論考

Thesis

中核病院・自治体病院の「負のトライアングル」/問題の所在レポート

現在、日本の医療は崩壊しつつある。その中でも最も大きな問題は、地域の中核病院・自治体病院が縮小・閉鎖していっていることである。中核病院・自治体病院をとりまく「負のトライアングル」について述べ、解決すべき課題を論ずる。

 現在、日本の医療は崩壊しつつある。かつては軽症を診療所が治療し、虫垂炎(盲腸)などの手術や正常なお産をする自治体立などの中核病院があって、少数だが治療の困難な例が大学病院などの高度医療機関が受け持った。大学病院で学問的なことを学んだ若手医師が、実際の診療に携わり、実践の場で学び、学んだことをその場で活かして臨床のスキルを上げるのが中核病院であった。大学病院は、地域の中核病院に継続的に医師を派遣して臨床の腕を磨かせ、ときに大学病院や他の中核病院と医師の異動を行うことで、地域の医療を維持し、人的交流を行い、地域の医療レベルを一定に保っていた。

 しかし、そうした仕組みは崩壊しつつある。過酷な労働環境や訴訟リスクの高まりにより、従来であれば50代から定年まで中核病院で働き続けていた勤務医が早期に開業したり、小規模個人診療所勤務にシフトしたりしたため、中核病院から中堅医が姿を消しつつある。また新臨床研修医制度により、今までは医学部卒業後、自動的に母校の大学病院に残っていた研修医が大学病院から減少した。このため、大学病院の機能維持のため、派遣していた医師を中核病院から大学病院に引き上げ、さらに中核病院の中堅医師不足に拍車がかかる。かくして、中核病院からどんどんと中堅医師がいなくなっているのが現状である。勤務医一人が病院にもたらす医療収入は約1億円といわれており、医師が辞めればそれだけ病院の収入は減少し、結果、医師不足が経営難を導く。人手不足が、辞めずに残った医療者の負担を増すが、経営難に陥った中核病院は辞めた人員の補充もできず、むしろさらなる経営難を避けるため、残った医療者の給与などを下げる。それがまた医療者のやる気をそぎ、さらなる辞職を引き起こす。こうした中核病院・自治体病院の、医療者不足、労働環境の悪さ、経営難の「負のトライアングル」が進行し、地域の医療が崩壊しつつある。

 こうした「負のトライアングル」による中核病院・自治体病院の縮小・閉鎖に、私は大きな危機意識を持つ。手術や救急医療、化学療法、分娩などはもともと中核病院が得意とする分野だが、小規模診療所では手術や化学療法などは行わず、「頭痛・腹いた・風邪っぴき」を中心とした軽症の患者のみを対象に治療を行う。中核病院から勤務医、特に中堅の勤務医がいなくなることの問題は多岐にわたる。

 第一に、手術や救急医療といった、より直接的に住民の命にかかわる分野を担う者がいなくなる。マンパワーが減少すれば、その地域で行える医療の総量も減少するので、早期胃がんの手術のために半年間順番待ちをしたり、救急医療を受けられないために命を落とすものも増える。

 第二に、そうした地域医療の縮小・崩壊は地域自身の崩壊につながる。世論調査によれば、国民の最大の不安は「老後」と「健康」である。「老後」と「健康」を保障する医療がない地域には住民は流入せず、相対的に安心な地域に移動することになる。

 第三に、診療技術が伝承できなくなるという危惧がある。こうした中核病院は若手医師が実践的に診療技術を学ぶ場所であるが、その際に重要なのは、中堅医師からオン・ザ・ジョブトレーニングで診療技術を伝承する。中核病院から中堅医師が立ち去り、極端に言えば病院長と研修医だけになったときに、誰が研修医を実践的に指導できるだろうか。

 中核病院・自治体病院の機能を維持し、地域医療を守っていくためには、前述の「負のトライアングル」をどこかで断ち切らねばならない。政策レベルでは三点、現場レベルでは二点の要点がある。

