Thesis
「一番でなくてはダメなんですか?二番ではダメなんですか?」。2009年秋、スーパーコンピュータ事業に対しそんな言葉が浴びせられた。この言葉は、我が国の科学軽視傾向を示している。だが日本は、今こそ科学立国を目指さなければならない。科学立国は、人間が人間らしく生きる国への道でもあるのだ。
「一番でなくてはダメなんですか?二番ではダメなんですか?」
2009年秋、東京市谷の国立印刷局、事業仕分けの会場でこんな言葉がスーパーコンピュータ事業に対して「仕分け人」から発せられた。
以前より我が国の政治家が科学技術に対し関心が薄く、科学研究軽視の傾向があるのではないかという懸念があった。テレビのニュースを見ながら、ここまで来てしまうのか、と私は落胆した。
科学の世界では、一番であることにこそ意味がある。一番に何かを発見した人は永久に科学史に名を残し、二番目は永久に忘れ去られる。一番に何かを発明した人は特許を得、時に莫大な富すら手に入れるが、二番目には何も与えられない。法則や病気は、その概念を確立するのに一番に貢献した学者の名を冠して呼ばれることになる。
科学だけでなく、スポーツだってなんだって、一番でなければ意味がないことは多い。そもそも二番ではなく一番だからこそいろいろ出来るのだということは、総選挙で自民党を下し政権についた民主党や、小選挙区で勝ち抜いた議員自身が「一番」わかっているはずだろう。
立花隆はこの事業仕分けをこう嘆いた。
「(略)記録を取り寄せて、議論を逐一追って驚いた。議論らしい議論がほとんどないのである。だいたい議論をしようにも、次世代コンピュータがそもそもどういうもので、いま世界のスーパーコンピュータがどのような状況にあり、そこに投じられる予算が何にどう役立つのかなど、議論の前提になる知識を少しでも持っている人は、仕分け人の中に事実上一人しかいなかった。あとの仕分け人たちはチンプンカンプンの議論をしただけで、最後にもっともらしい顔で挙手をしただけなのだ。」(1)
この事業仕分けにおける科学研究予算削減劇場は、政治において科学は十分理解されず、軽視される存在であるというメッセージを研究者や国民に与えてしまった。残念ながら、こうした科学の軽視は、事業仕分けの会場だけでなく、日本の社会全体に見られている。
テレビや雑誌では血液型性格判断や前世占いの人気は高く、学校では科学に対する興味関心の減退が懸念されている。科学的に見ればナンセンスとしかいいようのないカルトや「スピリチュアル」ビジネスの被害にあうものも後を絶たない。
その国の政治はその国民の意識の表れだとすると、事業仕分けにおける科学軽視も、こうした社会の傾向の反映にすぎないのかも知れない。
それではなぜ、日本社会では科学が軽視され、カルトや怪しげなビジネスが跋扈してしまうのだろうか。
科学が軽視される背景には、さまざまな要因があるだろう。
科学自体が高度化・複雑化・専門化しすぎたこと、技術がブラックボックス化してどういう仕組みで機械が動いているのかを市民がわかりにくくなったことなど、科学に携わる側の事情も大きい。社会が便利になって、自分で何かを不思議に思い考え抜いたり、自分の手で何かを作ったりするよりも、与えられた膨大な情報を少しでも早く処理したり、与えられるものを消費するだけの存在になってしまったことなども考えられる。
問題の根が深いのは、こうした科学軽視が必ずしも市民の日常生活の中で意識されていないことだ。
テレビをつければ科学的ならぬ科学チックな番組が流行しており、自称脳科学者がなんでもかんでも「脳科学では」とのたまう。気が遠くなるほどの時間と労力と幸運の女神の気まぐれによってやっと得られるはずの「最新の研究結果による知見」が、よくも都合よく毎週毎週出てくるものだと呆れてしまうが、世間はそれに疑問も抱かず受け入れる。2010年1月8日付けのニュースで、自称脳科学の「神話」が独り歩きすることを懸念し、日本神経科学学会が指針を示し、警鐘を鳴らしたと報じられた(2)。実際には、同学会の「ヒト脳機能の非侵襲的研究」の倫理問題等に関する指針の主眼は脳機能研究において被験者の福利や研究に関する倫理的・法的・社会的な問題への配慮を呼び掛けたものであるが、この指針の中で「(略)脳の働きについて新たな知識が得られることによって、一般社会に不正確あるいは拡大解釈的な情報が広がり、科学的には認められない俗説を生じたり、或いは脳神経科学の信頼性に対する疑念を生じたりする危険性が増大している」との現状認識が示されている(3)。
