Thesis
金融危機を境に、世界は今までの資本主義の在り方をもう一度見つめ直す時期に来ている。世界の中で日本の果たす役割とは何か、そして、今後向かうべき日本の在り方はどういうものなのかを説いていく。
「世界中が背伸びをしている」と放った友人の言葉が、今も私の心を突き動かす。リーマン・ブラザーズの破たんから始まる世界金融危機の1ヵ月前の2008年8月のことであった。この言葉は、アメリカ留学時に大学の寮で同部屋だったオーストリア出身の友人から聞いたものだった。彼は、大学院卒業後の進路に金融機関を志望しないという。彼は、「今の世界を席巻している金融中心の資本主義社会は背伸びをしている状態であり、その背伸びは、短期的な成長を生むだけで長くは続かない。背伸びをしていることに耐えきれなくなり、いずれこの成長は行き詰まりになる」と言っていた。実際に、その1ヵ月後にアメリカ発の金融危機が世界を席巻することになった。
一方、同時期に、私は、ニューヨークの米国系大手金融機関で働くパキスタン出身の友人を訪ねていた。ニューヨークでは、2週間ほど彼の家に滞在することになったが、彼は、会社の近くに居を構え、朝5時に出て、夜中の2時に帰ってくる生活を続けていた。彼の生活を見ていると、日本が世界で「勤勉で働きすぎである」と言われた時代も過去のことであるという思いになった。“今ニューヨークで働く企業人は、日本人と同様、もしかしたらそれ以上に働いているのでは”と感じた。また、“こんな生活は長くは続かない。莫大なお金を引き換えに人としての大切な生活を失っているのでは”とも感じた。この異常な状況が、彼の身にのみに起きているのではなく、ニューヨークで働く金融機関の企業人の間では、ごく一般的な生活状態となっていた。その1ヵ月後に、リーマン・ブラザーズが破たんし、世界が不況へと包まれることになる。
世界を席巻する資本主義は、1970年代から大きな変化が始まった。グローバル市場が競争的になり、GEやGMのような巨大企業の独占が崩れ始めた。その原因は、情報通信技術や金融技術の発達である。企業の合併・買収によって産業構造が変わり、多国籍化によって労働集約的な製造業は海外移転している。現在の資本主義下では、投資家や消費者が企業に対して、強い影響力を持つ。たとえば、投資家は、経営者に対して、社員のリストラを求め、消費者は、ファーストフードや牛丼チェーン店、100円均一などの低価格の製品を選ぶ。資本主義は、科学技術によって、人類に物質的な豊かさをもたらしたが、そのために、かえって人間の物を大切にするといった側面を貧しくした。豊かさは人が経済的に自立することを可能にした反面、人の縁や、地域の縁を弱めた。社会を細分化して、人の生活をバラバラにし、孤独な社会を生みだしてしまった。身のまわりはその場の欲求で買った製品で固められ、新しい製品を買ったとしてもその満足感は短期間でしかない。今、人類は、競争という終わりのないゲームの世界にいる。金融システムもそれを助長する。人々に実体以上の借り入れをさせ、物を購入させる。信用創造により経済の成長を増幅させているが、これが逆に不幸の加速を増幅している。見た目だけ豊かになり、人の不平不満はむしろ増えている。自己本位な社会が生活の基盤となってしまったために、人々が他を思いやる心を忘れ、利己的になった。一方、貧しい時代には、助け合いの中から利他的なことの大切さを知っていた。人と人との絆は経済的環境によっても変わる。今のように物質を心よりも大切にする社会は人の心を卑しくする。
そんな中、日本は今、深い閉塞感の中にいる。若い世代の人が利己的になり、国民として日本のために何かをしたいと思う人が減っている。子が親を殺し、親が子を殺すという悲惨な事件も発生するなど家族の崩壊が起きている。政府や企業も不祥事を起こし、日本全体が活力を失っている。日本の政治は、新しい政権になっても混迷を続けている。原因として、政権政党がどういう日本を作りたいのか、日本をどういった方向に向けたいのかという指針を示していないからである。前回の衆議院選挙で民主党が打ち出したのは、政権交代である。しかし、これは国としてのビジョンではない。