Thesis
ブータンの方に「幸せですか?」とお聞きすると、答えはみんな「幸せです。」だそうだ。ブータンの50倍近い所得を誇る日本において、年間自殺者は3万人を超えている。日本が望んだ繁栄とは何だったのか。日本人は幸福になれるのか。幸福になるために何をすべきか。
幸福な人間は自殺をするだろうか。日本は幸福な国なのであろうか。
私の疑問は日本の自殺者数を見たときに湧き出した。国民1人当たりのGDPは世界のトップクラスである日本。物質面での繁栄はもたらされ、幸福になる条件が整っているであろう日本において、年間3万人余りの方々が自ら命を絶っている。今や年間交通事故死亡者数が1万人を切っている時代から見ても、また、人口当たりの自殺者数が、アメリカの2倍、イギリスの3倍という点から見てみても、いかにこの数字が大きいかを物語っている。
松下幸之助塾主は、戦後混迷の中、PHP(Peace and Happiness through Prosperity:繁栄によって平和と幸福を)運動を始められた。しかし、塾主が目指された日本は、このような状態ではなかったはずである。本当の幸福を実現するためにはどうしたら良いか、真の繁栄とはいったい何なのかをこれから考えていきたい。
人間誰しも、幸福に生きたいと願っていきていることは間違いない。
ではその幸福とは一体どのようなものであるのだろうか。
幸福論は、これまで様々な人間によって説かれてきた。アリストテレスは「最高の善」と幸福を定義した。ここで言う最高の善とは、人間の欲求に沿った快楽の実現ではなく、良き行動をできることであり、幸福な人間とは、道徳的な人間だと考えた。であるならば、孔子は最高に幸福な人間であり、幸福を人間全体に求めた人間であるといえる。
また欲求階層説で知られるマズローによれば、欲求の充足を幸福と定義するのであれば、人間はある欲求が達成されるとさらなる高次元の欲求が出てくるために、絶対的な幸福は存在しないとしている。
塾主は幸福について以下のように述べられている。
「人間はこの天分に生きることによって、はじめて真の幸福というものを味わうことができると思うのであります。」
この言葉を私なりに解釈すれば、松下政経塾の五誓にもある素志貫徹ということではないかと考える。人間には生きる目的がそれぞれ与えられていて、それは各々素志というかたちで持っている。その素志をどんな困難があろうとも実現する過程、また結果に幸福というものがあるのではないだろうか。
幸福というものは、定義も様々であり、同じような状況にある人間でも感じ方が違う主観的なものであることは否定できない。どのように行動するか、どのような人間となるか、どのように欲求を充足させるか、それぞれに要素があると考える。私は今回、様々な先人たちの幸福に関する考え方の中から、今後幸福について考えるにあたり、以下のように私なりに定義付けたい。
幸福とは、
である。
3.繁栄と幸福の時間軸
幸福を実現するために、繁栄とは本来表裏一体のものであるはずである。日本人が求めてきた幸福、繁栄というものがどのようなものであったかを考える。
終戦直後、日本は物心ともに悲惨な状況であった。極度の食糧不足の状況であり、配給もままならず、生きていく食べ物の確保に必死であり、実際エンゲル係数は、戦前の32.5%から67.8%に急上昇していた。また都市部の住宅の3分の1を焼失し、全国規模でみても生産力は戦前の半分にまで落ち込み、住むところさえどうしようかという状況であった。その状況は、マズローの欲求段階説でいうところの生理的欲求、安全的欲求を国民が持っていた時期であったであろう。
そのような中で国民が幸福のために望んだことは、物質的繁栄であり、塾主が戦前からずっと唱えていた水道哲学のように、「産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには物資の生産に次ぐ生産をもって、富を増大しなければならない。水道の水は、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく、物資を安価無尽蔵たらしめ、楽土を建設することである」という考え方は当然であったと思う。そしてその物質的繁栄があってこそ、精神的な繁栄ももたらされると考えたのもまた当然である。
さて現在である。経済的な側面から考えるとバブル崩壊はあったものの、国民一人当たりの所得は戦前期の8倍に達し、また国際的な比較においても、アメリカ、ドイツ、イギリス等の主要先進国と肩を並べている。また、戦後以来国民1人当たりのGDPは6倍になっているのにも関らず、Penn World Tablesの調査によると、日本人の生活満足度は調査開始の1958年以降一貫して横ばい状況である。
経済的な側面と幸福は関連性がないのだろうか。1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われた1950年代半ばから日本では、食べ物が無い、家が無い、職が無いという状態が一貫して解消されている。日本人にとっては、生理的欲求、安全的欲求は十分に満たされている状態であった。また、安定した経済地盤での終身雇用や年功序列といった日本的な社会制度は、欲求の次の段階である親和(社会的)の欲求及び自我の欲求を満たすのに適したものであったと考えられる。経済成長ということは直接的に幸福とは相関性がないかもしれないが、ある程度の経済の安定というのは、幸福にとっては、重要な条件であるといえる。
