論考

Thesis

「幸福」をめぐる諸相

人間の「幸福」とは何か。それは、古代より哲学者の必須のテーマであった。そして今、日本人にとっての「幸福」はどのような文脈で語られるのか。その有り様を見つめ、「幸福」についての私見を述べる。

1.はじめに

 塾主・松下幸之助は、戦後の貧困にあえぐ社会と退廃した人心の有様を目の当たりにし、人間本来の活動の意味や人間そのもののあり方についての研究活動を行うため、PHP研究所を設立した。そのPHPとは「Peace and Happiness through Prosperity(繁栄を通じた平和と幸福)」の略であった。「繁栄」とは、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさをも追求しようとした概念であり、「宇宙根源の力」が万物の「生成発展」の営みを「天地自然の理」に基づいて行うとき、人間の「繁栄を通じた平和と幸福」もその営みに含まれているという。

 さて、塾主がこのとき考えていた人間の「幸福」というのは、どのような状態なのだろうか。人間の「幸福」について、塾主は次のような言葉を残している。

「人間はこの天分に生きることによって、はじめて真の幸福というものを味わうことができると思うのであります。」(*1)

 「天分」というのは、同じく「宇宙根源の力」がすべての人間に対して与えている「生命力」である。自らの「天分」を自覚し、その「天分」を「素直」に生かすことにより、物や人を正しく生かす知恵が湧き、物心ともに豊かな「繁栄」が各人にもたらされる。その状態が「人間としての成功」であり、すなわち「幸福」というのである。

 しかし、改めて人間としての「幸福」を考えてみたい。古代より「幸福とは何か」というテーマは、哲学者たちにとってこれを外しては考えられないというほどのテーマであった。時代によって「幸福」に対する考えは変化し、発展してきた。そして、塾主が人間にとっての「幸福」を考えるようになった終戦後の日本における「幸福」と、現代の日本における「幸福」という言葉のニュアンスは、異なってきているのではないかと思う。塾主が人類の普遍の目的として捉えた「幸福」が、現代の日本においてどのような顔を見せているのかについて私見を述べ、「人間の幸福とは何か」という命題の答えを探ってみたい。

2.「幸福」と「幸福感」の乖離

(1)「幸福感」を得る

 幸福が主観的なものであることには誰しも異論はない。同じ状態にあっても、幸福と感じる人もいれば、不幸であると感じる人もいる。例えば子どもが1人生まれたとき、「1人しか生まれなかった」と思う人もいれば、「やっと1人授かった」と喜ぶ人もいるだろう。実際に「幸福」であることと、「幸福」と感じることはまた別であるようだ。今回のレポートで特に考えてみたいのは、この「幸福」と「幸福感」との関係についてである。

 先日「世界がもし100人の村だったら」という番組を放送していた。この番組のタイトルでもある「世界がもし100人の村だったら」という一節は、数年前にメールで出回ったものが発端となっている。あまりにも有名なので詳細は省くがその一部を紹介すると、世界の人口を100人とした場合、

「80人は標準以下の居住環境に住み
 70人は文字が読めません
 50人は栄養失調に苦しみ
 1人が瀕死の状態にあり
 1人はいま、生まれようとしています
 1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
 そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています 」(*2)

といった具合に、世界の貧困状況を伝えている。このメールは瞬く間に世界中へ転送され、様々に編集された。そのメールの内容に対して統計上の数値を修正し、日本では本が出版され、現在ではテレビ番組の特集も組まれるようになった。

 あるホームページにはこんな感想文が寄せられている。

「『私たちは凄く幸せ』 幸せな私たちさんの感想
私たちは、出された物を食べ、嫌いな物だったら残す。みたいな生活を送っている・・・でも、世界には、私たちの生活の真反対の生活を送っている人もいる・・・この本を読み、今の自分の生活・環境を大切にしようと思いました。」(あるHPより)

 この文章の書き手である「幸せな私たちさん」は、「私たちの生活の真反対の生活を送っている人もいる」ことを同情し、「私たちは凄く幸せ」であると現在の自分の「幸福」を再確認している。現代の日本人ならば、多かれ少なかれ、この「幸せな私たちさん」と同じ感情を抱いたのではないだろうか。「飢えや死の恐怖がすぐそばにある人びとは世界にはこんなにたくさんいる。その人たちに比べれば私たちは恵まれている。だから私たちは幸せなのだ。」と。

 この文章が流行する前にも、世界中の貧困を伝えるメディアは数多くあった。アフリカで飢えて皮と骨にやせほそり、ぐったりして目の周辺にたかるハエも追い払うことができないでいる映像は幾度となく、貧困に対する援助を求めるキャンペーンに使われてきた。そのような映像を見て、「かわいそう」と同情し、同時に「日本に生まれてよかった」と日本人であることの「幸せ」を感じた日本人も多いに違いない。このように、自分より幸せでない状態の誰かを見て、その「不幸」を確認することによって、自分たちの「幸せ」を確認するようになったのはいつの頃からだろう。それが本当の「幸福」とは言えないことは分かっているが、他人と比較すること、特に「不幸」と比較することによって得られる相対的な「幸福感」に満足してしまう。それを象徴しているのが、アフリカの貧困の映像であるように思う。