自民党から政権交代をして官僚依存の政治を排除すれば、国民のための政治が実現できると言ったが、これは国家ビジョンではない。さらに、改革主義を主張した政党による選挙が目立つ。世論もマスコミも改革を支持する時代となっている。しかし、「変える」というキーワードのみを連呼し、どのように変え、そして変えることで今後どのような利益と不利益が国民にもたらされるのかを訴えることにいたっていない。今こそ、国として何を変え、そして何を守っていくのかという国家ビジョンを示す時期にきている。そのために、日本は何を守り、何を変えていくのかということについて、松下幸之助塾主(以下塾主)の考える「日本観・日本人観」に回帰し、今一度、過去の日本を見つめ直し、未来の在り方を探る。
塾主は、著書『日本と日本人について』の中で、塾主自身の歴史観(日本観・日本人観)を述べている。日本の歴史を考えた時に、天皇を精神的中心として、今日まで発展した国だといえる。建国以来二千年もの長きにわたり天皇制を保ち続けてきたことは、他の国々と比較しても、誇るべき姿である。
国家の中心たる天皇は、武力をもって国民を圧迫するのではなく、皆の幸せを願うという徳政により国を治めてきた。歴史の中で、政治の実権を握る者が代わっても、天皇は常に人々の精神的な拠り所として存在し、難局に当たっては、それを乗り越える求心力として働いてきた。そのような天皇の姿は、日本の伝統精神の象徴だといえる。
そして、塾主は、日本の伝統精神として、以下の3点をあげている。
1点目は、「衆知を集める」ということである。これは、国を発展させるために、広く多くの人々や国々から知識や知恵を集め、学ぶべきところは学び生かしていく姿勢・態度である。八百万の神々による衆議、仏教を取り入れるときの過程、十七条憲法の第十七条の条文、戦国時代の軍議・評定、五箇条の御誓文の第一条・第四条などに、衆知を集める日本人の姿勢が表れている。日本は、海外から進んだ知識や技術を取り入れ、国の教えを生かすことで、国や国民の生活を豊かにした。
2点目は、「主座を保つ」ということである。これは、周囲の環境がどのように変化しようと、常に自分の立場を見失うことなく自主性・主体性を保ち続けるということである。さまざまな宗教の受容に際し、いずれをも国教としなかった天皇の姿勢や、隋の煬帝と対等に関係を深めようとする聖徳太子の態度などにそれが表れている。また、日本は日常生活的なもの、政治の仕組み、芸術の面でも独自のものを作り上げてきた。
3点目は、「和を貴ぶ」ということである。これは、平和や調和を大切にする共存共栄の精神である。十七条憲法の第一条の「和をもって貴しとなす」に表れている。日本は長きにわたって、国内外の戦争の経験が比較的少なく、日本人には世界の他の国民にもまして平和を愛する心があり、共存共栄は日本人の精神の根底の一つとなっている。
そして塾主は、日本人が日本人としての自覚を取り戻し、歴史や伝統を再認識して今日の民主主義に生かしていくことが何よりも大切であり、日本が好ましい姿になることで、より良き世界が実現できると締めくくっている。
長い歴史の中で日本は、日本人としての主座を保ちつつ、広く海外に衆知を求め発展を続けてきた。この発展過程で日本人が集団の中で「和を貴ぶ」ことにより、他を思いやるという規範意識を持つことになった。この他を思いやる規範意識こそ「道徳」であり、外敵侵略が少なかった日本において、お互いが争う必要がなく、互助の精神が培われたものであると考える。こうして、長い歴史により、仲間と助け合って自らを豊かにするという高い「道徳」を持つ社会が形成された。日本が今後発展していくためには、助け合って自らを豊かにするという高い「道徳」をもった人々が、昨今の多くの問題をはらんでいる資本主義社会に対し、新しい資本主義社会を作っていく必要があると考える。新しい資本主義社会を考える上で、フランスの哲学者であるアンドレ・コント=スポンヴィルの述べている世界の4つの秩序の存在を見ることとする。
アンドレ・コント=スポンヴィルは世界に、
「経済-技術-科学の秩序」:可能か不可能か、真か偽かという軸による秩序
