Thesis
社会保障は人情と国情にあったものでなければならない、と松下幸之助は語った。日本の医療を考えるとき、財政問題や少子高齢化などの国情についてばかり考慮され、日本人の死生観など人情の面は配慮されないままだったのではないだろうか。
医学生だったころ、実習で病院に行くのはとても憂鬱なことであった。出来が悪い学生で、授業にさっぱりついていけなかったことが第一の理由であろうが、なによりもそこ、病院は地上の苦悩が集まるところに見えたのである。病院には老いた人々が集い、病棟には病いに苦しむ人々ばかりだ。ここかしこにかすかな死のにおいがする。病院とは、人間の悩みの源、生老病死がすべて集まるところなのだ。
そのころ、末期患者の治療の姿がスパゲティ症候群と揶揄されることがあった。意識すら失った患者の体に無数の管がささっている。喉元に開けられた穴から挿しこまれ人工呼吸器につながれたチューブ、胸や腹から滲む液体を排出するカテーテル、排泄のため、膀胱に留置された管、薬剤を投与するために静脈に流れ込む点滴、血圧を直接モニターするために動脈に入れられた「Aライン」。患者の体からあふれ出たような無数の管を、スパゲティになぞらえたのだろう。
スパゲティ症候群について、論者はそれを近代医学の思い上がりの姿であり、人間の尊厳を踏みにじるものだとした。時にはそうした処置を「医者が儲けるために無理にやっている」と断ずる者もあった。
実際に医師となり、多くの患者を見てきた。神経内科医として、救急医療にも携わった。救急患者というのは、わからないことが多い。どんな病気をもともと持っていて、予後はどうなのか。病気のこと以外にもたくさんわからないことがある。どんな仕事をしている人なのか。どんな人生を送ってきて、どんな生活をしているのか。家族構成はどんなふうで、それぞれどんな考えを持っている人々なのか。そんなわからないことだらけの救急現場では、なによりも救命が優先される。命を救うために最善を尽くす。だが、患者が治るかどうかはやってみないとわからない。その結果、救われる者がいて、救われない者がいる。医療者はただ命を救おうとして、可能な限りの処置を行う。その結果、点滴が入れられ、人工呼吸器が装着され、膀胱にカテーテルが入れられる。スパゲティ症候群は、その結果としてもたらされるものなのだった。
スパゲティ症候群以外にも、医療現場の問題は多かった。その一つは、命は救われた、「けれども…」という患者である。呼吸が止まった患者を救命しようとして人工呼吸器をつける。治療の結果、自分で呼吸ができるようになれば人工呼吸器ははずすことができる。しかし、治療の甲斐なく、自分自身で行う呼吸、自発呼吸が戻らない場合、人工呼吸器をはずすことはできない。なぜなら、人工呼吸器が患者の肺に空気を送りこんでいるからこそ、その患者は生きている。すなわち、人工呼吸器がその患者の命をつなぎとめているのだ。命をつなぎとめている人工呼吸器を停止させるということは、まさに患者の息の根を止めることにほかならず、それは現行の法制度の下では殺人を意味する。かくして、意識が戻らず、人工呼吸器と点滴などで何年も生きながらえる者もたくさんいるのだ。
「欧米では、口から食べられなくなったら人間は終わりで、その場合、人工呼吸器の装着や経管栄養など“無駄な”延命治療はしない。日本はその点がおかしい」。そんな意見を聞きながら、私のなかにはそう簡単に切って捨ててよいものかという疑問が残っていた。
スパゲティ症候群や延命治療、そうした問題をどうとらえたらよいのか。臨床現場で、悩みは尽きなかった。患者本人にとって、そしてまた社会全体に対して、いったいどんな医療が適正であり、適切なのだろうか。
ある医師の言葉がヒントとなった。「医療は目的ではなくて手段だ」。医療が、生きていくための手段であるならば、目的の正体を知らなければならない。目的=描いているゴールが違えば、当然とるべき手段も異なるはずである。日本人にとって適正、適切な医療を行うためには、日本人が持つ理想のゴールがどのようなものであるかを把握しなければならない。すなわち日本人の死生観をしっかりと理解しなければ、日本人にふさわしい医療は作れないのではないだろうか。
医療を含めた社会保障について、いわゆるアメリカ型の、完全自己責任主義というのはふさわしくないように思われる。国民の安全と安心を脅かす外からの脅威、たとえばテロや犯罪、戦争などに対して国民一人一人の自己責任で身を守れというのはナンセンスだろう。それら外からの脅威に対して完全に一人一人の力で備えるのは不可能だし、可能だとしても非効率的なことおびただしい。それと同じように、内からの脅威、病気や老化などに対しても、完全な自己責任で備えるべしというのはやはりナンセンスである。社会の構成員であるそれぞれが少しずつ負担しあって助けあうことが最も効率的であると考えられる。
