Thesis
塾生生活2年目、最初のレポートの課題は「新しい人間観に基づく政治・経営理念」である。塾主が提唱した「新しい人間観」とは一体どういうものなのか。それを、自分なりに解釈するとどうなるのか、そして、それを政治・経営理念に活かすとしたならば、どのような理念が提示できるのか、思いの一端を綴ってみた。
“私は六十年にわたって事業経営に携わってきた。そして、その体験を通じて感じるのは経営理念というものの大切さである。”1
経営者として成功を収めた塾主・松下幸之助が、繰り返し説いていたのが、経営理念の大切さである。
“事業経営においては(中略)大切なものは個々にはいろいろあるが、いちばん根本になるのは、正しい経営理念である”2
とまで述べ、経営に臨むにあたっては、その理念を確立することが何よりも大切であるとする。
その塾主が塾生に求めたのが、今回の課題に関連する、「新しい人間観に基づいた政治・経営の理念を探求」することである。経営者としてだけではなく、PHP運動に象徴される社会活動家としての顔も持つ松下幸之助特有の着想といえよう。
それでは、「新しい人間観に基づいた政治・経営の理念」とは何か。今回の課題では、塾生に与えられた命題の一つと向き合ってみた。
「新しい人間観に基づく政治・経営理念」。恐らく、塾の関係者ならば、この課題を見た時、あるフレーズが思い浮かぶことであろう。「塾是」(じゅくぜ)である。松下政経塾には、塾と塾生のあり方を示した塾是というものがある。企業でいうならば社是にあたるものだ。塾是にはこう記されている。
塾是
真に国家と国民を愛し
新しい人間観に基づく
政治・経営の理念を探求し
人類の繁栄幸福と
世界の平和に貢献しよう
ここで改めて、今回の課題の中身を再確認してみたい。「新しい人間観に基づく政治・経営理念」。これからこの課題に対する私なりの思いを綴るにあたっては、まず、前半部分の「新しい人間観」と後半部分の「政治・経営理念」というものが何かということを明らかにしなくてはならない。そこで、まず、「新しい人間観」から確認することにする。
「新しい人間観」とは、塾主・松下幸之助が昭和47年5月に世に打ち出した、松下幸之助の人間観である。少々長いが、本論を綴る上で鍵となる部分であるので、ここでその全文を紹介してみたい。
「新しい人間観の提唱」3
宇宙に存在するすべてのものは、つねに生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である。
人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。
かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。
この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる。すなわち人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。そしてなにものもかかる人間の判定を否定することはできない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である。
このすぐれた特性を与えられた人間も、個々の現実の姿を見れば、必ずしも公正にして力強い存在とはいえない。人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和の願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている。
かかる人間の現実の姿こそ、みずからに与えられた天命を悟らず、個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんとする結果にほかならない。
すなわち、人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することはできない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人びとの知恵が、自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を生かすのである。まさに衆知こと、自然の理法をひろく共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である。
まことに人間は崇高にして偉大な存在である。お互いにこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を高めつつ生成発展の大業を営まなければならない。
長久なる人間の使命は、この天命を自覚実践することにある。この使命の意義を明らかにし、その達成を期せんがため、ここに新しい人間観を提唱するものである。
この人間観の中で特徴的なのは、「人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられて」おり、人間を「万物の王者となり、その支配者となる」存在として捉えている点にある。実に刺激的な内容である。ただ、ここでこの文言を文字通り、表面的に捉えるのは誤りであろう。事実、「新しい人間観の提唱」の直後に記されている注釈には、次のように記されている。ここも大切な部分であるので全文紹介したい。
“王者・支配・君臨”について 4