 ただ、この飢えたアフリカ人の映像は、すでに多くの日本人が見慣れた映像となってきていたのではないだろうか。そこへ現れた「世界がもし100人の村だったら」の文章は、すでに見慣れてしまったアフリカの貧困の映像と異なった形で、日本中の多くの人びとの共感を呼んだ。それは、貧困にあえぐ人びとと私たちの幸せの格差を、具体的な数値という「ものさし」で示してくれるからではないかと思う。私たちはただ単に相対的に「幸福」を感じるだけでは物足りなくなってきた。すなわち、数字という「ものさし」で、自らがどれくらい「幸福」なのかという「幸福度」とまざまざと見せ付けられることによって、私たちは自分自身をよりリアルに肯定することができる。「私たちは、この人たちに比べると、ちょうどこの数字の分だけ幸せなんだよ。」と。結局、現代の日本人にとって、「幸福」というものは、このように分かりやすい「ものさし」で見せられなければ感じられないものになっているのではないだろうか。

 「幸福」を認識することと「幸福感」を得ることとは別のことである。塾主・松下幸之助がPHP運動を開始したころの日本であれば、同じように飢え、着る服がなく、屋根のある場所に住めなかった人々も多かったに違いない。ところが、物質的な豊かさが達成され、少なくともその時代よりは「幸福」に近づいたと思われる今日の日本では、逆に貧困や飢えと自らとの距離を認識できなければ「幸福」を認識はできないのである。私たちは、「幸せな私たちさん」のように、「不幸」と比較した結果を「ものさし」で示されることによって、「幸せ」を、それも、「凄い幸せ」だと認識するのである。

 残念ながら、本来は「幸福」であるはずなのに、「幸福感」が得られない。「幸福感」を確認するには、「不幸」が必要であり、「幸福」そのものだけでは「幸福感」が得られない。そのような「幸福感」と「幸福」の乖離が、幸福の姿の一面となっているのではないだろうか。

(2)「幸福」と「幸福感」の関わり

 さて、「世界がもし100人の村だったら」で話題にした「幸福」の中味とは、物質的な豊かさのことであった。物質的な豊かさは、塾主が「物心一如」と指摘したように、心の豊かさとともに「繁栄」の片棒を担っている重要な要素である。物質的な面にしろ、精神的な面にしろ、「欲求が満たされる」ことは、「幸福」の中味の一部として認識されていると思う。そこで、マズローの欲求段階(*3)を引き合いに出せば、人間は生命の安全や衣食住などの基本的な欲求を満たされれば、次の段階で他人に愛されたいという欲求が生じ、さらにその欲求が満たされれば次の段階の欲求が生じ、最終的には「自己実現の欲求」が生じる。ではマズローの最終段階の「自己実現の欲求」すなわち、自らがこうありたいと望むままに生きる欲求が満たされることが、私たちが目指す「幸福」なのだろうか。

 実際、歴史を振り返ってみれば、哲学や宗教が命題としてきた「幸福」とは、人間がどう生きるか、という問題に直結していた。例えばアリストテレスは、著書『ニコマコス倫理学』の中で、人間の究極の目的は「善」であると言い、人間の活動における様々な「善」のうち最高の「善」は「幸福」であると述べた。「幸福」とは人間が「徳」(アレテー)に従う活動であり、「徳」とは人間が与えられたその固有の機能を果たすことである。また、ベンサムは、アリストテレスが主張した個人の「幸福」にとどまらず、個人の「幸福」を合計した「最大多数の最大幸福」が社会全体の「幸福」であると考え、J.S.ミルはさらに「幸福」の質的な差異を問題にした。塾主の言う「天分を生きること」も人間のすべての活動における「幸福」のあるべき姿を示していると言っていい。

 しかし、マズロー自身が指摘するように、人間がいかに生きるべきかという問いに答え、その通りに生きるという「自己実現の欲求」を満たすことは滅多にできない。そうなれば、人間にとって「幸福」ははるか遠いところにあり、地球上にいる多くの人は「不幸」と認識されることになる。「幸福」に達する道のりは険しく、辛いものとなる。