かといって、すべてを国が丸抱え、というのもやはり違和感がある。高福祉は高負担と表裏一体であるし、無制限の公助というのも非現実的だ。
松下幸之助は社会保障について、それぞれの国の状況によって違いがあるのはやむをえないし、国情に応じたものであるべきだと述べたあとでこう語っている。
『社会保障がそのように国家の実情に応じたものであることと同時に大事なのは、それがお互い人間の本性に即したものというか、人情というものを十分配慮したものでなければならないということである』
人情と国情に応じた社会保障、人情と国情に応じた医療。こうした視点は、生活者の実感としてとてもぴったりくる。医療のあり方を考えるとき、財政赤字や少子高齢化などの国情は避けて通れない。しかし日本にあった、日本のための社会保障や医療を作るためには、国情だけでなく人情も考慮しなければならない。ここでいう人情とは日本人の死生観や医療観、すなわち医療になにを期待するかというものだろう。医学や国情だけでなく、こうした日本人の人情について知らなければ、理想の医療は作れないだろう。
それでは、日本人はどんな死生観や医療観をもっているのだろうか。
日本の臨終の席では、家族が死に目に会うことがとても重要視される。親の死に目に立ち会えなかった者は負い目を感じる。私も担当する患者が亡くなる際には、患者の家族が病院に着くまで必死で延命を続けたものだ。
そこには何があるのだろうか。あえてドライに考えれば、家族がその場にいないと治療ができないわけでもなく、意識のない患者と言葉を交わせるわけでもない。しかし家族は患者の死に目に会うことを可能な限り望むし、医療者もその願いをかなえるために最善をつくすことに何の疑問も持たない。
文化人類学者の波平恵美子は、その著書『日本人の死のかたち』のなかで『「死者」とは、現在でもなお・・・一挙に「生者」から「死者」になるのではなく、いくつもの段階を経て徐々に「死者」になっていく』と述べる。
日本において、生者から死者への変化はデジタルに起こるものではない。生者から死者への変化、言いかえれば死の完成には時間がかかるのだ。
人は死ぬのではない、死んでいくのだ、と五木寛之も言う。そして『死が完成するために私たちは誕生と同じように、十カ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかもしれない。私たちはそのあいだに静かに、死んでいった人たちを死者として送り出す。』(『大河の一滴』)
生者から死者への変化には一定の儀礼が必要である。通夜、納棺、食い別れ、出棺、葬送から四十九日、果ては「弔い上げ」の三十三回忌や五十回忌。生者を段階的に死者に変えていく儀礼は家族や血縁者の責務とされている。その儀礼はおそらく、「死に目に会う」ことから始まる。最先端の医学の場であっても、死にゆく者に死者としての属性を与える儀礼を果たしたいと家族は願い、そのための第一歩として臨終の場に立ち会いたいと思う。そしてその願いをかなえるべく、周囲も医療者も全力でサポートするのである。そう考えると、末期患者における延命治療は、もしかしたら生者を死者に変えていく現代的儀礼としてとらえるべきなのかもしれない。もしも末期患者における延命治療がそうした儀礼としての意味を持つならば、「治らない患者に医療費をかける、“無駄”な治療」という見方は非常に浅薄だということにはならないだろうか。
また、死者の在り方というものは日本と欧米では大きく異なる。
会田雄次はその著書、「日本人の精神構造」の中で、日本人は『「死んで故郷の土となる」が、ヨーロッパでは「死んだらおしまい」』と述べている。『ヨーロッパでは死ぬことは一般社会はもちろん、妻子までもふくめすべてのコミュニケーションからの切断』であるとする。
確かに日本人の中には本当の意味で「死んだらおしまい」という感覚はないように思われる。死んでまったくの無になる、というよりは「往生」の感覚のほうが現代でもしっくりくるのではないか。『往生は往って生きることである。西方浄土に往って生まれるのだ。』(永六輔『大往生』)。往く先が西方浄土かどうかはわからないが、現代でも亡くなった者はいずこかへ「旅立つ」し、その旅立つ人を生者はこの世で「お見送り」する。
そして日本では、死んでからも死者は生者、家族とのつながりを持ち続ける。毎年、お盆の時期には生まれた家に里帰りまでする。死んだ者は無になるのではなく、死者として存在するのである。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲は1890年に来日し、英語教師のかたわら日本に関する著述を多くした。彼は日本における死者の在り方についてこう述べる。