「法-政治の秩序」:合法か非合法かという軸による秩序
「道徳の秩序」:善悪、義務と禁止という軸による秩序
「愛の秩序」:喜びと悲しみという軸による秩序
以上の4つの秩序が存在し、それぞれ固有の論理で動作しており、他の秩序によって制限を受けると述べている。たとえば、「経済-技術-科学の秩序」だけしか秩序がなければ、「あらゆる可能なことは必ず行われる」という人類はさまざまなことをする。人々は原水爆開発、クローニング、環境破壊を起こす。したがって「経済-技術-科学の秩序」の外側の秩序が制限を加えなくてはならない。その役割をするのが「法-政治の秩序」である。「法-政治の秩序」によって、違法な科学技術、経済行為は制限される。
しかし、「法-政治の秩序」を放置していると、合法でありながら卑劣な行為が起こりうる。たとえば、かつてナチス・ドイツは合法的に政権を奪取し大戦を引き起こした。また、南アフリカはアパルトヘイト政策を実施した。これらを制限しうるのは「道徳の秩序」である。「道徳の秩序」は放置していても害がないように思える。しかし、道徳的行為や道徳の基準を人に押し付けるようになれば、それは問題である。こういった道徳の暴走を食い止める秩序は何かと言うと、「愛の秩序」である。「愛の秩序」には特に制限が設けられていない。この愛には、真理への愛、自由への愛、隣人への愛などの愛が含まれており、真理への愛は「経済-技術-科学の秩序」を、自由への愛は「法-政治の秩序」を、隣人への愛は「道徳の秩序」を駆動したり制限したりする。ただし「愛の秩序」だけでは何もなしえない。
つまり、資本主義に「道徳」を求めた場合、「経済-技術-科学の秩序」を「道徳の秩序」に従わせようという考え方が起こる。かつてマルクスは経済の道徳化を図るべく、共産主義を打ち立てたが、その試みは20世紀の終りに恐怖と経済の停滞という形で幕を閉じた。一方で資本主義陣営は道徳とは無関係な形で、つまり経済をそれ自身が持っている秩序に従って展開させることにより、繁栄を享受するようになった。もちろん、搾取や格差は依然として存在している。しかし、この是正をもともと道徳とは関係のない「経済の秩序」に求めるのは間違いである。
その解決策を行うにはアンドレ・コント=スポンヴィルの言葉を借りれば、「主体である私たちこそが道徳的存在になるべきであって、制度にすぎない経済にそのかわりを求めてはならないのです!」となる。つまり、現在の資本主義について不道徳なものを感じるのであれば、資本主義に自己修復を求めるのは誤りであり、道徳の観点から、政治と法を動かして、道徳のある資本主義を構築しなくてはならない。ゆえに、主体である私たちが「道徳」を持ち「政治と法」を動かすためには、我々が、長期のビジョンを持って、「道徳」に則った「政治と法」を作ることができる政治家を選ぶ必要がある。
現在の日本の崩壊を防ぎ、再び日本が世界で重要な役割を果たすためには、日本人が元来持っていた「道徳」を再び日本人の心に蘇らせる必要がある。この大不況において、これを転機とするなら、不況に押し流されることなく、今こそ未来へ向けた新しい展望を描く時である。節度を欠いた金融中心の資本主義が世界の破局をもたらした一方で、人々は自らの生き方を問いただす機会にもなっている。たとえば、収入が減り、物質的なものを買えなくなった人々は、逆に自らの幸福を物に求めなくなってきている。また、外食していたライフスタイルから、自宅での食事中心となり、家族の絆を再び戻す機会が増えている家庭もあると聞く。かつての家族の絆を取り戻し、人々が「道徳」を取り戻すことができれば、12年連続3万人以上という自殺者の数も大幅に減る可能性が高い。