 政策レベルでは、医療費の増加、医師数の増加、訴訟リスクの軽減が必要である。国民皆保険制度は、医療行為の値段を保険点数として国が決め、その決められた値段の元で医療行為が行われる、一種の統制経済である。「誰でもいつでもどこででも」医療を受けられる体制を築いた功績は大きいが、一方で、その歪みは日に日に大きくなっている。というのも、保険点数は、コストを考えずに決められているからである。医療費削減策のもと、収入にあたる保険点数は抑制され削減されてきた。しかし医療機関にとっての支出である薬剤費、器械費、人件費は物価上昇とともに増大している。このため、一部の医療行為は収入を支出が上回り、「やればやるほど赤字を産む」状況になっている。特に救急医療や小児医療などは赤字部門の代表である。運営者である自治体や、病院本体に余裕があるうちは自治体からの繰入金や病院の他分野の売上でカバーされていたが、今はその余裕も他分野にない。そのうえ、ある大学病院のように救急センターが独立採算制を取っている医療機関では、経営上の観点から、救急医療は病院経営の「お荷物」部門となり、自然と医療自体も委縮せざるをえない。2006年の医療費総額で見ても、米国の対GDP比15.3%、OECD諸国のうちデータを提出している国の平均の9.0%に比べ、日本は8.1%と先進国では最も低い。

 医師数に関し、医学部定員削減策を通して日本は医師数を抑えてきたが、人口1000人あたり3.4人の医師のいるフランス、OECD諸国平均2.9人、アメリカ2.4人に比べ、日本は2.1人と少ないマンパワーで取り組んでいることがわかる。(1)高齢者は一般的に、若年者に比べ医療需要が高い。人口の20%以上が65歳以上の我が国では他国に比べ医療需要が高いはずであるが、それに比べ供給者側は他国よりマンパワーが少ないことは留意しなければならない。

 また訴訟リスクの高まりは、医療の委縮をもたらす。訴訟リスクの高まりのため、患者のために医学的・医療的に最善を尽くすことではなく、訴えられないことを最優先して医療が行われている傾向は否定できない。治療のためのリスクがある際、万が一訴えられたときのことを考えて医療者側が委縮するだけでなく、救急医療や産科、小児科などそうしたリスクの高い分野からは撤退していく。このうらには1998年には600件程度であった医療過誤訴訟が現在は1000件を越えている(2)という数の増加だけでなく、いわゆる「トンデモ判決」が目につくようになってきたという医療者側の意識がある。「トンデモ判決」とは、医学・医療の常識に反していたり、あいまいな根拠に基づいてこじつけに近い形で重罰を科したりする医療裁判判決のことをいう(3)。さらに現在、厚生労働省で進められている医療事故調査委員会が今の試案のまま設置されれば、さらなる委縮医療を招き、かえって医療の安全を停滞させることが懸念される(4)。

 医療費、医師数、訴訟リスクについて述べた。そもそも現況の医療崩壊に対し、政策面で考えられる上記のような解決策がとられない根本原因はなんだろうか。

 根本原因の一つに、医療政策が医療現場の声を反映せずに決められていることが大きいと考える。

 厚生労働省では医系技官として医師を採用しているが、応募資格は医学部卒業5年未満としている(5)。ほかの業界を考えても、職業について5年未満の者がその業界を代表できるだけの経験を身に着け、見識を深められるかというと、率直にいって疑問に感じてしまう。また各種の審議会なども、実際に臨床現場で一人ひとりの患者の診療に携わるより、学問的研究や組織のマネージメントに時間を割いている者が多かったり、現役臨床医師とはいいにくい年齢の者もいたりするなど、メンバー構成に偏りがあることも現場感覚を薄れさせている。また個人的な印象だが、こうした審議会などは、社会に対してわかりやすく医療や医学、医療政策を語りかけるということを自らの任務としていないように思われてならない。

 これに対し、アメリカではオバマ政権がインド系脳外科医でCNNなどの特派員でもある39歳のサンジャイ・グプタ(Sanjay Gupta)博士を公衆衛生局長官候補とするなど、臨床現場と行政を近付ける努力をしているように思われる(6,7)。