しかし残念ながらそのメッセージが社会に到達し、科学とニセ科学がきちんと「仕分け」される可能性は低いように思われる。現代日本社会ではまだまだニセ科学が横行し続けるだろう。
こうしたニセ科学の横行はなぜ起こるのだろうか。
佐藤優は立花隆との対談の中で血液型性格診断を例に、「ニセ科学の破壊力は現在、かつてないほど大きくなっている」と憂慮し、その原因として「順応の気構え」を挙げている(4)。佐藤はユルゲン・ハーバーマスの著書を引き、科学技術が進んで人々の識字率が上がっているのに、なぜ安易にニセ科学に騙されてしまうのかを、順応の気構えにあるとしている。すなわち、識字率に代表されるように、個々人の能力は昔と比べ上がっているが、学ぶべきこと、真贋を見分けるべきことがあまりに膨大になり過ぎ、自分自身ですべてを検証するにはとてつもない労力を必要とするようになってしまった。このために、人々は識者の言うことを丸のみにして信じる用意、すなわち順応の気構えが出来てしまったのだという。この順応の気構えが出来た人々は、テレビで「これが科学ですよ」とたれ流しになっているものをそのまま無批判に受け入れてしまう。
脱線するが、こうした順応の気構えが宗教的・信仰的な方面で働くと、そこにはカルトやスピリチュアル・ビジネスの落とし穴が待ち構えている。
カルトやスピリチュアル・ビジネスに絡め取られやすい人の共通点として、社会性、関係性やアイデンティティ、知性が脆弱化している傾向があるのではないかと櫻井義秀は分析する(5)。
この個人についての仮説は、現代日本の社会全体について述べたものと読み替えることができるかも知れない。長引く不況と格差拡大、貧困の連鎖などによって日本の社会的・経済的な強靭さが減少し、中国の台頭によって世界第二位の経済大国、アジア唯一の先進国というアイデンティティが失われつつあり、伝統文化の希薄化も進む。人間関係では地縁、血縁、職縁のいずれも弱まる一方である。知性の脆弱化についてはゴールデンタイムのテレビショーを一見すればこれに付け加えることもあるまい。
ここまで科学軽視の社会的背景について考えた。
公平を期すために、こうした科学離れは日本特有のものではなく、ほかの先進国にも見られることに触れておきたい。トーマス・フリードマンはその著書の中に、教育現場では科学や数学が軽んじられ、今日のアメリカ社会では医者か弁護士か投資銀行家になるのが最高で、エンジニアや科学者はおよびでない、と嘆くエール大学の学生を登場させている(6)。また後述するPISA(Programme for International Student Assessment)でも、先進国アメリカの15歳児の科学的リテラシーは57の国と地域中29位、同じく先進国フランスは25位であり、得点もともに平均点以下である(7)。
いずれにせよ、科学軽視や過剰な順応の傾向は社会を不安定化する遠因になる。そして言うまでもなく、科学軽視は我が国を衰退へ導きかねない。
社会全体の科学軽視、科学への無関心を反映してか、研究者たちは冷遇され続けている。
水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』は、医歯薬系を除く理系・文系博士の就職率が約50%で、理系や文系の博士号を持ちながら常勤の研究ポストにつけず、塾講師やコンビニ店員のバイト、パチプロなどで食いつないでいかざるを得ない者が毎年何千人も生み出されている事実を述べて、読む者に衝撃を与えた(8)。
博士号を取得したものの常勤の職を得られない者への「就職しようとする努力や意志が足りない」「能力の不十分な者まで大学院に進学するからだ」「そもそも自分で決めたことだろう」などの批判や自己責任論に対して、水月はこうした“フリーター”博士、「高学歴ワーキングプア」は、少子化による教育産業の成長後退期に大学などの既得権益を守るため、構造的に作り出されたものであると反論した。同書では「博士生産には多額の税金が投入されていることも忘れてはならない」と指摘し、博士を育てるのに10年の月日と1億円の税金(学生一人あたりの学生運営交付金330万円×9年間 など)を使っているのに、社会はせっかく育てた博士を活かしていないと憤る(8)。
