論考

Thesis

近世日本の障害者

日本の社会保障を理念から考えるためには、これまでの社会保障が歩んできた道を外して考えることはできない。江戸時代における障害者に対する幕府や民衆の意識を探ることを通じて、現代の社会保障を考えるうえでの一助としたい。

1.杉敏三郎

 2006年3月、私たち政経塾生は、研修の一環として山口県萩市にある吉田松陰の墓所を訪れた。墓所は細長い坂道を登った小高い山の中腹にあり、萩市を見渡せる展望の良い閑静な場所であった。墓所には、松陰の墓石だけでなく、松陰の家族の墓石も並んでいたが、その一つが目に留まった。松陰の弟、杉敏三郎の墓である。

 敏三郎は、当時の言葉で言えば「聾唖者」、すなわち先天的に聴覚に障害を持ち、話すことができなかった。松陰は、敏三郎が「聾唖」を克服する術を持たないと知りながらも治癒を求めようとする虚しさを、大きな悲しみの目を持って見ていた。その松陰の意識の中に、社会保障という概念は存在していたのだろうか。

 日本の社会保障を考えるうえで、これまで日本の社会保障政策が歩んできた道を外して考えることはできない。日本の社会保障制度のうち、医療制度や一部の軍人を対象とした年金制度に関しては、その他の社会制度と同様に明治時代から次第にその礎が築かれていくのだが、一般庶民のための国家レベルの社会保障制度が確立するのは格段と遅く、昭和に入ってからなのである。中でも、明治時代に細々と制定された「恤救規則」という救貧制度は江戸時代の封建社会の流れをそのまま踏襲しており、この制度が昭和まで継続され、現在の生活保護法にまでつながっているのだ。そこで今回のレポートでは、江戸時代の幕府や民衆の社会的弱者に対する意識、特に障害者に対する意識を見てみたい。その過程を通して、日本の社会保障の根源となる理念が、近世日本に存在し得たのかどうかを探りたいからだ。その探求が、現代の日本の社会保障を考えていくために多少なりとも役立つものであることを願っている。

2.障害者の地位

 障害者と一口に言っても、現代における障害者と江戸時代における障害者の定義は一緒なのだろうか。

 江戸時代の障害者のうちいわゆる「盲人」、すなわち現代における視覚障害者の一部は、他の障害者とは分けて考えなければならない。平安・鎌倉時代に端を発する「検校」制度は、「盲人」に名誉と地位が与えられることを保障するものであった。室町時代以降、「盲人」は、「検校」「別当」「匂当」「座頭」といった地位を獲得することが出来、専用の頭巾や杖の所持が許可された。彼らは琵琶、管弦、詩歌、鍼灸、按摩等の生業で活躍し、『平家物語』の覚一本を著した検校の明石覚一は、室町幕府の庇護を受けて「当道座」という男性の「盲人」の自治的組織を発足させた。江戸時代に入ってから、この「当道座」は江戸幕府からも認められ、最高位の検校は「盲人」社会の頂点として権威を誇った。平曲や三曲、鍼灸、按摩の専売特許を獲得したほか、特別な金利を許可された金利業を営むこともでき、組織内での「仲間仕置」による広範な裁判権も認められた。ただ、視覚障害者は世襲ではなく、金銭による官位の売買も行われた。また、貸金業は過度な高利や不当な取立てが後に幕府の取締りの対象となったほど行き過ぎた面もあった。

 この「検校」制度は、「盲人」が社会的地位を獲得できる可能性を確保するものであり、仮に江戸時代にも「障害者」という言葉があったとしても「社会的弱者」というのははばかられる人々がいたことを示唆している。むしろ、「盲人」という特徴をもって、社会の中で独自の地位を占有しているのである。

 しかしその一方で、検校に加入できる「盲人」は一部であり、大多数の「盲人」や、視覚以外の障害者にとっては、生業を得ることは極めて難しい時代でもあった。聴覚障害者、先天奇形や肢体不自由の人々は、裕福な家庭の場合は家族に扶養されていたが、そうでなければ乞食となった。乞食となった障害者たちは史料にもあまり残されていないほど人間としての扱いをされていなかったようである。奇形として生まれた障害児には捨て子とされた児も多かった。江戸時代において捨て子となることは、そのまま生き永らえたとしても乞食として一生を送ることを宣告されたに等しかった。