『日本人の考えでは、死んだものも、生きているものとおなじように、この世に実在しているのである。死者は、国民の日常生活のなかへもはいってきて、いささかの悲しみ、いささかの喜びをも、生きているものたちとともにわかちあうのである。家族の食事の際にも、死者はそこへ出てくるし、家庭のしあわせをも守るし、子孫の繁栄を助けもするし、また喜びもする』(ラフカディオ・ハーン『祖先崇拝の思想』)
日本文化において、死んだ者は死者として現実世界に存在する。生者は死者を敬うことで生きている者の生活も質を高めることができた。死者が死後も語り継がれ、尊敬されるということを見て育った者は、いたずらに死を恐れない。また死者を敬うことで、生者は目標を持って日々を送ることができるし、自らを律することも可能となる。日本文化において死者は生者と強い関係性を持ち続け、その関係性を無視して死や死者を語ることはできないだろう。
松下幸之助もまた、死を全てのお終いとは見なかった。幸之助は「死もまた生成発展」として、死は生成発展の一つの過程であり、万物が成長する姿である、とした。死ぬということは、大きな天地の理法に従う姿であって、そこに喜びと安心があってよい、と述べている。自然の命に従って死を受け入れ、より大きな生命の連鎖のなかに自らの死を置くということであろう。ここでは、より大きな関係性・連続性の中での死という考え方が存在する。
現代日本人の医療観や死生観は、社会制度によって大きく変化してきた。
1961年に整備された国民皆保険制度以前は、医療体制の不備もあり、病気になっても自宅での療養が中心であった。経済的な理由もあって、死ぬ直前まで医師の診察を拒み続ける患者は決して少なくなかった。医療は決して手近なものでなかったのだ。
経済的な問題がある患者のため、「施療患者」という制度もあったほどである。これは医学校などで試験的治療を受けてその結果を学問的に活かすことや、医学生の授業のために自分の病状を教材として提供することを前提に治療費が無料になる制度である。
そんな時代には、病気になれば基本的には寝ているしかなく、病気に抗う術もない。
しかし、国民皆保険制度の整備により状況は急激に変化する。
誰しもが気軽に医療を受けられるようになり、医学の爆発的な進歩と相まって、患者が受けられる医療の内容は拡大に次ぐ拡大を示す。以前は技術的にも経済的にもできなかった、病気の末期における延命治療はしかし、次第に問題視されるようにもなってくる。
山崎章郎は1990年の著書、『病院で死ぬということ』の中で、末期がん患者の終末期において、患者自身が自分の病状についてきちんとした説明を受けることなく、あたかも死がその人自身のものでなく医療者と家族のものであるかのような医療がおこなわれていることを述べた。山崎はそうした状況に大きな憤りを覚えた。この本によると、当時はがんの患者、特に末期がんの患者にほんとうの病名を告げず、うその病名を話すことはよく行われており、治癒が難しい末期胃がんの患者に、難治性の胃かいようとうその病名を話して入院させるなどはよくあることであったという。
同書のなかで、1980年代当時、末期がんの患者の臨終の際、蘇生術は医師の義務と責任として当然のものとして行われていたことが描かれている。山崎は当初、先輩医師たちが手際よく行う蘇生術とその真剣さに圧倒され、感動する。しかし自らが蘇生術に習熟し、何十人にもおよぶ患者を看取っていく過程で、次第に虚しさを覚えていくようになる。
『だが明らかに死の見えた患者への蘇生術は、患者が安らぎの世界に入ることを、強引に妨げているだけでしかない。医療側がかってに患者の体を死との戦いの戦場として使い、そして敗走する。逃げる者たちはたいして傷つかず、戦場だけが荒廃するようなものなのだ。
それら蘇生術のほとんどが医療側の一方的な意思であり、行為にすぎなかったし、いま思えばそれらはただ医療側の自己満足にすぎなかったのだ。』
山崎はこう述べ、末期患者の延命治療は医療者の自己満足ではないかと世に問うた。
私が医師になった1999年ころには、死を医学の敗北とみる見方は少なくなりつつあったようだ。専門分野の違いもあるが、究極的には病いや死は不可避なもので、できる治療は行うが延命治療にはあまり意義がないという考えの医師も増えていた。
また患者の中にも、まさかの時の延命治療は望まない者が多くなってきたように思う。「親戚が病気で何年も意識のないまま治療を受けていたのを見て、自分はそういった延命治療は受けたくないと思った」という患者が何人もいたのを覚えている。患者にとっても医療者にとっても、現在はある種の過渡期なのだろう。
わずか十数年の間でさえ医療者の考え方は変化する。医療者個人個人の違いも大きい。それではそもそも死を、医学はどうとらえるべきなのだろうか。
「医師は無理やり生かすことばかり研究していて、死ということを研究したり考えたりしない」という批判がある。医学にとって死とは敗北であり、そのために医学教育では死を教えないのである。が、医師は病気を治すだけではなく、死についても患者に教えるべきだ、という議論もある。
