Thesis
財政危機に代表される日本の暗い未来。日本を救う手立てはないのか。日本を変えるのは、政治・行政システムの変革、そしてあなた自身だと思います。
770兆円。今日本が国、地方合わせて抱える借金の総額である。松下幸之助塾主が、今から約20年前、日本の財政問題を非常に嘆かれた時、その額は100兆円に満たなかった。中曽根政権による行革、バブル時代で税収がピークを迎えた1980年代後半に、赤字国債は0となったものの、今また赤字国債の発行を繰り返している。失われた10年。バブル崩壊後、政府は民間需要を補うがごとく、政府支出を増やし、景気をどうにか回復させよう、また回復するだろうと期待をしていた。しかし、そのケインズ的手法も現代にはほとんど効果はなく、残ったのは、借金の山であった。そして本格的に迎えた団塊世代の退職、少子化による人口減少、高齢化社会の到来。政府は自己改革を怠り、三位一体改革のもと、その残骸を地方へと押し付けようとしている。
余力のなくなった政府。景気回復とは程遠い地方。前レポート(「地域格差」はなぜ生まれたのか)で考察したように、現状の考え方でいうと地域間の格差は圧倒的にあり、またその結果がもたらすものは、残念ながら夕張市の財政破綻の如く、地方からの日本の崩壊であるだろう。
確かに今のままでは、日本は崩壊するかもしれない。しかし、私は日本の未来は元気で明るいものであってほしいと切に願うし、また、そのような方向に日本が変わっていく方法があると考える。本レポートでは、現状の問題点をみつめながら、目指すべき日本の国家像、国家のかたち、そしてその国家になっていくための道のりを考察していく。
前レポートにおいて、現在「地域格差」と呼ばれているものには、「人口格差」、「所得格差」、「財政力格差」があり、その格差は「産業転換」、「人生観の変化」、「一極集中・中央集権」という歴史の変化により、生み出されてきたと考察をした。
私はこの中でも、「格差」というものがクローズアップされるようになった原因は、「財政力格差」と中途半端な「中央集権」からの脱却に端を発していると考える。夕張問題以来、国だけではなく、地方の財政問題が注目されているが、その中で国が行ったことは、「三位一体改革」と呼ばれるものである。国から地方へ権限と財源を移すというもので具体的には、「地方交付税交付金の見直し」、「補助金の削減」、「国から地方への税源委譲」を行ったが、その結果は、交付金削減約5.1兆円、補助金削減約4.7兆円、税源委譲約3兆円と単純に考えると、地方は9.8兆円という補助金を減らされたにも関らず、3兆円しか自前の収入増を確保できなかったということであり、またその収入増も、大企業、富裕層がある大都市圏と、地方圏ではかなりの差があったということが現実である。そのことはまた、地方自治体の財政硬直化に直結し、良かれ悪かれ、地域内総支出の4割弱を公共部門に依存してきた多くの地方圏にとっては、深刻な問題となった。
このことは2つの問題点を有している。1つ目の問題点は、現在の国家及び地方自治体の役割とは何かという議論がないまま、なし崩し的にお金の問題だけ解決しようという改革は、中央政府のプライマリーバランスはプラスになったものの、仕事の少なくなった官僚と、人件費を削りに削ってなんとか生き延びているが何も考えられない地方政府を生むということである。2つ目の問題点は、これまでどういう形にしろ地域のセーフティーネットを形成してきた地方自治体の崩壊を導き、地域格差は確実に広がるということである。地域格差をなくすためには、今の日本の考え方では、経済的な格差を埋めることがまず第一になる。しかし、その格差を埋めるためには、熟成しきった市場で、新興企業が大企業からシェアを奪うがごとく、多大なる費用と無謀なる挑戦と言うしかないぐらい、大変厳しいものである。ましてや権限もお金もない企業が同じ土俵の上で勝てるはずがない。多くの地方自治体はその新興企業のような状態に面していると思う。
3割自治という言葉がある。地方自治体の歳入のうち地方税等自前で調達できるお金は3割程度で、地方交付税や国庫支出金など国の資金的なバックアップや政策的な指導が入る部分が大多数で、実質自分たちで自治できているのは3割程度という意味である。地方交付金というとある地方自治体の標準的な予算があり、その自治体の歳入が足りない場合に補填するための制度として知られている。普通の考えだと、人口がこのくらい、面積がこのくらい、じゃあ標準的な予算はこのくらいだろうと決められていそうなものである。しかし、話はそう単純ではない。ここでは、「合併特例債」と「過疎債」を例に取り上げる。