 現場レベルの問題点としては医療者側からの発信がないこと、自治体病院において時に経営がうまくいっていないことが挙げられる。

 36時間連続勤務に代表されるような労働環境の悪さ、医療訴訟リスクや一部にみられる理不尽で悪質なクレームの問題などは、医療現場から外に出ると実はあまり知られていない。最近でこそ少しずつ報道されるようになってきたが、前述のような政策転換をせまるほど世論が動くまでには至っていない。これは、医療者の中に、「自分が頑張れば報われる」あるいは「文句を言うくらいなら“潔く”第一線の医療現場を立ち去る」という気質があるからではないだろうか。しかしもし医療を守るために現場をよくなることを望むなら、それを社会に伝えていく努力を十分にしなければならない。あるNPO法人の方の、「患者さんが“具合が悪い”と訴えてはじめて病気の治療が始まる。今は病院が“病気”なのだから、病院で働く医療者自身が“具合が悪い”と訴えなければ、病院の“治療”は始まらない」という言葉が思い起こされる。

 現在日本にある約1000の公立病院(自治体立病院)の大半は経営的に非常に厳しい状況にある。公立病院では医業で100の収入を得るために109の費用をかけている(8)。自治体立病院の経営改善のため、総務省は公立病院改革ガイドラインを策定し、経営効率化については3年以内、経営形態の見直しなどについては5年以内にプラン策定を求めている(9)。前述のとおり、マクロな政策的視点では過度の医療費抑制が自治体立病院の経営難の大きな原因であるが、一方で個々の病院については経営改善の余地があり得るのも事実である(10)。また、自治体病院の「負のトライアングル」の中でも、地域との連携により医療者不足に対して向かい合っている例(11)もあり、現在の制約の中ですべての工夫をやりつくしたわけではない可能性がある。

 地域の中核病院・自治体病院の崩壊を中心に、政策面での3つの課題(医療費不足、医師不足、訴訟リスクの高まり)とその根源にある臨床現場の現状把握が乏しい行政という問題、現場レベルでの2つの課題(医療者側の発信が十分でないことと経営の問題)を述べた。現場で日々苦闘している医療者や病院運営者の努力を思い、現場に対し甘めの表現になったことは否めない。しかしこれらの課題を解決し、自治体病院・中核病院を守ることは医療現場のためだけでなく日本のために必須であるとの思いは嘘偽りないものである。

参考文献

(1)OECD health data 2008
http://www.oecd.org/document/16/0,3343,en_2649_34631_2085200_1_1_1_1,00.html
(2)近藤喜代太郎『医療が悲鳴をあげている』西村書店 2007年ほか
(3)日経メディカル2007年10月号『医師を襲うトンデモ医療裁判』
(4)井上清成『医療再建』毎日コミュニケーションズ 2008年ほか
(5)厚生労働省ホームページ『医系技官採用~応募から採用まで』
http://www.mhlw.go.jp/general/saiyo/recruitment.pdf
(6)The Washington Post (オンライン) 2009年1月6日投稿の記事より
http://voices.washingtonpost.com/44/2009/01/06/obama_wants_journalist_for_sur.html?hpid=topnews
(7)冷泉彰彦『from 911/USAレポート第391回』
Japan Mail Media 2009年1月10日配信
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report3_1509.html
*ただし後グプタ博士は医療に専念したいということと家庭と過ごす時間を取りたいことを理由にオファーを断った。
Time(オンライン)2009年3月10日
http://www.time.com/time/health/article/0,8599,1884008,00.html
(8)日本政策投資銀行 『自治体立病院の現状と動向について(Ⅱ)』
http://www.dbj.jp/reportshift/report/etc/pdf_all/0802.pdf
(9)公立病院改革ガイドライン
http://www.soumu.go.jp/c-zaisei/hospital/pdf/071224_zenbun.pdf
(10)武弘道『こうしたら病院はよくなった!』中央経済社 2005年
(11)平井愛山、秋山美紀『地域医療を守れ!』岩波書店 2008年

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高橋宏和の論考

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Hirokatsu Takahashi

高橋宏和

第29期

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