日本の力の源泉は、協働社会を支えていた基本が家族の絆であり、そして地域の人々が、家族のように心を通わせたことにある。日本の社会は、人々が助け合うことによって培われてきた。多くの日本人は世話好きで、他人を自分のことのように思って生きてきた。つまり、自分の身のまわりを大切にすることが肝心である。まずは、家族を大切にすることが重要となる。家族の関係には、資本主義のような合理的な事象を解決するものは少なく、その多くは非合理的なものが多く存在する。非合理的なものの考え方により、争いが絶えないのが家族である。その中での葛藤を繰り返すことにより、合理的ではなく非合理での解決法を見出す力を養うことができる。このことこそ、人間関係を作り出す原点となり、「道徳」を身につけることができる。それがやがて、友人関係、地域社会、会社組織、そして自分の国(愛国心)へとつがなる。そのように育ってきた人は、日本の国に対して責任を持つことになる。つまり、国に対して自分のできることをやろうとするようになる。まず、身近なところから始めることが必要である。たとえば、掃除には、身の回りを清めることで、自分の心を掃き清めるという効果がある。掃除を通じて季節の変わり目を感じ、細かいところに目を配ることができるようになる。また、綺麗になったことで、自分以外の人も気持ちが良いと感じるようになる。人それぞれ、できることや、やれるものは違う。小さいことの積み重ねが大切である。一人ひとりが自分の立ち位置で互助の精神を持って行えば、国民一人ひとりが「道徳」を持った国家になるのではないだろうか。
そして、国民一人ひとりが、個人の利得を求めるよりも、世界の中で日本の役割を示すことが大切であると考えるならば、必然的にその役割を担うのに必要な政治家を選ぶことについて真剣に悩むようになる。それができて初めて、個々人が投票に際し、マスコミや他人の意見に踊らされことなく、自らの意見を持ち、且つ利己的な利益を政治に求めるのではく、日本国家としての利益を考えて投票行動をし、国家に対する理念を持つ政治家を選択する社会が実現できる。そして、同じ理念を持つ政治家が、日本の未来はこうあるべきとの理想を実現させるのが政党である。政治家が政党に集まり喧々諤々と議論をすることで、国家ビジョンが生み出すことができる。たとえ一部の国民の不利益になろうとも、その国家ビジョンを実行に移す役割を政治家は担うべきである。国家ビジョンを作るため、政治家には未来を見通す力と、動かない真実を見る力が必要になってくる。
もし、それができず国民の意見をすべて受け入れてしまうような政策をとっていたら、政治でなく、それは全体主義である。これではバラマキによる政治となり、財政に際限がなくなる。いくら財政再建をしようとしても、民意を意識するばかりに、方向性を示した政治ができない。世論もマスコミも国民に厳しい政策を迫る政治選択については、厳しい批判をする体質があるが、そのような逆風にも耐えることのできる政治家が必要である。そして、日本として何を守り、何を変え、そして変えることで今後どのような利益と不利益が国民にもたらされるのかといった長期的な「ビジョン」を持つ政治家が求められる。
日本人の本来持つ「道徳」の精神を持つことで、政治家が変わり、そして国家が変わる。そうすれば、「道徳」のある資本主義が構築され、物質的豊かさを人々が求める以上に、仲間と助け合って自らを豊かにするという高い「道徳」を持つ新しい資本主義を構築できる。そして、日本に「道徳」のある資本主義が構築できれば、世界の繁栄と幸福に貢献できる国家になるであろう。
これらの提言は私見に過ぎないが、我々には素晴らしい日本の伝統精神がある。日本とは、そして日本の伝統精神とはということについて、今一度、見つめ直すことで、現在の世界が背伸びの状態から脱し、真の成長を促す一役を日本が担うことができると私は確信する。
参考文献
『人間を考える』 松下幸之助 1995年 PHP文庫
『日本と日本人について -日本の伝統精神-』 松下幸之助 1982年 PHP文庫
『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル 2006年 紀伊國屋書店
『徳の国富論 -資源小国 日本の力-』 加藤英明 2009年 自由社
『暴走する資本主義』 ロバート・ライシュ 2008年 東洋経済新報社
『美しい日本人』 齋藤 孝 2005年 文藝春秋
『子どもの社会力』門脇 厚司 1999年 岩波新書
Thesis
Masato Ishii
第30期
いしい・まさと
Mission
持続可能な活力に満ちた地域社会の実現