「能力が不十分な者」だけが冷遇されているわけではない。
2010年1月3日の朝日新聞で、京都大学iPS細胞研究センター長の山中伸弥教授は、再生医療の最重要技術の一つであるiPS研究にとって、現在は重要な時期であるとし、こう述べている。
「せめて10年、資金繰りと雇用を心配せず、研究に没頭させてほしい。成果が出なければ10年後にクビにしてもらってもいい」
世界に先駆けてiPS細胞の開発に成功したトップランクの研究者すら研究に没頭させることができず、「雇用」を心配させてしまっているのが日本の現状なのである。研究分野における雇用の問題は非常に深刻である。同記事のなかで山中教授はこうも述べる。
「我々のセンターの17人の研究者のうち専任は1人だけ。残りは兼任と、半分以上は非常勤扱い。マウスの実験時からともに取り組んでいる同僚ですら、非常勤で不安定な身分だ。」(9)
研究者の雇用の問題には、もっと関心を払われなければならないのではないか。
前述のスーパーコンピュータ事業の予算縮減でも、スーパーコンピュータ本体やハードウエア、建物の予算を縮減するようなイメージで議論が進み、報道もそうした印象を国民に伝えた。しかしこの事業には「次世代生命体統合シミュレーションソフトウェアの開発」などの研究が含まれるため、予算が縮減されれば、研究費で雇われている何十人もの若手研究者が突如として雇用を打ち切られて放り出される事態になる、ということを東京大学医科学研究所の宮野悟教授は訴えている(10)。予算縮減の裏に隠れたこうした若手研究者の雇用の問題は、派手な政治ショーの影に隠れて報道されず、国民も意識することはなかった。
前述の事業仕分けは、財政再建圧力により行われた。確かに2009年9 月現在、国債や借入金などの合計は約865兆円にも上る(11)。税収が落ち込む中、予算の削減が重要課題であることは事実である。しかし我が国は、技術力によって優れた製品を作り出し輸出により富を得ている国である。短期的な予算緊縮のために科学分野の予算を削減することは、金の卵を産むガチョウを殺してしまうにも似て危険なことではないだろうか。
今から96年前の大正2年、築地精養軒にてある男性が会合の参加者150名に呼びかけた(12)。
東洋の一隅に僻在していた小日本はいまや世界列強の班に列するまでになった。大正の御代となっては、この発展をいっそうさかんにしなければならない。それには事業の発達、とくに化学工業の発展が急務である。(中略)
「(略)いかにかして日本固有の……少くも東洋固有の材料もしくは事業を研究し、発明して起さなかったならば、本邦の産物を世界に広く売り広めて、世界の富を本邦に吸収することは覚束ないと思われるのであります。それゆえに何か新たに有益なる発明研究をしなければならぬと思います」
と彼は説き起した。その発明研究には基礎を積みあげねばならぬ。「急がばまわれ」である。
(宮田親平『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』より)
彼とはタカジアスターゼやアドレナリンの発明者である高峰譲吉であり、会合は国民科学研究所設立を呼び掛けるものであった。この会合の座長・渋沢栄一の奔走もあって理化学研究所が設立される。設立後、理化学研究所は、鈴木梅太郎がビタミンB1を発見し脚気の特効薬として売り出したことなどで、またたく間に理研コンツェルンを形成していく(12)。
日本固有の事業を興し、世界に広く売り広めて世界の富を吸収する、というモデルは、大正でも平成でも変わらない我が国の発展スタイルである。そしてそのためには短期的な無駄として科学研究予算を削るのではなく、「急がばまわれ」の心でしっかりと「何か新たに有益なる発明研究をしなければならぬ」。
もし我が国が今後も発展を続けることを望むなら、政策レベルでも個人レベルでも科学離れを食い止め、真の科学立国を目指さなければならない。