試しに朝倉書店から出ている内科学の教科書を調べてみると、全二千数頁のうち、死そのものや死の直前について正面から書かれているのは終末期医療の章のうちの半ページ程度である。そこには『終焉は死である。死にいたるまでの生命の維持のあり方については、患者の平素の意思と患者家族の意向、そして患者のもつ苦痛の内容によって考慮する。死は厳かに、かつ、安らかに迎えられるものでありたい』から始まる数段落の記載しかない。
「現代医学は医学生にもっと死について教えるべきだ」という意見を聞くたび、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん(論語 先進篇)」という言葉が私の心に浮かぶ。ときに理解されないが、現代医学は当然のことながら万能ではない。臨床医として多くの患者を見てきたが、正直わからないことだらけだった。わからないことだらけの中から患者の症状や経過を手掛かりに、推測に推測を重ねて診断し、仮説を立てて治療を行う。うまくいけば万々歳で、理由もわからないまま症状が悪化していくこともある。わからないながらも手探りでなんとかやってきて、人間が生きるのにだいぶ役立つが万能ではない、というのが私自身の医療観だ。医師が死について話さない、というのは、生でさえよくわからないのに、死までは手がまわらないというのが本音ではないだろうか。
また医師が死について研究しない、というのは必ずしも真ではない。日野原重明によると、近代臨床医学の父と呼ばれたウィリアム・オスラー博士は、ジョンズ・ホプキンス大学病院で、病人はどのように死んでいくのかを研究したという。死んでいく患者のうち、多くの死は「誕生と同様、ただ眠りであり、忘却であった」と記録されているそうである(『日本の生死観大全書』、特別メッセージより)。死を人間がもてあそんではいけない、という意識もある。人間ごときが云々すべきものではないという意識があるからこそ、医師は死について言葉少なになるのではないだろうか。生と死を知れば知るほど己の限界を知る、という面が医学にはあるように思う。
“赤ひげ”こと新出去定は『…長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ、…』と言い、漫画『ブラック・ジャック』の本間丈太郎は『人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね…』と語りかける。
今後の日本を考えると、社会構造の変化により、核家族化が進み、身寄りのない者も増えていく。社会の二極化や医療抑制策のため、経済的に終末期医療を選択できない者も増えていくだろう。そんななかで、生者とつながった存在、実際に存在し続ける者として死者をとらえるという文化は変わっていくのだろうか。現代人の多忙さゆえに、かつてのように身近な存在として死者を常に思い返すようなことは少なくなっているかもしれない。生者と死者の関係性は薄れていって、最後にはぶっつりとその絆は断ち切られる時代が来るのだろうか。
一方で、遺族が故人の写真に熱心に語りかけるという行為は今でも当たり前のこととして行われている。「死んだじいちゃんが見てる」などの言葉が日常生活で使われても、特に違和感はない。前述した死者が現実的存在として実在するという感覚は意外に根強く残っていくのかもしれない。
いずれにせよ、そうした人情の部分を直視することなく、延命治療などの問題を解決はできないだろう。しかし逆に、こうした日本人の生と死に対する人情をしっかりととらえ、その上で医療問題を考えていけば、多くの人が納得する答えが得られるのはずだ。
現在の医療の姿は医療費などの経済問題を考え、医療訴訟などの法律問題に配慮して姿をいびつなものにしている。しかし理想の医療のために考え配慮すべきは、なによりもこうした人情なのではないだろうか。
参考文献
松下幸之助発言集第37巻、第40巻
波平恵美子『日本人の死のかたち』2004年 朝日新聞社
五木寛之『大河の一滴』平成11年 幻冬舎
永六輔『大往生』1994年 岩波書店
ラフカディオ・ハーン『心』1951年 岩波書店
山崎章郎『病院で死ぬということ』1990年 主婦の友社
杉本恒明、小俣政男 総編集『内科学 第7版』1999年 朝倉書店
澁澤榮一『論語講義』昭和50年 明徳出版社
立松和平、宮坂宥勝、山折哲雄編著『日本の生死観大全書』2007年 四季社
山本周五郎『赤ひげ診療譚』昭和39年 新潮社
手塚治虫『ブラック・ジャック』昭和62年 秋田書店
Thesis
Hirokatsu Takahashi
第29期
たかはし・ひろかつ
医療法人理事長
Mission
医療体制の再生 科学技術による高齢化社会の克服