 延宝八年(1680年)に、奇形児が「恥さらし」の対象として捨てられた記述がある。

「奥州南部盛岡の妙泉寺の門前の百姓の妻、延宝八年の夏の頃、二子を産む。壱人は、片手長く足かがまり、身に毛生えて、さながら猿猴のごとし、壱人は目鼻なくして、手七ツ、足四十三本ありし。かかる異様なものは恥をさらせば、跡の為よきとて捨てやりしを・・・」(「新著聞集」第十『日本随筆大成』第二期五)

障害の程度はさまざまであるが、農業や商業といった生業に就けなくなった障害者たちが乞食以外に考え出した生活の術の一つが、見世物小屋であった。自らの身体を世間の好奇心の目にさらすことで日々の糧を得た。

 寛文十二年(1672年)には、

「大坂道頓堀に、異形の人を見す。其貌醜き事たとふべきものなし。頭するどく尖、眼まん丸にあかく、頤猿のごとし。」
(「本朝世事談綺」巻之五『日本随筆大成』第二期十二)

とあり、延宝六年(1678年)には同じく道頓堀にて、

「泉州堺の夷島に面三つ手足六つある赤子捨置たりしを、大坂道頓堀観場師諸人に見せ侍りし、かかる異形の者、いにしへも折には有しとかや、今年まで百七十三年になる道頓堀の見世物は思へば古き物にあらずや。」
(「皇都午睡」『新群書類従』第一)

とある。また同様に、その障害を利用して芸を披露することも行われた。

「浪花において、生ながらにして両手なき者あり。足を以て用を弁じ、且字を書弓を射る。芝居に出し観物とせしよし聞ゆ。」
(「蒹霞堂雑録」巻之二『日本随筆大成』第一期十四)

しかし、障害がなくとも生業のない乞食の中には、障害がないのに真似をして「足芸」をする者まで現れたとのことである。

3.障害者保護への領主と民衆の意識

 江戸時代における救貧制度は、五人組制度など近隣住民の互助組織によって担われていたが、特に障害者に対する制度として全国的な制度はなかったようである。ただ、それぞれの藩において障害者に対する保護や優遇政策が存在していたという事実は残されている。特に乗り物に関しては、「盲人」を中心に、「盲人」以外の病人や障害者にも広く駕籠の利用が認められていた。また、障害者に対して礫を投げつける行為に対する取り締まりが行われている藩もあった。

 しかし、それはあくまでも「慈悲」という認識に基づいた政策が中心であり、封建社会の秩序を保つことを前提としていた。先述したが、「座頭」の高利貸しは時代を経るに従い度を超えたため、正徳四年(1714年)に紀州藩では、「座頭右同断」と題し以下の禁止令を出している。

「一.座頭は諸法万人の助情を以相立身分のものなれば是又金銭貸方無用に可申付候諸人の願を以立身を致し金銭を貸し責取候時は兼て恩を得たる座頭には不相当之事に候領内中の座頭共へ可申渡候」
(「紀州政事鏡」下巻『南紀徳川史』第一冊)

すなわち、座頭は人々に助けられて暮らす身の上であるので、座頭の金貸しを禁止する、とのお触れである。江戸時代には他の障害者に比べれば地位が確立していた「座頭」に対する社会の扱いはやはり「慈悲」に基づくものである、との認識が幕府にもあったのであろう。

 また、民衆の側にも、障害者に対する「慈悲」が善と認められる意識はあったようである。
慶長十六年(1611年)、加藤清正は東山道を上っているとき、美濃国の大井で盲目の女乞食と出会った。盲目の女乞食が年老いた親を養っているのは不憫であるとして、金銭を与えた。この一件につき、以下のように記されている。

「まことに慈悲ふかき御大名にて、孝行を感せられ、乞食非人までに、御情深き事、古今希なる大将かなとて、尊卑老若かんじあへり」
(続撰清正記六『大日本史料』第十二編之八)

 このように、江戸時代の障害者に対する幕府の意識も民衆の意識も、固定化された身分制度に基づく封建社会において、あくまでも「上」から「下」への「慈悲」が中心であった。しかし、その対象となる障害者の扱いは「盲人」の歴史を鑑みるに、一口に社会的弱者としてのみ扱われてきたのではない一面も持っている。また、このような「慈悲」に基づく政策に留まらず、行き過ぎた福祉政策を牽制する藩もある。先述の座頭の金貸業の禁止令がその最たる例であろうし、寛政七年(1795年)に金沢藩では、非人小屋の運用について、非人小屋を頼らなくても生活できる者までが非人小屋を利用しているとして、小屋の利用者を身寄りのない者など、やむを得ない者に限るとの趣旨のお触れを出している。また、文政十年(1827年)熊本藩においては、一人者や障害者などが飢えに苦しむようなことになるのは本人の力が及ばないためであるから、彼らに援助をするのは当然であるが、援助を受けている者がわがままなことをするのは不埒であるとしている。