「合併特例債」はご存知の通り、平成の大合併を進めるため、設けられた財政支援である。合併市町村の一体化を進めるために使えるお金ということであるが、まずその額が半端ではない。複雑な計算式のもと様々な条件によりその額が算出されるのであるが、大体その額は合併後の市町村の年間予算ぐらいの金額になる。そしてその特例債、例えばこの制度に則って、100億円の事業をしようとすると、5億円は自前で一般財源から用意しなさい。ただあとの95億円は借金をしてよいですよ。そしてその借金をあなたが返さなくてはならないとき、7割は地方交付税で補填しますよという制度である。つまり、100億円の事業であっても実質地方自治体の負担は33.5億円なのである。
そして「過疎債」である。「過疎債」とは正式には「過疎地域自立促進特別措置法」というもので、自主財源が乏しく、過疎が進む地域の自立を促進するためつくられた特別立法で過疎地域に指定された地域で使用することができるものである。ちなみに私が住む島根県では、全21市町村のうち19市町村で指定を受けている。この過疎債は、合併特例債より厚く手当てがされており、事業費の全額を過疎債による借金で賄うことができ、合併特例債のようにその7割を地方交付税で措置するというものである。
私は、合併特例債や過疎債そのものの役割を否定するのではない。合併すればシステム統合など臨時の支出はかかるであろうし、過疎地域においては、やる気があるがお金はないという地域を支援することは良いことであると思う。しかし、問題はその手法である。これらの制度は国の指導・基準に則ることがもちろんであると思うし、事業費は借金ということが必要となる。例えて言うならば、100万円の軽自動車を現金で買おうとしていた子供に、親が支援すると言ってどうせ買うなら600万の新車を分割払いで買わないかと言っているようなものではないだろうか。子供の支出は180万円に増えるが、年の支払いは18万円の分割払い。子供が600万円の自動車を買うのは目に見えている。しかし、それにはより高額の保険料、車検費用、修理費が子供負担でついてくることを忘れている。
なぜこのようなことが平然と行われているのか。私は中央省庁間の縦割りの弊害、特にいかにお金を上手に使うかという視点ではなく、いかに自分の省庁の予算を増やすかということに力点が置かれている結果であると思う。いわば、行政・政治の経営感覚の欠如である。同じような事業にしても、CATVは都市部では総務省、農村部では農水省、下水道整備なら国交省と農水省、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、道路は国道、県道、市町村道、農道、林道、道路公団。同じようなことで縄張り争いをしていては、いかに事業を増やすかということしか考えないのも当然である。
行政面での問題もさることながら日本の特異な姿がもう一つある。東京への一極集中である。世界最大の都市はどこかと聞かれたらどこと答えるであろうか。世界経済の中心ニューヨーク?世界最大人口中国の上海?インドのムンバイ?ヨーロッパ金融の中心ロンドン?いえいえ実際は断トツで東京圏なのである。ニューヨークの1.5倍。3000万人以上が暮らす世界一の巨大都市である。人口は格段に多いと言えない日本の東京が一番ということは、東京圏が占める日本での人口シェアも驚異的なものである。人口シェアは3割弱。そして日本の企業トップ100社で東京に本社を構える数70。(参考:米国トップ100社でニューヨーク本社は26社)政治・経済・文化全ての日本の中心は東京なのである。先進国でここまで全てが集中している都市は東京しかないといっても過言ではない。その結果、何が起こっているか。生涯のうち4年間は電車の中で過ごしている通勤時間の長さ。東京都の出生率は1.0。何でも東京なしでは話が通じない日本社会。もうそろそろ東京という都市は、都市の許容範囲を超えた異常な都市だということに気づかなくてはならない。
このままでは、おそらく日本は財政危機、少子高齢化の中、かつてのスペイン、英国がそうだったように栄光があったと言われる過去の国になるであろう。そうならないためにはどうしたら良いか。私は、これまでの日本全体での一律横並びでの発展を方向転換し、地域ごとに光を当てることが鍵になると考える。一律規格、大量消費・大量生産の工業中心の高度経済成長期には、日本がこれまでとってきた政策は大きな効果があったと思う。しかし、現代21世紀ではそのような社会ではなくなっている。個性、少量多品種生産、情報化社会と時代は大きく転換した。日本の現状の制度は明らかに制度疲弊を起こしている。これから日本が目指すべき姿は、個性ある元気な地域の連合体が日本であるという発想が非常に大事であると考える。
