視的宇宙と宗教上の不可視的宇宙の一致を見ることが出来る。同様のことを、ローマ・カトリック教会も声明を出すに至った。起源についての一致をもとに考えていくと、宇宙というものを知ることが、人間の心と人間観を理解するのに大切な要素であることを、十分に理解することが出来る。

 では、宇宙の何を知ることが求められるのか。宇宙やその中にある地球の自然を舞台にその原理を考え、宇宙を人間社会の中で説明した古典『老子』より解説し、人間とは何かを最終的にまとめていくことにする。

2、宇宙と自然の進化

 宇宙がビッグバンを起こし元素が誕生し、インフレーションを起こし時空膨張を果たしながら、ビッグバン時の膨大なエネルギーをもとに、様々な銀河や物質を誕生させ続けている。ビッグバンの時のエネルギーをもとに誕生した惑星地球も、宇宙によって生み出された一つである。その地球を見ていくと、バクテリアという生命体から始まり、魚類や爬虫類、哺乳類という生物を生み出し、さらに木や花、草などの植物の誕生、そして人間が宇宙の偉大な力のもと命を授かった。

 具体的に見ていくと、生物は食物をより効率よく吸収するために体内構造を進化させ、体格や食物によって体の外部の機能を進化させた。例えば、草食動物は肉食動物から逃げやすくするために目の位置が肉食動物より離れ、また歯の並びもそれぞれにとってバランスの良いものに変化した。人間の体内を見てみると、人間社会のコンピュータがいかに進化しても、いまだに人類のように自由意志を持った人工知能はつくられておらず、また、人間の体内における神経伝達信号の抵抗は非常に小さいものとなっている。そして、間接間の摩擦などはほとんど発生せず、体内における神秘、進化は言うまでもなく宇宙のように超自然的で、人類が人工的に作りえないものであると言われている。

 動物だけではない。植物においても同様の議論をしていくと、葉の生え方、根の下ろし方、実のつけ方は、太陽の光をいかに多く取り入れるか、風の強さからいかに自分自身を守るか、枝や実がたくさんなる木は茎の太さを太くさせ、そしてどのように自然の中で繁殖するのが一番良いのかを、植物は生存という命題の中に変化させて、現在のかたちに進化させてきた。

 つまりここで言えるのは、自然は意志を持たないが、日々自らを進化させ、いかに無駄なく生き抜くか、いかに後世に子孫を残すかを追求していったと言える。つまり、宇宙にも自然にも「不必要なものは存在しない」、宇宙に存在する生物はすべて、「子孫を育てる」ということが言える。また、人間や自然が進歩しても病気や危険が生じたときに、健康な状態へ戻そうとする「自然治癒力」が存在するということと、食物連鎖の中に見える「生態系の循環」を宇宙の要諦と見なせるのだ。そして、最も重要にして大切な要素は、さまざまな変化を通して、宇宙は自らを進歩向上させようとしているのである。宇宙自身がそういう意志を持っているかは不明であるが、しかしそういう「偉大な力」があることが、自然を通して検証できるのである。

 次の章で、『老子』を用いて、人間や宇宙についての考察を加えていく。

3、老子の「道」と「宇宙」

 人間がとらえ感じてきた自然観を思想としている代表的な古典は、『老子』である。そして自らも、『老子』の中に見えてくる宇宙論や自然観には、人間の持つ本質に迫るものがあると考えている。この中で、天地万物の生成を説いた部分がある。

天下の物は有より生じ、有は無より生ず。
道は一に生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、冲気もって和をなす。

 この二文から分かることは、「天下の物」すなわち万物が無より生じ、「道」というものからも万物が生じてくる。すなわち、「道」とは「無」のようなものである。万物は陰と陽を持ち、それが有を生じて形となり、「一は二を生じ、二は三を生じ」という生成発展の原則を明らかにしている。もう少し詳しく考えていくと、「無」というのは認識がないから「無」という表現を使っているだけであると聖書などでは言われていて、「名」が付くまでを「無」と表現し、神様に名前がつけられると「物」として考えられている。しかし、老子では、「無」はそのまま「道」である。「無」はいかなる形にもとらえられない存在であり、「道」はそのはたらきであると考えられている。

 「無」とはそれ自体が存在し、混沌としたものであると言えるのである。では、道とはどのようなものであるのか。

道の物たるや、これ恍これ惚。忽たり恍たり、中に物あり。窈たり冥たり、その中に精あり。その精はなはだ真にして、その中に信あり。

物あり混成し、天地に先だちて生ず。蕭たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆らず、もって天地の母となすべし。吾れ、いまだにその名を知らず、これに字して道という。