 また、以下のような史料もある。

「勧農規則
一.病身不具者にて農事成兼候者は、相応の手業にて其身の口過に成候丈を致させ、成丈家主の役害に成らざる様相心得可申候、尤廃疾の究者となり候者は家主より厚く心を付養育可仕儀勿論に候、病身不具を申立可応手業をもいたさず徒に居て飯を給んとする者は、親類五人組より相戒、相応の手業いたし候様可申付事。」
(「座右手鑑」『近世地方経済史料』第二巻)

 このお触書からは、離農を牽制させて食糧生産を保ち、封建社会を維持しようとした当時の状況を窺い知ることができるが、同時に過度の「慈悲」を牽制する役割も果たしている。それは「慈悲」に基づく障害者政策の限界を示しているのかもしれない。すなわち、社会から排除して虐げるか、あるいは過度に行き過ぎた福祉政策か、の二極端となっていく状況下で、封建社会における秩序を維持することを最優先に出来得る限りの修正を行おうとした過程なのではないだろうか。

4.障害者と社会的弱者

 障害者は社会的弱者か。このレポートでは障害者は社会的弱者であるとの前提にたって議論を始めた。実際に、江戸時代の障害者を振り返れば、そこには捨て子にされ乞食や非人として扱われた現代では考えられない迫害の歴史がある。しかし一方で、障害者に対する「慈悲」の意味での「社会保障」という概念は社会的にも存在していたし、民衆の意識の中にも存在していないわけではなかった。それどころか、障害の種類によっては救貧の対象となる社会的弱者として扱うことは困難ともいえる時代があり、時にその保護は行き過ぎる時もあった。ただ、そこには大前提としての固定された身分制度を維持するという幕府の目的があり、「慈悲」の目指すところはその秩序を乗り越えるための社会保障ではなかった。つまり当初から、社会的弱者に対する意識を変革させ、本来の貧困の撲滅を達成し既得権益の悪用の排除を可能とする制度ではなかった。したがって、「慈悲」に基づく社会保障は、過度に華やかな場所か過度に貧しい場所しか江戸時代の障害者に対して与えることができず、当然ながらそこには現代で言われるノーマライゼーションの思想までを見出すことは困難なのである。すなわち、封建社会の中での「慈悲」に基づいた社会保障政策は、理念を引きずったまま明治を通して現代に引き継がれ、二極端の社会ではなくごく普通の日常を望んでいる障害者にとっては、厳しい現実を生み出してきたのかもしれない。いずれにしても、社会的弱者の定義は時代によって一様ではなく、障害者を社会的弱者にするのは社会だということに気づかされる。

 このレポートを書いている私は健常者である。生まれてからこの方、一回も入院したことがない健康体ながら、医師である。その私は病院で働くようになり、いかに社会には「外出すら困難な人々」が存在するかを目の当たりした。それは、これまで外で出会ったことのある人だけが障害者の世界かのような錯覚を持っていた私には衝撃的であった。社会には「弱者」と呼ばれる人々が多くいるが、その「弱者」の意味は時代により、捉えなおしていかなければならない。誰が社会の「弱者」なのか。誰がより多くの支援を必要としているのか。今回の私なりの障害者の歴史観というものは、あくまでも健常者の独りよがりな考え方であるかもしれない。ただ単に自分が考えていたことを反映させたいだけなのかもしれず、また何年後かには別の捉え方で同じ歴史を見ているかもしれない。おそらく歴史とはその作業の繰り返しなのではないだろうか。今後も現代に反映させるべき歴史の一端を学び、捉え直していく作業を続けていきたいと思う。

*参考文献

『日本の障害者の歴史(近世篇)』生瀬克己 1999年 明石書店
『近世障害者関係史料集成』生瀬克己 1996年 明石書店(文章中の史料はすべてこの書籍から引用)
『「弱者」とはだれか』小浜逸郎 1999年 PHP新書

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坂野真理の論考

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Mari Sakano

坂野真理

第26期

坂野 真理

さかの・まり

虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

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