真の科学立国となるために、我々は何をなすべきだろうか。単に先端科学技術関連の予算を増やすだけで後は何もしなくてもよいだろうか。
言うまでもなく、その国の予算を決めるのはその国の政治であり、その国の政治を決めるのは国民である、ということを考えただけでも、強引に数年間、先端科学技術関連の予算を増やすだけでは科学立国の道は開けない。
真の科学立国のためには、国民一人一人が科学に対し理解を深めなければならない。そもそも冒頭のスーパーコンピュータ予算からして、「国民の理解には至っていない」という理由で縮減されているのだ。国民一人一人の科学リテラシーを高め、見る目を養う必要がある。理想は国民一人一人がしっかりとした科学知識と考え方を身につけることだが、膨大な情報量をすべてを個人で価値判断することが困難なのも確かであり、識者の言を信じざるを得ないのも現実であろう。
一朝一夕に国民全体の科学リテラシーが上がることは難しい。せめて信頼できる識者をきちんと見つけることだけでもできるようになるにはどうすればよいか。
PubMed(13)やGoogle scholar(14)と言った検索サイトがその一助になる。これらのサイトでは、自称他称問わず科学者、研究者の学問的業績を知ることが出来る。氏名を入力すればたちどころにしてどんな内容の論文をどれくらい書いたかという学問的業績がわかり、特に後者では論文の引用数を知ることが出来る。論文が引用されるというのは、「プロが認めたレストラン」のようにその業界(=専門研究分野)における重要度をある程度反映するものなので、いくらテレビに顔をたくさん出していても論文引用数が少ない者はその研究分野を代表する学問的専門家、識者とするのはふさわしくない。
また、政策レベルでは二つの方面に力を注ぐ必要があるだろう。
第一には初等科学教育に力を入れていくことが挙げられる。これにより、より多くの子どもたちが科学に対する関心を持ち、その中の一部が優れた研究者となり、研究者とならなかった者も、科学に対する関心・興味を持った市民となって科学研究振興政策を強力に支持していくことが期待される。
初等科学教育の充実という提案に対しては、そうしたすぐに結果が出ないものにお金を回すのは、今のひどい経済状況が良くなって余裕が出てからでもよいのではないか、という反論が予想される。
しかし、再び歴史を振り返ってみると、日本をはじめとする東アジア、東南アジアでは、経済的発展に先だって、初等教育に力を入れている。アジアでは、初等教育の充実、人材養成により個々人の能力が向上し、これによってその国全体の経済発展ももたらされた。初等教育の充実は、決して結果ではなく国が豊かになる原因であった。アマルティア・センはこうした指摘をし、「発展のために何よりも最初になされるべきは、金持ちや地位の高い人々のためではなく、むしろ貧しい人々のためになるような、人間的発展と学校教育の普及の実現です」と続ける(15)。人間発展と経済発展に関するセンの考えは科学教育に限られたものではないが、初等教育による国民一人一人の能力開発が、経済発展の結果ではなく原因であるということは踏まえておくべきだろう。
科学立国のために初等科学教育に力を入れるべきだとして、それではどのような教育が望ましいだろうか。選択と集中を旨とし、科学技術や政治のエリート層を早い段階で育てることに集中すべきだろうか。
これに対し、阿部彩はその著書の中で非常に示唆に富む指摘をしている(16)。
日本の子どもの学力低下を示す一つの例として、OECD諸国で学力の比較をするPISAのデータが用いられることが多い。PISAは2006年には57の国と地域から約40万人の15歳児が参加して行われる。成績は、読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーなどで測られ、全参加者の平均点がそれぞれ500点になるように設定される。2006年のPISAにおいて、日本人の子どもの学力は読解力で15位(498点)、科学的リテラシーで6位(531点)、数学的リテラシーで10位(523点)であった。
