Thesis
グローバル化の進展により、今まで日本人が培ってきた良き伝統精神が失われ混迷の世になりつつある。日本の伝統精神を考察し今後向かうべき日本の在り方について説いていく。
日本は物作りの国として、繁栄してきた歴史がある。ものづくりの技術を支えるものとして、職人による匠の技があった。職人の匠の技に象徴されるように、かつて日本人の多くが技術を追求し、たとえ生産性が低くても、企業が大きな規模にならなくても、コツコツ真面目に働くことに喜びと誇りを感じていた時代があった。日本のものづくりを支えていた匠の技には、ビジネスという枠組みだけではない職人の仕事にかける志と成果物に対する美の追求があった。匠の技を持つ職人には、仕事を通じて学んだ事を本人の世代で終わるのではなく、代々受け継がれるという技術の伝統も存在した。つまり。日本は、単なる大量生産の先進諸国の大量雇用と規模の拡大、利潤追求のビジネスとは異なる価値基準を持っていた。
日本のものづくりを支えた伝統の根底には、日本の神道の精神が関わっていたと考えられる。神道は、農耕生活・弥生文化に生まれ、天地自然を神として拝む信仰である。天も地も山も海も川も樹木も、神の命としてこれを尊ぶ心が日本人の根幹にある。それは、神道の起源の中に、人間も動物も植物にも精霊があり、多くの精霊のなかの自然界を構成する「地・水・火・風」の四大精霊をとくに尊敬する気持ちを持っていた。そのため、大気や樹木や岩石や自然の命がありその命としている何者かに対して、畏敬の念を抱き、感謝をささげる精神がある。また、大自然や宇宙のように人知を超えた何者かの力に対して、「神からの道」として感じる贈与と、「神への道」の感謝から成り立っているものであると考えられていた。日本人には、自然との共生の考え方が日本には昔から根付いていたのである。そのため、日本人は自然の微妙な変化を感じ取る能力を持っていた。また、日本の伝統文化である茶道や俳句の世界でも、「わび・さび」と表現される精神を美の追求の一環として重んじられている。「わび」は茶道の世界で、一輪の花や日常使うありふれた器などに美を見出す心であり、「さび」は俳句の世界で俗世界から離れ静かさを求める心である。日本の伝統文化には「わび・さび」に象徴されるように華美を避けることに美徳を感じる伝統精神がある。
ゆえに、日本には他国とは違う匠の技術に象徴される精神、神道から生まれた機微を感じる力など、良き日本の伝統精神があった。
日本の自然が外来種の到来によって、生態系が変わり、固有種が外来種に取り込まれてしまったように、日本の伝統精神も、近年のグローバル化によって、欧米によって今まさに取り込まれようとしている。たとえばグローバル化の大波により、かつての物を大切に使う文化や華美を避ける事を美徳と感じる時代から、派手なものを買ったり身につけたりする大量生産・大量消費を望む時代に変化してしまった。イギリスでの産業革命以来、欧米での地下資源、化石燃料をふんだんに使う自然との決別した方法である。自然を我がもののように使い、自然を共生することよりもむしろ奴隷のような扱いをしてきたのが近代の工業革命である。それは、自然をあたかも人類のコントロール下におく考え方である。しかし、この思想のもと、それを数世紀にも渡り続けた結果、今地球環境の劣化が加速し、非常に危機的状況に陥ってしまった。
その一方で、先進諸国の中で唯一鎖国という形をとった日本においては、それまでの日本の伝統精神と鎖国のシステムが相まった江戸時代には、国家が発展をすることと同時に、華美な消費は抑え、物を大切し、使い終わったものをまた他の人が別の形で使うという「もったいない」という精神を生み出した。しかし、その良き伝統精神も鎖国の間は続いたものも開国後は、欧米諸国のグローバル化の波により日本人の精神を蝕んでしまった。