なぜ経済成長が幸福に相関性を持たないかである。ここでは2つの点が考えられる。1つは欲求の面である。経済成長は欲求の5段階目・自我の欲求を満たすものではないということである。もう1つは行動の面である。経済成長によりお金を持つようになったからといって、道徳的な行動がとれるということではないことである。例えば、お金があるからこそ、感謝の心を持てるとか、社会のために寄付やボランティアができるとか、模範的な行動がとれるか、ということが如何に連関性がないかということでもわかる。
戦後の日本における幸福は、アランが幸福論で言うところの「人間は、意欲し、ものをつくり出すことによってのみ幸福である。」ということを通り越し、お金持ちになることであるということが信じられた結果であり、その実現手段として、極端な学歴主義や、拝金主義、東京一極集中をもたらした。
日本の未来はどうだろうか。経済面を見れば、膨大な財政赤字や少子高齢化により、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本の経済は過去のものとなることは明らかである。また、未婚率の増加や、出生率の低下は、これまで何とか形を保ってきた家族というものも崩壊させかねない。ただでさえ幸福度が横ばい状態である日本にとって、今まで当たり前に思ってきた経済が支える幸福や、家族愛で感じる幸福というものが当たり前になくなってしまう未来の日本人はどうやって幸福を実現していけば良いだろうか。
GNHという言葉をご存知だろうか。GNHとはGross National Happiness(国民総幸福量)の略で、ブータンの国王が提唱しているものである。ブータンではGDPではなく、このGNHをいかに高めるかを国是としている。ブータンの1人当たりのGDPは約800ドル。日本のGDPが3万ドルを超えていることを考えればその経済力的な差は歴然である。ブータンの国民は幸せなのだろうか。先日、あるテレビ番組でブータンの特集が放映されていた。生活環境は日本の明治・江戸期を想像させる。インフラも余り整っていない、テレビもほとんどない、たばこは禁止。しかし、画面に映し出される国民の笑顔やインタビューに「幸せです。」と答える子供の顔は日本にはないものだった。他国との違いを見せないからそういう結果になると批判もある。しかし、ブータンには日本とは違う幸せのかたちというものがある。
日本人はどうすれば、幸福に生きることができるだろうか。
経済的繁栄は獲得しながら、幸福と繁栄がうまく結びついていないのが日本である。経済的繁栄と本当の繁栄とは違うのであろう。
私はその責任の一端は政治にあると思う。民主主義政治の目的の1つに「最大多数の最大幸福」がある。ここでの間違いは、最大幸福量を高めるために、ある一部の集団の幸福量を高めるために政治を行ってきたという問題がある。また、幸福軸を1つしか認めず、多様な幸福のかたちを否定してきたことにある。大企業に入って高い給料をもらい、たくさんのブランド品を買うべく、良い大学に入るため、受験勉強に明け暮れる子供と、中学卒業後働き、自分のしたい仕事、社会のためになる仕事だが給料は安いという人生には本来優劣はないはずである。どちらも幸福になれるはずである。しかし、社会は前者のみを目指させている。
それは何故か。法律をつくっている政治家や官僚は前者の成功体験しかなく、それを幸福と思っているからである。
あるドイツ人は「繁栄とは、創造的で自由な生き方ができることであり、それを最大限に可能にする政治、社会」と言う。また、イギリスの大学の調査によって幸福度世界2位になったスイスでの興味深いデータがある。スイスは連邦制で州ごとに制度が違うが、住民投票や住民発議など、直接民主制がとられる州ほど幸福度が高いことである。日本人は無関心であるが、政治というものは幸福を実現する重要な要素ではないだろうか。
これまで、幸せとは何か、歴史的変遷、異なる幸福の捉え方を考えてきた。私は日本においては、物質面での幸福の条件は十分に達成されていると考える。ただ首尾一貫して言えるのは、戦後以来、日本はその物質面での繁栄、幸福のみを追求し続け、物質面での繁栄が得られた今、それに続く答えを出せないでいるということである。その答えを導き出すためには、2つの方法があると考える。1つは、何が幸福かを今一度考え直し、多様な幸福のかたちをお互い認めるということである。もう1つは、その多様な幸福の実現を住民参加による政治を通じて果たしていくということである。教育も中央集権も社会価値観も制度疲労を起こしている。今こそ改めるときではないだろうか。
幸福の答えは、皆それぞれで良いと思う。この日本が近い未来、何らかの幸福を感じられる自殺者が出ない国になってほしいと願う。そのためには、一人ひとりが動くしかないのである。
参考図書
『幸福の政治経済学』ブルーノ・S・フライ、アロイス・スタッツァー著 ダイヤモンド社
『豊かさとは何か』 暉峻淑子著 岩波新書
『幸福論』アラン著 岩波文庫
『幸福論(第1~3部)』 ヒルティ著 岩波文庫
『満足社会をデザインする第3のモノサシ』 大橋照枝著 ダイヤモンド社
『人間性の心理学』 マズロー著 産業能率大学出版部
Thesis
Shunsuke Tomura
第27期
とうむら・しゅんすけ
奥出雲町教育委員会 教育長