阿部はこれらの成績をさらにその国の子どもたちの中の上位5%の子どもだけの平均点、上位10%の平均点、上位25%の平均点、下位25%、下位10%、下位5%とそれぞれサブグループに分けて各国と比較し、特に下位5%の子どもの平均点に注目した。すると、全体の平均点が高い韓国やフィンランドでは、それぞれの国の下位5%の子どもだけの平均点が読解力で400点くらいであるのに対し、日本の下位5%の子どもだけの平均点は320点と80点も差がみられたという。ちなみに上位5%の成績トップ層だけで比較した場合、トップの韓国、フィンランドと日本のそれぞれ上位5%では20~30点程度しか差がない。これを踏まえ、阿部は「つまり、韓国・フィンランドと日本・イギリスの二グループの読解力の差は、学力の上部ではなく下部でおこっているのである」とし、「学力格差の底辺の子どもたちの学力向上を図ることは、(中略)、子ども全体の学力を底上げすることになるのである」と結論づけている(16)。
ここから国の政策として科学立国を目指すとき、エリート層を育てることだけでは不十分であることが導き出される。もちろん国の教育の評価基準としてPISAがふさわしいのであればという前提つきであるが、下位5%ないし25%の部分の底上げをすれば、全体の学力も上がることが予想される。山の頂きを高くしようとすれば、ふもとも広く、ある程度高くなければならないのだ。
そのために、AST(Assistant Science Teacher)という制度があってもよいのではないか。これはALT(Assistant Language Teacher)にならったもので、ALTは海外からnative speakerを呼んで中学校や高校の英語の授業のアシスタントを行わせるというものである。これにより生徒は自然な形で英語に接し、苦手意識をもたずに英語に親しむことができる。
現在、大学院で博士号を取得しても就職先のないものは1万人を超える。すべてを救うことは出来ないが、その中で初等教育に関心がある者をASTとして雇用し、生徒に科学の魅力と科学的思考に触れてもらうこととすることで科学立国の一助とする。前述の『高学歴ワーキングプア』の中でも、博士号を教員免許とし人手不足の小中高校に配置することや、「学び」への知的好奇心を喚起する専門教育者として働いてもらうことなどを提案している(8)。
政策レベルでもう一つやるべきこととして、研究機関の<大リーグ>化がある。野球の大リーグには、世界中から超一流の野球選手が集まり互いに競いあっている。そこに集まる選手は、単に高額な報酬にひかれているだけではないだろう。超一流の選手が集まっていてその中で野球が出来ること自体が、選手を惹き付ける魅力になっているのではないだろうか。シリコンバレーでは「一流の人間は一流の人間とともに働きたがり、二流の人間は三流の人間を雇いたがる」という言葉があるという。
それではどうしたら国内の研究機関を<大リーグ>化できるだろうか。研究者は研究以外の部分の安定と自由を好む。研究以外のことに心乱されていては深い研究は出来ない。一年ごとに細切れの契約や、成果主義でギチギチの職場ではなく、安定した雇用とそれぞれの専門分野にじっくりと取り組める環境を用意することが、良質な研究者を集める道である。良質な研究者が集まれば、互いに刺激を与えあう環境が生まれ、それがさらに別の研究者を呼ぶ。そうすれば自然と日本国内の研究レベルは上がっていくはずである。そのためには、研究に必要なのは研究室や実験機材だけではないことを再認識しなければならない。研究に従事する研究者こそ大事であり、研究者が研究するには雇用とそのための予算が必要だというあたり前のことを政策の出発点におかなければならない。
我が国の繁栄の礎は科学にあり、科学の繁栄の礎は研究者である。
真の科学立国となったときに何が得られるか、最後に確認して論を閉じたい。
真の科学立国では、基礎研究が発達し、そのうえに応用科学が花を咲かせ、産業が興り、社会が物質的に豊かになる。だが実は、物質的に豊かになることだけが科学立国の目的ではない。それならば金融工学で世界中から富をかき集めたり、カジノを作って観光客を呼びお金を落とさせたりすることでもよいのだ。