まず牽引役となるのは、政治・行政である。日本は幸いにも、先進国の中で地方分権が一番遅れた国となっている。世界はこれまでの制度が現代にそぐわないということにとっくに気づいているのである。しかし、日本は今なら世界各国が推進してきた地方分権の成功・不成功を分析しながら、日本に合った最適な地方分権を目指すことができるのである。政治家も官僚も本当は気づいているはずである。自分たちの仕事の弊害がいかに多いかいうことを。また、その受け皿となる都道府県や市町村も現状では無理がある。人口60万人の鳥取と人口1000万人の東京都、200人余りの青ヶ島村と300万人超の横浜市が同じレベルというのは、おかしな話である。
日本はどのような道に進めば良いのだろうか。日本の特徴は何かと考えた時、一番大きなものは、「民度」が高いということである。明治維新、大戦後の復興、なぜ日本がここまで改革できたのかということは、「民度」が高かったということがあったのではないか。行政・政治の今後の改革を考えたとき、今一度この「民度」を最大限生かすためにも国民に近い、国から県へ、県から市町村へ、市町村からコミュニティへ、コミュニティから住民へと、権限、財源を移し、活かすことが大事である。行政・政治は主役から住民をバックアップする役割へと変化する。これが私が考える日本型民主主義の究極の完成形である。今は、確かに住民の役割や責任、やる気というものは大変低い状態にあるかもしれない。しかし、権限、財源を与えれば必ず今以上の力の集合ができるはずである。
話がやや横道にそれたかもしれない。私が言いたいことは、日本が今後も輝く国であるためには、現在の習慣や価値観にとらわれず、一人ひとりが輝くことが必要で、その集合体が地域であり、輝く地域の集合体が輝く日本であるという発想を持つことである。そのためには、政治や行政が、現在の利益や体制にとらわれない決断が必要であるということだ。
GNH(国民総幸福量)という言葉がある。これは、ブータンの国王が打ち出したもので、国民一人ひとりが、経済やお金ではなく幸せと感じている人がいかにいるかというものを高めようとした取り組みである。ブータンは一人当たりGDPは1300ドルにも関らず、国民の9割が幸せと感じているそうである。
松下幸之助塾主が目指したものは、PHP(繁栄を通じて平和と幸福の実現を)であった。今日本は、繁栄と平和を享受しながら本当に幸せな国といえるであろうか。確かに今、全国一律の経済的な物差しでは「地域格差」は広がっている。しかし、本当にそれは格差なのであろうか。現状の東京からの物差しでは格差と呼ばざるを得ない。ただ、地域自らが、何が必要か何が幸せかと考えたとき、それは実際は格差ではないかもしれない。豊かな自然、食、人間的つながり、生きがい、誇りを持てる職業、世界に通用する文化、郷土愛・・・東京では失われた人間が本来は幸せと思うものがたくさんあり、逆格差さえあるのではないか。
しかし、今のままでは、その価値は認識されない。むしろ煩わしいものでもあるかもしれない。日本が危機にある今こそ、国のかたちを変えなくてはならない。国の変化を待っていては遅い可能性が高い。まず一歩は私たちで踏み出さなくてはならない。本当に東京で暮らすことが幸せなのか、本当に東京で仕事をすることが効率的なのか、本当に東京で子供を育てることが子供にとって良いのか。東京は進んでいる、地方は遅れているという先入観を捨て、今一度冷静に自分の人生と真剣に向き合ってみませんか。
日本を変えるのはあなた自身の一歩だと思います。その先には元気な地域の連合体である輝く日本が訪れるはずです。
参考図書
『新版世界の地方自治制度』竹下譲著 イマジン出版
『日本再編計画-無税国家への道』斎藤精一郎監修 PHP研究所
『実測!ニッポンの地域力』藻谷浩介 日本経済新聞出版社
『地域再生の経済学』神野直彦著 中公新書
『道州制で日はまた昇るか』道州制.com編著 現代人文社
『脱「中央集権」国家論』江口克彦著 PHP研究所
『私の夢・日本の夢21世紀の日本』松下幸之助著 PHP研究所
『図説日本の財政』木下康司編著 東洋経済新報社
Thesis
Shunsuke Tomura
第27期
とうむら・しゅんすけ
奥出雲町教育委員会 教育長