この「新しい人間観の提唱」においては、ややもすれば弱いものと考えられている人間を、“偉大なる王者”として認識しようとするものです。したがってここでは、人間は、王者としてふさわしい責務、行動をみずから自覚実践しなければならないということになります。
真の王者であるということは、いいかえれば自己の感情、欲望、愛情などにとらわれず、正しい価値判断につとめて、人間として万物それぞれを生かし、ひろく共同生活を向上進歩させようということです。また支配・君臨するということは、自然の理法にもとづいて、万物に順応するということです。いいかえれば万物にしたがいつつ万物を導き活かすこと、これに徹することが、支配・君臨するということです。
“王者”ということば、“支配・君臨”ということばなど、過去の通念をはなれて、いま一度この「新しい人間観の提唱」をご高読いただきたいと思います。
つまり、刺激的な言葉を用いたのは、既存の概念に対するアンチテーゼからだったといえる。さらに補足するならば、塾主は、このような“新しい”観念を提示した趣旨を次のように述べている。
“この「新しい人間観」によって一つの人間観を提唱することの趣旨は、人間生活の上に、物心ともに豊かな調和ある繁栄、平和、幸福を逐次実現させていくというところにあります。このような人間観にもとづいていっさいの活動を営んでいくならば、人間の幸せもより高まっていくであろう、いいかえれば、この人間社会からできるかぎり不幸とか争いを少なくし、平和と幸福を招来していきたいという願いに立って提唱したものなのです。”5
これらの発言から読み取れることは、「人間は本来もっとすぐれたものである、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうるものである、ただそこにそれなりの原因があって、いまだなおその立派な本質を十分に現すことができないでいるのだ」6という思いであり、だからこそ、「そういうことを十分認識し、人間の本質を正しく自覚するならば、人間の共同生活は必ず好ましいものになるのだ」7という、塾主の人間の可能性に掛けた思いである。よって、本稿では「新しい人間観」を端的に示す言葉としては、「人間は万物の王者」というような刺激的な表現はあえて使用せず、「人間は本来もっとすぐれた、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうる存在」としたい。
それでは次に、課題の後半部分、「政治・経営理念」について確認する。この言葉を細分化するならば、「政治理念」と「経営理念」とに分解できる。
まず、「政治理念」についてである。塾主は、次のように指摘する。
“政治は国の経営ですわ。会社の経営がもっと大きく、複雑になったのが、国の経営ですわな。経営という点では代わりないわけですよ。それを政治というと、ややこしくなってくる。国家経営と考えたらいいのです”8
つまり、「政治=国家経営」と読み替えることができ、「政治理念=国家経営理念」と換言することができる。
次に、「経営」とは何か。松下政経塾が「政治・経営塾」、すなわち、政治家と経営者を育成する私塾であるという点を踏まえるならば、さしずめ「経営=企業経営」とすることができ、「経営理念=企業経営理念」と言い換えることができるであろう。
それでは、塾主のいう経営理念とは何か。それは、「“この経営を何のために行うか、そしてそれをいかに行っていくか”という基本の考え方」9である。ちなみに、塾主は、経営には単に企業の経営だけではなく、お互いの人生や団体の経営、さらには一国の国家経営というものまであるという認識を示している。10
ここでこれまでの作業を整理し、「新しい人間観に基づく政治・経営理念」というものをかみ砕いて表現するならば、「『人間は本来もっとすぐれた、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうる存在』という人間観に基づく国家経営と企業経営の目的と方法を示す基本の考え方」となるであろう。
「新しい人間観に基づく政治・経営理念」の私論を論じるには、まず、私自身が理解・納得している範囲での「新しい人間観」というものを示す必要があるであろう。そこで、第1項では塾主のいうところの「新しい人間観」と「政治・経営理念」というものを紐解いてみたが、第2項では私なりに咀嚼した「新しい人間観」について述べてみたい。
私の解釈によれば、「新しい人間観」を読み解く上での鍵は2つある。1つは、塾主が人間の可能性に注目していること、もう1つは、塾主が人間の弱さを観念の前提としているということである。前者については、第1項で明らかにしたとおりであるが、後者については、ある意味において、塾主の主張と相反することから、説明を要するであろう。実をいえば、塾主は、折に触れてこれまでの人間の歩みを振り返り、その弱さを認めている。実際、先に紹介した「新しい人間観」においては、「このすぐれた特性を与えられた人間も、個々の現実の姿を見れば、必ずしも公正にして力強い存在とはいえない。人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和の願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている」と指摘している。ただ、既存の議論と異なるのは、塾主はそうした弱さを「是」とせず、むしろ、「万物の王者」と位置付けることで、人々に対し、人間の可能性を引き出すための覚悟と自覚を促した点である。そうであるからこそ、万物を生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるという「天命」を自覚実践することを「長久なる人間の使命」とし、「その達成を期せん」としているのである。これらを別の角度から解釈するならば、「万物の王者」という表現の源流には、実は、人間の弱さというものに対する認識があるということである。