それならばなぜ、金融立国やカジノ立国でなく、科学立国を目指さなければならないのだろうか。
多くの動物は与えられた環境のなかで生を謳歌し、子孫を残して死んでゆく。人間だけが、大自然の中に法則を見つけ、真理を探究しようとする。一人の人間が知ることのできる自然界の真理は、ごくひとかけらだが、先人が残したひとかけらずつの真理の集積によって、我々はさらに多くのことを理解することができる。先人が積み上げた「知」という巨人の肩に立つことにより、より遠くの地平を眺められるのだ。真理を探究したいという欲求、それは、海辺の砂浜で子どもが無心にきれいな石を探し、喜ぶような、人間の本能なのではないだろうか。
繰り返す。大自然の中にすべてを動かす法則、天地の理(ことわり)を見出し、真理を探究し、善や美を愛するが如く真を尊ぶことが人間を人間たらしめている。
人間らしく生きたい、それは誰しもが持つ根源的な願いだ。もし人間が考える蘆(あし)であり、真理を追い求めることが人間を人間たらしむのであれば、科学により国民がしっかりと考え、科学により真理を追い求める真の科学立国への道は、人間が人間らしく生きる国へと続くのである。
引用文献・引用サイトなど
(1)週刊現代2010年1月9・16日合併号
(2)asahi.com (朝日新聞社) 2010年1月8日 『脳研究の「神話」独り歩きに警鐘 日本神経科学学会』
http://www.asahi.com/science/update/0108/TKY201001080349.html等
(3)日本神経科学学会「ヒト脳機能の非侵襲的研究」の倫理問題等に関する指針 非侵襲的研究の目的と科学的・社会的意義
http://www.jnss.org/japanese/info/secretariat/rinri/02.html
(4)立花隆 佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』 文藝春秋 2009年
(5)櫻井義秀『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』新潮社 2009年
(6)トーマス・フリードマン『フラット化する世界』(下巻) 日本経済新聞社 2008年
(7)OECD生徒の学習到達度調査~2006年調査国際結果の要約~
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/071205/001.pdf
(8)水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』光文社 2007年
(9)2010年1月3日朝日新聞
(10)医療ガバナンス学会メールマガジン:MRIC 2009年12月1日配信および
Japan Mail Media No.560 2009年12月1日配信 医療に対する提言・レポート from MRIC 「行政刷新会議 スパコン騒動を振り返る」
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report22_1851.html
(11)財務省報道発表 国債及び借入金並びに政府保証債務現在高
http://www.mof.go.jp/gbb/2109.htm
(12)宮田親平『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』 文藝春秋 1983年
(13) PubMed.gov
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/sites/entrez/
(14) Google Scholar
http://scholar.google.co.jp/schhp?hl=ja
(15)アマルティア・セン『貧困の克服―アジア発展の鍵は何か』集英社 2002年
(16)阿部彩『子どもの貧困-日本の不公平を考える』岩波書店 2008年
Thesis
Hirokatsu Takahashi
第29期
たかはし・ひろかつ
医療法人理事長
Mission
医療体制の再生 科学技術による高齢化社会の克服