 一方で、人間は今自分のいる段階が「幸福」であると認識することもできる。ここではすでに「幸福」の中味は人間の生き方を問う哲学から離れ、現段階における満たされた欲求を「幸福」とそのまま認識することになるが、ある欲求が満たされた場合はすでにその次の段階の欲求を求めている。従って、現在の満たされた欲求である「幸福」に対して「幸福感」を得るためには、何らかの方法で「幸福」を見つめ直さなければならない。その際には「幸福」だけを見つめて「幸福感」が得られるのであればそれで十分である。しかし、「世界がもし100人の村だったら」のように、より低次の段階での欲求が満たされていない「不幸」を見ることによって、現在の欲求段階を再認識し、「幸福」と言わなければならないこともある。いずれにしても欲求が満たされているという「幸福」は存在するものの、人間の意識は「幸福」そのものから離れ、「幸福感」を失う。

(3)「幸福感」の孤立

 また一方で、「幸福」は頻繁に目につくところにもある。インターネットでも店頭でも「幸せ」を呼び込むためのグッズやアイテムは目白押しである。テレビ番組では血液型占いや星座占いを毎日放送し、「今日のラッキーアイテムは○○」としている局もある。あるいは風水を使った「幸せ」を呼ぶ商品やスピリチュアル占いといったものまで様々な手段が「幸せ」を呼ぶために使われる。人々の「幸せ」に対する要求は限りなく続き、それに答えようとする商品が並ぶ。「幸福」とはそのようなアイテムやグッズによって簡単に手に入るものらしい。

 そこには確かに「不幸」は見当たらない。しかし、もちろんのこと、「幸福」を人間の生き様に照らし合わせて人間のあるべき姿までを深く掘り下げようというわけではない。むしろ「幸福」が本来持つべき意義をまったく持たず、「幸福感」のみが浮いているように軽く聞こえてしまう。

 こうして見てみると、現代の日本では、「不幸」を確認し、「幸福」を振り返って「幸福感」を得ようとする作業すら失おうとする段階にあるのではないだろうかと思う。「幸福」自体から離れてしまった「幸福感」はさらに「幸福」との距離を隔て、次第に「幸福」は見えなくなってきている。その結果、私たちが求めるのは「幸福感」だけになる。より高次の欲求が満たされるという「幸福」を求めるわけではなく、より低次の欲求を振り返って「幸福」を確認するわけでもなく、ただ「幸福」には振り向きもせず「幸福感」のみを含む「幸せ」を得ようとする。

(4)「幸福」とは何か

 では真の「幸福」とはどこにあるのか。哲学者のように「幸福」のあり方そのものを追求していくことができればそれ以上のことはないが、「幸福」がそこまで手の届きにくいものであれば、人間はどこまでも「不幸」である。私はそこまで人間に対して悲観的ではない。しかし、だからといって、「幸福」の姿が見えなくなるまで「幸福」との距離が離れてしまった「幸福感」だけを追い求めたくはない。せめて、「幸福」について考え、その姿を見つめられる位置にはいたい。そして、「不幸」を意識するのではなく、「幸福」をまっすぐに意識することによって「幸福感」を得ていたいと思う。

 そのために必要なことは何か。もう一度塾主の言葉を引用したい。

「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。」(*4)

 塾主はすでに「幸福」と「幸福感」の違いを認識しているようである。ただ、「感謝の心」だけではないと思う。「幸福」とは人間の生き方そのものに関わる。人間が生きていくうえで紡がれる人間の営みとしてのあらゆる感情をそのまま受け止め、大切にしていくことが、「幸福」を直視する最良の手段ではないかと今は思う。

3.終わりに

 この1年間で3つの人間観レポートを書いた。この間、「人間」というものを、子ども、生死、幸福という3つの観点で捉えてきた。アウトプットとして出てきたレポート自体は、私自身の人間観の稚拙さを露呈するものであったかもしれない。しかし、「人間とは何か」を考えるプロセスは、社会と個人とのあり方を考える上でも避けて通れないものであり、社会保障の制度の背後にあるべき理念を考え続けている私にとっては、非常に重要な機会であった。人間観レポートに関しては、「塾主の人間観を踏まえたうえでのレポートを書かなければならない」という条件や、「ホームページを通じて公開されることが前提である」という条件が、自分自身の人間観の涵養という目的からしてみれば、アウトプットを出す際の制約になったことは確かだが、その過程において数々の文献に当たり、自分自身を見つめ直すことができたのは、この課題のおかげであると思う。もちろん、これで思考が停止するわけではなく、今後も「人間」を見つめた社会づくりをしていくことができるように励んでいきたい。

<脚注>

*1 松下幸之助『PHPのことば』 PHP研究所 1975年
*2 池田香代子『世界がもし100人の村だったら』 マガジンハウス 2001年
*3 心理学者のA.H.マズローは、その著書『人間性の心理学』(産業能率大学出版部 1987年改訂新版)の中で、人間の欲求を「生理的欲求」「安全に対する欲求」「愛情の欲求」「尊重の欲求」「自己実現の欲求」の5段階に分類した。
*4 『松下幸之助「一日一話」-仕事の知恵・人生の知恵-』 PHP総合研究所 1999年

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坂野真理の論考

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Mari Sakano

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第26期

坂野 真理

さかの・まり

虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

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