日本の伝統精神の在り方について、塾主も同じように危機感を抱いている。塾主は、日本の伝統精神について、「和を貴ぶ」、「衆知を集める」、「主座を保つ」の三つが大切であるとし、塾主は、「日本人は、この日本伝統の精神を常に失わぬようにして、その上に外来の思想なり、知識なり、或は科学、政治、経済といったものを受け容れてゆく必要があり、それが真の進歩であり又国家・民族の発展に通じ、それを粗略にして海外の知識なり教えなりを受け容れてゆくと、自分自身というものを失くしてしまうばかりでなく、日本の国家としての尊厳を無にしてしまう恐れが多分にあると思うのであります。ところが今日はそういう意味の大切な伝統の日本精神というものが非常に軽視されておるのでありまして、そこに今日の日本の混乱・混迷が將来されている原因があるのではないかという感じがするのであります。」と述べ、社会的混乱の原因を日本の伝統精神を失った結果であると仰っていた。私も塾主の言うように、海外の知識や精神を安易に受け入れるべきではないと感じている。古来より存在する日本の伝統精神について、守るべきものについては必ず「主座を保つ」ことをするべきである。
3.11の東日本大地震による大津波による福島第一原子力発電の事故や、ギリシアから端を発するEUの金融危機などは、現役世代が未来世代の貯蓄までも食いつぶすシステムや未来に危害を及ぼす技術であるということを露呈する結果となった。グローバル化が落とした負の遺産に満ちたこの困難の時代には、社会の本質や未来を見極める昨今において、日本においてかつての伝統精神を見つめ直し、混迷から抜け出す新たな発展を遂げる必要がある。世界の危機の原因である金融、エネルギー、資源の問題については、長期的な展望を持ち、未来に向けて今の正しい選択肢に対して、判断が必要である。
チャールズ・チャップリンは、「戦争の時に人を殺した人は英雄。しかし、平常時は犯罪者」という言葉を残している。金融も原子力もかつては普遍的に正しいものとしてとらえられていた。しかし、チャップリンの言葉が表すように普遍的な真実は分からない。正しいと考えられていたものは時代と共に変わる可能性がある。それが世の常である。だからこそ、もう一度、金融、エネルギーの問題に対して、今を疑い、世界の先を見越し考え、そして何が適切かを考えて行動する必要がある。世界の危機には、グローバル化の波により世界中に影響を及ぼしたイギリスの産業革命以来から続く自然を支配できるという精神が主な原因の一つであると考えている。
世界が新しい時代の道を切り開くには、日本が忘れつつある日本の伝統精神にヒントがあると私は考えている。たとえば、資源の枯渇化については、使い終わったものを、また次のものとしとして利用する精神が必要となる。それには、日本の「もったいない」という伝統精神が表している物を大切に使い最後まで使い切る精神が必要である。「ゆりかごから墓場まで」という言葉があるが、今後は、「ゆりかごから新しいゆりかごへ」と考える日本の伝統精神が必要となる。
そして、日本の伝統精神の根幹にある自然を基盤とした美しい国づくりへ再起すべきである。日本はかつて鎖国によって内発的に美しい元禄や江戸文化で醸成された生活様式から学び、美しい環境を保全し、緑あふれる国土を作り発展を遂げた。限られた資源の中で文化を成熟させて近代化してきた。特に江戸時代には、国内で自給しながら、資源をリサイクルする循環型の経済社会をつくりあげた。そのため、幕末に来日した多くの欧米人が、日本の都市や村をガーデン・タウンであると感嘆し、総じて日本の国をガーデン・アイランズと賞賛し、イギリスの風景式庭園や田園都市計画にまで影響を与えることになった。
つまり、日本は世界からいろいろなものを吸収し、風土に合うように作り変え、日本に応じたものを作りあげ世界に発信してきた歴史がある。もう一度、海外から良きものは吸収しつつも、「主座を保ち」日本の独自性のある発展をとげ美しい自然と共生していく「共生社会」を実現する必要がある。そうすれば、再び社会と自然のバランスがとれた環境に優しい国家が構築できる。まずは、日本の伝統精神を見直すことにより自然との共生を基軸として、日本の国の在り方を再構築し、世界に良きモデルを発信し貢献する時が来ている。
参考文献
『神道とは何か?』 鎌田東二 PHP新書
『日本人なら知っておきたい神道と神社』 武光誠 河出書房新社
Thesis
Masato Ishii
第30期
いしい・まさと
Mission
持続可能な活力に満ちた地域社会の実現