 すなわち、道とはとらえどころがなく混沌としたものであり、しかしその中を見ていくと実態があり、とても純粋なものである。何かに満ちていて充実し、全体として変化をしないものであると伝えている。

万物并び作り、吾れ、もってその復するを観る。それ、物の芸芸たる、各その根に復帰す。根に帰するを静という。静はこれ命に復すという。命に復するは、常なり。常を知るは、明なり。常を知らざるは、妄なり。妄は凶を作す。

 この文章から分かるように、老子は、すべてのものをまとめあげる「偉大な力」を語り、そこから発生した「道」という原理に従ってすべてのものが誕生していると説いている。つまり、そして、「道」はすべてを生み出し、すべてを取り入れて、循環運動を半永久的に行っていくと考えているのである。ここに「老子」の宇宙観をみることができる。

 次に、「老子」の考える「人間のあり方」とは何かを考えていき、前章での自然観をもとに自分自身の人間観をまとめていく。

4、人間のあり方とは

 「老子」のもっとも有名な言葉に、「上善水の如し」という言葉があるのは周知のことだと思う。そして、「老子」の中で出てくる人間像は、「道は自然に法る」と言われるように、「自然」と「道」とは切っても切れない関係であり、「自然」の中にこそ「道」は存在し、それを見習うべきだとする見解を示している。

 最も特徴的な人間のあり方を「嬰児ならんか」と結ぶ。老子は、「道」と「自然」の中では、人為的なものは対立するという意味をもたせている。つまり、自然との共存や自然観を身につけていくことが、人間としてのもっとも大切な修行の一つと考えているのである。

 そして、そのありのままの自分を成長させていくことにこそ生まれてくるのが「徳」であり、それを貫き通すのが「仁徳」なのである。これは、人間にだけ当てはまるものではない。すべてのものや自然にも当てはまるのだ。故に、400年生きた木を見ると感動するだろうし、澄み切った綺麗な水を見ると感激するであろう。それは、すべてのものに「徳」があり、日々進歩向上し、自らの道を貫き通したものが得られるものだと言うのである。これこそが、まさに「人間の目指すべきあり方」であり、本質と言えるであろう。

5、人間とは何か

 自然の宇宙を見ていると、「老子」と同じように感じることがある。それは、人間は「宇宙」より生まれ、「宇宙の性質」を私たち人間が受け継いで生きているということである。つまり、日々進歩発展させ、自然のように健康な体であろうとし、子孫を残し世代をつなぎ、宇宙の歯車となるべく何らかの循環の中にいる。もっと言えば、地球という星で、意志や知識を持って、世の中の流れをつかもうとしている稀有な存在でもある。

 しかし、やはり思うことは、人間が自分自身を日々向上させようとし、それを次世代に残そうとしているということだ。もちろん、意志を持ち自らを棚に上げたり、知識を違う方に使い目立とうとする人や、犯罪に走る人は多いだろう。しかし、死を前にしたときに、それで納得できる人間が果たして存在するのだろうか。境遇に恵まれすぎず、悲観的になっている人間が存在しない社会ならば、そうはならないであろう。しかし、現実はなくならない。そのため、本当の「徳」を身につけていく必要に迫られるのかもしれないし、そういった本質的理解が必要なのではないだろうか。

 すべてのものが、人為的に作られすぎた社会の中で生きている。子供や青年の異常行動はなぜ起きるのか。自殺者が毎年3万人を越える社会とは、正常なのだろうか。温もりを感じないコンクリート社会に、心を育てることはできるのだろうか。親の愛情も感じずに、子供が成長するのだろうか。とてもそうとは思えない。

 本質的に、誰もが毎日のように自己成長を望んでいると私は思うから、今の社会には、老子のように自然にもまれる時間や、その中で自己を見つめていく必要があると考えている。海や山、森林、湖、野生の動物等、きっとそこに、人間の求めるあり方や人間の心が存在するのだ。

参考文献

『宇宙はこうして始まりこう終わりを告げる』 白揚社 デニス・オーヴァバイ著
『ファインマン物理学』 岩波書店 R.P.ファインマン著
『老子』 岩波文庫 武内義雄訳
『老子』 PHP文庫 守屋洋著
『村井実著作集1、8』 小学館 村井実著
『人間を考える』 PHP文庫 松下幸之助著
『PHPのことば』 PHP出版 松下幸之助著

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菊池勲の論考

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菊池 勲

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