さて、先ほど経営理念とは「“この経営を何のために行うか、そしてそれをいかに行っていくか”という基本の考え方」であるという言葉の定義を紹介したが、私が思う国家経営と企業経営の目的とは、つまるところ、「幸福にすること」にある。つまり、国家ならば一義的には国民を、企業ならば自社の社員と顧客を幸福にすることにこそ、経営の目的があるはずである。そしてその手段が、国家ならば各制度・施策、企業ならば人事や営業、技術開発といった企業活動になる。
そうした認識に立って私なりの「新しい人間観に基づいた政治・経営理念」を示すならば、それは、「(人間は弱き存在であることを前提としつつも、)人間の持つ可能性を最大限に引き出し、皆を幸福にする」となる。
剣道の大会に足を運んだ時のことである。ある選手の手拭いに書かれた三文字をみて、ふと思うことがあった。
「克己心」
克己心とは、文字通り、「自分に打ち勝つ心」とか「自分の欲求を抑える心」という意味だが、この言葉ほど、人間の可能性と弱さを絶妙に表現したものはないのではないだろうか。この夏にはロンドン・オリンピックが開催されたが、自らを追い詰め、気力なり体力なり技術なりを研ぎ澄まそうと努力する選手達が注目されたのは、まさに、“常人離れ”した存在に対する憧れからであろうし、それを換言すれば、それだけ普通の人は“弱い”ということの裏返しであろう。であるならば、やはり、政治や企業経営も、人間の可能性と弱さを適切に汲み取ったものでなければならない。塾主は人間とういうものを、次のようにも表現している。
“私は、お互い人間はあたかもダイヤモンドの原石のごときものだと考えている。つまり、ダイヤモンドの原石は磨くことによって光を放つ。しかもそれは、磨き方いかん、カットの仕方いかんで、さまざまに異なるさん然とした輝きを放つのである。それと同じように、人間はだれもが、磨けばそれぞれに光る、さまざまなすばらしい素質をもっている 。”11
塾主はここでも人間を「原石」として、その秘めたる可能性に言及している。ただ、注目すべきは「磨けば(中略)光る」という条件を添えている点であろう。つまり、人間は、磨かねば光らない存在なのである。人は誰でもやれば出来る。大概の事はやれば出来る。問題は、やれば出来るのに、そもそもやる気がなかったり、やろうとしなかったりすることである。そこにこそ人間の弱さが滲み出るのだが、やはり、今後特に政治の場においては、人間の可能性を引き出す施策を打ち出す必要があるのであろう。
ただ、ここで忘れてはいけない点がある。それは「弱さ」の部分である。私の言う弱さには、実は、2つの意味合いがある。「弱いからこそ甘んじないように厳しさをもって接するべきだ」という意味と「弱いからこそ寄り添い守るべきだ」という意味である。私は防衛大学校や自衛隊での経験から、人間の可能性を引き出す上では、前者の視点が非常に重要かつ有効だという確信を得ている。しかしその一方で、特に最近、それだけでは人情なり思いやりなりという「ぬくもり」が足りないように感じているのである。やはり、守るべき存在は、個人なり、集団なり、地域なり、各種各層の働きかけによって守っていかねばならない。人間の秘める可能性を信じ、時に優しく、時に厳しく自ら立つことを促しつつも、守るべき者はあらゆる手を尽くして守るという姿勢と施策こそ、「新しい人間観に基づいた政治・経営理念」をカタチにしたものだと思う。人が自らの力を開花させ、苦しい時には互いに助け合うような仲間を得つつ、自らの力で歩むならば、自己実現なり、安心感なり、達成感なりという言葉で表現されるような「幸福」を体現できると私は考えているのである。
入塾以来、特に感じるようになったのは、人間把握、すなわち、「人間とは何か」という命題を考察・研究し、自分なりの人間観を確立することの重要性である。実際、この点は、塾の設立趣意書の中で、塾生に求める命題の最初に挙げられている。今は塾主が提唱した「新しい人間観」というものを紐解けずに苦労しているが、今後は私なりの人間観というものも、より一層養っていきたいと思う。
【注】
1 松下幸之助 『実践経営哲学』PHP文庫、2009年 p.p12
2 松下幸之助 『人間を考える』PHP文庫、2009年 p.p12-17
3 前出、『人間を考える』 p.p.18-19
4 前出、『人間を考える』 p.p.36
5 PHP総合研究所「松下幸之助発言集」編纂室編 『松下幸之助発言集38』PHP研究所、1992年 p.p.244
6 前出、『松下幸之助発言集38』 p.p.244
7 PHP総合研究所 「松下幸之助発言集」編纂室編 『松下幸之助発言集16』PHP研究所、1992年 p.p.102
8 前出、『実践経営哲学』 p.p12
9 前出、『実践経営哲学』 p.p18-19
10 前出、『実践経営哲学』 p.p18
11 松下幸之助 『人を活かす経営』 PHP研究所、1979年 p.p.13-14
【参考図書】
吉野秀雄 『やわらかな心』 講談社文芸文庫、1996年
PHP総合研究所「松下幸之助発言集」編纂室編 『松下幸之助発言集』PHP研究所、1991・1992年
Thesis
Taisuke Hirose
第32期
ひろせ・たいすけ
三菱電機 社員